舞鶴は、満州など、大陸からの引揚者を迎え入れた。
その数、約66万人。 ※ 遺骨の数、1万6千。
※ 終戦時、海外に残された日本人は、その10倍の約660万人。
引き揚げのスタートは、昭和20年10月。 最後は、昭和33年9月。
13年間に及んだ。 使った船は、57隻。
中国の東北部の満州にいた日本人は、約170万人。
よその国の土地を奪って、そこに住むことに、なんの疑問も持たないで、行ったんだろうか。
例えそれが、国策だとしても。
※ ※ ※ ※
引揚記念館は、湾の右端。 道の駅は、左下。 舞鶴港からは、北海道へのフェリーが出ている。
広く、引揚記念公園になっている。
建物の壁にあった文。 こんなのを読むと、記念館の姿勢が分かる。
入館料は300円。 ※ 赤レンガ博物館と合わせて、400円。
入ってすぐ、昭和の戦争をどう表記しているかを調べた。
すると、第二次世界大戦、太平洋戦争、という表現だった。
まともだなと感じた。 もし、大東亜戦争だったら、この資料館を見る価値はなくなる。
※ 大東亜戦争と言ってる所は、基本的に戦争を美化している。
知覧特攻平和会館など、そういう所が多い。
よその国の中に、満州国を作った。 傀儡(かいらい)政権と云われる国。
追い出された中国の人たちは、どこに行ったんだろう。
写真の人達は、他の国に来ているという罪悪感は、なかったんだろうか。
下の手紙は、旧ソ連の捕虜になった人達の手紙。 厳しい検閲を通っている。
捕虜は、給料を払わないで働かせることが出来る。 それが目的。
北海道の鉄道を、囚人や朝鮮人に作らせたのと同じ。
満足な食料はない。 冬は、極寒。
上の作業現場は、ウルガル付近とあったので、大体下の地図の印の辺り。 アムール河の流域になる。
北海道より、かなり緯度が高いので、冬にマイナス30度は当たり前。
記念館の中。 一部を除いて、写真はOK。
シベリアに抑留された人の数は、約107万人。 実質的に亡くなったのは、約34万人。 3分の1は死んだ。
※ 日本の全体の死者は、約310万人。 (ちなみに、ソ連は2000万人を越えている。) ※ 数字は、Wikipedia等。
※ 東日本大震災でも多くの人が亡くなった。 でも、戦争での死者数は、桁(けた)が違ってくる。
※ 戦争の責任があやふや。 不思議なこと。
捕虜の服装。
引揚港は、10港だったとある。
引揚船。
桟橋。 船から上陸して来た。 先頭の人は、遺骨を抱えている。
やっと戻ってきた。
舞鶴には、満州からが多い。
舞鶴には、2つの港があった。
高砂丸。 30回行き来し、55000人を運んだ。
いつ戻って来るかの情報は、きっと分からない。 待ち続けて、やっと会えるのか。
この建物は、舞鶴引揚援護局。 引揚者の面倒を見た。 行く当てのない人だっている。
上陸の様子。
地元の人たちは、温かく迎えた。 どこに向かっているんだろう。
岸壁の母のモデルの端野いせさんと、その息子。 息子さんは亡くなった。 でも待ち続けた。
思い出して描いた絵。 船に乗るため、港を目指して何日も歩く。
※ 途中で子供を中国人に預けることがあった。 子供は、後に残留孤児と呼ばれた。
預ける時、親はどんなことを考え、どんな心境だったかが知りたい。
また、中国人は、どんな思いで預かったのか。
こんな絵も。
引揚船の中。 船底で寝る。
ころ島港とある。 ここから出る船が多かった。 4~5日で舞鶴に。
大連は近い。 203高地の旅順も。
地図ではこう。
下のような文があった。 しわ寄せは、弱い物にとあると。
※ こんな文を展示すると、文句をいう組織や人物が、まだ日本には多い。
展示の内容で、舞鶴引揚記念館の姿勢が分かる。
こんな写真も。 男の子は、お腹を空かしている。
船の上での食事。

食べる物が無くなったらお終い、とある。
上の思いで、ちばてつやが描いた。
漫画家が、こんなに満州にいた。
公園の小高い丘の上に行ってみた。
石碑とかがあった。
歌碑。 後ろの山は、昨日登った青葉山。
像もあった。
奥の右が、湾の出口。
以前、同じ職場に、赤ちゃんの時に満州から引き揚げてきたんですよ、という女性がいた。
母親に感謝だねって、話したことがある。 山形出身の人。
※ 以前、息子さんの目のことで、ブログに登場したことがある。
この人から、ビタミンの役割とかを初めて学んだ。
健康に関心を持った、スタート。
子供の心を、どうつかむかなども、学んだ。
今日の話は、たった60数年前の出来事ですね。
【今日の歌】
ミュージカル「異国の丘」 画面をクリックすると、YouTubeに行きます。 ※ 貼り付けられない。
シベリアに抑留されている人達の中で生まれた歌。 作曲は吉田正。 彼も、シベリアにいた。
この曲は、軍歌とは別と考えていいですね。
岸壁の母を最初に歌った人。
大連には、多くの日本人がいた。 今の大連は、大都会。 大陸の匂いがする、不思議なメロディ。
【道の駅】 舞鶴港とれとれセンター
【明日の予定】 赤レンガ博物館を見る。 その後、亀岡へ。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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その数、約66万人。 ※ 遺骨の数、1万6千。
※ 終戦時、海外に残された日本人は、その10倍の約660万人。
引き揚げのスタートは、昭和20年10月。 最後は、昭和33年9月。
13年間に及んだ。 使った船は、57隻。
中国の東北部の満州にいた日本人は、約170万人。
よその国の土地を奪って、そこに住むことに、なんの疑問も持たないで、行ったんだろうか。
例えそれが、国策だとしても。
※ ※ ※ ※
引揚記念館は、湾の右端。 道の駅は、左下。 舞鶴港からは、北海道へのフェリーが出ている。

広く、引揚記念公園になっている。

建物の壁にあった文。 こんなのを読むと、記念館の姿勢が分かる。

入館料は300円。 ※ 赤レンガ博物館と合わせて、400円。
入ってすぐ、昭和の戦争をどう表記しているかを調べた。
すると、第二次世界大戦、太平洋戦争、という表現だった。
まともだなと感じた。 もし、大東亜戦争だったら、この資料館を見る価値はなくなる。
※ 大東亜戦争と言ってる所は、基本的に戦争を美化している。
知覧特攻平和会館など、そういう所が多い。
よその国の中に、満州国を作った。 傀儡(かいらい)政権と云われる国。

追い出された中国の人たちは、どこに行ったんだろう。
写真の人達は、他の国に来ているという罪悪感は、なかったんだろうか。

下の手紙は、旧ソ連の捕虜になった人達の手紙。 厳しい検閲を通っている。


捕虜は、給料を払わないで働かせることが出来る。 それが目的。
北海道の鉄道を、囚人や朝鮮人に作らせたのと同じ。

満足な食料はない。 冬は、極寒。


上の作業現場は、ウルガル付近とあったので、大体下の地図の印の辺り。 アムール河の流域になる。
北海道より、かなり緯度が高いので、冬にマイナス30度は当たり前。
記念館の中。 一部を除いて、写真はOK。

シベリアに抑留された人の数は、約107万人。 実質的に亡くなったのは、約34万人。 3分の1は死んだ。
※ 日本の全体の死者は、約310万人。 (ちなみに、ソ連は2000万人を越えている。) ※ 数字は、Wikipedia等。
※ 東日本大震災でも多くの人が亡くなった。 でも、戦争での死者数は、桁(けた)が違ってくる。
※ 戦争の責任があやふや。 不思議なこと。
捕虜の服装。

引揚港は、10港だったとある。

引揚船。

桟橋。 船から上陸して来た。 先頭の人は、遺骨を抱えている。

やっと戻ってきた。

舞鶴には、満州からが多い。

舞鶴には、2つの港があった。

高砂丸。 30回行き来し、55000人を運んだ。

いつ戻って来るかの情報は、きっと分からない。 待ち続けて、やっと会えるのか。

この建物は、舞鶴引揚援護局。 引揚者の面倒を見た。 行く当てのない人だっている。

上陸の様子。


地元の人たちは、温かく迎えた。 どこに向かっているんだろう。

岸壁の母のモデルの端野いせさんと、その息子。 息子さんは亡くなった。 でも待ち続けた。



思い出して描いた絵。 船に乗るため、港を目指して何日も歩く。

※ 途中で子供を中国人に預けることがあった。 子供は、後に残留孤児と呼ばれた。
預ける時、親はどんなことを考え、どんな心境だったかが知りたい。
また、中国人は、どんな思いで預かったのか。
こんな絵も。


引揚船の中。 船底で寝る。

ころ島港とある。 ここから出る船が多かった。 4~5日で舞鶴に。
大連は近い。 203高地の旅順も。

地図ではこう。

下のような文があった。 しわ寄せは、弱い物にとあると。
※ こんな文を展示すると、文句をいう組織や人物が、まだ日本には多い。
展示の内容で、舞鶴引揚記念館の姿勢が分かる。

こんな写真も。 男の子は、お腹を空かしている。


船の上での食事。

食べる物が無くなったらお終い、とある。

上の思いで、ちばてつやが描いた。

漫画家が、こんなに満州にいた。

公園の小高い丘の上に行ってみた。

石碑とかがあった。

歌碑。 後ろの山は、昨日登った青葉山。

像もあった。

奥の右が、湾の出口。

以前、同じ職場に、赤ちゃんの時に満州から引き揚げてきたんですよ、という女性がいた。
母親に感謝だねって、話したことがある。 山形出身の人。
※ 以前、息子さんの目のことで、ブログに登場したことがある。
この人から、ビタミンの役割とかを初めて学んだ。
健康に関心を持った、スタート。
子供の心を、どうつかむかなども、学んだ。
今日の話は、たった60数年前の出来事ですね。
【今日の歌】
ミュージカル「異国の丘」 画面をクリックすると、YouTubeに行きます。 ※ 貼り付けられない。

シベリアに抑留されている人達の中で生まれた歌。 作曲は吉田正。 彼も、シベリアにいた。
この曲は、軍歌とは別と考えていいですね。
岸壁の母を最初に歌った人。
大連には、多くの日本人がいた。 今の大連は、大都会。 大陸の匂いがする、不思議なメロディ。
【道の駅】 舞鶴港とれとれセンター
【明日の予定】 赤レンガ博物館を見る。 その後、亀岡へ。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

【ランキング】 国内旅行は4位、 旅行全体で9位です。
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※ 1回のクリックで、10ポイント。 1週間生きます。
青葉山は霞んでいる。 ガスっぽい天気。
登るかどうか迷った。
弁当も作ったし、天気だって変わるかもしれない。
予想通り天気は変わった。 でも、いい方には変わらなかった。
下山後、激しい土砂降りになった。 登山道が、小川になるほどの。
※ ※ ※ ※
青葉山は、高浜町と舞鶴市との境にある。 頂上は、高浜町。
この天気です。 昨日とは違う。
青葉山青少年旅行村の駐車場。 頂上は見えていない。 登山口まで、5分ほど歩く。
私より少し先に、名古屋から来たという7人のグループが出発している。
登山口。
頂上の高さは、693㍍。 東峰。 西峰もあって、1㍍低い692㍍。
※ 頂上が耳のように2つあるので、双耳峰という山。 由布岳もそうだった。
1時間半で着きそう。
山の下は、昔は棚田か段畑があったよう。 今は、木が植えられている。
人気のある山は、登山道が整備されている。
小雨が降り出して来た。 傘をさしている。
青葉神社が、山の頂上。 高い方の東峰。
隙間から下界が見えた。
いつもそうだけの、見えた時に撮っておくことにしている。 この後、見えないかも知れないので。
名古屋からの人達が、見えた。 みんな傘をさしている。
※ 風が強いと、傘は使えない。 そうなったら、戻るけど。
シャガの花。 アヤメの仲間。 右は、分からない。
登山道が深く掘れている。 青葉さんは信仰の山。 昔から人は登った。
展望台に着いた。 みんな一休み。 霧の中。
頂上まで、1㌔程。
下は、何も見えない。 山の楽しみが、一つ消えた。
ちょっと歩くと、金比羅大権現。 名古屋の人達より、先に出ている。
歩きやすい道。 この頃、小雨は止んだ。
登りが続く。
あとちょっと。
この時、ハトのような鳴き声が聞こえた。
ポッポッポッ、のように鳴いた。
キジバト(ヤマバト)は、デデッポッポーって鳴くが、それとは違う。
※ 晩に調べたが、分からなかった。
左に、大きな岩がある。 ここが馬ノ背でしょうか。 奥に、薄っすらと頂上が見えた。
岩に登って、足元はこう。 左奥から登ってきた。
下の風景が見えることになっているが、何も見えない。
でも、雨にぬれた新緑は、いっそう美しい。
登り始めたら、すぐに頂上に着いた。 頂上の場所に、青葉神社。
下にベンチがある。 後で、食事はここでする。
ここから、下が見渡せるのだろうか。
神社の裏に、頂上の標識。 693㍍。
名古屋からの人達が着いた。
名古屋の人達は、今度50人程で、この山に来るそう。 今回は、下見で来た。
この後、みんなで食事。 賑やか。
名古屋にいたら、ここまで来なくても、山はいくらでもあるんでない、って私は聞いた。
みんな登ってしまったので、この青葉山になったと、言った。
名古屋の人達は、西峰に行く予定だったようだが、行かないことにした。
天気のこととかがあって。
私も止めた。 きっと景色が見えないから。
20分程食事をして、下山開始。 私は一番後ろを歩く。
みんな元気。 北海道の山を登った人もいる。
金比羅大権現。 休まないで、すぐに下る。
私の後ろに、5人いる。
みんな、ワラビを探しながら歩いている。 ミツバを採ってる人も。
※ ワラビの煮物は美味しい。 居酒屋でおでんに入っていたら、いつも注文する。
味噌汁に、ミツバが散らばっていると、香りがいい。 自然のは、香りが強い。
雲行きが怪しくなって、遠くで雷が鳴り出した。 みんな急いで下山。
駐車場に着いた頃、雨が降り出した。
重要文化財の中山寺を見る予定だったが、写真を1枚撮ってお終い。
雨が強くなってきた。
この後、名古屋の人達とお別れ。 舞鶴に向かった。
途中で、スーパーで買い物。
買い物が終わって車に戻ろうとしたら、土砂降り。 車に行けない。
駐車場は、川のように水が流れている。 5秒外にいたら、ずぶぬれ。 そんな雨。
止むのを待った。
今日の青葉山は、上からの景色が見られませんでした。
でも、名古屋からの人達と話せたので、退屈はしませんでした。
いい一日でした。
【今日の歌】
学生時代。 作詞作曲は、平岡 精二と云う人。 ペギー葉山の1964年のヒット曲。
2人とも、青山学院大学出身。
下の編曲が、一番好き。 あるアルバムの中にある。
1番の歌詞に、秋の日の図書館の・・、というのがある。
上の動画の写真が、その図書館。 間島記念館という建物。 現在は、資料館。 青山学院大にある。
1番の歌詞の出だしの、ツタのからまるチャペルは、写真の左の建物。
ベリーホールと云う建物。 ※ 上の建物もこれも、国登録有形文化財。
祈りをささげた場所は、ベリーホールの中にある、チャールズ・オスカー・ミラー記念礼拝堂。 写真右。
※ 設計は、J.H.ヴォーゲルと云う人。
この人は、ヴォーリズ建築事務所の中心メンバーだった人。 米国人。
ヴォーリズは、ブログで何度か紹介。 最北の建物は、北海道北見にあるピアソン記念館。
近江八幡にも、ヴォーリズの設計した建物があった。
この編曲が基本。 テンポが速い。
誰が歌っているか分からないが、いい。
プロかどうか、分からない。 もう少しすっぱい感じなら、本田路津子。
もしかして、サザンの原由子。 桑田佳祐の奥さま。 彼女の歌を色々聴いてみたが、確認出来ない。
女性には誰にも、今日の歌のような学生時代があった。
誰もが、そこから少しずつ遠ざかって、歳を重ねていく。
この歌を聴くと、そのことを感じさせてくれるかな。
【道の駅】 舞鶴港とれとれセンター
【明日の予定】 岸壁の母の舞台を調べてみます。
戦後満州から多くの人たちが引き揚げました。
その中心の港が、ここ、舞鶴港です。
見晴らしのいい所にも、行きたい。 登りたい。
31日に、亀岡に戻ります。
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(2008年4月~2010年9月までの記事)
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登るかどうか迷った。
弁当も作ったし、天気だって変わるかもしれない。
予想通り天気は変わった。 でも、いい方には変わらなかった。
下山後、激しい土砂降りになった。 登山道が、小川になるほどの。
※ ※ ※ ※
青葉山は、高浜町と舞鶴市との境にある。 頂上は、高浜町。
この天気です。 昨日とは違う。

青葉山青少年旅行村の駐車場。 頂上は見えていない。 登山口まで、5分ほど歩く。
私より少し先に、名古屋から来たという7人のグループが出発している。

登山口。

頂上の高さは、693㍍。 東峰。 西峰もあって、1㍍低い692㍍。
※ 頂上が耳のように2つあるので、双耳峰という山。 由布岳もそうだった。
1時間半で着きそう。

山の下は、昔は棚田か段畑があったよう。 今は、木が植えられている。

人気のある山は、登山道が整備されている。
小雨が降り出して来た。 傘をさしている。

青葉神社が、山の頂上。 高い方の東峰。

隙間から下界が見えた。
いつもそうだけの、見えた時に撮っておくことにしている。 この後、見えないかも知れないので。

名古屋からの人達が、見えた。 みんな傘をさしている。
※ 風が強いと、傘は使えない。 そうなったら、戻るけど。

シャガの花。 アヤメの仲間。 右は、分からない。


登山道が深く掘れている。 青葉さんは信仰の山。 昔から人は登った。

展望台に着いた。 みんな一休み。 霧の中。

頂上まで、1㌔程。

下は、何も見えない。 山の楽しみが、一つ消えた。

ちょっと歩くと、金比羅大権現。 名古屋の人達より、先に出ている。


歩きやすい道。 この頃、小雨は止んだ。

登りが続く。

あとちょっと。
この時、ハトのような鳴き声が聞こえた。
ポッポッポッ、のように鳴いた。
キジバト(ヤマバト)は、デデッポッポーって鳴くが、それとは違う。
※ 晩に調べたが、分からなかった。

左に、大きな岩がある。 ここが馬ノ背でしょうか。 奥に、薄っすらと頂上が見えた。

岩に登って、足元はこう。 左奥から登ってきた。

下の風景が見えることになっているが、何も見えない。
でも、雨にぬれた新緑は、いっそう美しい。

登り始めたら、すぐに頂上に着いた。 頂上の場所に、青葉神社。
下にベンチがある。 後で、食事はここでする。


ここから、下が見渡せるのだろうか。

神社の裏に、頂上の標識。 693㍍。

名古屋からの人達が着いた。

名古屋の人達は、今度50人程で、この山に来るそう。 今回は、下見で来た。
この後、みんなで食事。 賑やか。

名古屋にいたら、ここまで来なくても、山はいくらでもあるんでない、って私は聞いた。
みんな登ってしまったので、この青葉山になったと、言った。
名古屋の人達は、西峰に行く予定だったようだが、行かないことにした。
天気のこととかがあって。
私も止めた。 きっと景色が見えないから。
20分程食事をして、下山開始。 私は一番後ろを歩く。

みんな元気。 北海道の山を登った人もいる。

金比羅大権現。 休まないで、すぐに下る。

私の後ろに、5人いる。
みんな、ワラビを探しながら歩いている。 ミツバを採ってる人も。
※ ワラビの煮物は美味しい。 居酒屋でおでんに入っていたら、いつも注文する。
味噌汁に、ミツバが散らばっていると、香りがいい。 自然のは、香りが強い。

雲行きが怪しくなって、遠くで雷が鳴り出した。 みんな急いで下山。
駐車場に着いた頃、雨が降り出した。

重要文化財の中山寺を見る予定だったが、写真を1枚撮ってお終い。
雨が強くなってきた。

この後、名古屋の人達とお別れ。 舞鶴に向かった。
途中で、スーパーで買い物。
買い物が終わって車に戻ろうとしたら、土砂降り。 車に行けない。
駐車場は、川のように水が流れている。 5秒外にいたら、ずぶぬれ。 そんな雨。
止むのを待った。
今日の青葉山は、上からの景色が見られませんでした。
でも、名古屋からの人達と話せたので、退屈はしませんでした。
いい一日でした。
【今日の歌】
学生時代。 作詞作曲は、平岡 精二と云う人。 ペギー葉山の1964年のヒット曲。
2人とも、青山学院大学出身。
下の編曲が、一番好き。 あるアルバムの中にある。
1番の歌詞に、秋の日の図書館の・・、というのがある。
上の動画の写真が、その図書館。 間島記念館という建物。 現在は、資料館。 青山学院大にある。
1番の歌詞の出だしの、ツタのからまるチャペルは、写真の左の建物。
ベリーホールと云う建物。 ※ 上の建物もこれも、国登録有形文化財。
祈りをささげた場所は、ベリーホールの中にある、チャールズ・オスカー・ミラー記念礼拝堂。 写真右。
※ 設計は、J.H.ヴォーゲルと云う人。
この人は、ヴォーリズ建築事務所の中心メンバーだった人。 米国人。
ヴォーリズは、ブログで何度か紹介。 最北の建物は、北海道北見にあるピアソン記念館。
近江八幡にも、ヴォーリズの設計した建物があった。


この編曲が基本。 テンポが速い。
誰が歌っているか分からないが、いい。
プロかどうか、分からない。 もう少しすっぱい感じなら、本田路津子。
もしかして、サザンの原由子。 桑田佳祐の奥さま。 彼女の歌を色々聴いてみたが、確認出来ない。
女性には誰にも、今日の歌のような学生時代があった。
誰もが、そこから少しずつ遠ざかって、歳を重ねていく。
この歌を聴くと、そのことを感じさせてくれるかな。
【道の駅】 舞鶴港とれとれセンター
【明日の予定】 岸壁の母の舞台を調べてみます。
戦後満州から多くの人たちが引き揚げました。
その中心の港が、ここ、舞鶴港です。
見晴らしのいい所にも、行きたい。 登りたい。
31日に、亀岡に戻ります。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

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