土方歳三が死んだ1週間後、明治2年5月18日、榎本武揚以下全員が降伏した。
戊辰戦争、また函館戦争は終わった。
それは、江戸幕府の残り火が、消えた瞬間でもあった。
函館の町の路傍には、たくさんの遺体が転がっていた。
だが、賊軍の遺体だから、誰も手を出せない。
処分覚悟で、動いた人間がいた。
また、その男に協力した寺が、一つだけあった。
今日は、その寺に、まず行った。
久しぶりに自転車。 小さいけど、どこまでも行ける。
駅には、あっという間に着いた。
目的地の碧血碑は、下に見える。
ここは、駅の隣にある朝市。
海の幸、山の幸、何でも売っている。 私はいつも、見るだけ。
タラバガニ。 はかりの上で、動いた。
ベイエリア。 赤レンガ倉庫が並んでいる。 お店か、食べ物屋さん。
金森赤レンガ倉庫群と、この辺りは呼ばれる。 ベイエリア地区にある。
小樽を歩くのに似ているかな。
旧金森洋物店。 老舗。
この坂を、もう少し登って、右に目的の寺はある。 寺の名前は、実行寺(じつぎょうじ)。
乗ってる自転車は、これ。 12インチだったかな。 軽くて小さい。
いつも、助手席に、ちょこんと座っている。
実行寺。 日蓮宗。 ※ 本山は、身延山。(昨年、初夏の時期に行った)
お寺のどこに遺体を埋めたのか、そんなことを知りたくて、受付に行った。
受付にいた男の人は、詳しかった。
戊辰戦争の全てを知っていた。 幕末の頃からの、この寺の動きについても。
30分程、説明していただいた。 質問にも。 お茶も。
こうだった。
① 1854年、日米和親条約を結ぶ。 函館開港。
ペリー艦隊がやって来た。
どうして、函館が開港になったか、その理由を聞いた。
アメリカは捕鯨をやっていた。
北太平洋に、食料や燃料の補給基地が必要だった。
函館は、ちょうどいい場所だった。 日本海にも行ける。
② ペリー艦隊が来た時、写真班の宿舎が、実行寺になった。
※ 実行寺は、昔は、もっと街の中にあった。(地図参照)
その写真班が撮った写真が、日本最古の写真となる。(このことの事実関係は、だいじょうぶ)
※ よく見る龍馬の写真は、その2年後に撮影。
③ ペリーが来た翌年、フランス艦隊が来た。
その艦隊には、多くの病人がいた。
函館奉行所は、幕府の許可を得ず、人道的配慮で、入港を許可。
※ フランスは、このことに大きな恩を感じる。この後ずっと友好関係が続く。
ここ実行寺は、養生所になった。
船が積んでいた本の中に、ヨーロッパの城の本が、1冊だけあった。
これを読んだ人間が、武田斐三郎。 五稜郭を設計する。
五稜郭は、陸地の真ん中にある。
どっちの海からも、大砲の砲弾が届きにくいように。
④ 1868年、戊辰戦争がはじまった。
幕府軍の負傷兵は、実行寺に運ばれる。 函館病院が満員のため。
⑤ 1869年5月18日、戊辰戦争は終わった。
たくさんの遺体が、街の中に放置されていた。
柳川熊吉と云う男が動いた。 彼は、侠客(きょうかく。任侠を建前とした渡世人)だった。
※ 熊吉は、実行寺の今までの動きを知っていた。
それで、住職 日隆上人に相談する。
そして、実行寺境内の墓地と、山背泊に、密かに埋葬する。 796体。
※ 山背泊は、今のこの寺の辺り。
⑥ 1875年、碧血碑(へきけつひ)を建立。 戦死者の七回忌の年。
実行寺の遺骨を(山背泊りもか)を移し、改めて埋葬。
⑦ 1879年、函館大火。
⑧ 1881年、実行寺は今の場所に移転する。
詳しく説明していただき、外も案内していただいた。
碧血碑への道を詳しく聞いて、実行寺を後にした。
下は、日仏親善函館発祥記念碑。 2001年除幕式。
元町公園から、海を撮影。
旧公会堂。
八幡坂。 歩道が階段。
この上の、左の方に行く。
妙心寺。 ここも日蓮宗。 この寺に、左後ろの山の中に、碧血碑はある。
自転車を置いて歩く。 もうすぐ。
木の隙間に、見えてきた。
ここです。
説明があった。
碧血(へきけつ)についての説明が面白い。
※ 碧血になると云うのは、血が碧玉になるということ。
碧玉は、碧(あお)い色をした宝石。 ジャスパー。
流した血は、3年経ったら、宝石のように美しくなると言っている。
義に殉じた、潔い死だったと考えている。
※ 赤い碧玉もある。 血の塊に、見えてくる。
※ 碧は、紺碧の碧。 美しいと考えられてる色。
山口百恵が、昔、「碧色の瞳」という歌を歌っていた。
これが、碧血碑。 高さ6㍍。 花があった。
「明治辰巳実有此事 立石山上叺表歔志」と刻まれている。
「明治辰巳、実に此事有り、石を山上に立てて以て厥の志を表す」と読む。
「明治2年、此の事は実際にありました。 山上に石を建てて、悲しみの気持ちを表します」という意味。
※ 7年経っているが、まだはっきりとは書けなかった。
遺体を集める作業は、近隣の住民や熊吉の子分達が手伝うようになった。
数日間で、800もの遺体は、実行寺と山背泊に葬られた。
賊軍の慰霊は、その時代出来なかった。
明治政府の命令に反した熊吉は追及を受けた。
しかし、熊吉の堂々とした態度に、官吏は埋葬を黙認せざるを得なかった。
また、終わった後、打ち首になるはずだった。
新政府軍の薩摩藩士・田島圭造が、「これからの日本のために、こういう男を死なせてはならない」と考え、
熊吉への打ち首を取り止めさせた。
熊吉は無罪釈放となった。 (この部分、フレッシュ・ぺディア より)
熊吉が88歳になった時、有志で建てた。
柳川熊吉、日隆上人は、幕府の兵士も、同じ日本人と考えたのでしょうか。 同じ人間と考えたかも。
また、徳川幕府に殉じたことに、土方歳三達の意気を、きっと感じていた。
土方歳三の夢ははっきりしなかったが、人を惹きつける生き方ではあったようだ。
柳川熊吉も、面白かったかな。
【停泊地】 昨晩に同じ
【明日の予定】 石川啄木を追ってみようかなと。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
【ランキング】 国内旅行は5位、 旅行全体で10位です。
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戊辰戦争、また函館戦争は終わった。
それは、江戸幕府の残り火が、消えた瞬間でもあった。
函館の町の路傍には、たくさんの遺体が転がっていた。
だが、賊軍の遺体だから、誰も手を出せない。
処分覚悟で、動いた人間がいた。
また、その男に協力した寺が、一つだけあった。
今日は、その寺に、まず行った。
久しぶりに自転車。 小さいけど、どこまでも行ける。
駅には、あっという間に着いた。
目的地の碧血碑は、下に見える。

ここは、駅の隣にある朝市。

海の幸、山の幸、何でも売っている。 私はいつも、見るだけ。

タラバガニ。 はかりの上で、動いた。

ベイエリア。 赤レンガ倉庫が並んでいる。 お店か、食べ物屋さん。

金森赤レンガ倉庫群と、この辺りは呼ばれる。 ベイエリア地区にある。
小樽を歩くのに似ているかな。

旧金森洋物店。 老舗。

この坂を、もう少し登って、右に目的の寺はある。 寺の名前は、実行寺(じつぎょうじ)。
乗ってる自転車は、これ。 12インチだったかな。 軽くて小さい。
いつも、助手席に、ちょこんと座っている。

実行寺。 日蓮宗。 ※ 本山は、身延山。(昨年、初夏の時期に行った)

お寺のどこに遺体を埋めたのか、そんなことを知りたくて、受付に行った。
受付にいた男の人は、詳しかった。
戊辰戦争の全てを知っていた。 幕末の頃からの、この寺の動きについても。
30分程、説明していただいた。 質問にも。 お茶も。
こうだった。
① 1854年、日米和親条約を結ぶ。 函館開港。
ペリー艦隊がやって来た。
どうして、函館が開港になったか、その理由を聞いた。
アメリカは捕鯨をやっていた。
北太平洋に、食料や燃料の補給基地が必要だった。
函館は、ちょうどいい場所だった。 日本海にも行ける。
② ペリー艦隊が来た時、写真班の宿舎が、実行寺になった。
※ 実行寺は、昔は、もっと街の中にあった。(地図参照)
その写真班が撮った写真が、日本最古の写真となる。(このことの事実関係は、だいじょうぶ)
※ よく見る龍馬の写真は、その2年後に撮影。
③ ペリーが来た翌年、フランス艦隊が来た。
その艦隊には、多くの病人がいた。
函館奉行所は、幕府の許可を得ず、人道的配慮で、入港を許可。
※ フランスは、このことに大きな恩を感じる。この後ずっと友好関係が続く。
ここ実行寺は、養生所になった。
船が積んでいた本の中に、ヨーロッパの城の本が、1冊だけあった。
これを読んだ人間が、武田斐三郎。 五稜郭を設計する。
五稜郭は、陸地の真ん中にある。
どっちの海からも、大砲の砲弾が届きにくいように。
④ 1868年、戊辰戦争がはじまった。
幕府軍の負傷兵は、実行寺に運ばれる。 函館病院が満員のため。
⑤ 1869年5月18日、戊辰戦争は終わった。
たくさんの遺体が、街の中に放置されていた。
柳川熊吉と云う男が動いた。 彼は、侠客(きょうかく。任侠を建前とした渡世人)だった。
※ 熊吉は、実行寺の今までの動きを知っていた。
それで、住職 日隆上人に相談する。
そして、実行寺境内の墓地と、山背泊に、密かに埋葬する。 796体。
※ 山背泊は、今のこの寺の辺り。
⑥ 1875年、碧血碑(へきけつひ)を建立。 戦死者の七回忌の年。
実行寺の遺骨を(山背泊りもか)を移し、改めて埋葬。
⑦ 1879年、函館大火。
⑧ 1881年、実行寺は今の場所に移転する。
詳しく説明していただき、外も案内していただいた。
碧血碑への道を詳しく聞いて、実行寺を後にした。
下は、日仏親善函館発祥記念碑。 2001年除幕式。

元町公園から、海を撮影。

旧公会堂。

八幡坂。 歩道が階段。

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妙心寺。 ここも日蓮宗。 この寺に、左後ろの山の中に、碧血碑はある。

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碧血(へきけつ)についての説明が面白い。

※ 碧血になると云うのは、血が碧玉になるということ。
碧玉は、碧(あお)い色をした宝石。 ジャスパー。
流した血は、3年経ったら、宝石のように美しくなると言っている。
義に殉じた、潔い死だったと考えている。
※ 赤い碧玉もある。 血の塊に、見えてくる。
※ 碧は、紺碧の碧。 美しいと考えられてる色。
山口百恵が、昔、「碧色の瞳」という歌を歌っていた。
これが、碧血碑。 高さ6㍍。 花があった。

「明治辰巳実有此事 立石山上叺表歔志」と刻まれている。
「明治辰巳、実に此事有り、石を山上に立てて以て厥の志を表す」と読む。
「明治2年、此の事は実際にありました。 山上に石を建てて、悲しみの気持ちを表します」という意味。
※ 7年経っているが、まだはっきりとは書けなかった。

遺体を集める作業は、近隣の住民や熊吉の子分達が手伝うようになった。
数日間で、800もの遺体は、実行寺と山背泊に葬られた。
賊軍の慰霊は、その時代出来なかった。
明治政府の命令に反した熊吉は追及を受けた。
しかし、熊吉の堂々とした態度に、官吏は埋葬を黙認せざるを得なかった。
また、終わった後、打ち首になるはずだった。
新政府軍の薩摩藩士・田島圭造が、「これからの日本のために、こういう男を死なせてはならない」と考え、
熊吉への打ち首を取り止めさせた。
熊吉は無罪釈放となった。 (この部分、フレッシュ・ぺディア より)
熊吉が88歳になった時、有志で建てた。

柳川熊吉、日隆上人は、幕府の兵士も、同じ日本人と考えたのでしょうか。 同じ人間と考えたかも。
また、徳川幕府に殉じたことに、土方歳三達の意気を、きっと感じていた。
土方歳三の夢ははっきりしなかったが、人を惹きつける生き方ではあったようだ。
柳川熊吉も、面白かったかな。
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一本木の関門を、馬に乗って出た時だった。
一発の銃声が鳴った。
土方歳三は、どんな夢があって、そこまで戦えたのか。
それが、むずかしい。
でも、最後まで潔く戦ったところが、多くの人の心を惹きつけているようだ。
最後の武士。 そう言えるかもしれない。
窓にひびが入ったのを直したり、ちょっと昼寝をしたりして、出発は2時。
駅まで、1㌔と少し。
途中に、土方歳三 最期の地 がある。
この道は国道5号線。 向こうが駅。
札幌から来ても、江差から来ても、駅に行くには、この道を入ってくる。
国道とは別の道。 天気はいいが、汗は出ない。 風は涼しい。
目的地が、近づいてきた。 右のビルの、前辺り。
手前の木の、向こう。
旧幕府軍は、戦いは不利になり、五稜郭にこもった。
明治2年(1869年)5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始された。
新選組隊士 島田魁らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立した。
※ 池田屋事件の時、池田屋の場所を白状したのは、古高俊太郎。
拷問で白状させたのは、土方歳三。 捕まえたのは、島田魁。
孤立した島田魁を助けるため、土方歳三は、僅かな兵を率いて五稜郭を出た。
弁天台場は、今ある駅のもっと先。
五稜郭と弁天台場の中間辺りに、一本木関門はある。
ここから、今の駅の方に向かおうとした時、1発の銃声が鳴った。
土方歳三は、馬から落ちた。
腹部を銃弾が貫通した。
側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命。 即死だった。
榎本武揚と共に、戦ってきた。
最近、新しく、辞世の句が発見された。 ※ いつだったか紹介したが。
こんなの。
「鉾(ほこ)とりて 月見るごとにおもふ哉(かな) あすは かばねの上に照(てる)かと」
( 鉾を手に取って 月を見るたびに思う。 あすはしかばねの上に 照るのかと)
前日に詠んだと云われている。
戦いの情勢から、自分の命も長くないと、感じていた。
降伏していたら、助かったかもしれない。
榎本武揚は、助かった。 普通は打ち首だが。
黒田清隆に助けられた。
※ この人は、明治の初め、北海道の開拓長官になった人。
私が以前いた、根室の花咲小学校の名前を付けた人。 花咲学校と。
根室に、清隆町がある。
場所は、ここ。
北海道は、車が少ないのに、車道も歩道も広い。
中心街には行った。 変な電車。 8月に入ったらお祭り。 その宣伝。
函館は塩ラーメン。 食べてみることに。 小さな小路の入り口。
情報誌に載っていた。
まあまあというところ。 面が太い。 塩味は繊細な味だから、細い麺が合いそうなんだが。
きっと、醤油や味噌は、もっと美味しいかも。
駅の方を少し散歩。
美瑛中学校の修学旅行が、函館だった。 函館山は、霧の中だった。 45年前の話し。
函館駅。 昔は、連絡船とつながっていた。 高校の修学旅行で、連絡船に乗った。 京都に行った。
こっちが朝市。 観光客が多い。
※ 輪島の朝市や八戸の漁港の朝市は、地元の人が多い。
地元の人が買いに来る所は、安いかな。
駅前。 デパートの地下で、イカ2はいと、ホッケの開きを1枚買った。
この道を、戻った。 古い看板。
機関車。 珍しい。 引っ張られてるのか、押しているのか。
もう少しで、終着駅。
駅裏を通って、赤レンガ倉庫の方に行く道。 8月1日、花火、とある。 見ることが出来るかな。
今晩は、ここ。
明日行く所は、頂上の左側の方。
北海道に、死に場所を探しに来たのか。
江戸幕府の家臣として、その生き方を全うしたかったのか。
最初は、新撰組の組織を確固たるものにする。
そうして、最後の目的は、大名か。
北海道に逃げた時は、蝦夷共和国に、少しの夢を描いたか。
でも、見通しはきっと持っていなかった。
司馬遼太郎は、土方歳三の、どこに魅力を感じたのだろう。
龍馬のように、国をどうするとかの夢はなかった。
その時々の、生き方に、魅力があるのか。
土方歳三が、最初に龍馬と出会っていたら、どんな生き方をしたでしょう。
函館は、啄木より、土方歳三の方を、大事にしそうです。
【生活】 折りたたみの棚を作った。 下の方の。
食べ物置いたり、資料を置いたり。 便利。
【停泊場所】 上の方の地図の、○印の所。
【明日の予定】 函館山の中腹に、碧血碑(へっけつひ)がある。
これは、箱館戦争における旧幕府軍の戦死者の慰霊碑。
土方歳三をはじめとする、約800人の戦死者を弔っている。
これをつくった人間が、面白い。
侠客、柳川熊吉という男。
遺体は、埋葬するのを禁止されていた。
それでも、集めた。
協力してくれる寺が、一つあった。
実行寺(じつぎょうじ)。
ここに集めた。
この寺にも行って見る。
坂の町並みの、向こう。
明日は、自転車で動く。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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一発の銃声が鳴った。
土方歳三は、どんな夢があって、そこまで戦えたのか。
それが、むずかしい。
でも、最後まで潔く戦ったところが、多くの人の心を惹きつけているようだ。
最後の武士。 そう言えるかもしれない。
窓にひびが入ったのを直したり、ちょっと昼寝をしたりして、出発は2時。
駅まで、1㌔と少し。
途中に、土方歳三 最期の地 がある。
この道は国道5号線。 向こうが駅。
札幌から来ても、江差から来ても、駅に行くには、この道を入ってくる。

国道とは別の道。 天気はいいが、汗は出ない。 風は涼しい。

目的地が、近づいてきた。 右のビルの、前辺り。

手前の木の、向こう。

旧幕府軍は、戦いは不利になり、五稜郭にこもった。
明治2年(1869年)5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始された。
新選組隊士 島田魁らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立した。
※ 池田屋事件の時、池田屋の場所を白状したのは、古高俊太郎。
拷問で白状させたのは、土方歳三。 捕まえたのは、島田魁。
孤立した島田魁を助けるため、土方歳三は、僅かな兵を率いて五稜郭を出た。
弁天台場は、今ある駅のもっと先。
五稜郭と弁天台場の中間辺りに、一本木関門はある。
ここから、今の駅の方に向かおうとした時、1発の銃声が鳴った。
土方歳三は、馬から落ちた。
腹部を銃弾が貫通した。
側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命。 即死だった。

榎本武揚と共に、戦ってきた。

最近、新しく、辞世の句が発見された。 ※ いつだったか紹介したが。
こんなの。
「鉾(ほこ)とりて 月見るごとにおもふ哉(かな) あすは かばねの上に照(てる)かと」
( 鉾を手に取って 月を見るたびに思う。 あすはしかばねの上に 照るのかと)
前日に詠んだと云われている。
戦いの情勢から、自分の命も長くないと、感じていた。

降伏していたら、助かったかもしれない。
榎本武揚は、助かった。 普通は打ち首だが。
黒田清隆に助けられた。
※ この人は、明治の初め、北海道の開拓長官になった人。
私が以前いた、根室の花咲小学校の名前を付けた人。 花咲学校と。
根室に、清隆町がある。
場所は、ここ。


北海道は、車が少ないのに、車道も歩道も広い。

中心街には行った。 変な電車。 8月に入ったらお祭り。 その宣伝。

函館は塩ラーメン。 食べてみることに。 小さな小路の入り口。

情報誌に載っていた。
まあまあというところ。 面が太い。 塩味は繊細な味だから、細い麺が合いそうなんだが。
きっと、醤油や味噌は、もっと美味しいかも。

駅の方を少し散歩。

美瑛中学校の修学旅行が、函館だった。 函館山は、霧の中だった。 45年前の話し。

函館駅。 昔は、連絡船とつながっていた。 高校の修学旅行で、連絡船に乗った。 京都に行った。

こっちが朝市。 観光客が多い。
※ 輪島の朝市や八戸の漁港の朝市は、地元の人が多い。
地元の人が買いに来る所は、安いかな。

駅前。 デパートの地下で、イカ2はいと、ホッケの開きを1枚買った。

この道を、戻った。 古い看板。

機関車。 珍しい。 引っ張られてるのか、押しているのか。

もう少しで、終着駅。

駅裏を通って、赤レンガ倉庫の方に行く道。 8月1日、花火、とある。 見ることが出来るかな。

今晩は、ここ。

明日行く所は、頂上の左側の方。

北海道に、死に場所を探しに来たのか。
江戸幕府の家臣として、その生き方を全うしたかったのか。
最初は、新撰組の組織を確固たるものにする。
そうして、最後の目的は、大名か。
北海道に逃げた時は、蝦夷共和国に、少しの夢を描いたか。
でも、見通しはきっと持っていなかった。
司馬遼太郎は、土方歳三の、どこに魅力を感じたのだろう。
龍馬のように、国をどうするとかの夢はなかった。
その時々の、生き方に、魅力があるのか。
土方歳三が、最初に龍馬と出会っていたら、どんな生き方をしたでしょう。
函館は、啄木より、土方歳三の方を、大事にしそうです。
【生活】 折りたたみの棚を作った。 下の方の。
食べ物置いたり、資料を置いたり。 便利。

【停泊場所】 上の方の地図の、○印の所。
【明日の予定】 函館山の中腹に、碧血碑(へっけつひ)がある。
これは、箱館戦争における旧幕府軍の戦死者の慰霊碑。
土方歳三をはじめとする、約800人の戦死者を弔っている。
これをつくった人間が、面白い。
侠客、柳川熊吉という男。
遺体は、埋葬するのを禁止されていた。
それでも、集めた。
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