島で、誰かと話すことが出来たらいいな、と思っていた。
願いは叶った。 島の奥の畑で、おばあちゃんと、息子さんの奥さまと、いっぱい・・・。
赤いジャガイモと、ミカンをいただいてしまった。
家と畑のある所は、日溜まりのようになって、暖かかった。
桃源郷、そんな感じだった。
(いつもより、写真の枚数が、多くなっています。 いい一日だったので。)
写真は、少ししてからクリックしたら、瞬間に大きくなります。 再度写真をクリックしたら、戻ります。
※ ※ ※ ※
松島は、波戸岬の3㌔程沖合にある。 加唐島(かからしま)の隣。
※ 波戸岬からは、このように見えた。 左の島。 望遠レンズで撮った写真。
写真の赤○の所に行った。 ※ 写真は、「唐津市景観まちづくり」さんのHPからお借り。
瓢箪の形。
呼子(よぶこ)の港から、船は出る。 郵便局の隣の公共駐車場に車を置いた。 乗り場まで5分程。
毎日、朝市が開かれる。 日本三大朝市とあった。
この船で行く。 ボートのよう。 10時出航。
呼子大橋を通り過ぎた。
外海に出たら、船は波の上を飛ぶように進んだので、写真は撮れなかった。
20分程でついた。
家族で釣りに来た人も。 教会は、目の前に。
船の料金は、帰りでいいと言われた。
周囲3.6㌔。 小さな島。 道を全部歩いても、時間はかからない。
帰りは、1時の船。 2時間半ほどある。 十分かな。
カトリック松島教会。 島民のほとんどが信者だと云う。 それで、ロザリオの島。
マリア様か。 手に下がっている数珠のようなのが、ロザリオ。
防波堤から撮影。
道は、すぐに急斜面。
坂を少し上って、撮影。 漁業が成り立っていると、活気がある。
連絡版。
坂が多いので、杖を・・・とある。 診療所がある。(毎日ではないよう)
8日に今年最初のミサがあると、書いてあった。
今日は暖かい。 花も生き生き。
小さな畑に、トウガラシ。
ダイコンが干してあった。
おばあちゃんが坂道を下りてきたので、少し話した。
天日に干したら栄養満点。 美味しいよと言った。 ゴミを置きに行ったよう。
あるお家の小さな花壇。 こんなの好き。 手前の石に、鎮西町(ちんぜいちょう)とあった。
松島は、唐津市になってるけど、合併する前は、鎮西町だった。
斜面に家。 どの家からも海が見える。
※ 海が見える生活をしたら、海が見えないと、物足りなくなる。
私は7つの学校に勤めたが、学校から海が見えなかったのは、2校だけ。
どこも坂。 車には、まだ出会わない。 陽のあたる坂道。 あたたかい。
何でしょう。
学校が見えた。
つよい心とある。 小さなグランド。 島の中で、一番広い平らな場所。
唐津津市立 加唐小学校 松島分校。 昔は、もちろん、分校ではなかった。 だから、校歌が2つあるよう。
この後、畑で、児童数は5名と教えてもらう。
※ 詳しくは、ここに載っています。
学校を通り過ぎたら、海が見えた。 まだ、たくさん歩いてない。
壱岐が見えます。 望遠で撮れば良かった。 青い海だ。
こっちの崖には、人は住めない。 向こうに加唐島。
急な斜面に畑。 土を起こす時、下から上でないと、土がだんだん落ちていく。
反対側の山の斜面に、墓地。 よく見るお墓と違うのがある。
こんな道を、登っている。
水仙を抱えた人に出会った。 明日ミサなので、その準備をしてると云う。
島に動物はいますかと聞いた。
イノシシがいるんだが、誰も見たことはないと言った。
※ きっと、となりの加唐島から来ているね、と私は言った。
安芸灘諸島で、島から島へ泳ぐのを見たことがある。 小さな尻尾を、ぴょろぴょろと揺らして。
こんな花に出会った。
道は下りになって、家が見えてきた。
家を過ぎたら、小さなトラック。 トラックの近くから、振り返って家を撮った。
谷になっていて暖かいから、水仙が多い。
かわいい車。 ダイハツ・ミゼットⅡ。 軽トラより、だいぶ小さい。
10年前に生産終了している。 貴重な車。
畑に人がいた。 島にお邪魔していますと、挨拶をした。
話していたら、こっちにと、呼ばれたので、下りて行った。
おばあちゃんは、加唐島からこの島に嫁いだ。
もう一人の方は、おばあちゃんの息子さんのお嫁さん。 佐賀市の方から来た。
旦那様は、海の仕事。
隣の島には、イノシシがいっぱいいる。
掘った跡とかあるけど、見ることはないないそう。
※ 2人のお家は、ここではなく、坂の途中にあると、後で知る。
教会は、昔は、ここにあったと云う。
※ 最初の教会は、島の奥のここだった。 きっと、教会とは見ても分からない物だった。
明治に入って、今のような教会を建てることが出来た。
児童数は5人。 少ないけど、5人なら遊べるねと話した。
赤いジャガイモと、ミカンをいただいた。 ミカンは、おやつに持ってきた物。
イモの名前は、インカの夜明けか、レッドムーンと教えてくれた。
おばあちゃんは、北海道は外国より遠いと言った。
面白い表現なので、みんなで笑った。
雨が降ったら、畑の土が流れる。 土をバケツで上に運ぶ。
雨が降った時だけ、川ができる。 川はないけど、ここより下に小さなダムがあると。
いろんな話しをしながら、楽しく時間は過ぎた。
オリーブの木があると教えてもらったので、さらに奥に向かった。
海が見えた。
分かれ道があって、左の道に。
この台の上にスノコを広げて、ヒジキを干す。 男の人は、製作中だった。
更に行くと、道がなくなった。
オリーブです。 新しい産業に、挑戦している。 今日の歌は、決まった。
戻って、分岐点を右に行ったら、すぐに行き止まり。 細い道が海岸に。
お家があった。
家のそばに、小さなダム。 地下水が出ているよう。 水道に利用している。
木の隙間から、お家の庭の花が見えた。
戻ったら、先ほどの2人が、お昼なので仕事を終えていた。 中央に小さく。
運転席には、一人しか乗れない。 おばあちゃんは荷台に、ちょこんと。
イモとかは、近くの空き家に入れた。 おばあちゃんは、袋に入れたジャガイモを背負った。
おばあちゃんすごいって、私は言った。 その少し後、バランスを崩した。 褒めすぎたね、と私。
ここで、お別れ。 この後、私の横を通り過ぎて、お家に戻った。
隙間から、港が見えた。
下の谷に、家が並んでいる。
道を下ったら、釣りの家族が見えた。
下りたら、港。 ※ 左上は、指。 太陽の光が入らないようにしていた。
かわいい、ミニ軽トラが見えました。 おばあちゃんのお家でした。 ※ ミニ軽トラでなく、ミニトラか。
この場所は、島の中のメインストリート。
おばあちゃんの先祖は、早くにこの島に来たと分かる。 もちろん江戸時代に。
防波堤に、釣りを見に行った。 小アジが釣れていた。 アジは、どんな料理でも、美味しい。
遠くに灯台。 加部島の灯台かな。 数日前に行った。
山で出会った人が、教会で、明日のミサの準備をしていた。 1枚、撮らせていただいた。
信仰は、島に生きる人たちの、心のより所でしょうか。
呼子の港は、ずっと行って、左の湾に入る。
生簀(いけす)に魚がいた。 別の防波堤から。
こっちの山には、道はない。 トンビの鳴き声は、遠くまで聞こえる。 船が入って来た。
ダイバーの人が下りた。 サザエとアワビ。 この籠で飼って、たくさんになったら、市場へ。
魚は、ヤスで突いた。
1時になったので、戻る。 上の高い所に載った。目の前の所に座って。
※ おかしな所にいたら、海に落っこちる。 しっかり体を支えたら、写真と動画が撮れる。
船は、出た。
水平に写すのは大変。
呼子大橋。 港についた。
※ 船にお母さんと娘さんが乗っていた。 船から降りたら、駐車場に向かった。
車を運転して、どこかに行った。
フェリーの船長さんに聞いた。
島の人たちは、みなそうしていると。 誰もが、車を呼子の港に置いている。
他の島からの人達。
呼子の町を歩いた。 江戸時代から、クジラで栄えた町。 今は朝市がある。
他の猫の写真を撮っていたら、私も撮ってと、この猫さんが、すり寄って来た。
分かったよ、と言ってパチリ。 心は許してない目つき。
神社に、呼子の説明があった。 風待ち・潮待ちの港、大陸への経由地、とある。
松島に人が住み始めたのは、江戸時代の終わり頃。
安政年間(1854~1860年)に加唐島の貞八とその娘ウメが、開拓を始めた。 初めは、島を行ったり来たり。
その後、長崎の黒島から漁に来ていた福蔵が、ウメの婿になって島に住んだ。
黒島からは、さらに、福蔵の親戚や知り合いもやって来た。 (日本の島へ行こう、のHPより)
黒島から来た人は、すべて、キリシタンだった。
※ 黒島は、隠れキリシタンの島。 クロスの島から、黒島になったとも言われる。
そんなことで、ここ松島も、キリシタンの島になった。
松島の人々の先祖は、厳しい迫害を通り抜けている。
最後に。
江戸時代、対馬の殿様であった宗氏が、江戸への参勤交代の途中遭難した。
松島の島民に助けてもらった。
そのお礼に、島民に宗という名前を贈った。 そう伝えられている。
助けた人たち何軒かが、宗と云う苗字ですね。 現在も。
※ 晩に、いただいたイモで、味噌汁を作りました。
煮えるのは、教えていただいた通り、早かったです。
ほくほくしたイモで、美味しい味噌汁になりました。
たくさん頂いたので、しばらくの間、楽しめます。
おばあちゃんと、奥さま、楽しい時間と美味しいジャガイモ、ありがとうございました。
お元気で。
【その他】 更新されていませんが、小学校のHPがあります。
数年前の島の様子が、詳しく分かります。 ここに。
【動画】
苦しみを知っている人間が一番美しい、と言っている。
ミュージカル天草四郎PV(ロングバージョン)
【関連ブログ】
明日を信じた人々の戦い「島原の乱」 他 (5月7日 晩)
「戦うしか生きる道はない」と・・~天草切支丹館~ 激戦の跡と祇園橋 他 (2010/2/4)
【今日の歌】
【道の駅】 桃山天下市
【明日の予定】 玄海町
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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願いは叶った。 島の奥の畑で、おばあちゃんと、息子さんの奥さまと、いっぱい・・・。
赤いジャガイモと、ミカンをいただいてしまった。
家と畑のある所は、日溜まりのようになって、暖かかった。
桃源郷、そんな感じだった。
(いつもより、写真の枚数が、多くなっています。 いい一日だったので。)
写真は、少ししてからクリックしたら、瞬間に大きくなります。 再度写真をクリックしたら、戻ります。
※ ※ ※ ※
松島は、波戸岬の3㌔程沖合にある。 加唐島(かからしま)の隣。
※ 波戸岬からは、このように見えた。 左の島。 望遠レンズで撮った写真。
写真の赤○の所に行った。 ※ 写真は、「唐津市景観まちづくり」さんのHPからお借り。
瓢箪の形。

呼子(よぶこ)の港から、船は出る。 郵便局の隣の公共駐車場に車を置いた。 乗り場まで5分程。
毎日、朝市が開かれる。 日本三大朝市とあった。

この船で行く。 ボートのよう。 10時出航。

呼子大橋を通り過ぎた。

外海に出たら、船は波の上を飛ぶように進んだので、写真は撮れなかった。
20分程でついた。

家族で釣りに来た人も。 教会は、目の前に。
船の料金は、帰りでいいと言われた。


周囲3.6㌔。 小さな島。 道を全部歩いても、時間はかからない。
帰りは、1時の船。 2時間半ほどある。 十分かな。

カトリック松島教会。 島民のほとんどが信者だと云う。 それで、ロザリオの島。

マリア様か。 手に下がっている数珠のようなのが、ロザリオ。


防波堤から撮影。

道は、すぐに急斜面。

坂を少し上って、撮影。 漁業が成り立っていると、活気がある。

連絡版。

坂が多いので、杖を・・・とある。 診療所がある。(毎日ではないよう)
8日に今年最初のミサがあると、書いてあった。

今日は暖かい。 花も生き生き。


小さな畑に、トウガラシ。

ダイコンが干してあった。
おばあちゃんが坂道を下りてきたので、少し話した。
天日に干したら栄養満点。 美味しいよと言った。 ゴミを置きに行ったよう。


あるお家の小さな花壇。 こんなの好き。 手前の石に、鎮西町(ちんぜいちょう)とあった。
松島は、唐津市になってるけど、合併する前は、鎮西町だった。

斜面に家。 どの家からも海が見える。
※ 海が見える生活をしたら、海が見えないと、物足りなくなる。
私は7つの学校に勤めたが、学校から海が見えなかったのは、2校だけ。

どこも坂。 車には、まだ出会わない。 陽のあたる坂道。 あたたかい。

何でしょう。

学校が見えた。

つよい心とある。 小さなグランド。 島の中で、一番広い平らな場所。


唐津津市立 加唐小学校 松島分校。 昔は、もちろん、分校ではなかった。 だから、校歌が2つあるよう。
この後、畑で、児童数は5名と教えてもらう。
※ 詳しくは、ここに載っています。

学校を通り過ぎたら、海が見えた。 まだ、たくさん歩いてない。
壱岐が見えます。 望遠で撮れば良かった。 青い海だ。

こっちの崖には、人は住めない。 向こうに加唐島。

急な斜面に畑。 土を起こす時、下から上でないと、土がだんだん落ちていく。

反対側の山の斜面に、墓地。 よく見るお墓と違うのがある。

こんな道を、登っている。

水仙を抱えた人に出会った。 明日ミサなので、その準備をしてると云う。
島に動物はいますかと聞いた。
イノシシがいるんだが、誰も見たことはないと言った。
※ きっと、となりの加唐島から来ているね、と私は言った。
安芸灘諸島で、島から島へ泳ぐのを見たことがある。 小さな尻尾を、ぴょろぴょろと揺らして。

こんな花に出会った。

道は下りになって、家が見えてきた。


家を過ぎたら、小さなトラック。 トラックの近くから、振り返って家を撮った。


谷になっていて暖かいから、水仙が多い。
かわいい車。 ダイハツ・ミゼットⅡ。 軽トラより、だいぶ小さい。
10年前に生産終了している。 貴重な車。


畑に人がいた。 島にお邪魔していますと、挨拶をした。
話していたら、こっちにと、呼ばれたので、下りて行った。

おばあちゃんは、加唐島からこの島に嫁いだ。
もう一人の方は、おばあちゃんの息子さんのお嫁さん。 佐賀市の方から来た。
旦那様は、海の仕事。
隣の島には、イノシシがいっぱいいる。
掘った跡とかあるけど、見ることはないないそう。
※ 2人のお家は、ここではなく、坂の途中にあると、後で知る。
教会は、昔は、ここにあったと云う。
※ 最初の教会は、島の奥のここだった。 きっと、教会とは見ても分からない物だった。
明治に入って、今のような教会を建てることが出来た。
児童数は5人。 少ないけど、5人なら遊べるねと話した。
赤いジャガイモと、ミカンをいただいた。 ミカンは、おやつに持ってきた物。
イモの名前は、インカの夜明けか、レッドムーンと教えてくれた。
おばあちゃんは、北海道は外国より遠いと言った。
面白い表現なので、みんなで笑った。
雨が降ったら、畑の土が流れる。 土をバケツで上に運ぶ。
雨が降った時だけ、川ができる。 川はないけど、ここより下に小さなダムがあると。
いろんな話しをしながら、楽しく時間は過ぎた。

オリーブの木があると教えてもらったので、さらに奥に向かった。

海が見えた。

分かれ道があって、左の道に。

この台の上にスノコを広げて、ヒジキを干す。 男の人は、製作中だった。
更に行くと、道がなくなった。


オリーブです。 新しい産業に、挑戦している。 今日の歌は、決まった。

戻って、分岐点を右に行ったら、すぐに行き止まり。 細い道が海岸に。
お家があった。


家のそばに、小さなダム。 地下水が出ているよう。 水道に利用している。

木の隙間から、お家の庭の花が見えた。

戻ったら、先ほどの2人が、お昼なので仕事を終えていた。 中央に小さく。

運転席には、一人しか乗れない。 おばあちゃんは荷台に、ちょこんと。

イモとかは、近くの空き家に入れた。 おばあちゃんは、袋に入れたジャガイモを背負った。
おばあちゃんすごいって、私は言った。 その少し後、バランスを崩した。 褒めすぎたね、と私。
ここで、お別れ。 この後、私の横を通り過ぎて、お家に戻った。

隙間から、港が見えた。

下の谷に、家が並んでいる。

道を下ったら、釣りの家族が見えた。

下りたら、港。 ※ 左上は、指。 太陽の光が入らないようにしていた。

かわいい、ミニ軽トラが見えました。 おばあちゃんのお家でした。 ※ ミニ軽トラでなく、ミニトラか。
この場所は、島の中のメインストリート。
おばあちゃんの先祖は、早くにこの島に来たと分かる。 もちろん江戸時代に。

防波堤に、釣りを見に行った。 小アジが釣れていた。 アジは、どんな料理でも、美味しい。


遠くに灯台。 加部島の灯台かな。 数日前に行った。

山で出会った人が、教会で、明日のミサの準備をしていた。 1枚、撮らせていただいた。
信仰は、島に生きる人たちの、心のより所でしょうか。

呼子の港は、ずっと行って、左の湾に入る。

生簀(いけす)に魚がいた。 別の防波堤から。


こっちの山には、道はない。 トンビの鳴き声は、遠くまで聞こえる。 船が入って来た。


ダイバーの人が下りた。 サザエとアワビ。 この籠で飼って、たくさんになったら、市場へ。


魚は、ヤスで突いた。

1時になったので、戻る。 上の高い所に載った。目の前の所に座って。
※ おかしな所にいたら、海に落っこちる。 しっかり体を支えたら、写真と動画が撮れる。

船は、出た。

水平に写すのは大変。

呼子大橋。 港についた。


※ 船にお母さんと娘さんが乗っていた。 船から降りたら、駐車場に向かった。
車を運転して、どこかに行った。
フェリーの船長さんに聞いた。
島の人たちは、みなそうしていると。 誰もが、車を呼子の港に置いている。
他の島からの人達。

呼子の町を歩いた。 江戸時代から、クジラで栄えた町。 今は朝市がある。

他の猫の写真を撮っていたら、私も撮ってと、この猫さんが、すり寄って来た。
分かったよ、と言ってパチリ。 心は許してない目つき。

神社に、呼子の説明があった。 風待ち・潮待ちの港、大陸への経由地、とある。


松島に人が住み始めたのは、江戸時代の終わり頃。
安政年間(1854~1860年)に加唐島の貞八とその娘ウメが、開拓を始めた。 初めは、島を行ったり来たり。
その後、長崎の黒島から漁に来ていた福蔵が、ウメの婿になって島に住んだ。
黒島からは、さらに、福蔵の親戚や知り合いもやって来た。 (日本の島へ行こう、のHPより)
黒島から来た人は、すべて、キリシタンだった。
※ 黒島は、隠れキリシタンの島。 クロスの島から、黒島になったとも言われる。
そんなことで、ここ松島も、キリシタンの島になった。
松島の人々の先祖は、厳しい迫害を通り抜けている。
最後に。
江戸時代、対馬の殿様であった宗氏が、江戸への参勤交代の途中遭難した。
松島の島民に助けてもらった。
そのお礼に、島民に宗という名前を贈った。 そう伝えられている。
助けた人たち何軒かが、宗と云う苗字ですね。 現在も。
※ 晩に、いただいたイモで、味噌汁を作りました。
煮えるのは、教えていただいた通り、早かったです。
ほくほくしたイモで、美味しい味噌汁になりました。
たくさん頂いたので、しばらくの間、楽しめます。
おばあちゃんと、奥さま、楽しい時間と美味しいジャガイモ、ありがとうございました。
お元気で。
【その他】 更新されていませんが、小学校のHPがあります。
数年前の島の様子が、詳しく分かります。 ここに。
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苦しみを知っている人間が一番美しい、と言っている。
ミュージカル天草四郎PV(ロングバージョン)
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若い男が2人いた。
どちらかが立身出世したら、もう片方を十分の一の俸禄で召抱える、という約束をした。
お互い、波乱の人生の後、最後にそれが実現した。
唐津の町を歩いていたら、上の話に偶然出会った。
話は、本能寺で信長と一緒に討ち死にした、森蘭丸に関わっていた。
今日は、美味しいとんこつラーメンを食べた。 安い。
※ ※ ※ ※
駅の観光案内所で、地図をいただいた。
その時、虹の松原の100万本について聞いてみた。 こうだった。
松原には、種が落ちて、小さな松が育っている。
だから、100万本以上あると思っている。 数えたことはない。
これが、説明だった。
他の松原と同じように、大きく育った松だけを数えたら、多くても25万本ほど。(昨日のブログに説明を)
25万本が、そう云うことで、100万本に化けていた。
唐津市の考え方なら、200万本と言うこともできる。
虹の松原の本数は、通称100万本。 根拠が無いので、今後も、Wikipedia等に載ることはない。
そう云うことでした。
唐津は、唐津くんちの町。 全国に知られている。
駅前に、曳山(ひきやま)の像が。
佐賀銀行。 いいですね。
真っ直ぐ行ったら、市役所。 この後、左に行く。
寺があったので、説明を読んだ。 ※ いつも、さ~って読んで、面白そうだったら、じっくり読む。
本能寺で、森蘭丸は、安田作兵衛にやられたんですね。
作兵衛は、明智光秀の家来だから、苦労することになる。 最後は、唐津に来る。
その時の城の城主は、寺沢広高。
安田作兵衛と寺沢広高は、若い時に約束していた。 最初にも書いたが、
「どちらかが立身出世したら、もう片方を十分の一の俸禄で召抱える」
唐津藩12万石。 作兵衛は8000石。 10分の1より少ないが、十分ですね。
憶えていた広高が、えらい。 ※ 元々は、8万石だった。 天草領がプラスされる前。
寺には、地獄絵があるという。
時計回りに動く。
近松寺(きんしょうじ)。
人形浄瑠璃の近松門左衛門が、若いころこの寺にいたと説明があった。 そして、墓があると。
※ ただ、このことについては、ネット上に、この寺の説明以外はない。 説明を知って書いたのはあるが。
※ 墓は別の所にある。 近松寺の墓は、遺髪の墓かな。
近松寺は、ずっと昔からあった。 近松門左衛門は、寺の名前を苗字にした。
そう云うことでしょうね。
山頭火の句があった。 松原にも行ってるし、町も歩いている。 昭和7年1月20日。
真ん中の2行を漢字で書くと、摩訶般若波羅密多。
※ ほかに、こんな句も作っている。
「けふのおひるは 水ばかり」
酒を飲みながら、2つの句を作ったそうです。
変わった灯籠があった。
近松門左衛門の墓。
正面は、唐津神社。 唐津くんちは、唐津神社の秋の例大祭だった。 11月2日~4日。
曳山展示場の中。 曳山は、全部で14台。
人気のある祭りで、正月や盆に戻らない若者も、この時は戻ってくる。
唐津市の人口は、12万6千。 見物客は、60万人だそう。
重さ2㌧~4㌧。 武田信玄の鎧(よろい)の曳山もあった。
鯱(しゃちほこ)。
紙を何枚も貼って作るそう。
台車。
血沸き肉躍る、そんな感じか。
ここは、石垣の散歩道。 今の城から遠いが、城の石垣。
旧高取邸。
時の太鼓。 今は、時計がついていた。 唐津市は、昔の物を復元している。
※ この後、龍虎軒で、とんこつラーメンを食べた。 550円。 九州は安い。 安っぽくないのに。
紅ショウガをいっぱい入れて食べたら、スープが赤くなった。
遠くに、唐津城。 城としての魅力は、?。
※ 二の丸御殿跡には学校が建っている。
虹の松原一揆があった。 唐津市民の藩主への思いは、どうなんだろう。
石垣は、町の中まで続いている。
三の丸辰巳櫓。
旧唐津銀行本店。
右が正面。 デザインが凝っている。
現在は、無料で見学できる。 ※ 唐津市は、駐車場を含めて、公共的な料金は安いか無料。
辰野金吾の建築物は、誰でもが、テレビとかで見ている。
※ 日本銀行本店や東京駅(竣工当時)など。
この建物は、辰野の指導のもと、弟子が建てた。
駅の近くに、小さな屋台。 曳山の数と同じ、14のお店。
唐津くんちを、一度見てみたいです。
唐津には、あと1日いて、隣の玄海町に動きます。 通り過ぎたら、また唐津市。
寒さは、少し和らいでいます。
※ 追記 書き忘れたことがあるので、少しだけ。
上で登場した、唐津藩の所在藩主 寺沢広高は、関ヶ原の戦いで家康についた。
その結果、天草領4万石も彼の物になった。 それで12万石になった。
天草の城は、富岡城。 その場所は、今は苓北町(れいほくまち)。
そこを守ったのは、唐津藩の2代藩主、寺沢堅高。
島原の乱で、天草四郎は、富岡城を攻めた。 城は落とせなく、島原城に立てこもることになる。
寺沢堅高が、この時、天草四郎の軍を壊滅出来ていたら、後の島原の乱は起きなかった。
堅高は失政の責任を問われ、天草を没収される。 後に、堅高は自殺する。
このため、唐津藩は改易になり、藩主寺沢氏は廃絶する。
※ 関連ブログ 富岡城 ~苓北町、天草・島原の乱の激戦地~ 下田温泉五足の湯 他 (2010/2/7)
※ 上のブログの中で、「アダム荒川殉教の地」に行っている。
「天草の殉教者 アダム荒川」というサイトに、詳しく書いてある。
その中に、藩主 寺沢広高が、出てくる。
明日行く、松島の人たちの先祖は、きっと大変な思いをして、島に渡っている。
【動画】
【今日の歌】
【道の駅】 桃山天下市
【明日の予定】 クリスチャン100%という、松島に。
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(2008年4月~2010年9月までの記事)
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どちらかが立身出世したら、もう片方を十分の一の俸禄で召抱える、という約束をした。
お互い、波乱の人生の後、最後にそれが実現した。
唐津の町を歩いていたら、上の話に偶然出会った。
話は、本能寺で信長と一緒に討ち死にした、森蘭丸に関わっていた。
今日は、美味しいとんこつラーメンを食べた。 安い。
※ ※ ※ ※
駅の観光案内所で、地図をいただいた。
その時、虹の松原の100万本について聞いてみた。 こうだった。
松原には、種が落ちて、小さな松が育っている。
だから、100万本以上あると思っている。 数えたことはない。
これが、説明だった。
他の松原と同じように、大きく育った松だけを数えたら、多くても25万本ほど。(昨日のブログに説明を)
25万本が、そう云うことで、100万本に化けていた。
唐津市の考え方なら、200万本と言うこともできる。
虹の松原の本数は、通称100万本。 根拠が無いので、今後も、Wikipedia等に載ることはない。
そう云うことでした。
唐津は、唐津くんちの町。 全国に知られている。
駅前に、曳山(ひきやま)の像が。

佐賀銀行。 いいですね。

真っ直ぐ行ったら、市役所。 この後、左に行く。

寺があったので、説明を読んだ。 ※ いつも、さ~って読んで、面白そうだったら、じっくり読む。

本能寺で、森蘭丸は、安田作兵衛にやられたんですね。
作兵衛は、明智光秀の家来だから、苦労することになる。 最後は、唐津に来る。
その時の城の城主は、寺沢広高。
安田作兵衛と寺沢広高は、若い時に約束していた。 最初にも書いたが、
「どちらかが立身出世したら、もう片方を十分の一の俸禄で召抱える」
唐津藩12万石。 作兵衛は8000石。 10分の1より少ないが、十分ですね。
憶えていた広高が、えらい。 ※ 元々は、8万石だった。 天草領がプラスされる前。

寺には、地獄絵があるという。

時計回りに動く。

近松寺(きんしょうじ)。

人形浄瑠璃の近松門左衛門が、若いころこの寺にいたと説明があった。 そして、墓があると。
※ ただ、このことについては、ネット上に、この寺の説明以外はない。 説明を知って書いたのはあるが。
※ 墓は別の所にある。 近松寺の墓は、遺髪の墓かな。
近松寺は、ずっと昔からあった。 近松門左衛門は、寺の名前を苗字にした。
そう云うことでしょうね。
山頭火の句があった。 松原にも行ってるし、町も歩いている。 昭和7年1月20日。

真ん中の2行を漢字で書くと、摩訶般若波羅密多。
※ ほかに、こんな句も作っている。
「けふのおひるは 水ばかり」
酒を飲みながら、2つの句を作ったそうです。

変わった灯籠があった。


近松門左衛門の墓。

正面は、唐津神社。 唐津くんちは、唐津神社の秋の例大祭だった。 11月2日~4日。

曳山展示場の中。 曳山は、全部で14台。

人気のある祭りで、正月や盆に戻らない若者も、この時は戻ってくる。
唐津市の人口は、12万6千。 見物客は、60万人だそう。

重さ2㌧~4㌧。 武田信玄の鎧(よろい)の曳山もあった。

鯱(しゃちほこ)。

紙を何枚も貼って作るそう。

台車。

血沸き肉躍る、そんな感じか。

ここは、石垣の散歩道。 今の城から遠いが、城の石垣。

旧高取邸。

時の太鼓。 今は、時計がついていた。 唐津市は、昔の物を復元している。

※ この後、龍虎軒で、とんこつラーメンを食べた。 550円。 九州は安い。 安っぽくないのに。
紅ショウガをいっぱい入れて食べたら、スープが赤くなった。
遠くに、唐津城。 城としての魅力は、?。
※ 二の丸御殿跡には学校が建っている。
虹の松原一揆があった。 唐津市民の藩主への思いは、どうなんだろう。

石垣は、町の中まで続いている。

三の丸辰巳櫓。

旧唐津銀行本店。

右が正面。 デザインが凝っている。

現在は、無料で見学できる。 ※ 唐津市は、駐車場を含めて、公共的な料金は安いか無料。

辰野金吾の建築物は、誰でもが、テレビとかで見ている。
※ 日本銀行本店や東京駅(竣工当時)など。
この建物は、辰野の指導のもと、弟子が建てた。

駅の近くに、小さな屋台。 曳山の数と同じ、14のお店。

唐津くんちを、一度見てみたいです。
唐津には、あと1日いて、隣の玄海町に動きます。 通り過ぎたら、また唐津市。
寒さは、少し和らいでいます。
※ 追記 書き忘れたことがあるので、少しだけ。
上で登場した、唐津藩の所在藩主 寺沢広高は、関ヶ原の戦いで家康についた。
その結果、天草領4万石も彼の物になった。 それで12万石になった。
天草の城は、富岡城。 その場所は、今は苓北町(れいほくまち)。
そこを守ったのは、唐津藩の2代藩主、寺沢堅高。
島原の乱で、天草四郎は、富岡城を攻めた。 城は落とせなく、島原城に立てこもることになる。
寺沢堅高が、この時、天草四郎の軍を壊滅出来ていたら、後の島原の乱は起きなかった。
堅高は失政の責任を問われ、天草を没収される。 後に、堅高は自殺する。
このため、唐津藩は改易になり、藩主寺沢氏は廃絶する。
※ 関連ブログ 富岡城 ~苓北町、天草・島原の乱の激戦地~ 下田温泉五足の湯 他 (2010/2/7)
※ 上のブログの中で、「アダム荒川殉教の地」に行っている。
「天草の殉教者 アダム荒川」というサイトに、詳しく書いてある。
その中に、藩主 寺沢広高が、出てくる。
明日行く、松島の人たちの先祖は、きっと大変な思いをして、島に渡っている。
【動画】
【今日の歌】
【道の駅】 桃山天下市
【明日の予定】 クリスチャン100%という、松島に。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

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