埼玉県の観光地の中心は、川越のようだ。
観光情報誌では、数ページ使って案内している。
そんなことなので、行ってみた。
喜多院と云う寺があった。
江(ごう)が家光を産んだ部屋があると云う。
どういうことだ?
☆ ☆ ☆ ☆
川越市は、埼玉県内3番目に大きな町。 人口34万人。
車は、初雁公園の駐車場に。 観光協会に聞いた。
この場所には、昔、川越城があって、この本丸御殿だけが残っている。
今日行くのは、3ヶ所の予定。
川越は、大きな観光地だった。
重伝建地区になっている。 埼玉県ではここだけ。 ここは、一番街。
※ 重伝建地区・・・重要伝統的建造物群保存地区。 今まで伝建地区と言ってたが、重を付けることに。
楽しいお店が多い。 観光客は、買わなくても入って行く。 また、入りやすい。
そう云う面で、小樽に似ている。
「さげもん」が売ってるお店なんか、人でいっぱい。
一番街が観光の中心だが、特徴は、楽しい店と、小路が多いこと。
だから、全部見るのに時間がかかる。 街のふところが深い。
稲荷小路だったかな。
この通りは、1本裏通りになる。 菓子屋横丁につながる。
小さな子供にとっても楽しい町並みは、家族でやってくる、ということかな。
メイン通り。
外国人も歩いている。 外国の日本の紹介の本に、川越が入っているんですね。
左の建物の屋根の両側に、「うだつ」がある。 ※ 四国脇町のうだつ。
火事の時、横からの火が、前にまわり込むのを防ぐ。
柳川は、江戸時代から火事が多かった。
このことが、家光誕生の部屋と関係していることを、後で知る。
かねつき通り。 高い建物は、鐘楼で「ときの鐘」と呼ばれる。
江戸時代からずっと、鐘の音で時を知らせている。 1日4回。
蔵だなって、感じ。
「箸置き」って、あってもなくてもいいもんだと思っていたが、違うのか。
埼玉りそな銀行川越支店。 洋風で、上の方がお洒落。 大正7年建築。
ショウウィンドウも楽しい。 この店は、仏壇のお店。 さすが、入っている人は少ない。
※ 私は、これと思うものがあれば買うが、買うのはたまに。
小型の神棚で、感じがいいのがあれば、そのうち買う。
だんだん信心深くなってきた。
そう言いながら、今日もそれなりの場所に何度も行ったが、一度も手を合わせていない。
ステンドグラス。 いいですね。 ※ 車のどこかに、ステンドグラスが付かないかなと・・・。
金物のお店だったかな。 銅の器とか。
蔵と、りそな銀行。
車が多く、写真を撮るのが大変。
古い家の2階から。
バスが通った。 宴会が出来るバスだった。 飲み過ぎて、寝てる人も。
行ったり来たりして、菓子屋横丁に。 お祭りの出店みたい。
大きなお菓子。 麩(ふ)かな。
飴細工。 しばらく見ていた。 動画も撮った。
女の子が弟へのお土産に、ドラえもんをたのんだ。 何でも作れる。 ヘビなら、私も作れそう。
煎餅の間にタコ焼き1個。 100円。
飴のお店。 奥で作っている。
川越いも飴を買った。 200円。
しばらく歩いて、喜多院に。 ここは、本堂。

喜多院には、建物を含めて、重要文化財が、山ほどある。
中を参観するが、建物内は撮影できない。
寛永15年(1638年)川越大火があった。 山門と経蔵以外の伽藍を、全て焼失する。
翌年、徳川家光の命で、江戸城紅葉山御殿の一部を移築した。
これが、今に残る客殿、書院、庫裏。
客殿が見える。 この中に、家光誕生の間があった。
誕生の間と云うことは、江はここで生活していた。
春日の局、化粧の間もあった。
火事が起きた時、この寺には天海僧正がいた。 家康の時代から、幕府に信頼されていた。
それで、江戸から建物の一部がやってきた。
春日の局は、将軍家光誕生に奔走した人ですね。
江戸から、伊勢にお参りに行くと言って、駿府の家康の所に頼みに行った。
江が亡くなった後、権力を手に入れる。
※ 天海僧正は、武田信玄にも仕えているが、いつだかテレビでこんな話をしていた。
天海僧正は、明智光秀ではないのか、ということで、光秀と天海の文字の、筆跡鑑定をやった。
完全には一致しなかった。 でも、かなりの部分似ていた。
天海は光秀でなくても、光秀の近親のものではないかと言われた。
家康にとって、信長を討った光秀は、どれだけ有難い人間か、計り知れない。
渡り廊下を通って、本殿に行った。
多宝塔。
ここでやっと、江の名前を見た。 この裏に、五百羅漢がある。
五百羅漢。 日本三大五百羅漢となっていた。 ※ そう言ってる所は、3つ以上ある。
五百羅漢の像は、あまり好きではない。 表情が大げさ。
喜多院でのおまけの話があって、面白かったですね。
川越は楽しめる街、そんな印象を持ちました。
これ以上都心に近付くのは不安です。
途中から暗くなって、3時間ほど走った。
サイドミラーを電柱にこすりそうな細い道も、多かった。
気をつかった運転で、疲れた。
再び、山の中に。 こっちの方が落ち着く。
【道の駅】 たばやま ※ 奥多摩に停めるとこが、見つからなかった。 東京は通っただけ。
【あすの予定】 丹波山村かな。 何があると言う訳ではないけど。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
【ランキング】 国内旅行は7位、 旅行全体で21位です。 放浪の旅は29位。
記事は役立ったでしょうか。
気に入った所などがありましたら、クリックをよろしく。
※ クリックするバナーは、下のです。
※ 1回のクリックで、10ポイント。 1週間生きます。
観光情報誌では、数ページ使って案内している。
そんなことなので、行ってみた。
喜多院と云う寺があった。
江(ごう)が家光を産んだ部屋があると云う。
どういうことだ?
☆ ☆ ☆ ☆
川越市は、埼玉県内3番目に大きな町。 人口34万人。
車は、初雁公園の駐車場に。 観光協会に聞いた。
この場所には、昔、川越城があって、この本丸御殿だけが残っている。

今日行くのは、3ヶ所の予定。

川越は、大きな観光地だった。
重伝建地区になっている。 埼玉県ではここだけ。 ここは、一番街。
※ 重伝建地区・・・重要伝統的建造物群保存地区。 今まで伝建地区と言ってたが、重を付けることに。

楽しいお店が多い。 観光客は、買わなくても入って行く。 また、入りやすい。
そう云う面で、小樽に似ている。
「さげもん」が売ってるお店なんか、人でいっぱい。

一番街が観光の中心だが、特徴は、楽しい店と、小路が多いこと。
だから、全部見るのに時間がかかる。 街のふところが深い。

稲荷小路だったかな。

この通りは、1本裏通りになる。 菓子屋横丁につながる。
小さな子供にとっても楽しい町並みは、家族でやってくる、ということかな。

メイン通り。
外国人も歩いている。 外国の日本の紹介の本に、川越が入っているんですね。
左の建物の屋根の両側に、「うだつ」がある。 ※ 四国脇町のうだつ。
火事の時、横からの火が、前にまわり込むのを防ぐ。
柳川は、江戸時代から火事が多かった。
このことが、家光誕生の部屋と関係していることを、後で知る。

かねつき通り。 高い建物は、鐘楼で「ときの鐘」と呼ばれる。
江戸時代からずっと、鐘の音で時を知らせている。 1日4回。

蔵だなって、感じ。

「箸置き」って、あってもなくてもいいもんだと思っていたが、違うのか。

埼玉りそな銀行川越支店。 洋風で、上の方がお洒落。 大正7年建築。

ショウウィンドウも楽しい。 この店は、仏壇のお店。 さすが、入っている人は少ない。
※ 私は、これと思うものがあれば買うが、買うのはたまに。
小型の神棚で、感じがいいのがあれば、そのうち買う。
だんだん信心深くなってきた。
そう言いながら、今日もそれなりの場所に何度も行ったが、一度も手を合わせていない。

ステンドグラス。 いいですね。 ※ 車のどこかに、ステンドグラスが付かないかなと・・・。

金物のお店だったかな。 銅の器とか。

蔵と、りそな銀行。

車が多く、写真を撮るのが大変。



古い家の2階から。

バスが通った。 宴会が出来るバスだった。 飲み過ぎて、寝てる人も。

行ったり来たりして、菓子屋横丁に。 お祭りの出店みたい。

大きなお菓子。 麩(ふ)かな。

飴細工。 しばらく見ていた。 動画も撮った。
女の子が弟へのお土産に、ドラえもんをたのんだ。 何でも作れる。 ヘビなら、私も作れそう。

煎餅の間にタコ焼き1個。 100円。

飴のお店。 奥で作っている。

川越いも飴を買った。 200円。

しばらく歩いて、喜多院に。 ここは、本堂。

喜多院には、建物を含めて、重要文化財が、山ほどある。
中を参観するが、建物内は撮影できない。

寛永15年(1638年)川越大火があった。 山門と経蔵以外の伽藍を、全て焼失する。
翌年、徳川家光の命で、江戸城紅葉山御殿の一部を移築した。
これが、今に残る客殿、書院、庫裏。

客殿が見える。 この中に、家光誕生の間があった。
誕生の間と云うことは、江はここで生活していた。
春日の局、化粧の間もあった。

火事が起きた時、この寺には天海僧正がいた。 家康の時代から、幕府に信頼されていた。
それで、江戸から建物の一部がやってきた。
春日の局は、将軍家光誕生に奔走した人ですね。
江戸から、伊勢にお参りに行くと言って、駿府の家康の所に頼みに行った。
江が亡くなった後、権力を手に入れる。




※ 天海僧正は、武田信玄にも仕えているが、いつだかテレビでこんな話をしていた。
天海僧正は、明智光秀ではないのか、ということで、光秀と天海の文字の、筆跡鑑定をやった。
完全には一致しなかった。 でも、かなりの部分似ていた。
天海は光秀でなくても、光秀の近親のものではないかと言われた。
家康にとって、信長を討った光秀は、どれだけ有難い人間か、計り知れない。
渡り廊下を通って、本殿に行った。

多宝塔。

ここでやっと、江の名前を見た。 この裏に、五百羅漢がある。

五百羅漢。 日本三大五百羅漢となっていた。 ※ そう言ってる所は、3つ以上ある。
五百羅漢の像は、あまり好きではない。 表情が大げさ。

喜多院でのおまけの話があって、面白かったですね。
川越は楽しめる街、そんな印象を持ちました。
これ以上都心に近付くのは不安です。
途中から暗くなって、3時間ほど走った。
サイドミラーを電柱にこすりそうな細い道も、多かった。
気をつかった運転で、疲れた。
再び、山の中に。 こっちの方が落ち着く。
【道の駅】 たばやま ※ 奥多摩に停めるとこが、見つからなかった。 東京は通っただけ。
【あすの予定】 丹波山村かな。 何があると言う訳ではないけど。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

【ランキング】 国内旅行は7位、 旅行全体で21位です。 放浪の旅は29位。
記事は役立ったでしょうか。
気に入った所などがありましたら、クリックをよろしく。
※ クリックするバナーは、下のです。

※ 1回のクリックで、10ポイント。 1週間生きます。
山の斜面に、横穴がいっぱい。 古代の墓だと云う。
不思議な風景だった。
近くのお寺に、三重塔があるので見に行った。
そうしたら、その寺は、頼朝の弟の 源範頼が関わっていた。
※ 範頼は、曽我兄弟の仇討で知った。
☆ ☆ ☆ ☆
吉見町は小さな町。
国道も線路もない。 町から一歩出たら、両方ともあるんだが。
ここの山の斜面にあった。 観覧料300円。
吉見百穴。 よしみひゃくあな。
一目、咲き終わったハスの花か、コモリガエルの背中に見えた。
最初は、この穴には、コロボックルが住んでいたと考えられていた。 そっちの方が夢がある。
※ 北海道のオホーツク地方に、背の低い民族がいたのかもしれない。
ミャンマーのタロン族のように、大人で130㌢以下なら、コロボックル。
ヒカリゴケがあるとも。
最初にこの穴に入った。 戦争中につくられた。
どこまでも続いているので、途中で行き止まりに。
朝鮮人に掘らせた。
戦闘機のエンジンを作る予定だったが、その前に終戦。
穴を見て歩いた。 219個ある。
「わずかな土地を耕して、かろうじて毎日を暮らしていた多くの農民は・・・」という文がある。
その時代の人々の生活を想像できる、いい説明ですね。
穴の中は、2人くらいなら生活できそう。
この穴には、亡くなった人を置く場所がある。
壁にいたずら書き。 もっとひどい穴もあった。
この辺りの岩も凝灰岩。 火山灰で出来ているので、軟い。
穴の形は、色々。 普段は、ふたをしており、追加して入れることもあった。
土に埋めたら土になって消えるので、それがいやだったのか。
この時代には、もう鉄の工具があったようですね。
石の他に、金属も。
正岡子規の歌があった。 明治24年に来ている。
「神の代は かくやありけん 冬籠(ふゆごもり)」
コロポックル説の時代なので、こんな歌が生まれてしまった。
こんな土偶が出てきた。 隣は、発掘の時、半分埋まっている写真。
航空写真。 左の○に吉見百穴。 真ん中の山に松山城跡。 武田軍もこの城を攻めに来ている。
この辺りは、こんな低い山(丘)があるが、そろそろお終い。
吉見町を過ぎたら、広い関東平野の始まり。
吉見町の案内を見て、近くに三重塔があるのが分かった。 場所は吉見観音(安楽寺)。
人が訪れるのか、お土産屋さんが1軒。
仁王様がお出迎え。
※ 仁王門と仁王像(金剛力士像)は、平成8年から3年かけて、解体修理を行った。
費用は、7000万円とあった。 大変な額。
本堂も三重塔も、江戸時代のものと説明にある。
本堂。
八起地蔵尊とあった。 大きな案内があったので、本堂の裏に見に行った。
※ この地方独特の地蔵のようだが、それ以外は、分からない。 説明の写真が失敗。
三重塔。
高さ17.6㍍。 小さい。
※ 室生寺五重塔は16㍍。 それより少し大きい。
基壇と呼ばれる、塔の下の台がないという。 ※ あるようにみえるが。
中心の柱を支えているのは、1階の梁(はり)だという。 下までないと云うことか。
※ 源頼朝の弟に、源範頼(のりより)がいる。 平家滅亡のために活躍した。
頼朝が富士山でタカ狩りをしていた時、曽我兄弟の仇討の事件があった。
この事件の直後、しばらくの間鎌倉では頼朝の消息を確認することができなかった。
頼朝の安否を心配する妻政子に対して、巻狩に参加せず鎌倉に残っていた弟源範頼が
「範頼が控えておりますので(ご安心ください)」と見舞いの言葉を送った。
この言質が謀反の疑いと取られ、範頼は伊豆修善寺に幽閉され、のちに自害したと伝えられている。(Wikipedia)
ところが、範頼はこの寺に隠れ住んだと云う説がある。 住んだ場所と言われる所もある。
範頼は、もともとこの地方を領地にしていた。
範頼の子供は助かり、その子孫が、吉見氏として続いた。 吉見町の名前は、ここから。
道の駅は、すぐ近く。 陶器市をやっていた。 かわいい鬼がいた。
最近、ガソリンが安くなってきた。 軽油が110円を切ったのを、久しぶりに見た。
安くなると助かる。
川越市に近い道の駅に来た。
近くに何かないかと探したら、今日のがあった。
コロポックルがいた方が、夢があっていい。
でも、遺跡の研究は進んでいるから、もう戻らないでしょうね。
【道の駅】 いちごの里よしみ
印の所は、吉見百穴
【明日の予定】 川越市 ※ 駐車場がはっきりしない。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
【ランキング】 国内旅行は7位、 旅行全体で19位です。 放浪の旅は30位。
記事は役立ったでしょうか。
気に入った所などがありましたら、クリックをよろしく。
※ クリックするバナーは、下のです。
※ 1回のクリックで、10ポイント。 1週間生きます。
不思議な風景だった。
近くのお寺に、三重塔があるので見に行った。
そうしたら、その寺は、頼朝の弟の 源範頼が関わっていた。
※ 範頼は、曽我兄弟の仇討で知った。
☆ ☆ ☆ ☆
吉見町は小さな町。
国道も線路もない。 町から一歩出たら、両方ともあるんだが。
ここの山の斜面にあった。 観覧料300円。

吉見百穴。 よしみひゃくあな。
一目、咲き終わったハスの花か、コモリガエルの背中に見えた。

最初は、この穴には、コロボックルが住んでいたと考えられていた。 そっちの方が夢がある。
※ 北海道のオホーツク地方に、背の低い民族がいたのかもしれない。
ミャンマーのタロン族のように、大人で130㌢以下なら、コロボックル。
ヒカリゴケがあるとも。

最初にこの穴に入った。 戦争中につくられた。

どこまでも続いているので、途中で行き止まりに。
朝鮮人に掘らせた。
戦闘機のエンジンを作る予定だったが、その前に終戦。

穴を見て歩いた。 219個ある。

「わずかな土地を耕して、かろうじて毎日を暮らしていた多くの農民は・・・」という文がある。
その時代の人々の生活を想像できる、いい説明ですね。

穴の中は、2人くらいなら生活できそう。

この穴には、亡くなった人を置く場所がある。
壁にいたずら書き。 もっとひどい穴もあった。
この辺りの岩も凝灰岩。 火山灰で出来ているので、軟い。

穴の形は、色々。 普段は、ふたをしており、追加して入れることもあった。
土に埋めたら土になって消えるので、それがいやだったのか。
この時代には、もう鉄の工具があったようですね。


石の他に、金属も。

正岡子規の歌があった。 明治24年に来ている。
「神の代は かくやありけん 冬籠(ふゆごもり)」
コロポックル説の時代なので、こんな歌が生まれてしまった。

こんな土偶が出てきた。 隣は、発掘の時、半分埋まっている写真。


航空写真。 左の○に吉見百穴。 真ん中の山に松山城跡。 武田軍もこの城を攻めに来ている。
この辺りは、こんな低い山(丘)があるが、そろそろお終い。
吉見町を過ぎたら、広い関東平野の始まり。

吉見町の案内を見て、近くに三重塔があるのが分かった。 場所は吉見観音(安楽寺)。
人が訪れるのか、お土産屋さんが1軒。

仁王様がお出迎え。
※ 仁王門と仁王像(金剛力士像)は、平成8年から3年かけて、解体修理を行った。
費用は、7000万円とあった。 大変な額。

本堂も三重塔も、江戸時代のものと説明にある。


本堂。

八起地蔵尊とあった。 大きな案内があったので、本堂の裏に見に行った。
※ この地方独特の地蔵のようだが、それ以外は、分からない。 説明の写真が失敗。

三重塔。

高さ17.6㍍。 小さい。
※ 室生寺五重塔は16㍍。 それより少し大きい。
基壇と呼ばれる、塔の下の台がないという。 ※ あるようにみえるが。
中心の柱を支えているのは、1階の梁(はり)だという。 下までないと云うことか。

※ 源頼朝の弟に、源範頼(のりより)がいる。 平家滅亡のために活躍した。
頼朝が富士山でタカ狩りをしていた時、曽我兄弟の仇討の事件があった。
この事件の直後、しばらくの間鎌倉では頼朝の消息を確認することができなかった。
頼朝の安否を心配する妻政子に対して、巻狩に参加せず鎌倉に残っていた弟源範頼が
「範頼が控えておりますので(ご安心ください)」と見舞いの言葉を送った。
この言質が謀反の疑いと取られ、範頼は伊豆修善寺に幽閉され、のちに自害したと伝えられている。(Wikipedia)
ところが、範頼はこの寺に隠れ住んだと云う説がある。 住んだ場所と言われる所もある。
範頼は、もともとこの地方を領地にしていた。
範頼の子供は助かり、その子孫が、吉見氏として続いた。 吉見町の名前は、ここから。
道の駅は、すぐ近く。 陶器市をやっていた。 かわいい鬼がいた。

最近、ガソリンが安くなってきた。 軽油が110円を切ったのを、久しぶりに見た。
安くなると助かる。

川越市に近い道の駅に来た。
近くに何かないかと探したら、今日のがあった。
コロポックルがいた方が、夢があっていい。
でも、遺跡の研究は進んでいるから、もう戻らないでしょうね。
【道の駅】 いちごの里よしみ
印の所は、吉見百穴
【明日の予定】 川越市 ※ 駐車場がはっきりしない。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

【ランキング】 国内旅行は7位、 旅行全体で19位です。 放浪の旅は30位。
記事は役立ったでしょうか。
気に入った所などがありましたら、クリックをよろしく。
※ クリックするバナーは、下のです。

※ 1回のクリックで、10ポイント。 1週間生きます。
武田信玄は、軍師を採用する際に、こう聞いた。
「占いは足利にて伝授か?」と。
軍師には、占いと兵法が必要だった。
足利学校で易学を学ぶことは、一人前と認められることに、つながった。
※ 武田の軍師 山本勘助が学んだかどうかは、分からない。
ある物語では、学んでいるが。
渡良瀬橋の袂で、森高千里の曲「渡良瀬橋」が、夕日の中で爽やかに流れた。
☆ ☆ ☆ ☆
足利市は、栃木県の南西部。 群馬県との県境に近い。
車は、河川敷の駐車場に置いて歩いた。
正面が、足利学校。 門は、学校門。 學校と書いてある。 入館料400円。
孔子廟。 この学校では、孔子の儒学を学んだ。 ※ 門もこの建物も、江戸時代の初めのもの。
孔子像。
手前が方丈で、ここで学んだ。 向こうは庫裡(くり)で、台所。
庫裡から入った。
方丈。 寺小屋という感じでない。
宥坐之器(ゆうざのき)。
最初少し傾いている。 水を丁度良く入れると、真っ直ぐに。 入れ過ぎると、ひっくり返る。
これで、教訓を学ぶ。
この人も、ひっくり返るまで水を入れてみた。
正面、木の向こうに、遺跡図書館がある。 大正時代の建物。
玄関から入った時、ここは入室禁止、ここも禁止と続いた。 どこに入れるんだと、他の客と顔を見合わせた。
100人くらいは、座れそう。
右は、仏殿と、徳川家の位牌。
見える建物は、さっきの孔子廟。 庫裡の後ろに、書院があって、そこから。
吉田松陰と高杉晋作も来たと。
吉田松陰が来たのは、1852年4月3日とあった。
以前のブログに書いた、吉田松陰が、秋田と青森県の間にある矢立峠を通ったのは、同じ年の2月29日。
それで、東北からの帰りに寄ったと分かる。
上杉憲実(のりざね)。 足利学校の、中興の祖とあった。
※ 上の像の本物は、新潟県の雲洞庵にある。
大河ドラマで、直江兼続が幼少時代、「わしはこんなとこ来とうはなかった!」 と言った寺。
下の門は、裏門。 普段は、ここを使ったと云う。 袖塀と云う塀がある。 珍しい。
全体が、ここからやっと。
足利学校で出て、まちなか遊学館に入った。
織物の機械と、夢二の絵ハガキ。 足利は、かつて、織物が盛んだった。
ばん阿(な)寺に向かっている。 近い。
この町は、私があまり良く言わない、相田みつをの出身地だった。
足利尊氏の像。
足利市が、足利氏発祥の地と聞いていたが、そのことは、足利学校では分からなく、気になっていた。
下の家系図に、源義康がいる。 この人が、この地で、足利義康を名乗る。
義康の数代後に、足利尊氏が生まれる。 そうして、金閣寺の義満や銀閣寺の義政につながる。
確かに、足利氏発祥の地だった。 やっと分かった。 源氏の流れだった。
ばん阿寺の境内は広く、ここは、かつて足利氏の館(やかた)だった。
※ 城跡とも考えられ、日本100名城(15番)に選定されている。
イチョウの大木。 建物は、多宝塔。
本堂。 寺の説明では、1196年建立とあった。 Wikipediaでは、1299年。
いずれにしても古い。
機械で、獅子が舞っていた。 びんづるさんかな。
道は、四方にある。 戦いに備えてか。
経堂。 帽子をかぶった、地蔵さん。
境内は木が育っていて、この場所からだけ、全体が撮れた。
街の中の道を歩いて、交番で聞いて、やっとここに来た。 渡良瀬橋。
川は、もちろん、渡良瀬川。 いい名前。
歌碑があった。 ボタンを押したら曲が流れた。 ※ 音が小さかったので、動画は無理だった。
※ この歌が生まれた経緯は、Wikipedisに、こうあった。
森高が1993年に新曲をリリースする際、特にイメージが沸かず困っていた頃、橋の詞を作ることにし
地図を広げ「言葉の響きの美しい川や橋」を探し、「渡良瀬川」という文字が気に入った。
森高は1989年に足利工業大学でライブを行っており、大学のある足利市内に渡良瀬橋という橋がある
ことが分かった。
その後、現地に再訪して橋の周辺を散策、そのイメージを使って詞を書いた。
城之内早苗も歌っている。
歌ってる通り、夕日も、夕日に照らされた町も、きれいだった。
急に渡ると分かって、曲は間に合わなかった。
渡良瀬川は鉱毒で苦しんだけど、渡良瀬橋の歌によって、少し助けられたでしょうか。
東京に近づいてきたので、何もかも、込み入ってきた。
川越市に行ったら、すぐ脱出する。
【その他~ダルビッシュの一言】
野球のドラフトで、巨人入りを希望していた管野を、日ハムが交渉権を手に入れた。
マスコミは、1位指名した日ハムを「空気が読めない日ハム」と書いた。
世論が、その言葉に流されそうになった。
その時、ダルビッシュが、ひとこと言った。
『そもそも、そんな「空気」あったらいけないですよね。 全ての人、球団に平等であるべき』と。
空気が再び変わった。
管野がもし日ハムに入ったら、ダルビッシュの一言が、大きな影響を与えたことになる。
ダルビッシュの言うことは面白いし、重い。
※ 話しが少しそれて、
城之内早苗のおじいちゃんと、元巨人の城之内投手は、兄弟。
投手の後、スカウトをやった。 若き日の落合を入団させたのは、彼。
【道の駅】 めぬま ※ 群馬県を通り越して、埼玉県に入った。
【明日の予定】 川越市を考えているが、明日は無理かな。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
【ランキング】 国内旅行は8位、 旅行全体で20位です。 放浪の旅は43位。
記事は役立ったでしょうか。
気に入った所などがありましたら、クリックをよろしく。
※ クリックするバナーは、下のです。
※ 1回のクリックで、10ポイント。 1週間生きます。
「占いは足利にて伝授か?」と。
軍師には、占いと兵法が必要だった。
足利学校で易学を学ぶことは、一人前と認められることに、つながった。
※ 武田の軍師 山本勘助が学んだかどうかは、分からない。
ある物語では、学んでいるが。
渡良瀬橋の袂で、森高千里の曲「渡良瀬橋」が、夕日の中で爽やかに流れた。
☆ ☆ ☆ ☆
足利市は、栃木県の南西部。 群馬県との県境に近い。
車は、河川敷の駐車場に置いて歩いた。
正面が、足利学校。 門は、学校門。 學校と書いてある。 入館料400円。

孔子廟。 この学校では、孔子の儒学を学んだ。 ※ 門もこの建物も、江戸時代の初めのもの。

孔子像。


手前が方丈で、ここで学んだ。 向こうは庫裡(くり)で、台所。

庫裡から入った。

方丈。 寺小屋という感じでない。

宥坐之器(ゆうざのき)。
最初少し傾いている。 水を丁度良く入れると、真っ直ぐに。 入れ過ぎると、ひっくり返る。
これで、教訓を学ぶ。
この人も、ひっくり返るまで水を入れてみた。

正面、木の向こうに、遺跡図書館がある。 大正時代の建物。
玄関から入った時、ここは入室禁止、ここも禁止と続いた。 どこに入れるんだと、他の客と顔を見合わせた。

100人くらいは、座れそう。

右は、仏殿と、徳川家の位牌。


見える建物は、さっきの孔子廟。 庫裡の後ろに、書院があって、そこから。

吉田松陰と高杉晋作も来たと。
吉田松陰が来たのは、1852年4月3日とあった。
以前のブログに書いた、吉田松陰が、秋田と青森県の間にある矢立峠を通ったのは、同じ年の2月29日。
それで、東北からの帰りに寄ったと分かる。

上杉憲実(のりざね)。 足利学校の、中興の祖とあった。

※ 上の像の本物は、新潟県の雲洞庵にある。
大河ドラマで、直江兼続が幼少時代、「わしはこんなとこ来とうはなかった!」 と言った寺。
下の門は、裏門。 普段は、ここを使ったと云う。 袖塀と云う塀がある。 珍しい。

全体が、ここからやっと。

足利学校で出て、まちなか遊学館に入った。
織物の機械と、夢二の絵ハガキ。 足利は、かつて、織物が盛んだった。


ばん阿(な)寺に向かっている。 近い。

この町は、私があまり良く言わない、相田みつをの出身地だった。

足利尊氏の像。
足利市が、足利氏発祥の地と聞いていたが、そのことは、足利学校では分からなく、気になっていた。

下の家系図に、源義康がいる。 この人が、この地で、足利義康を名乗る。

義康の数代後に、足利尊氏が生まれる。 そうして、金閣寺の義満や銀閣寺の義政につながる。
確かに、足利氏発祥の地だった。 やっと分かった。 源氏の流れだった。

ばん阿寺の境内は広く、ここは、かつて足利氏の館(やかた)だった。
※ 城跡とも考えられ、日本100名城(15番)に選定されている。

イチョウの大木。 建物は、多宝塔。

本堂。 寺の説明では、1196年建立とあった。 Wikipediaでは、1299年。
いずれにしても古い。

機械で、獅子が舞っていた。 びんづるさんかな。


道は、四方にある。 戦いに備えてか。

経堂。 帽子をかぶった、地蔵さん。


境内は木が育っていて、この場所からだけ、全体が撮れた。

街の中の道を歩いて、交番で聞いて、やっとここに来た。 渡良瀬橋。

川は、もちろん、渡良瀬川。 いい名前。


歌碑があった。 ボタンを押したら曲が流れた。 ※ 音が小さかったので、動画は無理だった。


※ この歌が生まれた経緯は、Wikipedisに、こうあった。
森高が1993年に新曲をリリースする際、特にイメージが沸かず困っていた頃、橋の詞を作ることにし
地図を広げ「言葉の響きの美しい川や橋」を探し、「渡良瀬川」という文字が気に入った。
森高は1989年に足利工業大学でライブを行っており、大学のある足利市内に渡良瀬橋という橋がある
ことが分かった。
その後、現地に再訪して橋の周辺を散策、そのイメージを使って詞を書いた。
城之内早苗も歌っている。
歌ってる通り、夕日も、夕日に照らされた町も、きれいだった。

急に渡ると分かって、曲は間に合わなかった。
渡良瀬川は鉱毒で苦しんだけど、渡良瀬橋の歌によって、少し助けられたでしょうか。
東京に近づいてきたので、何もかも、込み入ってきた。
川越市に行ったら、すぐ脱出する。
【その他~ダルビッシュの一言】
野球のドラフトで、巨人入りを希望していた管野を、日ハムが交渉権を手に入れた。
マスコミは、1位指名した日ハムを「空気が読めない日ハム」と書いた。
世論が、その言葉に流されそうになった。
その時、ダルビッシュが、ひとこと言った。
『そもそも、そんな「空気」あったらいけないですよね。 全ての人、球団に平等であるべき』と。
空気が再び変わった。
管野がもし日ハムに入ったら、ダルビッシュの一言が、大きな影響を与えたことになる。
ダルビッシュの言うことは面白いし、重い。
※ 話しが少しそれて、
城之内早苗のおじいちゃんと、元巨人の城之内投手は、兄弟。
投手の後、スカウトをやった。 若き日の落合を入団させたのは、彼。
【道の駅】 めぬま ※ 群馬県を通り越して、埼玉県に入った。
【明日の予定】 川越市を考えているが、明日は無理かな。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

【ランキング】 国内旅行は8位、 旅行全体で20位です。 放浪の旅は43位。
記事は役立ったでしょうか。
気に入った所などがありましたら、クリックをよろしく。
※ クリックするバナーは、下のです。

※ 1回のクリックで、10ポイント。 1週間生きます。
谷中(やなか)湖を含む一帯は、渡良瀬遊水地となっていた。
※ この場所は、足尾鉱毒事件による鉱毒を沈殿させることを目的に、渡良瀬川下流に作られた。
遊水池である谷中湖が中心。
谷中村があった跡が、一部残っていた。
※ ※ ※ ※
道の駅にある建物の、屋上から撮影。
赤○が道の駅。 黄色の○が、谷中村の跡。 ピンクの橋まで、自転車で行く。
右に、渡良瀬川が流れている。
谷中村跡の北に、展望台がある。 そこから撮影。 谷中湖が見えている。
写真の左方面に、役場跡とかがある。
広く公園になっていた。 憩いの場、と云う感じ。 小学生や中学生も来ていた。
自転車で散策していたら、釣りをしている人がいた。 遊水地(谷中湖)には、釣りで来る人も多い。
コイの子供。 持って帰って、近くの池に放すと云う。 ここの来れない時は、そこで釣る。
遊水地は3つに仕切られていて、この道は、仕切っている道。 向こうに行く。
上の地図の、北橋。
この後、谷中村の痕跡探し。 ここに、役場があった。 でも、標示はあっても、何もない。
消えかけた地図があった。 黄色の○が、役場跡。
この後、神社とかの場所が分かる。
「谷中村遺跡を守る会」が、昔の歴史を残そうとしていた。
この後、村の痕跡を探したが、見つけられない。
環境整備をしている人たちが、昼休みで集まっていたので、聞いた。
親切に教えてくれた。
砂利の細い道を、しばらく行ったら、それらしい場所に出た。
左に、神社跡。
高くなっていて、上はこう。 標示はあるが、あったのは、石が1個。
昔は、右の写真の神社があった。 谷中村雷電神社。
田中正造は、何度もここに来ている。 村の人達と、ここで話し合った。
ここが墓地。 右には延命院というお寺があった。 今は、何もないが。
その寺にあった鐘。 この後行く、藤岡町歴史民俗資料館で、撮影。
遺跡を守るために、陳情が必要だったことが分かる。
墓石。 江戸時代のも多い。
十九夜供養とある。 初めて見る。 Wikipediaには、こうあった。
※ 月待行事とは、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、
「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、
悪霊を追い払うという宗教行事である。
十九夜供養塔は、関東地方に少し見られるだけのよう。 少ない。
何を怒っているのか。
この地蔵さんは、村が無くなったことを知っているのか。
天和元年は、1681年のこと。 古いですね。
この後、藤岡町歴史民俗資料館に向かった。
田中正造に関する資料は、ネット上にいくらでもある。
知りたかったのは、谷中村の人たちの動き。
特に、北海道に移住した人たちのこと。 佐呂間町栃木に。
資料館で、下の写真のが目に入った。 石塚倉子と云う人。
※ 調べてみたら、代表作に、下のようなのが。
もしかしたら、この人に、光が当たる時が来るかもしれませんよ。
※ 詳しくは、ここに。
田中正造。
右の写真は、大洪水の視察とある。
谷中村は、洪水はもともとあった。
でも、足尾銅山が出来て山の木が無くなったため、洪水の規模が大きくなった。
※ 銅山では、精錬のため、大量の燃料がいる。
議会での質問書。 正造は、衆議院議員になっている。
田中正造の衣類など。
読みは、左下に。 意味を調べたが、分からない。
洪水の時の、谷中村。 その時代の、人の表情のある写真は、貴重ですね。 屋根の上にも一人。
強硬破壊に用いた木槌とある。 よく残してあったもんです。
資料館では、谷中村の人たちの動きについての資料を見せてくれた。
それを、写真に撮らせてもらった。 旧谷中村関連資料調査報告書。
※ これについては、以前読んだことがあった。
3年程前、藤岡町のホームページに載っていたような気がした。
資料館の人の話では、栃木市と合併したため、今は載っていないと言った。(HPを整理中か)
上の報告書以外もあったように思う。
その時、HPをもとに書いたのが、以前のブログに書いた、下の内容。(他もあるが)
上の内容以上のことは、分からなかった。
※ 明治44年4月出発とあるが、この時はまだ、旭川から北見まで石北線は通っていない。
開通は、この年の秋。
陸別を通ったと云うことは、帯広まわりで行っている。
当時開通しているのは、旭川まで行って、富良野線に乗れば、列車で帯広まで行けた。
そこから先、どうやって行ったのだろう。
かなりの部分は、きっと歩いた。
留辺蘂まで行ったら、ひと山越えて、栃木と名前をつけた、その地になる。
※ 栃木団体と云う名前で、開拓に入っていた。
※ 私のおじいちゃんは、秋田団体の一員として、同じ時代に、留辺蘂の少し南に入っている。
栃木は、留辺蘂の少し北。
※ 北海道に開拓に入った人達は、どこも、同じような苦労をした。
※ 2009年2月の、佐呂間町栃木。 今年の夏近くを通ったので、動画を撮れば良かった。 忘れなければ、来年。
歴史民俗資料館の外にあった、田中正造の像。 谷中村があった方を見ている。
この川が、渡良瀬川。 この下流に谷中湖がある。
調べるだけの十分な時間はなかったけど、谷中村跡を見られたことがよかったかな。
パンフレットや、案内板などの文章の表現は、下のように。
「渡良瀬川遊水地は、旧谷中村民の移住問題等、人々の大きな犠牲のもとにつくられました」
時代が変わった今、行政を含めた地域の人々全体の意識は、苦労した人々の側に立っているように感じた。
それを知って、少し安心したでしょうか。
【道の駅】 みかも
【明日の予定】 足利市 足利学校とか
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
【ランキング】 国内旅行は7位、 旅行全体で17位です。 放浪の旅が、32位でした。
記事は役立ったでしょうか。
気に入った所などがありましたら、クリックをよろしく。
※ クリックするバナーは、下のです。
※ 1回のクリックで、10ポイント。 1週間生きます。
※ この場所は、足尾鉱毒事件による鉱毒を沈殿させることを目的に、渡良瀬川下流に作られた。
遊水池である谷中湖が中心。
谷中村があった跡が、一部残っていた。
※ ※ ※ ※
道の駅にある建物の、屋上から撮影。

赤○が道の駅。 黄色の○が、谷中村の跡。 ピンクの橋まで、自転車で行く。

右に、渡良瀬川が流れている。
谷中村跡の北に、展望台がある。 そこから撮影。 谷中湖が見えている。
写真の左方面に、役場跡とかがある。

広く公園になっていた。 憩いの場、と云う感じ。 小学生や中学生も来ていた。

自転車で散策していたら、釣りをしている人がいた。 遊水地(谷中湖)には、釣りで来る人も多い。

コイの子供。 持って帰って、近くの池に放すと云う。 ここの来れない時は、そこで釣る。

遊水地は3つに仕切られていて、この道は、仕切っている道。 向こうに行く。

上の地図の、北橋。

この後、谷中村の痕跡探し。 ここに、役場があった。 でも、標示はあっても、何もない。

消えかけた地図があった。 黄色の○が、役場跡。
この後、神社とかの場所が分かる。

「谷中村遺跡を守る会」が、昔の歴史を残そうとしていた。

この後、村の痕跡を探したが、見つけられない。
環境整備をしている人たちが、昼休みで集まっていたので、聞いた。
親切に教えてくれた。
砂利の細い道を、しばらく行ったら、それらしい場所に出た。
左に、神社跡。

高くなっていて、上はこう。 標示はあるが、あったのは、石が1個。
昔は、右の写真の神社があった。 谷中村雷電神社。
田中正造は、何度もここに来ている。 村の人達と、ここで話し合った。


ここが墓地。 右には延命院というお寺があった。 今は、何もないが。

その寺にあった鐘。 この後行く、藤岡町歴史民俗資料館で、撮影。

遺跡を守るために、陳情が必要だったことが分かる。

墓石。 江戸時代のも多い。

十九夜供養とある。 初めて見る。 Wikipediaには、こうあった。
※ 月待行事とは、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、
「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、
悪霊を追い払うという宗教行事である。
十九夜供養塔は、関東地方に少し見られるだけのよう。 少ない。

何を怒っているのか。


この地蔵さんは、村が無くなったことを知っているのか。
天和元年は、1681年のこと。 古いですね。

この後、藤岡町歴史民俗資料館に向かった。
田中正造に関する資料は、ネット上にいくらでもある。
知りたかったのは、谷中村の人たちの動き。
特に、北海道に移住した人たちのこと。 佐呂間町栃木に。
資料館で、下の写真のが目に入った。 石塚倉子と云う人。

※ 調べてみたら、代表作に、下のようなのが。
もしかしたら、この人に、光が当たる時が来るかもしれませんよ。

※ 詳しくは、ここに。
田中正造。

右の写真は、大洪水の視察とある。
谷中村は、洪水はもともとあった。
でも、足尾銅山が出来て山の木が無くなったため、洪水の規模が大きくなった。
※ 銅山では、精錬のため、大量の燃料がいる。

議会での質問書。 正造は、衆議院議員になっている。

田中正造の衣類など。

読みは、左下に。 意味を調べたが、分からない。

洪水の時の、谷中村。 その時代の、人の表情のある写真は、貴重ですね。 屋根の上にも一人。


強硬破壊に用いた木槌とある。 よく残してあったもんです。

資料館では、谷中村の人たちの動きについての資料を見せてくれた。
それを、写真に撮らせてもらった。 旧谷中村関連資料調査報告書。
※ これについては、以前読んだことがあった。
3年程前、藤岡町のホームページに載っていたような気がした。
資料館の人の話では、栃木市と合併したため、今は載っていないと言った。(HPを整理中か)
上の報告書以外もあったように思う。
その時、HPをもとに書いたのが、以前のブログに書いた、下の内容。(他もあるが)

上の内容以上のことは、分からなかった。
※ 明治44年4月出発とあるが、この時はまだ、旭川から北見まで石北線は通っていない。
開通は、この年の秋。
陸別を通ったと云うことは、帯広まわりで行っている。
当時開通しているのは、旭川まで行って、富良野線に乗れば、列車で帯広まで行けた。
そこから先、どうやって行ったのだろう。
かなりの部分は、きっと歩いた。
留辺蘂まで行ったら、ひと山越えて、栃木と名前をつけた、その地になる。
※ 栃木団体と云う名前で、開拓に入っていた。
※ 私のおじいちゃんは、秋田団体の一員として、同じ時代に、留辺蘂の少し南に入っている。
栃木は、留辺蘂の少し北。
※ 北海道に開拓に入った人達は、どこも、同じような苦労をした。
※ 2009年2月の、佐呂間町栃木。 今年の夏近くを通ったので、動画を撮れば良かった。 忘れなければ、来年。

歴史民俗資料館の外にあった、田中正造の像。 谷中村があった方を見ている。

この川が、渡良瀬川。 この下流に谷中湖がある。
調べるだけの十分な時間はなかったけど、谷中村跡を見られたことがよかったかな。
パンフレットや、案内板などの文章の表現は、下のように。
「渡良瀬川遊水地は、旧谷中村民の移住問題等、人々の大きな犠牲のもとにつくられました」
時代が変わった今、行政を含めた地域の人々全体の意識は、苦労した人々の側に立っているように感じた。
それを知って、少し安心したでしょうか。
【道の駅】 みかも
【明日の予定】 足利市 足利学校とか
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

【ランキング】 国内旅行は7位、 旅行全体で17位です。 放浪の旅が、32位でした。
記事は役立ったでしょうか。
気に入った所などがありましたら、クリックをよろしく。
※ クリックするバナーは、下のです。

※ 1回のクリックで、10ポイント。 1週間生きます。
巴波川(うずまがわ)を中心に、蔵の街並みはあった。
倉敷を、少し規模を小さくした感じでしょうか。
日光街道にあるのかと思ったら、そうではなく、日光から中山道への道にあった。
名前は、日光例幣使街道(にっこう れいへいし かいどう)。
初めて聞く名前。
☆ ☆ ☆ ☆
栃木市は、宇都宮の左下。 さらに、左下に、ラーメンの佐野市がある。
駐車場で地図をいただいた。
見所は、川沿いと聞いたので、その中心の幸来橋に向かった。
バスの後ろが、橋。
巴波川。 うずま川と読む。 向こうに歩く。
橋から、すこし来た。
足利市は、吉屋信子と云う人の、育った町だった。
ここに書いてある通り、もし、この川が無かったら、変化のない街かな。
江戸時代から、この川を利用して、物を運んだとある。
上りは、舟を引っ張ったと。
小さな広場になっていて、彼女の記念碑があった。
吉屋信子の本は読んだことないが、「徳川の夫人たち」や「女人平家」の作者。
石碑には、「秋灯 机の上の 幾山河 信子」とあった。
戻って、橋の上流に歩いた。 左に古い家並みが続いた。
上流側から撮影。 古い建物は、塚田歴史伝説館になっている。
川は、魚でいっぱい。
この辺りは、うずま公園。 トイレも電話ボックスも、蔵のデザイン。
遠くの橋は、幸来橋。
コロリ、が面白い。
少し戻った。 この後、適当な道を歩き出した。
ガーデン喫茶、巴波(うずま)の小歴(これき)とあった。 いい雰囲気です。
銭湯が見えた。 調べたら、明治22年創業、薪焚きの銭湯とあった。
上の銭湯では、金魚を見ながら湯船に入れると、情報誌にあった。
こんな風に。(玉川の湯のHPから)
歩いていたら、こんな宣伝。 「ハリウッドの歴史はコダックの歴史」
ビビアン・りーとマリリン・モンロー。
ビビアン・リーは、先日「蛍の光」で紹介しました。 好きな曲なので、再度。
いい表情です。 ※ 『哀愁』 - Waterloo Bridge (1940)
※ 最近、運転しながら、手仕事屋きち兵衛さんを聞いている。
今日も聞いた。 「ねがい星」と云う曲の3番を聞いている時、ビビアン・リーを思い出した。
この人は、激しい恋をした。 待つのではなく、攻めの恋。
ねがい星の3番は、反対の恋。 こんな歌詞。
サラサラ流れるあの川に
私を流してみましょうか
もしも あなたと結ばれる
運命(さだめ)ができているのなら
あなたは優しく つかまえてくれるでしょう
サラサラ流れるあの川に
私を流してみましょうか
ここで聞くことが出来ます。
ビビアン・りーの恋は、ここに書かさってます。
再度、下流の方に歩いた。
船頭さんは、何か、歌を歌っていた。
善の家土蔵。 美術館に利用している。
この建物は、「おたすけ蔵」とも呼ばれ、多くの人を助けた歴史がある、と説明にあった。
小さな病院と、最初思った。 万年筆の病院だった。
「文字をしたためる」という表現があるが、これは、ボールペンでは無理。
石段を水が流れている。 歩いてもいいのか?
栃木市役所別館を見に行った。 水色の建物。
玄関前。
こんな説明があった。 これが気になって、全体の写真を撮り忘れた。
三島 通庸(みしま みちつね)と云う人の、判断とある。
調べてみたら、この政治家は、庶民のことは、全く考えていませんでしたね。
県庁は栃木にあったんだが、この町は自由民権運動が盛んだった。
それで、三島は栃木を嫌って、宇都宮に移した。
※ 加波山事件というのがあったんですが、これは、三島の暗殺を企てた事件だった。
初めて知りました。 田中正造も逮捕されている。
秩父事件と、同じような時代かな。
事務所に、雛人形があった。(街の、あっちこっちで、飾っている)
綱で船を引っ張ったので、この名前。
山本有三ふるさと記念館。 この人は、路傍の石の作者。
※ 生家が、この建物の左にあった。 今は、別の建物。
とちぎ蔵の街観光館。 後ろに長く、建物が続いている。 この中で、食事した。
こんなお店。 ※ ここで食べると、駐車料金が無料になる。 だから、食べた。
私が育った、美瑛のソバだった。 ご飯は、海老ドン。 どっちも、美味しかった。
※ 後で知ったが、このお店は、評判のいいお店だった。
お店の前と、蔵の中。 真ん中の木が、大きすぎる。 蔵に物を仕舞ったら、お蔵入り。
立派な神社ではないが、栃木のお伊勢さま。
蔵でない所も、蔵の雰囲気。
昔ながらの建物。 中身は、今風。
のんびり時間を忘れて散歩するのが、似合う。 そんな街でした。
※ 日光例幣使街道について。 途中、こんな標示があった。
Wikipediaの説明では、こうでした。
○ 東照宮に幣帛を奉献するための、勅使(日光例幣使)が通った道。
幣帛(へいはく)は、神社で、神前に奉献するものの総称。
勅使(ちょくし)は、天皇の使い。
○ 京都をスタートし、中山道を通って、日光例幣使街道に入る。
○ 家康が亡くなった後の1647年から、江戸時代最後の年の1867まで続いた。
そう云うことでした。 家康の存在は、大きいと云うことですね。
【関連ブログ】 水のある町並みをいくつか。
水郷佐原の大人形山車 小野川沿いの古い町並み ~香取市佐原~ 他 (2010/7/9)
水郷柳川 さげもんまつり 北原白秋 山頭火 ~福岡県柳川市~ 他 (2010/3/7)
倉敷 美観地区を歩く 大原美術館 ~倉敷市~ 他 (2010/12/11)
【道の駅】 きたかわべ
※ 目的地に来ています。
そばには、渡良瀬遊水地。 ここには、昔、谷中村があった。
足尾銅山の鉱毒で、畑が作れなくなった。
多くの人が、北海道のオホーツクの山の中に、開拓に入った。
そこの地名は、佐呂間町 栃木。
※ 関連ブログ 足尾銅山鉱毒事件 と 佐呂間町栃木 他 (1月30日)
【明日の予定】 色々歩いて、調べます。 何があって、どうなったのか。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
【ランキング】 国内旅行は6位、 旅行全体で15位です。 放浪の旅が、45位でした。
記事は役立ったでしょうか。
気に入った所などがありましたら、クリックをよろしく。
※ クリックするバナーは、下のです。
※ 1回のクリックで、10ポイント。 1週間生きます。
倉敷を、少し規模を小さくした感じでしょうか。
日光街道にあるのかと思ったら、そうではなく、日光から中山道への道にあった。
名前は、日光例幣使街道(にっこう れいへいし かいどう)。
初めて聞く名前。
☆ ☆ ☆ ☆
栃木市は、宇都宮の左下。 さらに、左下に、ラーメンの佐野市がある。
駐車場で地図をいただいた。
見所は、川沿いと聞いたので、その中心の幸来橋に向かった。
バスの後ろが、橋。

巴波川。 うずま川と読む。 向こうに歩く。

橋から、すこし来た。
足利市は、吉屋信子と云う人の、育った町だった。
ここに書いてある通り、もし、この川が無かったら、変化のない街かな。

江戸時代から、この川を利用して、物を運んだとある。
上りは、舟を引っ張ったと。

小さな広場になっていて、彼女の記念碑があった。
吉屋信子の本は読んだことないが、「徳川の夫人たち」や「女人平家」の作者。
石碑には、「秋灯 机の上の 幾山河 信子」とあった。


戻って、橋の上流に歩いた。 左に古い家並みが続いた。

上流側から撮影。 古い建物は、塚田歴史伝説館になっている。

川は、魚でいっぱい。

この辺りは、うずま公園。 トイレも電話ボックスも、蔵のデザイン。

遠くの橋は、幸来橋。

コロリ、が面白い。

少し戻った。 この後、適当な道を歩き出した。

ガーデン喫茶、巴波(うずま)の小歴(これき)とあった。 いい雰囲気です。

銭湯が見えた。 調べたら、明治22年創業、薪焚きの銭湯とあった。

上の銭湯では、金魚を見ながら湯船に入れると、情報誌にあった。
こんな風に。(玉川の湯のHPから)

歩いていたら、こんな宣伝。 「ハリウッドの歴史はコダックの歴史」
ビビアン・りーとマリリン・モンロー。

ビビアン・リーは、先日「蛍の光」で紹介しました。 好きな曲なので、再度。
いい表情です。 ※ 『哀愁』 - Waterloo Bridge (1940)
※ 最近、運転しながら、手仕事屋きち兵衛さんを聞いている。
今日も聞いた。 「ねがい星」と云う曲の3番を聞いている時、ビビアン・リーを思い出した。
この人は、激しい恋をした。 待つのではなく、攻めの恋。
ねがい星の3番は、反対の恋。 こんな歌詞。
サラサラ流れるあの川に
私を流してみましょうか
もしも あなたと結ばれる
運命(さだめ)ができているのなら
あなたは優しく つかまえてくれるでしょう
サラサラ流れるあの川に
私を流してみましょうか
ここで聞くことが出来ます。
ビビアン・りーの恋は、ここに書かさってます。
再度、下流の方に歩いた。
船頭さんは、何か、歌を歌っていた。


善の家土蔵。 美術館に利用している。
この建物は、「おたすけ蔵」とも呼ばれ、多くの人を助けた歴史がある、と説明にあった。

小さな病院と、最初思った。 万年筆の病院だった。
「文字をしたためる」という表現があるが、これは、ボールペンでは無理。

石段を水が流れている。 歩いてもいいのか?

栃木市役所別館を見に行った。 水色の建物。

玄関前。

こんな説明があった。 これが気になって、全体の写真を撮り忘れた。


三島 通庸(みしま みちつね)と云う人の、判断とある。
調べてみたら、この政治家は、庶民のことは、全く考えていませんでしたね。
県庁は栃木にあったんだが、この町は自由民権運動が盛んだった。
それで、三島は栃木を嫌って、宇都宮に移した。
※ 加波山事件というのがあったんですが、これは、三島の暗殺を企てた事件だった。
初めて知りました。 田中正造も逮捕されている。
秩父事件と、同じような時代かな。
事務所に、雛人形があった。(街の、あっちこっちで、飾っている)

綱で船を引っ張ったので、この名前。

山本有三ふるさと記念館。 この人は、路傍の石の作者。
※ 生家が、この建物の左にあった。 今は、別の建物。

とちぎ蔵の街観光館。 後ろに長く、建物が続いている。 この中で、食事した。

こんなお店。 ※ ここで食べると、駐車料金が無料になる。 だから、食べた。

私が育った、美瑛のソバだった。 ご飯は、海老ドン。 どっちも、美味しかった。
※ 後で知ったが、このお店は、評判のいいお店だった。


お店の前と、蔵の中。 真ん中の木が、大きすぎる。 蔵に物を仕舞ったら、お蔵入り。


立派な神社ではないが、栃木のお伊勢さま。


蔵でない所も、蔵の雰囲気。

昔ながらの建物。 中身は、今風。

のんびり時間を忘れて散歩するのが、似合う。 そんな街でした。
※ 日光例幣使街道について。 途中、こんな標示があった。

Wikipediaの説明では、こうでした。
○ 東照宮に幣帛を奉献するための、勅使(日光例幣使)が通った道。
幣帛(へいはく)は、神社で、神前に奉献するものの総称。
勅使(ちょくし)は、天皇の使い。
○ 京都をスタートし、中山道を通って、日光例幣使街道に入る。
○ 家康が亡くなった後の1647年から、江戸時代最後の年の1867まで続いた。
そう云うことでした。 家康の存在は、大きいと云うことですね。
【関連ブログ】 水のある町並みをいくつか。
水郷佐原の大人形山車 小野川沿いの古い町並み ~香取市佐原~ 他 (2010/7/9)
水郷柳川 さげもんまつり 北原白秋 山頭火 ~福岡県柳川市~ 他 (2010/3/7)
倉敷 美観地区を歩く 大原美術館 ~倉敷市~ 他 (2010/12/11)
【道の駅】 きたかわべ
※ 目的地に来ています。
そばには、渡良瀬遊水地。 ここには、昔、谷中村があった。
足尾銅山の鉱毒で、畑が作れなくなった。
多くの人が、北海道のオホーツクの山の中に、開拓に入った。
そこの地名は、佐呂間町 栃木。
※ 関連ブログ 足尾銅山鉱毒事件 と 佐呂間町栃木 他 (1月30日)
【明日の予定】 色々歩いて、調べます。 何があって、どうなったのか。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

【ランキング】 国内旅行は6位、 旅行全体で15位です。 放浪の旅が、45位でした。
記事は役立ったでしょうか。
気に入った所などがありましたら、クリックをよろしく。
※ クリックするバナーは、下のです。

※ 1回のクリックで、10ポイント。 1週間生きます。