明智光秀は、亀山城をスタートし、本能寺に向かった。
私も、本能寺まで歩いてみた。
※ 最終的には、本能寺が当時あった場所まで。
☆ ☆ ☆ ☆
8時出発。 霧の中。 ここは、ガレリアの道の駅の駐車場(裏側)。
亀山城は、右に。 亀岡駅の近く。
保津川沿いの林道を歩いて行く。 ※ 他は、国道しかない。
川は保津川。 沈下橋だった。 四国の四万十川で見た。
危険なので、橋の真ん中を歩いた。 車が来たけど、渡りきるのを待ってくれた。
少し行ったら、集落に出た。
集落に人がいたので話していたら、保津川下りの船が来た。
ライフジャケットなし。 大きな事故が起きるまで、安全面は、どこもこう。
山の上に行く道があった。 明智越えと教えてくれた。
この道は、道が荒れていると、亀岡駅の観光案内所で聞いていた。
ここで教えてくれた人も、一人で行ったら迷うと言った。
※ 明智越えの道は、途中から、私が今日歩く道に合流する。
林道は京都までつながっているので大丈夫と教えてくれた。
光秀が本能寺で信長を討つため、亀山城を出たのは、1582年の6月1日。 夕方。
兵が13000いたので、老の坂の峠だけでは、列が長くなりすぎる。 ※ この峠の道は細かった。
それで、こっちの方の道も使った。
請田(うけた)神社。
保津川。 トロッコ列車の線路が見える。
トロッコ列車がやって来た。 木の向こう。
人が分かる。
JRと両方の線路。
どっちも列車がやって来たらいいなと思っていた。 ぜいたく言うと、どっちも来ない。
※ JRの今の線路が出来る前は、トロッコ列車しかなかった。 観光用ではなく、山陰線の一部。
トロッコ列車に乗らないと、こんなのは見られない。 JRは、ほとんどトンネルの中。
ずっとこんな道を歩いた。(車は通らない)
山の斜面の工事は、こんな風に。(水尾に行く、車道に出ている)
JR保津峡駅。 橋の上がプラットホーム。
道のトンネルのそばには、旧道が残っていた。 車が通れる道幅はない。
トロッコ保津峡駅。
橋の上から。
赤い道を歩いている。
清滝川にかかる橋。 向こうから来た。
上の写真の近くに、芭蕉の歌碑があった。
清滝や波に散り込む青松葉 芭蕉
※ 清滝は、ここから2㌔位上流。
※ 芭蕉は、元禄7(1694)年5月、最後の旅に出る。
京都にもやって来て、落柿舎に寄る。 そこで、下の歌を詠んだ。
清瀧や浪(なみ)にちりなき夏の月
10月9日、大阪に戻って、上の歌を下のように直した。
清滝や波に散り込む青松葉 (つまり、最初の歌)
10月8日に詠んだのが、良く知られている。
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
10月12日に、芭蕉は亡くなる。
小倉山を越える峠に入った。 保津川は、ずっと下になった。
六丁峠。 向こうから来た。 ここまでの距離は、12㌔くらいか。 足は快調。
※ 足の疲れるところは、くるぶしから下。 足の指も。
歩き方に問題があるのか。 つま先で伸びあがるような歩き方をしたくなる。
急にこんな所に出た。 見覚えがあった。 何日か前に、来ていた。
化野念仏寺に近い。
こんな道を通って。
地図の、現在地に着いた。 この後、新丸太町通りを、ずっと進む。
花園駅、円町駅を右に見て。
丸太町通りを、6㌔ほど歩いたら、御所の南西の角が見えてきた。
本能寺まで、あと2㌔程か。
見えてきた。 本能寺は、ビルの谷間にある。
本能寺。 この時、4時10分。 8時間かかった。
※ 光秀軍は、夕方出て、早朝に着いた。
この奥に、信長の墓。
数日前にも来ている。
本能寺で討ち死にした者。 森兄弟の名前がある。
この後、本能寺が光秀に襲われた時にあった場所に、向かった。
堀川高校の裏と聞いていた。 二条城の近く。
今ある本能寺は、右の方の市役所のすぐ下。
堀川高校の正面で、男子生徒に聞いた。
そこまで、連れて行ってくれた。 堀川高本能学者という建物が建っていた。
今は、石碑だけ。
秀吉と信長、信長と家康、家康と秀吉、この3つの関係はどうなっているのだろう。
秀吉は、誰にも信用されていない。 誰も信用しない。
家康は、本能寺の変の後、誰を恐れて岡崎に戻ったんだろう。 秀吉かな、光秀よりも。
今日は、それなりに疲れたけど、どこも痛くならないで歩けた。
それが良かった。 全部で30㌔程。
本能寺の変は、誰が首謀者なのか、分からないことがいっぱいあるようです。
【道の駅】 ガレリアかめおか
【明日の予定】 京都の北にある美山か。 大文字山に登るというのも。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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私も、本能寺まで歩いてみた。
※ 最終的には、本能寺が当時あった場所まで。
☆ ☆ ☆ ☆
8時出発。 霧の中。 ここは、ガレリアの道の駅の駐車場(裏側)。

亀山城は、右に。 亀岡駅の近く。

保津川沿いの林道を歩いて行く。 ※ 他は、国道しかない。
川は保津川。 沈下橋だった。 四国の四万十川で見た。
危険なので、橋の真ん中を歩いた。 車が来たけど、渡りきるのを待ってくれた。

少し行ったら、集落に出た。

集落に人がいたので話していたら、保津川下りの船が来た。
ライフジャケットなし。 大きな事故が起きるまで、安全面は、どこもこう。

山の上に行く道があった。 明智越えと教えてくれた。
この道は、道が荒れていると、亀岡駅の観光案内所で聞いていた。
ここで教えてくれた人も、一人で行ったら迷うと言った。
※ 明智越えの道は、途中から、私が今日歩く道に合流する。
林道は京都までつながっているので大丈夫と教えてくれた。

光秀が本能寺で信長を討つため、亀山城を出たのは、1582年の6月1日。 夕方。
兵が13000いたので、老の坂の峠だけでは、列が長くなりすぎる。 ※ この峠の道は細かった。
それで、こっちの方の道も使った。
請田(うけた)神社。

保津川。 トロッコ列車の線路が見える。

トロッコ列車がやって来た。 木の向こう。

人が分かる。

JRと両方の線路。
どっちも列車がやって来たらいいなと思っていた。 ぜいたく言うと、どっちも来ない。
※ JRの今の線路が出来る前は、トロッコ列車しかなかった。 観光用ではなく、山陰線の一部。

トロッコ列車に乗らないと、こんなのは見られない。 JRは、ほとんどトンネルの中。

ずっとこんな道を歩いた。(車は通らない)

山の斜面の工事は、こんな風に。(水尾に行く、車道に出ている)

JR保津峡駅。 橋の上がプラットホーム。

道のトンネルのそばには、旧道が残っていた。 車が通れる道幅はない。

トロッコ保津峡駅。

橋の上から。

赤い道を歩いている。

清滝川にかかる橋。 向こうから来た。

上の写真の近くに、芭蕉の歌碑があった。
清滝や波に散り込む青松葉 芭蕉
※ 清滝は、ここから2㌔位上流。
※ 芭蕉は、元禄7(1694)年5月、最後の旅に出る。
京都にもやって来て、落柿舎に寄る。 そこで、下の歌を詠んだ。
清瀧や浪(なみ)にちりなき夏の月
10月9日、大阪に戻って、上の歌を下のように直した。
清滝や波に散り込む青松葉 (つまり、最初の歌)
10月8日に詠んだのが、良く知られている。
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
10月12日に、芭蕉は亡くなる。

小倉山を越える峠に入った。 保津川は、ずっと下になった。

六丁峠。 向こうから来た。 ここまでの距離は、12㌔くらいか。 足は快調。
※ 足の疲れるところは、くるぶしから下。 足の指も。
歩き方に問題があるのか。 つま先で伸びあがるような歩き方をしたくなる。

急にこんな所に出た。 見覚えがあった。 何日か前に、来ていた。
化野念仏寺に近い。

こんな道を通って。

地図の、現在地に着いた。 この後、新丸太町通りを、ずっと進む。

花園駅、円町駅を右に見て。


丸太町通りを、6㌔ほど歩いたら、御所の南西の角が見えてきた。
本能寺まで、あと2㌔程か。

見えてきた。 本能寺は、ビルの谷間にある。

本能寺。 この時、4時10分。 8時間かかった。
※ 光秀軍は、夕方出て、早朝に着いた。

この奥に、信長の墓。

数日前にも来ている。

本能寺で討ち死にした者。 森兄弟の名前がある。

この後、本能寺が光秀に襲われた時にあった場所に、向かった。
堀川高校の裏と聞いていた。 二条城の近く。
今ある本能寺は、右の方の市役所のすぐ下。
堀川高校の正面で、男子生徒に聞いた。
そこまで、連れて行ってくれた。 堀川高本能学者という建物が建っていた。
今は、石碑だけ。

秀吉と信長、信長と家康、家康と秀吉、この3つの関係はどうなっているのだろう。
秀吉は、誰にも信用されていない。 誰も信用しない。
家康は、本能寺の変の後、誰を恐れて岡崎に戻ったんだろう。 秀吉かな、光秀よりも。

今日は、それなりに疲れたけど、どこも痛くならないで歩けた。
それが良かった。 全部で30㌔程。
本能寺の変は、誰が首謀者なのか、分からないことがいっぱいあるようです。
【道の駅】 ガレリアかめおか
【明日の予定】 京都の北にある美山か。 大文字山に登るというのも。
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江の父は、浅井長政。 信長に滅ぼされる。
信長の妹である、母の市は、江たち3姉妹を連れて、戦乱の中、小谷城を出る。
浅井長政の戒名は、養源院天英宗清。
今日行ったお寺は、養源院(ようげんいん)
3姉妹の一番上の淀殿が、父を弔って、建てた。
しかし、火事で焼けた。
再建したのは、江。 秀忠の夫人になっていた、1621年のこと。
江の肖像画は、この世に、1枚しか存在しない。
それが、養源院にある。 特別公開中で、見ることが出来た。
大河ドラマで扱ってもらえたせいか、ほんのりと、微笑んでいるように見えた。
☆ ☆ ☆ ☆
東福寺の駅から、歩いた。
新熊野神社(いまくまのじんじゃ)があった。
見てる人がいたので、入ってみた。
巨大なクスノキ。
小さな神社。 平安末期、後白河法皇によって建立。
熊野神社は、京都に3つあるそう。
熊野古道入り口とある。 ミニ熊野古道か。 ※ 木は、今の皇太子が植えたとあった。
去年かな、歩いたのは。 1日20㌔ずつ3日歩いた。 面白い温泉もあっった。
入り口。
左は、滝尻王子。 現地では、滝尻王子という神社があった。 熊野古道の出発点。
右は、発心門王子。 発心門王子の神社は、熊野本宮大社の8㌔程手前にある。
ヤタガラス。 足が3本。
三十三間堂の向かい側に、養源院はあった。 手前の門は、高貴な人専用かな。
血天井とある。
説明。 江は、淀殿の妹とある。 今後は、こういう説明はいらなくなる。 江は江。
参道。 正面に本堂。
江が建てた時の建物。 ※ 秀忠に頼んで、建ててもらった。
肖像画の特別公開。 いい時に来た。
参拝料500円。 写真はダメ。 仕方ない。
お寺の人が説明してくれた。 廊下や部屋ごとに。 私は、15人位の人達と一緒に。
説明はみんな静かに聞いた。
別のグループは、うるさかった。
団体。 道を歩く時と同じ大きさの声で、寺の中でも話していた。
最後は、寺の人が、大きな声で注意した。
肖像画は、江の他に、淀君と秀頼のがあった。
※ 秀頼のは、教科書の資料とかで使われてる物だった。
これが、江。 かすかな微笑み。 目つき、口元は、賢そう。 ※ 写真は、Wikipedia。
俵屋宗達の絵、うぐいす張りの廊下、血天井、徳川家の位牌、などがあった。
このHPに絵などの写真が載っている。
血天井は他にもあるけど、養源院のは生々しかった。
鳥居元忠は、伏見城を守っていた。 関ヶ原の少し前。
家康が上杉景勝をやっつけるため、会津に向かっていた。
その隙に、石田三成の軍が、城を取り囲んだ。 その数4万。 城の中には、1800。
1800人もだんだん減って、380人になった。
その段階で、みんな自害した。
伏見城の廊下は血の海。 城は10日以上持ちこたえて、8月1日に落城。
関ヶ原の戦いが9月15日。
遺体が葬られるのが、関ヶ原の後で、2カ月放置された。
床板に浸みた血や油は、洗っても取れなかった。
弔うため、廊下の天井に使った。 養源院の他に、6つの寺にも、伏見城の血天井はある。
下の寺は、百万遍知恩寺(京都市左京区)。 鳥居元忠の墓がある。
昨日通った。 写真だけ、撮ってあった。
※ 時間がなくなったので、簡単に。
養源院本堂。 横の方。
ヤマモモの大木。 秀吉が伏見城内に植えたのを移植したとあった。
江は、秀吉が嫌いだと説明にあった。 どうしてだろう。
三姉妹の兄は殺されてるが、殺したのは秀吉。 その恨みかな。
お市がいくら頼んでもダメだった。
私達は、この門は使えない。
三十三間堂。 兵の隙間から撮影。
同じく、三十三間堂。
法住寺。 木の枝が面白い。 後白河上皇と、かかわりの深い寺。
池田屋事件の時、龍馬たちは、この辺りに住んでいたそう。
お龍と知り合ったのも、この辺りと説明がある。
池田屋事件によって、新撰組の手柄が浮き彫りになった。
この池田屋事件については、新撰組の資料に基づいたものが、歴史になっている。
だから、少し怪しい事件。
説明。
東福寺駅前の道。 駅がどこにあるか、気づかないで通り過ぎてしまう。
江は、徳川和子を生んでいる。 後水尾天皇女御として入内(後に中宮)。
第109代明正天皇の母になる。 江は、天皇のおばあちゃん。
江の血は、徳川家、天皇家につながって行く。
歴史の上で、存在の大きな人。
昨日、江の供養塔を見たので、養源院に行ってみた。
【道の駅】 ガレリアかめおか
【明日の予定】 嵐山まで歩く。 山越え。 15㌔くらいかな。
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(2008年4月~2010年9月までの記事)
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信長の妹である、母の市は、江たち3姉妹を連れて、戦乱の中、小谷城を出る。
浅井長政の戒名は、養源院天英宗清。
今日行ったお寺は、養源院(ようげんいん)
3姉妹の一番上の淀殿が、父を弔って、建てた。
しかし、火事で焼けた。
再建したのは、江。 秀忠の夫人になっていた、1621年のこと。
江の肖像画は、この世に、1枚しか存在しない。
それが、養源院にある。 特別公開中で、見ることが出来た。
大河ドラマで扱ってもらえたせいか、ほんのりと、微笑んでいるように見えた。
☆ ☆ ☆ ☆
東福寺の駅から、歩いた。
新熊野神社(いまくまのじんじゃ)があった。
見てる人がいたので、入ってみた。
巨大なクスノキ。

小さな神社。 平安末期、後白河法皇によって建立。

熊野神社は、京都に3つあるそう。

熊野古道入り口とある。 ミニ熊野古道か。 ※ 木は、今の皇太子が植えたとあった。
去年かな、歩いたのは。 1日20㌔ずつ3日歩いた。 面白い温泉もあっった。

入り口。

左は、滝尻王子。 現地では、滝尻王子という神社があった。 熊野古道の出発点。
右は、発心門王子。 発心門王子の神社は、熊野本宮大社の8㌔程手前にある。

ヤタガラス。 足が3本。

三十三間堂の向かい側に、養源院はあった。 手前の門は、高貴な人専用かな。

血天井とある。

説明。 江は、淀殿の妹とある。 今後は、こういう説明はいらなくなる。 江は江。

参道。 正面に本堂。

江が建てた時の建物。 ※ 秀忠に頼んで、建ててもらった。

肖像画の特別公開。 いい時に来た。

参拝料500円。 写真はダメ。 仕方ない。
お寺の人が説明してくれた。 廊下や部屋ごとに。 私は、15人位の人達と一緒に。
説明はみんな静かに聞いた。
別のグループは、うるさかった。
団体。 道を歩く時と同じ大きさの声で、寺の中でも話していた。
最後は、寺の人が、大きな声で注意した。
肖像画は、江の他に、淀君と秀頼のがあった。
※ 秀頼のは、教科書の資料とかで使われてる物だった。
これが、江。 かすかな微笑み。 目つき、口元は、賢そう。 ※ 写真は、Wikipedia。

俵屋宗達の絵、うぐいす張りの廊下、血天井、徳川家の位牌、などがあった。
このHPに絵などの写真が載っている。
血天井は他にもあるけど、養源院のは生々しかった。
鳥居元忠は、伏見城を守っていた。 関ヶ原の少し前。
家康が上杉景勝をやっつけるため、会津に向かっていた。
その隙に、石田三成の軍が、城を取り囲んだ。 その数4万。 城の中には、1800。
1800人もだんだん減って、380人になった。
その段階で、みんな自害した。
伏見城の廊下は血の海。 城は10日以上持ちこたえて、8月1日に落城。
関ヶ原の戦いが9月15日。
遺体が葬られるのが、関ヶ原の後で、2カ月放置された。
床板に浸みた血や油は、洗っても取れなかった。
弔うため、廊下の天井に使った。 養源院の他に、6つの寺にも、伏見城の血天井はある。
下の寺は、百万遍知恩寺(京都市左京区)。 鳥居元忠の墓がある。
昨日通った。 写真だけ、撮ってあった。

※ 時間がなくなったので、簡単に。
養源院本堂。 横の方。

ヤマモモの大木。 秀吉が伏見城内に植えたのを移植したとあった。

江は、秀吉が嫌いだと説明にあった。 どうしてだろう。
三姉妹の兄は殺されてるが、殺したのは秀吉。 その恨みかな。
お市がいくら頼んでもダメだった。
私達は、この門は使えない。

三十三間堂。 兵の隙間から撮影。

同じく、三十三間堂。

法住寺。 木の枝が面白い。 後白河上皇と、かかわりの深い寺。

池田屋事件の時、龍馬たちは、この辺りに住んでいたそう。
お龍と知り合ったのも、この辺りと説明がある。

池田屋事件によって、新撰組の手柄が浮き彫りになった。
この池田屋事件については、新撰組の資料に基づいたものが、歴史になっている。
だから、少し怪しい事件。

説明。

東福寺駅前の道。 駅がどこにあるか、気づかないで通り過ぎてしまう。

江は、徳川和子を生んでいる。 後水尾天皇女御として入内(後に中宮)。
第109代明正天皇の母になる。 江は、天皇のおばあちゃん。
江の血は、徳川家、天皇家につながって行く。
歴史の上で、存在の大きな人。
昨日、江の供養塔を見たので、養源院に行ってみた。
【道の駅】 ガレリアかめおか
【明日の予定】 嵐山まで歩く。 山越え。 15㌔くらいかな。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

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