籠城すると決めていた岩殿城は、裏切りが出て行けなくなった。
勝頼は、死に場所を、天目山と決めた。 ※ 寺がある。
自分より7代前の当主武田信満が、そこで自害したことを知っていた。
天目山まであと少しの時、上から織田軍と思われる敵が攻めてきた。
戻った。
家来の土屋惣蔵昌恒が、崖道の狭い場所で、敵と戦い時間をかせいだ。
捕まって殺されるのは、避けなければならない。
生み出された少しの時間の間に、勝頼達一族郎党みんな自害(自刃)した。
あの武田軍団が、たったの50人になっていた。
その場所に、今は景徳寺が建っている。
母の諏訪御両人が病で逝って、27年後。 ※ 諏訪御両人の墓(高遠町)一昨年
山本勘助が討ち死にして、21年後。 ※ 勘助の墓(北杜市)一昨年
父の信玄が亡くなって、9年後だった。 ※ 信玄の墓(甲州市)昨日
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
勝頼の居城 新府城から、天目山までの動き。
※ 参考資料は、寺の資料とWikipedia、また「勝頼、天目山へ」のHP。
1581年
○ 3月3日
・新府城にいては危険になったため、大月の岩殿城に籠城することにした。
・朝に出発。 城には火を付けて。
・700名あまりの家来をしたがえて。 女子もいた。
・30㌔以上を歩いて、その日の晩に、大善寺に着いた。
・大善寺では、理慶尼(りけいに)と云う人が、一行を厚くもてなしてくれた。(記録がある)
・ここに宿泊。
○ 3月4日か、もっと後かもしれないが
・笹子峠の登り口に着く。
・岩殿城に先に行っていた小山田信茂が、裏切る。
・岩殿城には行けなくなった。
・武田氏ゆかりの天目山へ行くことにした。
・そこを最期の地と決めて。
○ 3月10日
・日川沿いの道を、田野という所まで行った。
※ この間、どこに泊まったんだろう。 野宿か。 どこかの家か。
3月だから、まだ寒い。 田野に小さな陣を構えたよう。
○ 3月11日
・早朝、織田軍が川下から襲ってきた。 約4000人。 こっちは、700人。
・激戦になる。 場所は、田野の100㍍程川下。
・敵を撃退するが、見方も大きな被害を受ける。
・勝頼たちは、天目山に向かう。
・途中で、上から敵がやって来た。
・勝頼達は引き返す。
・最初にも書いたが、土屋惣蔵昌恒が、崖道の狭い場所で、敵と戦かった。 ※ 一人ではないと思うが。
・敵に捕まる前に、少しの時間が生まれた。
・その間に、田野まで戻って、みんな自害した。 息子の信勝と北条夫人も。
・女たちは激流に飛び込んだ。
・家来は死んだり逃げたりして、最後の人数は、全体で50人になっていた。
最期の地景徳院の駐車場の脇に、下のがあった。
この下には、日川が流れていて、女たちはそこに身を投げたとある。
姫ヶ淵と呼ばれていると。
川が地で染まったと。 川は、三日血川(みっかちがわ)とも。
道の山側に、景徳院はあった。
徳川家康が、家来に作らせた。
※ 織田軍が勝ったのだが、勝頼死んだあと、甲州は家康の領地になった。
武田の残党の懐柔策もあるが、勝頼への思いもあった。
家康は、最期に勝頼を裏切った小山田信茂の一族全てを、処刑している。
景徳院について、大まかな説明。
境内の図。
石段を登って、右に少し行くと、没頭地蔵があった。 頭の無い地蔵が、3つ。
勝頼と息子の信勝、北条夫人の遺体を、ここに埋めた。
3人とも、頭はなかった。
ここが、最期の場所。
上の写真の左に、2つの石があった。 生害石と名前があった。
左が勝頼夫人のもの。 右が勝頼の。 二人は、この石の所で自害したとされる。
建物は、甲将殿。 位牌とかがある。 3人と家来の墓がある。
3人他全員のの墓。
※ 3人の両側は家来。 法名の数は、男35人、女16人。 全員で、54名。
墓の調査について書いてある。
墓の下から、右のような石が、たくさん見つかった。
勝頼の戒名の中に、景徳院がある。 それで、この寺は景徳院。
辞世の句。
石碑は、夫人のものが。 辞世には露と云う言葉が使われる。 すぐに消えるからか。
勝頼のは、「朧なる月もほのかに雲かすみ晴れてゆくへの西の山の端(は)」
解釈は、「ほのかに雲がかかって朧ろに霞んでいた月も、やがて晴れてゆき、西方浄土を目指して行くかに見える」
下は、勝頼の動きを、詳しく書いてある。
山門。
武田慕情と云う歌があった。 その歌碑。
※ 動画の作成は、札幌のTさん。
※ 追記 写真を少し変更しました(4日)
本堂。
天目山に向かった。 途中、土屋惣蔵昌恒が戦った場所に寄った。 上の方から撮影。
このように石碑と説明。
千人切ったとある。 この人を中心に、ある時間敵を通さなかった、と云うことでしょうね。
細い道です。 左は崖。
深い谷で、落ちたら下まで転がる。
ここが天目山。
寺の名前が、天目山栖雲寺(てんもくざん せいうんじ)だったので、この場所が天目山と言われる。
山の頂上ではなく、峠。 寺は、手前右上に。
この深い谷を上って来た。 遠くに富士山。
栖雲寺の境内に、そば切り発祥の地とあった。
調べてみたら、発祥を名乗っているところは、全国に3ヶ所ほど。
ここに勝頼は来れなかったので、特にというものは無かった。
先祖の、武田信満の墓はある。
山の斜面に、石庭があった。 岩には、線で描いた磨崖仏も。
天目山の全景。
戻る途中、竜門峡という峡谷を、少しだけ歩いた。
脇道を入って滝を見たかったが、途中で行き止まりだった。
メインの通りは、熊に注意とあったので、1㌔程行って引き返した。
写真の左の橋を渡って行った。
今いる道の駅。 少し行って、左に行ったら、市街地。
右の沢が、天目山への道。
天目山の戦いで負けたから、勝頼は自害したと思っていた。
そうではなかった。
新府城を捨てた時に、命運は決まっていた。
例え、岩殿城で籠城出来ていたとしても、だめだった。
天目山を目指したことで、最期がドラマになり、人々の記憶に残った。
よかったかもしれない。
勝頼たちを最期に世話をした、大善寺の理慶尼は、勝頼たちの痛ましい姿を見て
歴史の移り変わりの激しさに、息をのんだという。
※ 下は、撮り直した動画。 ※ 訂正2ヶ所 攻められたのは織田軍に。 日川は、ひかわでなく、にっかわ。
【道の駅】 甲斐大和
【明日の予定】 今日のブログの関わりの、大善寺へ。
大日影トンネル遊歩道と云うのが、寺の近くにある。
産業遺産のようなものかな。 そこへ。
※ 昨日動画を撮ったのだが、撮り直します。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
【ランキング】 国内旅行は7位、 旅行全体で20位です。 放浪の旅は31位。
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勝頼は、死に場所を、天目山と決めた。 ※ 寺がある。
自分より7代前の当主武田信満が、そこで自害したことを知っていた。
天目山まであと少しの時、上から織田軍と思われる敵が攻めてきた。
戻った。
家来の土屋惣蔵昌恒が、崖道の狭い場所で、敵と戦い時間をかせいだ。
捕まって殺されるのは、避けなければならない。
生み出された少しの時間の間に、勝頼達一族郎党みんな自害(自刃)した。
あの武田軍団が、たったの50人になっていた。
その場所に、今は景徳寺が建っている。
母の諏訪御両人が病で逝って、27年後。 ※ 諏訪御両人の墓(高遠町)一昨年
山本勘助が討ち死にして、21年後。 ※ 勘助の墓(北杜市)一昨年
父の信玄が亡くなって、9年後だった。 ※ 信玄の墓(甲州市)昨日
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
勝頼の居城 新府城から、天目山までの動き。
※ 参考資料は、寺の資料とWikipedia、また「勝頼、天目山へ」のHP。

1581年
○ 3月3日
・新府城にいては危険になったため、大月の岩殿城に籠城することにした。
・朝に出発。 城には火を付けて。
・700名あまりの家来をしたがえて。 女子もいた。
・30㌔以上を歩いて、その日の晩に、大善寺に着いた。
・大善寺では、理慶尼(りけいに)と云う人が、一行を厚くもてなしてくれた。(記録がある)
・ここに宿泊。
○ 3月4日か、もっと後かもしれないが
・笹子峠の登り口に着く。
・岩殿城に先に行っていた小山田信茂が、裏切る。
・岩殿城には行けなくなった。
・武田氏ゆかりの天目山へ行くことにした。
・そこを最期の地と決めて。
○ 3月10日
・日川沿いの道を、田野という所まで行った。
※ この間、どこに泊まったんだろう。 野宿か。 どこかの家か。
3月だから、まだ寒い。 田野に小さな陣を構えたよう。
○ 3月11日
・早朝、織田軍が川下から襲ってきた。 約4000人。 こっちは、700人。
・激戦になる。 場所は、田野の100㍍程川下。
・敵を撃退するが、見方も大きな被害を受ける。
・勝頼たちは、天目山に向かう。
・途中で、上から敵がやって来た。
・勝頼達は引き返す。
・最初にも書いたが、土屋惣蔵昌恒が、崖道の狭い場所で、敵と戦かった。 ※ 一人ではないと思うが。
・敵に捕まる前に、少しの時間が生まれた。
・その間に、田野まで戻って、みんな自害した。 息子の信勝と北条夫人も。
・女たちは激流に飛び込んだ。
・家来は死んだり逃げたりして、最後の人数は、全体で50人になっていた。

最期の地景徳院の駐車場の脇に、下のがあった。

この下には、日川が流れていて、女たちはそこに身を投げたとある。
姫ヶ淵と呼ばれていると。


川が地で染まったと。 川は、三日血川(みっかちがわ)とも。

道の山側に、景徳院はあった。
徳川家康が、家来に作らせた。
※ 織田軍が勝ったのだが、勝頼死んだあと、甲州は家康の領地になった。
武田の残党の懐柔策もあるが、勝頼への思いもあった。
家康は、最期に勝頼を裏切った小山田信茂の一族全てを、処刑している。

景徳院について、大まかな説明。

境内の図。

石段を登って、右に少し行くと、没頭地蔵があった。 頭の無い地蔵が、3つ。
勝頼と息子の信勝、北条夫人の遺体を、ここに埋めた。
3人とも、頭はなかった。

ここが、最期の場所。

上の写真の左に、2つの石があった。 生害石と名前があった。
左が勝頼夫人のもの。 右が勝頼の。 二人は、この石の所で自害したとされる。


建物は、甲将殿。 位牌とかがある。 3人と家来の墓がある。

3人他全員のの墓。
※ 3人の両側は家来。 法名の数は、男35人、女16人。 全員で、54名。

墓の調査について書いてある。

墓の下から、右のような石が、たくさん見つかった。
勝頼の戒名の中に、景徳院がある。 それで、この寺は景徳院。


辞世の句。

石碑は、夫人のものが。 辞世には露と云う言葉が使われる。 すぐに消えるからか。


勝頼のは、「朧なる月もほのかに雲かすみ晴れてゆくへの西の山の端(は)」
解釈は、「ほのかに雲がかかって朧ろに霞んでいた月も、やがて晴れてゆき、西方浄土を目指して行くかに見える」
下は、勝頼の動きを、詳しく書いてある。

山門。


武田慕情と云う歌があった。 その歌碑。

※ 動画の作成は、札幌のTさん。
※ 追記 写真を少し変更しました(4日)

本堂。

天目山に向かった。 途中、土屋惣蔵昌恒が戦った場所に寄った。 上の方から撮影。

このように石碑と説明。

千人切ったとある。 この人を中心に、ある時間敵を通さなかった、と云うことでしょうね。

細い道です。 左は崖。

深い谷で、落ちたら下まで転がる。

ここが天目山。
寺の名前が、天目山栖雲寺(てんもくざん せいうんじ)だったので、この場所が天目山と言われる。
山の頂上ではなく、峠。 寺は、手前右上に。

この深い谷を上って来た。 遠くに富士山。

栖雲寺の境内に、そば切り発祥の地とあった。
調べてみたら、発祥を名乗っているところは、全国に3ヶ所ほど。

ここに勝頼は来れなかったので、特にというものは無かった。
先祖の、武田信満の墓はある。
山の斜面に、石庭があった。 岩には、線で描いた磨崖仏も。

天目山の全景。

戻る途中、竜門峡という峡谷を、少しだけ歩いた。
脇道を入って滝を見たかったが、途中で行き止まりだった。
メインの通りは、熊に注意とあったので、1㌔程行って引き返した。
写真の左の橋を渡って行った。

今いる道の駅。 少し行って、左に行ったら、市街地。
右の沢が、天目山への道。

天目山の戦いで負けたから、勝頼は自害したと思っていた。
そうではなかった。
新府城を捨てた時に、命運は決まっていた。
例え、岩殿城で籠城出来ていたとしても、だめだった。
天目山を目指したことで、最期がドラマになり、人々の記憶に残った。
よかったかもしれない。
勝頼たちを最期に世話をした、大善寺の理慶尼は、勝頼たちの痛ましい姿を見て
歴史の移り変わりの激しさに、息をのんだという。
※ 下は、撮り直した動画。 ※ 訂正2ヶ所 攻められたのは織田軍に。 日川は、ひかわでなく、にっかわ。
【道の駅】 甲斐大和
【明日の予定】 今日のブログの関わりの、大善寺へ。
大日影トンネル遊歩道と云うのが、寺の近くにある。
産業遺産のようなものかな。 そこへ。
※ 昨日動画を撮ったのだが、撮り直します。
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(2008年4月~2010年9月までの記事)

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