渥美半島は、渥美清と関係あるのかな。 そんなことを考えながら歩いた。
調べた結果。
関係あるようで関係ない。 関係ないようで、関係ある。 それが実際だった。
童謡の「椰子の実」が生まれた土地とは知っていたが、それには、2人が関わっていた。
☆ ☆ ☆ ☆
渥美半島。 ここは、愛知県なんですね。
渥美清との関わりは、こうでした。 ※ 出典は、寅さんについて色々書いてあるHP。
○ 駆け出しの頃、たまたま小説を読んでいたら"渥美悦郎"という主人公の名前が目にとまり、それを拝借した。
○ 何らかの事情で、悦郎が清になり、渥美清になる。 ※ 自分の判断ではないよう。 上の人。
○ 後に、名前についてインタビューされ、次のように答えている。
結核で療養所に入っている時に、空気の綺麗な渥美半島のお花畑が頭に浮かんでねぇ。
渥美半島の清い空気にあこがれて、"渥美清"って付けたんですよ。
これが、寅さんらしい答えだったんですね。 事実を言ってもつまらない。
というわけで、全く関係なかったわけではない。 ※ 詳しくは、ここに。
恋路ヶ浜に着いたが、全体を見たいので離れた。 伊良湖岬(いらごみさき)灯台の方に。
恋路ヶ浜。 ※ 後で触れる「椰子の実」の歌の椰子の実は、ここに流れ着いた。
海の向こうには、鳥羽市や伊勢市がある。 風が強く、波も荒い。
伊良湖岬にある、伊良湖岬灯台。
階段があったので登って、上から撮った。
地図を持ってないので、適当に歩いている。
歌にも、字は違うけど、伊良湖とありますね。 この地名は、古くからあった。
※ 流される所は、まず島で、その次は、半島なのかな。 伊豆もそうだった。
恋路ヶ浜が見える。
※ 恋人岬とか、最近名付けた岬があるが、恋路ヶ浜(こいじがはま)は、古くからある。
江戸時代の和歌に、「春さめに ぬれてひろはん いらご崎 恋路ヶ浦の 恋わすれ貝」がある。
Wikipediaに載っていたが、作者が分からない。 でも、何とか分かった。
吉田(豊橋)の歌人林織江という人だった。 1808年に作っていた。
この歌の中に、恋わすれ貝、とある。
そのためか、恋路ヶ浜でデートすると、別れると、噂が立っていると言う。
別れられなくて困っている人は、相手をこっそり、恋路ヶ浜に誘えばいい。
差羽は、サシバのことで、鳥。 こんな鳥。(Wikipedia)
※ サシバが群れで外国に渡る時、この岬や佐多岬に集結するんですね。
上昇気流を利用して、空高く舞い上がり、一気に出発する。
昔テレビでそれを見て、伊良湖岬の名前を知った。
※ 今日も観察している人が、2人いた。
サシバが上昇気流にのる動画は、見つからない。
恋路ヶ浜で椰子の実を拾ったのは、民俗学者の柳田国男。 若い時。
そのことを、島崎藤村に話した。 藤村はいい話だと、詩を書いた。
恋路ヶ浜の前は、駐車場と、お土産屋さん。
恋路ヶ浜の、灯台とは反対の方の、丘の上に、椰子の実記念碑があった。
ここを、少し下る。
坂の途中から、半島の付け根の方が見えた。 砂浜は、太平洋ロングビーチと呼ばれている。
椰子の木と歌碑や詩碑が。
藤村が作った歌詞。
大中寅二と云う人が、メロディを作った。
裏に、大中寅二の説明。
椰子の実の詩は、こう。
1 名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の実一つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて
汝(なれ)はそも波に幾月
2 旧(もと)の木は生(お)いや茂れる
枝はなお影をやなせる
われもまた渚を枕
孤身(ひとりみ)の浮寝(うきね)の旅ぞ
3 実をとりて胸にあつれば
新(あらた)なり流離の憂い
海の日の沈むを見れば
激(たぎ)り落つ異郷の涙
思いやる八重の汐々(しおじお)
いずれの日にか国に帰らん
解釈は、だいたいこうです。 (教えて!gooより)
何処か遠くの島から(ここに)流れ着いた椰子の実1つ
(その島の)岸を離れて、お前は何ヶ月波に揺られてたどりついたのか
(お前が実っていた)樹は立派に茂って、その枝は影を落としている(というのに)
私もお前と同じ、(優しい故郷を離れて)一人放浪の浮草暮らしなんだよ
その椰子の実を胸に当ると、思えば遠くへ来たもんだと寂しい気持ちになる
夕日が海に落ちるのを見ると、故郷を想って泣けて来る
打ち重なる波を見て故郷のことを懐かしく思い出す、いつか必ず故郷に帰ろうと誓った
椰子の実と自分を重ね合わせた、望郷の歌でもあるんですね。
この動画がいい。 歌に合わせて口が動いています。
※ 柳田国男は、晩年になって、日本民族は南方から黒潮に乗ってやって来たと主張する。
もし、椰子の実のことがなかったら、この発想はきっと生まれなかった。
※ 話がそれますが、人類の分岐について、こんな研究があります。 (Wikipedia)
人類のスタートは、アフリカです。 これには、異論が無いようです。
まずアフリカ人から、西ユーラシア人(ヨーロッパ人)と東ユーラシア人(東アジア人)とが分岐する。
東ユーラシア人から、下の順で分かれた。 アイヌは、はやい。
①アメリカ先住民が分岐。 ②アイヌ人と東アジア人クラスターが分岐。(クラスターの意味は?)
③中国人と東アジア人が分岐。 ④琉球人と本土日本人とが分岐する。
道の駅の建物は、フェリーターミナルだった。
フェリーは高いから乗らない。
フェリーターミナルに、資料館があった。
西行と芭蕉が来ている。 きっと、西行が来ていたから、芭蕉も来た。
柳田国男と島崎藤村のことが。
いろんな鳥が、渡りの時、この岬を通る。
こんな笑顔の写真、今の時代、めったに見られない。
「椰子の実」の作詞の大中寅二と云う人は、他に知っている作品は無かった。
ただ、北海道の遠軽高校の校歌を作曲していた。
どういう関係で作ったかは、調べてみたが分からない。
中央で活躍している作曲家が、何かのつながりで、田舎の学校の校歌を作ることがある。
私がいた紋別潮見小学校の校歌の作曲は、小村三千三と云う人だった。
この人は、「♪よい子が住んでるよい町は 」で始まる「歌の町」の作曲者。
いいメロディの校歌だった。 昔、学校の近くの寺の住職さんが、友人だった。
【今日の歌】
藤村の初恋の人は、おゆふ(おゆう)さん。 別の家に嫁ぐ。
その家は、妻籠宿に残っている。 藤村からおゆふさんへの手紙もあった。
【道の駅】 伊良湖クリスタルポルト
【明日の予定】 名古屋の近くは、混んでいる。
明日どこかを少し見る。
夜中、京都の向こうの、いつもの道の駅、ガレリアかめおかまで、走ろうと思う。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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調べた結果。
関係あるようで関係ない。 関係ないようで、関係ある。 それが実際だった。
童謡の「椰子の実」が生まれた土地とは知っていたが、それには、2人が関わっていた。
☆ ☆ ☆ ☆
渥美半島。 ここは、愛知県なんですね。
渥美清との関わりは、こうでした。 ※ 出典は、寅さんについて色々書いてあるHP。
○ 駆け出しの頃、たまたま小説を読んでいたら"渥美悦郎"という主人公の名前が目にとまり、それを拝借した。
○ 何らかの事情で、悦郎が清になり、渥美清になる。 ※ 自分の判断ではないよう。 上の人。
○ 後に、名前についてインタビューされ、次のように答えている。
結核で療養所に入っている時に、空気の綺麗な渥美半島のお花畑が頭に浮かんでねぇ。
渥美半島の清い空気にあこがれて、"渥美清"って付けたんですよ。
これが、寅さんらしい答えだったんですね。 事実を言ってもつまらない。
というわけで、全く関係なかったわけではない。 ※ 詳しくは、ここに。

恋路ヶ浜に着いたが、全体を見たいので離れた。 伊良湖岬(いらごみさき)灯台の方に。

恋路ヶ浜。 ※ 後で触れる「椰子の実」の歌の椰子の実は、ここに流れ着いた。

海の向こうには、鳥羽市や伊勢市がある。 風が強く、波も荒い。

伊良湖岬にある、伊良湖岬灯台。

階段があったので登って、上から撮った。
地図を持ってないので、適当に歩いている。

歌にも、字は違うけど、伊良湖とありますね。 この地名は、古くからあった。
※ 流される所は、まず島で、その次は、半島なのかな。 伊豆もそうだった。

恋路ヶ浜が見える。
※ 恋人岬とか、最近名付けた岬があるが、恋路ヶ浜(こいじがはま)は、古くからある。
江戸時代の和歌に、「春さめに ぬれてひろはん いらご崎 恋路ヶ浦の 恋わすれ貝」がある。
Wikipediaに載っていたが、作者が分からない。 でも、何とか分かった。
吉田(豊橋)の歌人林織江という人だった。 1808年に作っていた。
この歌の中に、恋わすれ貝、とある。
そのためか、恋路ヶ浜でデートすると、別れると、噂が立っていると言う。
別れられなくて困っている人は、相手をこっそり、恋路ヶ浜に誘えばいい。

差羽は、サシバのことで、鳥。 こんな鳥。(Wikipedia)
※ サシバが群れで外国に渡る時、この岬や佐多岬に集結するんですね。
上昇気流を利用して、空高く舞い上がり、一気に出発する。
昔テレビでそれを見て、伊良湖岬の名前を知った。
※ 今日も観察している人が、2人いた。
サシバが上昇気流にのる動画は、見つからない。

恋路ヶ浜で椰子の実を拾ったのは、民俗学者の柳田国男。 若い時。
そのことを、島崎藤村に話した。 藤村はいい話だと、詩を書いた。

恋路ヶ浜の前は、駐車場と、お土産屋さん。

恋路ヶ浜の、灯台とは反対の方の、丘の上に、椰子の実記念碑があった。
ここを、少し下る。

坂の途中から、半島の付け根の方が見えた。 砂浜は、太平洋ロングビーチと呼ばれている。

椰子の木と歌碑や詩碑が。

藤村が作った歌詞。

大中寅二と云う人が、メロディを作った。

裏に、大中寅二の説明。

椰子の実の詩は、こう。
1 名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の実一つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて
汝(なれ)はそも波に幾月
2 旧(もと)の木は生(お)いや茂れる
枝はなお影をやなせる
われもまた渚を枕
孤身(ひとりみ)の浮寝(うきね)の旅ぞ
3 実をとりて胸にあつれば
新(あらた)なり流離の憂い
海の日の沈むを見れば
激(たぎ)り落つ異郷の涙
思いやる八重の汐々(しおじお)
いずれの日にか国に帰らん
解釈は、だいたいこうです。 (教えて!gooより)
何処か遠くの島から(ここに)流れ着いた椰子の実1つ
(その島の)岸を離れて、お前は何ヶ月波に揺られてたどりついたのか
(お前が実っていた)樹は立派に茂って、その枝は影を落としている(というのに)
私もお前と同じ、(優しい故郷を離れて)一人放浪の浮草暮らしなんだよ
その椰子の実を胸に当ると、思えば遠くへ来たもんだと寂しい気持ちになる
夕日が海に落ちるのを見ると、故郷を想って泣けて来る
打ち重なる波を見て故郷のことを懐かしく思い出す、いつか必ず故郷に帰ろうと誓った
椰子の実と自分を重ね合わせた、望郷の歌でもあるんですね。
この動画がいい。 歌に合わせて口が動いています。
※ 柳田国男は、晩年になって、日本民族は南方から黒潮に乗ってやって来たと主張する。
もし、椰子の実のことがなかったら、この発想はきっと生まれなかった。
※ 話がそれますが、人類の分岐について、こんな研究があります。 (Wikipedia)
人類のスタートは、アフリカです。 これには、異論が無いようです。
まずアフリカ人から、西ユーラシア人(ヨーロッパ人)と東ユーラシア人(東アジア人)とが分岐する。
東ユーラシア人から、下の順で分かれた。 アイヌは、はやい。
①アメリカ先住民が分岐。 ②アイヌ人と東アジア人クラスターが分岐。(クラスターの意味は?)
③中国人と東アジア人が分岐。 ④琉球人と本土日本人とが分岐する。
道の駅の建物は、フェリーターミナルだった。
フェリーは高いから乗らない。

フェリーターミナルに、資料館があった。

西行と芭蕉が来ている。 きっと、西行が来ていたから、芭蕉も来た。

柳田国男と島崎藤村のことが。

いろんな鳥が、渡りの時、この岬を通る。

こんな笑顔の写真、今の時代、めったに見られない。


「椰子の実」の作詞の大中寅二と云う人は、他に知っている作品は無かった。
ただ、北海道の遠軽高校の校歌を作曲していた。
どういう関係で作ったかは、調べてみたが分からない。
中央で活躍している作曲家が、何かのつながりで、田舎の学校の校歌を作ることがある。
私がいた紋別潮見小学校の校歌の作曲は、小村三千三と云う人だった。
この人は、「♪よい子が住んでるよい町は 」で始まる「歌の町」の作曲者。
いいメロディの校歌だった。 昔、学校の近くの寺の住職さんが、友人だった。
【今日の歌】
藤村の初恋の人は、おゆふ(おゆう)さん。 別の家に嫁ぐ。
その家は、妻籠宿に残っている。 藤村からおゆふさんへの手紙もあった。
【道の駅】 伊良湖クリスタルポルト
【明日の予定】 名古屋の近くは、混んでいる。
明日どこかを少し見る。
夜中、京都の向こうの、いつもの道の駅、ガレリアかめおかまで、走ろうと思う。
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(2008年4月~2010年9月までの記事)

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