雨模様の天気は、昼前には回復した。
でも、大山の登山口に着いたのが遅かった。 11時だった。
明日登るかどうかは、明日の天気予報で決める。
日本百名山というのがあるが、日本四名山もある。
大山は、それにも入っている。
昔から、信仰の山として、多くの人が来た。
山の中腹に、大きなお寺と神社があり、麓には旅館やお土産屋さんがある。
大山は、山全体が観光地になっていた。
お昼を食べて、午後1時まで寝た。
神社と寺を見るため、出発。
この山は、大山でない。 明るくなってきた。
大山寺橋。 モンベルの店がある。
寝袋を見た。 ダウンの、小さくて軽いのがあった。 2万円以上した。
少し行って、右の山に上って行く。
これなら、雪の上でも大丈夫。 シトロエン、とあった。 フランスかな。
この石畳の参道は、大神山神社(おおがみやまじんじゃ)まで、約700㍍続く。 日本一長いそうだ。
道端には、地蔵が続く。 いい表情のを探した。
大山寺(だいせんじ)の山門。
山門の手前を左に行くと、大神山神社。
右の建物は、護摩堂。 ここで、細い護摩と云う木を焚いて、修行をする。
護摩堂の中の仏像。
石段を登ったら、本堂があった。 昭和に入って火災があったため、建物は新しい。
毛利氏や尼子氏などの大名から大事にされたため、領地や建物・仏像など多くの寄進があった。
明治の廃仏毀釈で、大変な思いをする。
石畳の参道に戻った。 銅の鳥居。
このように、長く続く参道がきれいに整備されていることは、少ない。 ※ 羽黒山の参道。
大神山神社の神門が見えた。
「後ろ向き門」また「逆門」と呼ばれている。
扉が、向こうに開く。 他から移築したものだが、なぜそうしたかは、分からない。
本殿。
全国最大級の権現造(ごんげんづくり)だそう。
※ 権現造は、下のように、2つの建物がつながっている。 拝殿と本殿が、一緒になったのか。
日光の東照宮、京都の北野天満宮も、同じ。 ※ 日光は修理中だった。
長い年月で、木はこんな風に。
彫り物。
目は少し緑。
さらに中は、撮影できない。
建物の後ろの方。 普通は、こっちを本殿と呼ぶ。
ヤマカガシの子どもがいた。 猛毒をもっている。 ※ マムシやハブより強い。
毒を出す歯は、口の奥にあるため、深く噛まれた時が大変。 ※ マムシはこんなの。(一昨年 秋田)
隣にある、下山神社。 ある武士を祀っていた。 1805年の建物。 本殿もこれも、重要文化財。
霧が出てきた。 あっという間だった。
この道を戻る。
このお地蔵さんに出会って、少しどっきり。 顔のクモの巣を取って撮影。
今日の写真で、カメラの位置を決め、どう切り取るかに、一番時間を使った。
「うれしい時はどんな時ですか」と聞いた。
「私の前を誰かが通る時ですよ」と言った。
ほんのり、微笑んでいるように見えた。
和合の岩と名前が付けられていた。
左に、志賀直哉の碑があった。
大正3年の7月に、ここの宿坊「連浄院」に滞在した。
暗夜行路の終章は、その時の体験をもとに書かれたと、説明にあった。
ここを登って、大山寺。 戻ってきた。
宝物館があったので見た。 ※ 寺の見学と合わせて、300円。
神輿に乗った像。
名前は、記録しなかった。
昔は、この山に多くのお堂があった。 重要文化財が、まざっている。
白鳳時代の物。 高さ30㌢。 重要文化財。
白鳳時代のは、頭が大きいのが特徴。 その前の、飛鳥時代は、こんな感じ。(法隆寺百済観音)
昔の人が描いた大山。 北側の斜面の崩壊が、続いているそう。
石畳の参道を歩いていて、パッと輝くような物があればいいなと、思った。
例えば、三重の塔か、五重塔。
小さくていい。 美しさは、室生寺の五重塔を超える物。
美しければ、新しいも古いも、さほど関係ない。 見る人間にとっては。
300年経つと平成の建物として、歴史に名が残るような質の高い建物がいい。
石畳を歩いていたら、中尊寺の金色堂のように、輝くように現れる。 そんなイメージ。
明るい雰囲気になったら、多くの人が来る。 若者も。
また、羽黒山の茶屋のようなのも、あったら楽しい。
今は、少しさびしいかなと感じた。
【今日の歌】 デライラ 朱里エイコは、こうやって歌うから、上手いのかなって思う。
この人は、アメリカで修行を積んだ。 並みの歌手とはもともと違う。
ハスキーな声が、何とも言えない。 魅力。
【停泊場所】 大山寺橋たもとの駐車場
【明日の予定】 天気が良ければ、大山に登る。 登らばければ、どこかを散策。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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でも、大山の登山口に着いたのが遅かった。 11時だった。
明日登るかどうかは、明日の天気予報で決める。
日本百名山というのがあるが、日本四名山もある。
大山は、それにも入っている。
昔から、信仰の山として、多くの人が来た。
山の中腹に、大きなお寺と神社があり、麓には旅館やお土産屋さんがある。
大山は、山全体が観光地になっていた。
お昼を食べて、午後1時まで寝た。
神社と寺を見るため、出発。
この山は、大山でない。 明るくなってきた。

大山寺橋。 モンベルの店がある。
寝袋を見た。 ダウンの、小さくて軽いのがあった。 2万円以上した。
少し行って、右の山に上って行く。

これなら、雪の上でも大丈夫。 シトロエン、とあった。 フランスかな。

この石畳の参道は、大神山神社(おおがみやまじんじゃ)まで、約700㍍続く。 日本一長いそうだ。

道端には、地蔵が続く。 いい表情のを探した。

大山寺(だいせんじ)の山門。

山門の手前を左に行くと、大神山神社。

右の建物は、護摩堂。 ここで、細い護摩と云う木を焚いて、修行をする。

護摩堂の中の仏像。

石段を登ったら、本堂があった。 昭和に入って火災があったため、建物は新しい。

毛利氏や尼子氏などの大名から大事にされたため、領地や建物・仏像など多くの寄進があった。
明治の廃仏毀釈で、大変な思いをする。

石畳の参道に戻った。 銅の鳥居。
このように、長く続く参道がきれいに整備されていることは、少ない。 ※ 羽黒山の参道。

大神山神社の神門が見えた。

「後ろ向き門」また「逆門」と呼ばれている。
扉が、向こうに開く。 他から移築したものだが、なぜそうしたかは、分からない。

本殿。


全国最大級の権現造(ごんげんづくり)だそう。

※ 権現造は、下のように、2つの建物がつながっている。 拝殿と本殿が、一緒になったのか。

日光の東照宮、京都の北野天満宮も、同じ。 ※ 日光は修理中だった。
長い年月で、木はこんな風に。

彫り物。

目は少し緑。

さらに中は、撮影できない。


建物の後ろの方。 普通は、こっちを本殿と呼ぶ。


ヤマカガシの子どもがいた。 猛毒をもっている。 ※ マムシやハブより強い。
毒を出す歯は、口の奥にあるため、深く噛まれた時が大変。 ※ マムシはこんなの。(一昨年 秋田)


隣にある、下山神社。 ある武士を祀っていた。 1805年の建物。 本殿もこれも、重要文化財。


霧が出てきた。 あっという間だった。

この道を戻る。

このお地蔵さんに出会って、少しどっきり。 顔のクモの巣を取って撮影。
今日の写真で、カメラの位置を決め、どう切り取るかに、一番時間を使った。
「うれしい時はどんな時ですか」と聞いた。
「私の前を誰かが通る時ですよ」と言った。
ほんのり、微笑んでいるように見えた。

和合の岩と名前が付けられていた。

左に、志賀直哉の碑があった。
大正3年の7月に、ここの宿坊「連浄院」に滞在した。
暗夜行路の終章は、その時の体験をもとに書かれたと、説明にあった。

ここを登って、大山寺。 戻ってきた。

宝物館があったので見た。 ※ 寺の見学と合わせて、300円。
神輿に乗った像。

名前は、記録しなかった。


昔は、この山に多くのお堂があった。 重要文化財が、まざっている。

白鳳時代の物。 高さ30㌢。 重要文化財。

白鳳時代のは、頭が大きいのが特徴。 その前の、飛鳥時代は、こんな感じ。(法隆寺百済観音)

昔の人が描いた大山。 北側の斜面の崩壊が、続いているそう。

石畳の参道を歩いていて、パッと輝くような物があればいいなと、思った。
例えば、三重の塔か、五重塔。
小さくていい。 美しさは、室生寺の五重塔を超える物。
美しければ、新しいも古いも、さほど関係ない。 見る人間にとっては。
300年経つと平成の建物として、歴史に名が残るような質の高い建物がいい。
石畳を歩いていたら、中尊寺の金色堂のように、輝くように現れる。 そんなイメージ。
明るい雰囲気になったら、多くの人が来る。 若者も。
また、羽黒山の茶屋のようなのも、あったら楽しい。
今は、少しさびしいかなと感じた。
【今日の歌】 デライラ 朱里エイコは、こうやって歌うから、上手いのかなって思う。
この人は、アメリカで修行を積んだ。 並みの歌手とはもともと違う。
ハスキーな声が、何とも言えない。 魅力。
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伝建地区ではないが、街並み保存地区。 ※ 伝建地区~重要伝統的建造物群保存地区
そんな所を歩いた。
また、変わった温泉に、久しぶりに入った。
温泉に向かっていたら、家並みがあるというので、寄った。
駅の側に、駐車場があった。 駅の案内所で、地図をもらった。
勝山は、今は真庭市勝山。 合併する前は、勝山町。
昔は、勝山藩2万5千石の城下町。
出雲街道の宿場町として栄えた。
この道は、出雲街道。
町並み保存地区は、伝建地区にはなっていない。 それは、保存のための強い規制が、ないということか。
武家屋敷を見に、こんな道を行った。 途中に、江戸時代に作った芭蕉の句碑があった。
長屋門をくぐって、この入り口に。
250年前の建物。 藩の家老格の、渡辺家。
庭は、そんなに凝ってない。 蔵が見える。
鎧。
町並みのメイン通り。 普通に生活している。
ここの町並みの特徴は、暖簾(のれん)。 みんな個性的。
家の顔が、お洒落に見えてくる。
こんなのが好き。
こういう町並みは、観光客のためと云うより、自分たちのため、子供たちのためにあるように、今日は思った。
やわらかな感性が育ちそう。
テントウムシの後の、スバル360ですよ。 暖簾は、テントウムシ。
酒屋さん。 向こうから来た。 右に、寅さんロケ地、とある。
このように。
酒屋さんの中。 試飲はしなかった。
ここで、最終作の「紅の花」が撮影された。 ※ もちろん、全体の一部。
浅丘ルリコは、寅さんの体調が良くないことを知っていた。
映画に中で、寅さんと結婚させてほしいと、山田監督に言った。
※ 関連ブログ 寅さんとリリー、結婚させればよかったのに。 他 (2008年9月16日)
紅の花のロケ。 神戸のよう。 寅さん、やっと立っている。
漆喰の建物は、美しい。 壁の絵は、「こて絵」でいいのかな。
虎かな。 すごい表情。
この町を流れている川は、旭川だった。
子供の頃から、北海道の旭川と同じ名前の川が、岡山県にあることは知っていた。
ここだと、初めて知った。
次は、真賀温泉に向かった。
真賀温泉館に、変わった温泉がある。
建物は、せまい斜面に、へばり付いていた。
左に、旭川が流れている。
正面が、真賀温泉館。 地元の共同浴場の感じ。
普通の所は150円。 250円の幕湯に入った。 ※ 昔、お殿様が幕を張って入ったそう。(建物が無かった時)
深い。 真ん中は、私の肩くらいあった。
何が変わってるかって、お湯が下から出ていた。
実際は、その穴に太い竹をさして、その竹から、お湯が出ていた。
竹の先は、水面より、少し下。
湯船の下の方の横に、隣の風呂への穴が開いていた。
隣へは、そこからお湯が行く。 変わってる。
お湯の温度は、40度ない。 それが少し不満。
みんなゆっくり入っている。 そうすると、体の芯まで温まるという。
おばあちゃんが、管理人。 体も口も元気いっぱい。
野口冬人と云う人の、番付。 壁にあった。
西の横綱は、湯平。 今は、温泉街はすっかり寂れた。
青荷温泉がある。 ランプの宿です。 ※ 関連ブログ 青荷温泉~ランプの宿~ 他 (2009/09/10)
ここは、砂湯のある、湯原温泉。 温泉街の先に、砂湯はある。
こんなお話しが。 他にもあった。
ここの神社は、昔、本尊が流されて、ずっと下流で見つかった。
お参りすると、大事な物が戻ってくるそう。 温泉のお湯が飲めた。
砂湯は、ダムの下にあった。
大きな露天風呂。
女の人がいたので、入りにくかった。 朝早く行くか。
女流名人戦が、ここであった。
この将棋は、知っていた。 棋譜を見ていた。
里見香奈が、3連勝で防衛した。
この人は、彗星のように数年前に現れた。 島根県の人。
昔、林葉直子が出て来た時に、似ている。
今、女流の将棋は、この人を中心に動いている。
男性棋士と同じ強さになる可能性を秘めている。 今までにないこと。
下をクリックすると、同じ画面が出てきます。 棋譜です。
棋譜の上の▷をクリックすると、一手一手進みます。
今週天気がいいのは、明日の火曜日。
寝る時間がなくなってきた。 大山(だいせん)は、大丈夫かな。
※ 地図を載せていない。 忘れなかったら、明日。
【停泊場所】 湯原温泉の河川敷駐車場
【明日の予定】 大山に登る
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また、変わった温泉に、久しぶりに入った。
温泉に向かっていたら、家並みがあるというので、寄った。
駅の側に、駐車場があった。 駅の案内所で、地図をもらった。

勝山は、今は真庭市勝山。 合併する前は、勝山町。
昔は、勝山藩2万5千石の城下町。
出雲街道の宿場町として栄えた。
この道は、出雲街道。
町並み保存地区は、伝建地区にはなっていない。 それは、保存のための強い規制が、ないということか。

武家屋敷を見に、こんな道を行った。 途中に、江戸時代に作った芭蕉の句碑があった。

長屋門をくぐって、この入り口に。

250年前の建物。 藩の家老格の、渡辺家。

庭は、そんなに凝ってない。 蔵が見える。

鎧。

町並みのメイン通り。 普通に生活している。

ここの町並みの特徴は、暖簾(のれん)。 みんな個性的。

家の顔が、お洒落に見えてくる。

こんなのが好き。

こういう町並みは、観光客のためと云うより、自分たちのため、子供たちのためにあるように、今日は思った。
やわらかな感性が育ちそう。

テントウムシの後の、スバル360ですよ。 暖簾は、テントウムシ。

酒屋さん。 向こうから来た。 右に、寅さんロケ地、とある。

このように。

酒屋さんの中。 試飲はしなかった。

ここで、最終作の「紅の花」が撮影された。 ※ もちろん、全体の一部。

浅丘ルリコは、寅さんの体調が良くないことを知っていた。
映画に中で、寅さんと結婚させてほしいと、山田監督に言った。
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紅の花のロケ。 神戸のよう。 寅さん、やっと立っている。

漆喰の建物は、美しい。 壁の絵は、「こて絵」でいいのかな。

虎かな。 すごい表情。

この町を流れている川は、旭川だった。
子供の頃から、北海道の旭川と同じ名前の川が、岡山県にあることは知っていた。
ここだと、初めて知った。

次は、真賀温泉に向かった。
真賀温泉館に、変わった温泉がある。
建物は、せまい斜面に、へばり付いていた。

左に、旭川が流れている。
正面が、真賀温泉館。 地元の共同浴場の感じ。

普通の所は150円。 250円の幕湯に入った。 ※ 昔、お殿様が幕を張って入ったそう。(建物が無かった時)
深い。 真ん中は、私の肩くらいあった。
何が変わってるかって、お湯が下から出ていた。
実際は、その穴に太い竹をさして、その竹から、お湯が出ていた。
竹の先は、水面より、少し下。

湯船の下の方の横に、隣の風呂への穴が開いていた。
隣へは、そこからお湯が行く。 変わってる。
お湯の温度は、40度ない。 それが少し不満。
みんなゆっくり入っている。 そうすると、体の芯まで温まるという。
おばあちゃんが、管理人。 体も口も元気いっぱい。

野口冬人と云う人の、番付。 壁にあった。
西の横綱は、湯平。 今は、温泉街はすっかり寂れた。
青荷温泉がある。 ランプの宿です。 ※ 関連ブログ 青荷温泉~ランプの宿~ 他 (2009/09/10)

ここは、砂湯のある、湯原温泉。 温泉街の先に、砂湯はある。

こんなお話しが。 他にもあった。

ここの神社は、昔、本尊が流されて、ずっと下流で見つかった。
お参りすると、大事な物が戻ってくるそう。 温泉のお湯が飲めた。

砂湯は、ダムの下にあった。

大きな露天風呂。

女の人がいたので、入りにくかった。 朝早く行くか。

女流名人戦が、ここであった。

この将棋は、知っていた。 棋譜を見ていた。
里見香奈が、3連勝で防衛した。
この人は、彗星のように数年前に現れた。 島根県の人。
昔、林葉直子が出て来た時に、似ている。
今、女流の将棋は、この人を中心に動いている。
男性棋士と同じ強さになる可能性を秘めている。 今までにないこと。

下をクリックすると、同じ画面が出てきます。 棋譜です。
棋譜の上の▷をクリックすると、一手一手進みます。

今週天気がいいのは、明日の火曜日。
寝る時間がなくなってきた。 大山(だいせん)は、大丈夫かな。
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麓から歩いたら1時間。 これは登山。
備中松山城は、高い山の上にあった。
中腹にある駐車場まで車で登った。 そこからでも、20分歩いた。
標高430mの臥牛山(がぎゅうざん)頂上付近に、城はある。
臥牛山にはいくつかの山があって、城は小松山にあるので、松山城となった。
愛媛にも松山城があるため、最後は、備中松山城と。 ※ 備中~びっちゅう
土日は、下からシャトルバスが運行しているが、台風のため休み。
それで、上の駐車場まで行けた。
風と雨が強い。 傘が裏返しになって、壊れそう。
石垣が美しい。 この人達の後、誰にも会わない。
天守閣が見えた。 手前の建物は、復元した物。
風と雨が強く、カメラの設定ができないので、写真がうまくいかない。 適当に、パチ。
上の写真の感じで撮りたかった。
現存天守の中では一番高いところにある。
※ 現存天守でなければ、美濃岩村城は標高 717㍍。
三層(三階)に見えるが、左の部分は廊下(他の建物とつながっていた)で、実際は2層。
壁の白と板の黒が美しい。
現存天守の城の中では、一番小さな天守。
左にある入り口。 ここがあるので、3層に見える。
隅にあった、石落とし。
天守の1階に、昔の写真が展示してあった。
昭和に入って、何度か解体修理、また修理が行われた。
下は、解体前。 廃屋の状態。
歴史の証人が、息も絶え絶えに残っていた。 そんな感じ。
当時、こんな状態の城は、全国いたるところにあった。
しかし、保存を考えた町は、ほんの一部。
天守の裏の、二重櫓(にじゅうやぐら)。
この状態でも、使える材料を使って復元したら、それは昔の物になる。
そうでなかったら、ただの復元。 価値は、全く違う。 半分の半分もない。
土塀。
300年は経っているので、この状態。
昭和15年7月。 2万枚の瓦が、女学生によって運ばれた。 背中にしょってる。
この人達は今、80歳を越えている。
明治の終わり頃。 本丸、南御門。
1階部分。 この階に、説明や写真があった。
この山には、1200年代から、城は作られ始めた。
城の城主は変わるが、戦国時代は、三村氏。 西の毛利氏のおかげで城主になれた。
東の小早川氏とは仲が悪く、いつも争っていた。
小さな窓から、鉄砲を撃つ。
毛利と小早川が、足利義昭の命を受けて、信長を追討しようとした。
信長は、城主の三村元親に、毛利軍の侵攻を押さえたら、備中と小早川の備前を与えると言った。
元親は、毛利への恩を忘れて、裏切った。
毛利軍を迎え撃ったが、勝てるわけがなかった。
秀吉を中心とした信長軍が、助けに来ると思ったのか。
元親は、戦国の世の何かを、読み間違った。 (本能寺の変まで、あと7年)
1階に、少し高くなって、小さな部屋があった。 装束の間。
そこから、1階を見た。
2階(最上階)への階段。
2階。
御社壇。
広い窓は無い。 窓の格子の隙間から、高梁市街地が見えた。
解体修理の時のもの。
削って柱に。
裏にある、二重櫓。
裏から見た、天守。

二重櫓への道。
三村元親と、その子、勝法師丸の辞世の句。
※ 辞世の句は、死ぬずっと前に、作ってあるのかな。 直ぐにはできないくらい、質が高いので。
途中で、高梁市の市街地がよく見えた。
この城は、江戸時代の1600年代の終わりに大改修を行い、現在の姿になった。 水谷氏の時代。
水谷家は長くは続かず、断絶する。
その後、赤穂藩主・浅野長矩が城の受取りにあたり、家老・大石良雄が城番となっている。 2年程の間。
城の位置が高すぎるので、普段の政治は、下の御根小屋というところで行われていた。
今はそこに、高梁高校がある。
【道の駅】 醍醐の里
【明日の予定】 少し北に、変わった温泉があるので、そこに。
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備中松山城は、高い山の上にあった。
中腹にある駐車場まで車で登った。 そこからでも、20分歩いた。
標高430mの臥牛山(がぎゅうざん)頂上付近に、城はある。
臥牛山にはいくつかの山があって、城は小松山にあるので、松山城となった。
愛媛にも松山城があるため、最後は、備中松山城と。 ※ 備中~びっちゅう

土日は、下からシャトルバスが運行しているが、台風のため休み。
それで、上の駐車場まで行けた。

風と雨が強い。 傘が裏返しになって、壊れそう。

石垣が美しい。 この人達の後、誰にも会わない。

天守閣が見えた。 手前の建物は、復元した物。
風と雨が強く、カメラの設定ができないので、写真がうまくいかない。 適当に、パチ。
上の写真の感じで撮りたかった。

現存天守の中では一番高いところにある。
※ 現存天守でなければ、美濃岩村城は標高 717㍍。

三層(三階)に見えるが、左の部分は廊下(他の建物とつながっていた)で、実際は2層。
壁の白と板の黒が美しい。
現存天守の城の中では、一番小さな天守。

左にある入り口。 ここがあるので、3層に見える。

隅にあった、石落とし。

天守の1階に、昔の写真が展示してあった。
昭和に入って、何度か解体修理、また修理が行われた。
下は、解体前。 廃屋の状態。
歴史の証人が、息も絶え絶えに残っていた。 そんな感じ。
当時、こんな状態の城は、全国いたるところにあった。
しかし、保存を考えた町は、ほんの一部。

天守の裏の、二重櫓(にじゅうやぐら)。
この状態でも、使える材料を使って復元したら、それは昔の物になる。
そうでなかったら、ただの復元。 価値は、全く違う。 半分の半分もない。

土塀。

300年は経っているので、この状態。

昭和15年7月。 2万枚の瓦が、女学生によって運ばれた。 背中にしょってる。
この人達は今、80歳を越えている。

明治の終わり頃。 本丸、南御門。

1階部分。 この階に、説明や写真があった。

この山には、1200年代から、城は作られ始めた。

城の城主は変わるが、戦国時代は、三村氏。 西の毛利氏のおかげで城主になれた。
東の小早川氏とは仲が悪く、いつも争っていた。
小さな窓から、鉄砲を撃つ。

毛利と小早川が、足利義昭の命を受けて、信長を追討しようとした。
信長は、城主の三村元親に、毛利軍の侵攻を押さえたら、備中と小早川の備前を与えると言った。
元親は、毛利への恩を忘れて、裏切った。

毛利軍を迎え撃ったが、勝てるわけがなかった。
秀吉を中心とした信長軍が、助けに来ると思ったのか。
元親は、戦国の世の何かを、読み間違った。 (本能寺の変まで、あと7年)
1階に、少し高くなって、小さな部屋があった。 装束の間。

そこから、1階を見た。

2階(最上階)への階段。

2階。

御社壇。


広い窓は無い。 窓の格子の隙間から、高梁市街地が見えた。





解体修理の時のもの。


削って柱に。


裏にある、二重櫓。

裏から見た、天守。

二重櫓への道。

三村元親と、その子、勝法師丸の辞世の句。
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途中で、高梁市の市街地がよく見えた。

この城は、江戸時代の1600年代の終わりに大改修を行い、現在の姿になった。 水谷氏の時代。
水谷家は長くは続かず、断絶する。
その後、赤穂藩主・浅野長矩が城の受取りにあたり、家老・大石良雄が城番となっている。 2年程の間。
城の位置が高すぎるので、普段の政治は、下の御根小屋というところで行われていた。
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【道の駅】 醍醐の里
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剣山に登りたかったが、この天気では、仕方ない。
台風が近づいてきた。
今回無理して登っても、剣山しか登れない。
他に、ジロウギュウとか魅力的な山もある。
来年になると思うけど、再度来る。
今は、瀬戸大橋の途中にある、与島の駐車場にいる。
※ 関連ブログ 電車も走る、瀬戸大橋 温暖な瀬戸内 ~坂出市~ 他 (2010/12/10)
今日は、一日強い雨のため、どこも見ていない。
昨日のブログに、「津軽のふるさと」を載せた。
この曲は好きなので、今まで、10回程、ブログに載せている。
この曲について、今日は、少しだけ整理しておきたいと思う。
① 「津軽のふるさと」は、「リンゴ園の少女」という映画の、挿入歌。
この映画は、美空ひばり主演で、こんな内容。
・1952年(昭和27年) 松竹 ※ ひばりが、大豊町の大杉に行った年。
・ストーリー
津軽の少女マルミは、祖父の公平と二人で、山川リンゴ園を経営している。
好きで上手な彼女の歌を、公平はあまり喜ばない。
マルミはこっそり亡き母の墓前で歌ったりしていた。
近所の大倉リンゴ園の娘、中学校の音楽教師純子は、マルミのとび抜けた天分を認めるていた。
彼女は、ヒット・メロディ「リンゴ追分」で有名な作曲家野村哲郎に、マルミを師事させようと計画していた。
「リンゴ祭」の音楽会にのぞむため津軽に来た野村は、純子の手引きでマルミの歌をきき、その才能に驚いた。
さらに、彼女が山川リンゴ園の孫娘と聴くと、顔色を変えた。
マルミの亡母千代は彼の青年時代の愛人であり、マルミは野村の子だった。
※ こんな内容で、始まる。
② この映画では、「リンゴ追分」もあり、こっちは主題歌。
下の動画の、作曲家野村哲郎役は、若い時の山村聡。
音楽教師純子役は、小園蓉子(ようこ)。 右は、若い時。
③ 撮影場所は、今は、弘前りんご公園になっている。
一昨年行ってきたが、そこが撮影場所とは知らなかった。
ただ、津軽のふるさとが、ずっと流れていた。
※ 関連ブログ 弘前市りんご公園~1本の木に600個~ 百沢街道 他 (2009/09/07)
④ ひばりが歌う、津軽のふるさと
※ 美空ひばりの歌は、十代の時が、一番魅力がある。
年をとって、少し甘い感じの歌い方になる。 それでも、ひばりを越える者はいないが。
前半映画 後半は、年をとってから
⑤ 他の人が歌う、津軽のふるさと
塩田美奈子
水森かおり
中村美律子 ※ ひばり以外で上手なのは、この人かもしれない。
サエラ ※ この人が歌う、「北国行きで」はいい。 朱里エイコとの比較はしないで。
秋川雅史
⑤ 津軽のふるさとの作詞・作曲は、米山正夫。 この人は作曲家。 こんな曲がある。
山小舎の灯(近江俊郎) 森の水車
リンゴ追分(美空ひばり) 車屋さん(美空ひばり)
三百六十五歩のマーチ(水前寺清子)
ヤン坊・マー坊の唄 など
「津軽のふるさと」の良さは何なんでしょう。
美空ひばりが歌うのを聞いて、この歌の良さをみんな感じた。
そして、他の歌手も歌うようになった。
それでも、ひばりのようには、誰もこの歌を表現できない。
※ そういう意味では、テネシーワルツに似ている。(津軽のふるさと発売の3年前の1950年)
だれも、パティ・ペイジのようには、その歌の魅力を引き出せない。 テネシー・ワルツ(YouTube)
※ 動画に出てくる山は、岩木山。 一昨年登った。
関連ブログ 岩木山に登りました。 ~山頂の風は 爽やかでした~
【停泊場所】 高速の、与島にあるパーキング。
【明日の予定】 高梁市で、備中松山城を見る。 現存天守の城。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
【ランキング】 国内旅行は12位、 旅行全体で41位です。 放浪の旅は48位です。
記事は役立ったでしょうか。
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台風が近づいてきた。
今回無理して登っても、剣山しか登れない。
他に、ジロウギュウとか魅力的な山もある。
来年になると思うけど、再度来る。
今は、瀬戸大橋の途中にある、与島の駐車場にいる。
※ 関連ブログ 電車も走る、瀬戸大橋 温暖な瀬戸内 ~坂出市~ 他 (2010/12/10)
今日は、一日強い雨のため、どこも見ていない。
昨日のブログに、「津軽のふるさと」を載せた。
この曲は好きなので、今まで、10回程、ブログに載せている。
この曲について、今日は、少しだけ整理しておきたいと思う。
① 「津軽のふるさと」は、「リンゴ園の少女」という映画の、挿入歌。
この映画は、美空ひばり主演で、こんな内容。
・1952年(昭和27年) 松竹 ※ ひばりが、大豊町の大杉に行った年。
・ストーリー
津軽の少女マルミは、祖父の公平と二人で、山川リンゴ園を経営している。
好きで上手な彼女の歌を、公平はあまり喜ばない。
マルミはこっそり亡き母の墓前で歌ったりしていた。
近所の大倉リンゴ園の娘、中学校の音楽教師純子は、マルミのとび抜けた天分を認めるていた。
彼女は、ヒット・メロディ「リンゴ追分」で有名な作曲家野村哲郎に、マルミを師事させようと計画していた。
「リンゴ祭」の音楽会にのぞむため津軽に来た野村は、純子の手引きでマルミの歌をきき、その才能に驚いた。
さらに、彼女が山川リンゴ園の孫娘と聴くと、顔色を変えた。
マルミの亡母千代は彼の青年時代の愛人であり、マルミは野村の子だった。
※ こんな内容で、始まる。
② この映画では、「リンゴ追分」もあり、こっちは主題歌。
下の動画の、作曲家野村哲郎役は、若い時の山村聡。
音楽教師純子役は、小園蓉子(ようこ)。 右は、若い時。


③ 撮影場所は、今は、弘前りんご公園になっている。
一昨年行ってきたが、そこが撮影場所とは知らなかった。
ただ、津軽のふるさとが、ずっと流れていた。

※ 関連ブログ 弘前市りんご公園~1本の木に600個~ 百沢街道 他 (2009/09/07)
④ ひばりが歌う、津軽のふるさと
※ 美空ひばりの歌は、十代の時が、一番魅力がある。
年をとって、少し甘い感じの歌い方になる。 それでも、ひばりを越える者はいないが。
前半映画 後半は、年をとってから
⑤ 他の人が歌う、津軽のふるさと
塩田美奈子
水森かおり
中村美律子 ※ ひばり以外で上手なのは、この人かもしれない。
サエラ ※ この人が歌う、「北国行きで」はいい。 朱里エイコとの比較はしないで。
秋川雅史
⑤ 津軽のふるさとの作詞・作曲は、米山正夫。 この人は作曲家。 こんな曲がある。
山小舎の灯(近江俊郎) 森の水車
リンゴ追分(美空ひばり) 車屋さん(美空ひばり)
三百六十五歩のマーチ(水前寺清子)
ヤン坊・マー坊の唄 など
「津軽のふるさと」の良さは何なんでしょう。
美空ひばりが歌うのを聞いて、この歌の良さをみんな感じた。
そして、他の歌手も歌うようになった。
それでも、ひばりのようには、誰もこの歌を表現できない。
※ そういう意味では、テネシーワルツに似ている。(津軽のふるさと発売の3年前の1950年)
だれも、パティ・ペイジのようには、その歌の魅力を引き出せない。 テネシー・ワルツ(YouTube)
※ 動画に出てくる山は、岩木山。 一昨年登った。
関連ブログ 岩木山に登りました。 ~山頂の風は 爽やかでした~
【停泊場所】 高速の、与島にあるパーキング。
【明日の予定】 高梁市で、備中松山城を見る。 現存天守の城。
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(2008年4月~2010年9月までの記事)

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1947年9月、9歳の美空和枝を載せた路線バスは、本山村を出発し、現大豊町の大杉駅に向かっていた。
左の谷底には、吉野川の支流穴内川が見えている。
少し先の坂を下って、橋を渡ったら駅。 もうすぐだ。
その時、前から突然トラックが来た。
バスは避けることが出来ず、衝突。
そのはずみで、谷の方に横転。
谷底に転落と思われたバスは、かろうじて大きな桜の木に引っ掛かった。
後ろの方に立っていた美空和枝は、大人の下敷きになり、またガラスの破片で左手首を大きく切った。
鼻血を流して気絶し、瞳孔も開き仮死状態になった。
しかし、たまたま村に居合わせた医師に救命措置をしてもらった。
そのお陰で、その夜、意識を取り戻すことが出来た。
大豊町の大杉の位置。
一度来ているが、写真が小さいので、撮り直した。
道の駅から400㍍の所に、八坂神社がある。 その境内に大杉はある。
その直ぐ近くに、美空ひばりの歌碑。
正面に大杉が見える。 左に行ったら、歌碑。
左が南大杉。 根元の周囲が約20㍍。 高さ、約60㍍。
右は北大杉。 〃 16.5㍍。 〃 57㍍。
国の特別天然記念物。
この人達に写真を撮ってほしいと言われた。
撮った後、私のカメラでも適当に撮るからねと言ったら、みんな上を向いた。
3000年だそう。
パンフレットには、歴史の鼓動が聞こえてくるようです、とあった。
大杉があったから、ここの神社を建てた。
こう考えるのが自然だけど、スサノオノミコトが植えたという伝説がある。
神社の下に、ひばりの歌碑があった。
左は、遺影碑と呼んでた。 歌が流れる。
「川の流れのように」「龍馬残影」「悲しき口笛」の3曲。 ※ 龍馬は、ここの大杉を見に来ている。
ひばりは、バス事故の治療の後、日本一の歌手になれるようにと、八坂神社にお願いした。
そして、15歳の時、お礼にやってきた。 下の写真は、その時の物。
中村メイコ夫婦が書いた。 ひばりの歌は永遠に眠らじ、とある。
神社への石段があって、そこを下りると、ここに来る。 旧道からの神社への入り口。
ひばりは、ここで写真を撮った。
ここでの事故は、1947年。 「悲しき口笛」は2年後。
ここに来たのは、1952年。 その年、「津軽のふるさと」「りんご追分」を出している。
もう認められている。
いろんな情報は、料金所の人からいただいていた。
バスの事故現場に向かった。 川は、穴内川。 右に、大杉駅が見える。
右奥に役場が見えている。
旧道は、国道の左上を通っており、事故があった場所は、役場の正面の少し向こう。
バスは、この駅に向かっていた。
左に行ったら、旧道。 役場の上が見えている。
私は、向こうから来た。 バスは、手前から向こうへ。
バスが横転したのは、この場所。 昔はもっと狭い道。
国道から見たら、左の看板の字が読める。 少し向こうの木は、桜の木。(後で植えたと思う)
国道からは、このように。
ひばり食堂があったので、入ってみた。
他のお客さんに運ばれて来るのを見て、びっくり。
さすが、大杉の町。 何もかも、特大。
私は、半年ぶりのカツ丼。 半分ちょっと食べておしまい。
駅に渡る橋の上から撮影。
当時は水量も多く、崖も急だったため、桜の木に引っ掛からなかったら、全員助からなかったと言われている。
旧道を戻った。
後で知ったのだが、この旅館の斜め向かいに、昔、別館があった。
事故当日の夜、ひばりはそこに泊まったという。
ひばりは高知の病院に入院したとあるが、地元の病院にもいたそう。
これは、料金所の人が言った。
ひばりの母親は、近くの子供たちに、和枝が退屈するから、病院に遊びに行ってね、とお願いしたそうだ。
行った人がいるんですよ、と教えてくれた。
梅雨の季節に入り、カニさんは元気。
ひばりは、事故の後、「大杉のように」なれますようにとお願いした。
再度来た時は、歌手として成長できたお礼を言って、「日本一の大杉のように」と、お願いした。
この時はもう、日本一は、ひばりの視界に入っていた。
大杉のあるこの地は、
ひばりが、助かったことに感謝し、将来への気持ち(覚悟)を固めた地であったように思う。
※ 参考文献は、Wikipediaの他に、『ひばり自伝』美空ひばり、『美空ひばり』竹中労 等。
そして、料金所の方。
※ ひばりは、音丸と云う人の公演の、前座として同行していた。 音丸(wikipedia)
母親がお願いした。
【道の駅】 貞光ゆうゆう館
【明日の予定】 天気次第
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
【ランキング】 国内旅行は7位、 旅行全体で23位です。 放浪の旅は44位です。
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左の谷底には、吉野川の支流穴内川が見えている。
少し先の坂を下って、橋を渡ったら駅。 もうすぐだ。
その時、前から突然トラックが来た。
バスは避けることが出来ず、衝突。
そのはずみで、谷の方に横転。
谷底に転落と思われたバスは、かろうじて大きな桜の木に引っ掛かった。
後ろの方に立っていた美空和枝は、大人の下敷きになり、またガラスの破片で左手首を大きく切った。
鼻血を流して気絶し、瞳孔も開き仮死状態になった。
しかし、たまたま村に居合わせた医師に救命措置をしてもらった。
そのお陰で、その夜、意識を取り戻すことが出来た。
大豊町の大杉の位置。
一度来ているが、写真が小さいので、撮り直した。
道の駅から400㍍の所に、八坂神社がある。 その境内に大杉はある。
その直ぐ近くに、美空ひばりの歌碑。

正面に大杉が見える。 左に行ったら、歌碑。

左が南大杉。 根元の周囲が約20㍍。 高さ、約60㍍。
右は北大杉。 〃 16.5㍍。 〃 57㍍。
国の特別天然記念物。
この人達に写真を撮ってほしいと言われた。
撮った後、私のカメラでも適当に撮るからねと言ったら、みんな上を向いた。

3000年だそう。
パンフレットには、歴史の鼓動が聞こえてくるようです、とあった。

大杉があったから、ここの神社を建てた。
こう考えるのが自然だけど、スサノオノミコトが植えたという伝説がある。

神社の下に、ひばりの歌碑があった。

左は、遺影碑と呼んでた。 歌が流れる。
「川の流れのように」「龍馬残影」「悲しき口笛」の3曲。 ※ 龍馬は、ここの大杉を見に来ている。

ひばりは、バス事故の治療の後、日本一の歌手になれるようにと、八坂神社にお願いした。
そして、15歳の時、お礼にやってきた。 下の写真は、その時の物。

中村メイコ夫婦が書いた。 ひばりの歌は永遠に眠らじ、とある。

神社への石段があって、そこを下りると、ここに来る。 旧道からの神社への入り口。
ひばりは、ここで写真を撮った。

ここでの事故は、1947年。 「悲しき口笛」は2年後。
ここに来たのは、1952年。 その年、「津軽のふるさと」「りんご追分」を出している。
もう認められている。

いろんな情報は、料金所の人からいただいていた。
バスの事故現場に向かった。 川は、穴内川。 右に、大杉駅が見える。
右奥に役場が見えている。
旧道は、国道の左上を通っており、事故があった場所は、役場の正面の少し向こう。

バスは、この駅に向かっていた。

左に行ったら、旧道。 役場の上が見えている。

私は、向こうから来た。 バスは、手前から向こうへ。
バスが横転したのは、この場所。 昔はもっと狭い道。
国道から見たら、左の看板の字が読める。 少し向こうの木は、桜の木。(後で植えたと思う)

国道からは、このように。

ひばり食堂があったので、入ってみた。

他のお客さんに運ばれて来るのを見て、びっくり。
さすが、大杉の町。 何もかも、特大。
私は、半年ぶりのカツ丼。 半分ちょっと食べておしまい。

駅に渡る橋の上から撮影。
当時は水量も多く、崖も急だったため、桜の木に引っ掛からなかったら、全員助からなかったと言われている。

旧道を戻った。
後で知ったのだが、この旅館の斜め向かいに、昔、別館があった。
事故当日の夜、ひばりはそこに泊まったという。

ひばりは高知の病院に入院したとあるが、地元の病院にもいたそう。
これは、料金所の人が言った。
ひばりの母親は、近くの子供たちに、和枝が退屈するから、病院に遊びに行ってね、とお願いしたそうだ。
行った人がいるんですよ、と教えてくれた。

梅雨の季節に入り、カニさんは元気。

ひばりは、事故の後、「大杉のように」なれますようにとお願いした。
再度来た時は、歌手として成長できたお礼を言って、「日本一の大杉のように」と、お願いした。
この時はもう、日本一は、ひばりの視界に入っていた。
大杉のあるこの地は、
ひばりが、助かったことに感謝し、将来への気持ち(覚悟)を固めた地であったように思う。
※ 参考文献は、Wikipediaの他に、『ひばり自伝』美空ひばり、『美空ひばり』竹中労 等。
そして、料金所の方。
※ ひばりは、音丸と云う人の公演の、前座として同行していた。 音丸(wikipedia)
母親がお願いした。
【道の駅】 貞光ゆうゆう館
【明日の予定】 天気次第
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

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