稚内駅周辺は、すっかり変わった。
駅舎は、明るいイメージで、今風。 誰が設計したんだろう、って思う。
広い大地と、青い空に、似合っている。
最果ての地に下り立った時、誰もが、暗い気持ちにはならない。
※ ※ ※ ※
中央に稚内駅。
地図に、道の駅は載ってないけど、駅の右側に駐車場。 ずっと右の海まで。
地元の人が停めようが、誰が勝手に停めようが、広すぎるから、困らない。
道の駅の建物は、JRの駅と同じ。 両方を、併設している。
※ 建物全体は、キタカラと呼んでる、複合施設。
道の駅のトイレは、駅舎の左端にある。 24時間。
※ 道の駅は、JRの駅のように、道にも駅があったらいいなと、あっちこっちに作られた。
当初は、JRの駅のないところに多く作られたが、最近は、駅の近くにもある。
さらに、稚内のように、両方一緒の駅も珍しくなくなった。
古い稚内駅は、この辺にあった。 線路は、ここまで来ていた。 それで、記念碑。
更にもっと昔は、まだまだ線路はあった。 防波堤の方まで。
その部分は、道に、線路の模様。 写真に、少し見える。
下の写真は、2010年8月20日に撮影。 古い駅と、新しい駅の一部が、いっしょにある。
この時、どこが駅なのか、すぐに分からなかった。
稚内駅は、日本最北端の駅。 最西端、最東端は行ったが、最南端は、行ってない。
※ 最西端の駅は、たびら平戸口駅。 最東端は、東根室駅。 関連ブログは、最後に。
今の駅には、線路は1本しかない。
昔は、網目のようにあった。 船に乗る所までも。
全盛期は、トラック輸送が始まる前か。
駅舎には、映画館やコンビニもある。
吉永小百合だ。 映画のロケがあった。
吉永小百合は、どうして、こんな風に見えるんだろう。
健康と、考え方の若さかな。 生き方もあるか。
私は、この写真を見ていたので、ニーナさんが彼女と重なった。
子供たちの表情がいい。
※ JRの大人の休日クラブで、宮古編が出た。 新しい。
吉永小百合は、いつも、さあ行くわよ!、っていう雰囲気を持っている。
そこが、好き。
( 私の調子いい時は、どこまでも行くぞ、ってなるんだが・・・。)
駅の隣に、北市場。 通路に、タラバガニがいた。 ※ この大きさだと、1万5~6千円だそう。
稚内港北防波堤ドーム。
※ 私は、駐車場の、一番端に停めている。 目の前に、これが見える。
観光客は、これは何だろうって考える。 不思議なデザイン。 考えた人に、脱帽。
この下を通って、向こうに行く。 そして、船に乗った。
※ 今のフェリー乗り場は、こっちではない。
昭和11年に完成して、昭和55年に改築された。
※ 戦後、大鵬親子が、この下を手をつないで、向こうからこっちに歩いてきたのかな。
母親の体調が悪かったので、下船した。 船は、留萌沖で撃沈される。
木の枠を作って、その中に、コンクリートを流し込んだ。
昭和6年から、作り始めた。
防波堤の上を歩けたら、面白い。
ずっと向こうに、宗谷岬がある。
中央に、稚内駅。
今日は、いそがしかった。
昨日の、ニーナさんのブログが、とりあえず完成したのが、夕方の5時過ぎ。 朝から、ずっと。
急いで印刷して、ペチカにいるニーナさんに届けてきた。
見てもらって、直しが必要な所は、直すことになる。
明日の晩(31日)、Tさんと、ペチカにもう一度行って来る。
【関連ブログ】 日本最西端の駅、たびら平戸口駅 たびら昆虫自然園 ~平戸市~ 情熱のルンバ、純情二重奏 (2012/1/27)
日本最東端の駅 東根室駅 明治公園 涙香岬 他 ~根室市~ 他 (2010/9/2)
※ 最南端駅は、鹿児島県の西大山駅。 開聞岳が目の前。
近くを何度も通っているが、寄ったことはない。 今度。
※ 開聞岳には、2010年1月1日に登った。 その時の写真。
【今日の曲】
百万本のバラを、徳永英明が歌っていることは、ニーナさんも言っていた。
画面をクリックすると、YouTubeに。
演奏は、三根信宏。 プロ。 ※ 昔、ディック・ミネと云う歌手がいた。 その人の、3男。
【その他】
城之内早苗の「北の旅路」という歌だが、舞台は網走駅と思っていたが、稚内駅でも合うように思う。
特に、古かった時の駅。
涙の岬、と云う言葉が出てくる。 どっちの岬だろう。 どっちも、涙の岬か。
※ この曲の思い出に関しては、2011年11月22日に、詳しく書いてあります。
※ この曲にコメントを書いてくれた人がいる。
少し前、亡くなった。 亡くなる前日の晩、その人からメールをいただいた。
次の日の早朝、返事のメールを送った。 読んでいただけたか、分かっていない。
【道の駅】 わっかない
【明日の予定】 どこかを歩く。 山の上の、稚内公園に行くとか。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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駅舎は、明るいイメージで、今風。 誰が設計したんだろう、って思う。
広い大地と、青い空に、似合っている。
最果ての地に下り立った時、誰もが、暗い気持ちにはならない。
※ ※ ※ ※
中央に稚内駅。
地図に、道の駅は載ってないけど、駅の右側に駐車場。 ずっと右の海まで。
地元の人が停めようが、誰が勝手に停めようが、広すぎるから、困らない。

道の駅の建物は、JRの駅と同じ。 両方を、併設している。
※ 建物全体は、キタカラと呼んでる、複合施設。
道の駅のトイレは、駅舎の左端にある。 24時間。
※ 道の駅は、JRの駅のように、道にも駅があったらいいなと、あっちこっちに作られた。
当初は、JRの駅のないところに多く作られたが、最近は、駅の近くにもある。
さらに、稚内のように、両方一緒の駅も珍しくなくなった。

古い稚内駅は、この辺にあった。 線路は、ここまで来ていた。 それで、記念碑。
更にもっと昔は、まだまだ線路はあった。 防波堤の方まで。
その部分は、道に、線路の模様。 写真に、少し見える。

下の写真は、2010年8月20日に撮影。 古い駅と、新しい駅の一部が、いっしょにある。
この時、どこが駅なのか、すぐに分からなかった。

稚内駅は、日本最北端の駅。 最西端、最東端は行ったが、最南端は、行ってない。
※ 最西端の駅は、たびら平戸口駅。 最東端は、東根室駅。 関連ブログは、最後に。
今の駅には、線路は1本しかない。
昔は、網目のようにあった。 船に乗る所までも。
全盛期は、トラック輸送が始まる前か。

駅舎には、映画館やコンビニもある。
吉永小百合だ。 映画のロケがあった。

吉永小百合は、どうして、こんな風に見えるんだろう。
健康と、考え方の若さかな。 生き方もあるか。
私は、この写真を見ていたので、ニーナさんが彼女と重なった。
子供たちの表情がいい。

※ JRの大人の休日クラブで、宮古編が出た。 新しい。
吉永小百合は、いつも、さあ行くわよ!、っていう雰囲気を持っている。
そこが、好き。
( 私の調子いい時は、どこまでも行くぞ、ってなるんだが・・・。)
駅の隣に、北市場。 通路に、タラバガニがいた。 ※ この大きさだと、1万5~6千円だそう。

稚内港北防波堤ドーム。
※ 私は、駐車場の、一番端に停めている。 目の前に、これが見える。

観光客は、これは何だろうって考える。 不思議なデザイン。 考えた人に、脱帽。
この下を通って、向こうに行く。 そして、船に乗った。
※ 今のフェリー乗り場は、こっちではない。

昭和11年に完成して、昭和55年に改築された。
※ 戦後、大鵬親子が、この下を手をつないで、向こうからこっちに歩いてきたのかな。
母親の体調が悪かったので、下船した。 船は、留萌沖で撃沈される。

木の枠を作って、その中に、コンクリートを流し込んだ。
昭和6年から、作り始めた。

防波堤の上を歩けたら、面白い。

ずっと向こうに、宗谷岬がある。

中央に、稚内駅。

今日は、いそがしかった。
昨日の、ニーナさんのブログが、とりあえず完成したのが、夕方の5時過ぎ。 朝から、ずっと。
急いで印刷して、ペチカにいるニーナさんに届けてきた。
見てもらって、直しが必要な所は、直すことになる。
明日の晩(31日)、Tさんと、ペチカにもう一度行って来る。
【関連ブログ】 日本最西端の駅、たびら平戸口駅 たびら昆虫自然園 ~平戸市~ 情熱のルンバ、純情二重奏 (2012/1/27)
日本最東端の駅 東根室駅 明治公園 涙香岬 他 ~根室市~ 他 (2010/9/2)
※ 最南端駅は、鹿児島県の西大山駅。 開聞岳が目の前。
近くを何度も通っているが、寄ったことはない。 今度。
※ 開聞岳には、2010年1月1日に登った。 その時の写真。

【今日の曲】
百万本のバラを、徳永英明が歌っていることは、ニーナさんも言っていた。
画面をクリックすると、YouTubeに。

演奏は、三根信宏。 プロ。 ※ 昔、ディック・ミネと云う歌手がいた。 その人の、3男。
【その他】
城之内早苗の「北の旅路」という歌だが、舞台は網走駅と思っていたが、稚内駅でも合うように思う。
特に、古かった時の駅。
涙の岬、と云う言葉が出てくる。 どっちの岬だろう。 どっちも、涙の岬か。
※ この曲の思い出に関しては、2011年11月22日に、詳しく書いてあります。
※ この曲にコメントを書いてくれた人がいる。
少し前、亡くなった。 亡くなる前日の晩、その人からメールをいただいた。
次の日の早朝、返事のメールを送った。 読んでいただけたか、分かっていない。
【道の駅】 わっかない
【明日の予定】 どこかを歩く。 山の上の、稚内公園に行くとか。
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よかったですよ。
ニーナさんが歌う「百万本のバラ」。
上手でした。
ニーナさんの声は、聴いてて、とっても心地いいものでした。
「大好きなあなた」と云う曲も、歌ってくれました。
初めて聴く曲。 ( ネット上には無い曲です。)
これも、いいですよ。
※ ※ ※ ※
ニーナさんは、最果ての町、稚内にいます。
お店は、副港市場の前。
いくつかお店があって、まとめて、波止場横町。
※ ここから少し、私的な部分。
Tさんと、7時に待ち合わせしていた。
ところが、6時頃、時間があるから家に遊びにおいでって、車で迎えに来てくれた。
ビールを飲んで、お寿司を御馳走になってしまった。 ウニもたくさん。
奥さまと3人で、稚内のことを、おしゃべり。
Tさんは、Aさんと云う人を誘った。
私は、大学以来会っていない。
7時半にお店の前に。 奥さまが送ってくれた。
Aさんがやってきた。 不思議なもんで、昔の面影は、ちゃんと残っていた。
少し早口で、大きな声の話し方は、同じだった。
ロシア料理、ペチカ。 店長は、ニーナさん。
お店は混んでいた。
外で15分程、空くのを待った。
店の中には、ニーナさんと思われる人が動いていた。 すぐに、分かった。
今日の稚内は、夜になっても、むし暑い。
外で、風に当たっていたら、丁度いい。
この暑さは、稚内の人達に、これで暑い日はもう十分ですね、と言ってるようだ。
ロシア料理。 食べたことないものばかり。
下のは、ロシアの餃子。 焼いたのを注文。
酒は、最初はビール。
※ 飲んだのは、バルチカビール。 ビール会社「バルチカ」のビール。
本社は、サンクトペテルブルク。
(バルチカ、と云う言葉は、バルト海のバルトと、関係ありそう)
ハバロフスクでも、作られている。 (アムール川沿いにある町)
度数を選べるのが、特徴。 注文したのは、4%程の度数の低いやつ。
飲みやすく、くせが無い。 美味しい。
その後は、のどが焼けるようなウォッカを、水を飲みながら、飲んだ。
8時半過ぎ、ニーナさんは、歌の準備をした。
この時間になったら、いつも歌うよう。
最初、短い曲を歌った。 この時に、写真を撮って、動画の準備をした。
※ ニーナさんに、了解をいただいて。 YouTubuに載せることも。
歌詞は見ない。 当たり前か。 彼女は、若い時から歌っている。
ギターの音が、はっきりしている、という印象を持った。
※ 追記 ニーナさんの使用しているギターは、フラメンコギター。(31日に、ニーナさんに聞いた)
これは、ナイロン弦のアコースティックギターの一種。
明るくて、立ち上がりが鋭く、歯切れの良い音色を特徴とする。(Wikipedia)
余計な話・・・私のミニアコースティックギターも、ナイロン弦。 私が勝手に、張り替えた。
やわらかい音が、好きなので。
※ お客さんの中には地元の人もいて、ニーナさんの歌声を聴きなれてる人がいます。
その人は、歌を聴きながら、お話しを続けています。
でも、歌が始まったら、そんなに気になりません。
ニーナさんと、百万本のバラについて、少し話していた。
そんなことがあって、歌ってくれた。
次に歌ったのが、「大好きなあなた」。 遊び心いっぱいの歌です。
素晴らしい歌だけど、日本には伝わっていない。
※ 題名だけ、「おけら」という音楽のサイトに載っていた。 他は、ない。
キュートな、歌い方ですよ。
いろんな料理を注文した。 酒も色々。
歌の後、仕事の合間に、ニーナさんは、私の質問に答えてくれた。
ここからは、ニーナさんを紹介。
ニーナさんのお父さんは、日本人。 (満州鉄道の調査部にいた)
お母さんは、ロシア人。 (ニーナさんは、ハーフロシアンと、自分を言っている)
ニーナさんは、ハルビンで生まれた。
※ ニーナさんの家系は、母の父の代から、ハルビンに暮らす。
母の父は、満鉄の技師として、ロシアからやってきた。
ニーナさんは、祖父がやってきたのは、1890年代と言った。
このことについて、調べてみた。
この時はまだ、ロシア帝国時代。
ロシア帝国は、1898年に、満州横断鉄道の建設を始めた。
高い教育を受けた技師として来ているから、この1898年に来たと考えていい。
1917年にロシア革命。
※ この時期に、外国に出た人は、白系ロシア人と呼ばれる。
※ スタルヒンの家族は、革命の後に逃げたので、白系ロシア人。
ニーナさんは、白系ロシア人ではない。(ニーナさんも、そう考えている)
ハルビンは、下の地図。
※ スタルヒン家族も、何年か、ハルビンにいた。 一緒にいた時代がある。
※ 稚内と、緯度が、そんなに変わらない。
※ 日ハム、旭川スタルヒン球場で、大勝。 1イニング、11点。 市民の応援が届いた。~旭川市~ 他 (2012/8/21)
ニーナさんのお母様。 美しい人です。
名前は、ガールムシェワ・エフゲニヤ・ニコラエブナ。
※ ニーナさんの話では、ニコラエブナ、というのは、よくあるそう。
そう言えば、アナスタシア・ニコラエブナ、という人がいた。 最後のロシア皇帝の、第4皇女。
※ ここからの写真は、アルバムの写真を撮影させていただいた。
アーラ・プガチョワ。 この人が、旧ソ連で、最初に「百万本のバラ」を歌う。
ここで、ニーナさんが、どうして、百万本のバラを歌うことになったのか。
ニーナさんは、若い頃、水星社という所に所属していた。
水星社は、ロシアのヒット曲を探していた。
その時に、百万本のバラを見つけた。
日本で売り出すことのできる権利(著作権)を買い取った。
歌ったのは、ニーナさん。
※ 買い取ってからの1年間、歌ったのはニーナさんだけ。
会社は、他の人には、歌わせなかった。
※ ニーナさんは、1978年から、NHKのロシア語講座の今月の歌で、色んな歌を歌い始めていた。
レコードデビューは、1982年。
1983年に、百万本のバラを、ロシア語と日本語で発売。
この時の歌は、YouTubuには、ない。 ※ 誰か載せたらいいのに。
1984年に、岩谷時子さんの訳詞で、小田陽子さんが歌う。
サビのロシア語の部分の発音が難しいということで、ニーナさんが、小田さんの発音に関わったと云う。
この小田陽子さんは、百万本のバラの原曲の、「マーラが与えた人生」も歌っている。
歌が生まれた、ラトビアに行っている。
加藤登紀子のお父さんは、ニーナさんの歌が、大好きだった。
ニーナさんのレコードを、たくさん売ってくれた。
※ 実は、親同士は、おトキさんのデビュー前から親しい関係。
そんなことで、ニーナさん、おトキさんを含めた、家族ぐるみで親しくなっていく。
※ 現在も、親しくお付き合い。
※ 加藤さんの家族も、ハルビンにいた。 おトキさんは、ハルビンで生まれている。
1987年に、加藤登紀子さんが、百万本のバラを歌って、より、全国的に広めることになる。
1987年の7月に、プガチョワさん夫妻が、初めて、日本に来る。
おトキさんが、日比谷の野外音楽堂で歌うことになり、そのゲスト出演のために来た。
プガチョワさんは、おトキさんを通して、ニーナさんを知った。
当時、ニーナさんは、銀座に店があった。
下の写真は、ニーナさんのお店で撮影。
左は、ニーナさん。
右は、アーラ・プガチョワ。 旧ソ連で、百万本のバラを最初に歌った人。
旧ソ連で最初、日本で最初、その2人が並んでいる。
男の人は、プガチョワさんの当時の旦那様。 ニーナさんは、いつも、ちょっと控え目な表情。 それがいい。
※ 上の写真の、後ろの絵は、忘れえぬ女(ひと)。(私の絵を撮影) 忘れえぬ女 (イワン・クラムスコイ) 他 (2009/07/07)
ニーナさんは、独学でロシア語を学んだ。
お母さんは、もちろん話せたが、ニーナさんに教えるのが、大変だったよう。
ハーフロシアンの友人の紹介で、近くに住んでいるグルジア人女性と知り合いになる。
それがきっかけで、1年半、グルジアに行って暮らすことになる。(2005年~)
※ グルジアは、「百万本のバラ」の唄で、バラを贈った画家、ピロスマニの国でもある。
※ 場所は、シリアの北にトルコ、トルコの北にある。
※
ピロスマニはマルガリータに、バラを贈るんだが、その舞台は、ソチ。 1894年のこと。
※ この時のピロスマニの年齢は、32歳と分かっている。
でも、マルガリータの年齢が、どうしても分からない。
1969年に、彼女は、ピロスマニの描いた上の右の絵を、パリで見ている。(と言われる)
出会った年から、75年経っている。 15歳から、20歳の間か。
分かる人がいたら、教えてほしい。
ソチは、2014年の冬季オリンピックが、開催される町。
ソチは、ソ連時代、保養地として整備されていった。
※ グルジアでは、バラ革命と云う、無血の革命があった。
このバラは、アンネのバラ。
( つぼみは深紅、花が開き始めると、黄色から淡いピンクへ変化。)
2006年の秋に、1年半ぶりに、日本に戻った。
ニーナさんから見た東京は、人が混み入っていた。
北海道を旅した。 道東に住むつもりでいた。
息子さんが稚内にいたので、遊びに行ったみた。
そうしたら、稚内を気に入ってしまった。
それで、2006年の秋から、稚内に拠点を移す。
あっという間に、地域に溶け込んで、観光の面でも、大きな役割を果たしている。
吉永小百合の映画のロケが、稚内であった。
ニーナさんの生き方、輝きは、吉永小百合のそれと重なった。
映画、音楽と、住む世界は違っても。
ニーナさんにお会いして、今日、そんなことを感じた。
間もなく、お店が閉まる、午後11時。
歌を聴いて、ニーナさんとお話しできた。
美味しいものをいっぱい食べて、そして飲んだ。
男3人で、懐かしい話も、した。
月のいい、晩だった。
※ 今日のブログは、ニーナさんの携帯のメールに、送ることになっていた。
でも、量が多いので、印刷して、30日の晩に、ニーナさんに渡す。
31日の晩に、直す所を、教えてもらう。
※ 追記 ニーナさんにお会いし、変更する部分を教えていただいた。
31日の深夜現在、一応、修正は、完了しています。
※ 追記 下の動画は、誰が歌っているか、分からない。 偶然、見つけた。
もしかしたら、ニーナさんかもしれない。 声質と歌い方が、似てる感じがする。
ある人が、コメントで、
テレビの「ロシア語会話」のなかの今月の歌で流れていたものではないでしょうか、と言っている。
ニーナさんに確認しなければならない。
この部分、ニーナさんに渡していない。
もしそうだったら、ニーナさんが、最初に歌った、百万本のバラになる。
貴重な音源。 (念のため、保存した)
※ 追記 ニーナさへの確認は出来ていないが、私は、歌っているのは、ニーナさんに間違いないと思っている。(9月1日朝)
上を聴いた時、冴木杏奈と云う人に発声が似ていると思った。 それが、第一印象。
そして、ニーナさんのCDを1日の朝に、聴いた。
ペチカでは気づかなかったが、CDから流れてきた声は、冴木杏奈の声の出し方に、とても似ていた。
冴木杏奈が、ニーナさんに似ていた訳だけど。 ※ 冴木杏奈 は、旭川出身。
ニーナさんに、間違いないと思っています。
※ 追記 確認できました。(9月2日朝)
ニーナさんから、電話をいただきました。
間違いなく、ニーナさんでした。
ロシア語の発音を正確に、歌おうとしたそうです。
ニーナさんは、YouTubeに、この動画があることは、知りませんでした。
いろんな話をしました。 40分程。
ニーナさんの生い立ちを含めて。
メモした物は、整理しておきます。
ブログには書きませんが、1つのドラマにまとめることが出来る内容です。
細かな点の修正も終わり、これで一段落です。
たくさんの情報を、ニーナさんから頂きました。
感謝します。
※ このブログは、インターネットで、「稚内市 ニーナ」で検索すると、9月2日現在、一番上に出てきます。
多くの人に、読んでいただいたおかげです。
いつまでも、読まれることを願います。
私は、今年の3月7日に、九州の最南端に近い、かのやばら園に行きました。
その日に、百万本のバラを調べました。
ニーナさんを知りました。 そして、こう書きました。
彼女は現在、最北の稚内で、ロシア料理店を経営している。
稚内に行ったら、寄ってみましょうか。
今年の夏は、稚内そして礼文島でもいい。 花の浮島礼文島ですから。
この時の願いが、叶いました。
またいつか、ニーナさんのお店「ペチカ」に、お邪魔します。
そして、ペチカで、心を温めてもらいます。
【動画】 この動画は、9月1日に撮影したものです。
ペチカの、すぐ側を通ります。
ニーナさんが歌う、「18才」が流れます。
訳詞を作ったのは、ニーナさん本人です。
※ 「ロシア民謡と弾き語りの夕べ ’07」の中の1曲。
黒い瞳など、聴いて、いいな~ってのが、詰まっている。 (い、を、に に、したいところ)
お話しも、なかなか、面白い。
CDは、ペチカで買うことが出来ます。
※ このCDを聴いた時、上の動画は、ニーナさんに間違いない、と思いました。
【その他】 ニーナさんは、稚内観光マイスターの資格を持っています。
また、「ふるさと稚内」という曲の作詞・作曲をし、歌っています。
ふるさと稚内(YouTybe)
【関連ブログ】 一日雨でした。 かのやばら園を少しだけ。~鹿屋市~ 百万本のバラ 「ラトビアで、ソ連で、日本で最初に歌った人達」 (2012/3/7)
高さ68㍍の吊橋から見る、神川大滝 小滝は裏見の滝 ~錦江町~ マーラが与えた人生(百万本のバラの原曲) (2012/3/8)
南大隅町を散策 ~島泊の磨崖仏は山奥だった~ 「マーラが与えた人生」と「百万本のバラ」、まとめ (2012/3/9)
【停泊場所】 稚内副港市場の駐車場
【明日の予定】 市内の散策
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ニーナさんが歌う「百万本のバラ」。
上手でした。
ニーナさんの声は、聴いてて、とっても心地いいものでした。
「大好きなあなた」と云う曲も、歌ってくれました。
初めて聴く曲。 ( ネット上には無い曲です。)
これも、いいですよ。
※ ※ ※ ※
ニーナさんは、最果ての町、稚内にいます。
お店は、副港市場の前。
いくつかお店があって、まとめて、波止場横町。
※ ここから少し、私的な部分。
Tさんと、7時に待ち合わせしていた。
ところが、6時頃、時間があるから家に遊びにおいでって、車で迎えに来てくれた。
ビールを飲んで、お寿司を御馳走になってしまった。 ウニもたくさん。
奥さまと3人で、稚内のことを、おしゃべり。
Tさんは、Aさんと云う人を誘った。
私は、大学以来会っていない。
7時半にお店の前に。 奥さまが送ってくれた。
Aさんがやってきた。 不思議なもんで、昔の面影は、ちゃんと残っていた。
少し早口で、大きな声の話し方は、同じだった。
ロシア料理、ペチカ。 店長は、ニーナさん。

お店は混んでいた。
外で15分程、空くのを待った。
店の中には、ニーナさんと思われる人が動いていた。 すぐに、分かった。
今日の稚内は、夜になっても、むし暑い。
外で、風に当たっていたら、丁度いい。
この暑さは、稚内の人達に、これで暑い日はもう十分ですね、と言ってるようだ。
ロシア料理。 食べたことないものばかり。
下のは、ロシアの餃子。 焼いたのを注文。

酒は、最初はビール。
※ 飲んだのは、バルチカビール。 ビール会社「バルチカ」のビール。
本社は、サンクトペテルブルク。
(バルチカ、と云う言葉は、バルト海のバルトと、関係ありそう)
ハバロフスクでも、作られている。 (アムール川沿いにある町)
度数を選べるのが、特徴。 注文したのは、4%程の度数の低いやつ。
飲みやすく、くせが無い。 美味しい。
その後は、のどが焼けるようなウォッカを、水を飲みながら、飲んだ。
8時半過ぎ、ニーナさんは、歌の準備をした。
この時間になったら、いつも歌うよう。

最初、短い曲を歌った。 この時に、写真を撮って、動画の準備をした。
※ ニーナさんに、了解をいただいて。 YouTubuに載せることも。

歌詞は見ない。 当たり前か。 彼女は、若い時から歌っている。
ギターの音が、はっきりしている、という印象を持った。
※ 追記 ニーナさんの使用しているギターは、フラメンコギター。(31日に、ニーナさんに聞いた)
これは、ナイロン弦のアコースティックギターの一種。
明るくて、立ち上がりが鋭く、歯切れの良い音色を特徴とする。(Wikipedia)
余計な話・・・私のミニアコースティックギターも、ナイロン弦。 私が勝手に、張り替えた。
やわらかい音が、好きなので。

※ お客さんの中には地元の人もいて、ニーナさんの歌声を聴きなれてる人がいます。
その人は、歌を聴きながら、お話しを続けています。
でも、歌が始まったら、そんなに気になりません。
ニーナさんと、百万本のバラについて、少し話していた。
そんなことがあって、歌ってくれた。
次に歌ったのが、「大好きなあなた」。 遊び心いっぱいの歌です。
素晴らしい歌だけど、日本には伝わっていない。
※ 題名だけ、「おけら」という音楽のサイトに載っていた。 他は、ない。
キュートな、歌い方ですよ。
いろんな料理を注文した。 酒も色々。

歌の後、仕事の合間に、ニーナさんは、私の質問に答えてくれた。
ここからは、ニーナさんを紹介。
ニーナさんのお父さんは、日本人。 (満州鉄道の調査部にいた)
お母さんは、ロシア人。 (ニーナさんは、ハーフロシアンと、自分を言っている)
ニーナさんは、ハルビンで生まれた。
※ ニーナさんの家系は、母の父の代から、ハルビンに暮らす。
母の父は、満鉄の技師として、ロシアからやってきた。
ニーナさんは、祖父がやってきたのは、1890年代と言った。
このことについて、調べてみた。
この時はまだ、ロシア帝国時代。
ロシア帝国は、1898年に、満州横断鉄道の建設を始めた。
高い教育を受けた技師として来ているから、この1898年に来たと考えていい。
1917年にロシア革命。
※ この時期に、外国に出た人は、白系ロシア人と呼ばれる。
※ スタルヒンの家族は、革命の後に逃げたので、白系ロシア人。
ニーナさんは、白系ロシア人ではない。(ニーナさんも、そう考えている)
ハルビンは、下の地図。
※ スタルヒン家族も、何年か、ハルビンにいた。 一緒にいた時代がある。
※ 稚内と、緯度が、そんなに変わらない。
※ 日ハム、旭川スタルヒン球場で、大勝。 1イニング、11点。 市民の応援が届いた。~旭川市~ 他 (2012/8/21)
ニーナさんのお母様。 美しい人です。
名前は、ガールムシェワ・エフゲニヤ・ニコラエブナ。
※ ニーナさんの話では、ニコラエブナ、というのは、よくあるそう。
そう言えば、アナスタシア・ニコラエブナ、という人がいた。 最後のロシア皇帝の、第4皇女。
※ ここからの写真は、アルバムの写真を撮影させていただいた。

アーラ・プガチョワ。 この人が、旧ソ連で、最初に「百万本のバラ」を歌う。
ここで、ニーナさんが、どうして、百万本のバラを歌うことになったのか。
ニーナさんは、若い頃、水星社という所に所属していた。
水星社は、ロシアのヒット曲を探していた。
その時に、百万本のバラを見つけた。
日本で売り出すことのできる権利(著作権)を買い取った。
歌ったのは、ニーナさん。
※ 買い取ってからの1年間、歌ったのはニーナさんだけ。
会社は、他の人には、歌わせなかった。
※ ニーナさんは、1978年から、NHKのロシア語講座の今月の歌で、色んな歌を歌い始めていた。
レコードデビューは、1982年。
1983年に、百万本のバラを、ロシア語と日本語で発売。
この時の歌は、YouTubuには、ない。 ※ 誰か載せたらいいのに。
1984年に、岩谷時子さんの訳詞で、小田陽子さんが歌う。
サビのロシア語の部分の発音が難しいということで、ニーナさんが、小田さんの発音に関わったと云う。
この小田陽子さんは、百万本のバラの原曲の、「マーラが与えた人生」も歌っている。
歌が生まれた、ラトビアに行っている。
加藤登紀子のお父さんは、ニーナさんの歌が、大好きだった。
ニーナさんのレコードを、たくさん売ってくれた。
※ 実は、親同士は、おトキさんのデビュー前から親しい関係。
そんなことで、ニーナさん、おトキさんを含めた、家族ぐるみで親しくなっていく。
※ 現在も、親しくお付き合い。
※ 加藤さんの家族も、ハルビンにいた。 おトキさんは、ハルビンで生まれている。
1987年に、加藤登紀子さんが、百万本のバラを歌って、より、全国的に広めることになる。

1987年の7月に、プガチョワさん夫妻が、初めて、日本に来る。
おトキさんが、日比谷の野外音楽堂で歌うことになり、そのゲスト出演のために来た。
プガチョワさんは、おトキさんを通して、ニーナさんを知った。
当時、ニーナさんは、銀座に店があった。
下の写真は、ニーナさんのお店で撮影。
左は、ニーナさん。
右は、アーラ・プガチョワ。 旧ソ連で、百万本のバラを最初に歌った人。
旧ソ連で最初、日本で最初、その2人が並んでいる。

男の人は、プガチョワさんの当時の旦那様。 ニーナさんは、いつも、ちょっと控え目な表情。 それがいい。

※ 上の写真の、後ろの絵は、忘れえぬ女(ひと)。(私の絵を撮影) 忘れえぬ女 (イワン・クラムスコイ) 他 (2009/07/07)
ニーナさんは、独学でロシア語を学んだ。
お母さんは、もちろん話せたが、ニーナさんに教えるのが、大変だったよう。
ハーフロシアンの友人の紹介で、近くに住んでいるグルジア人女性と知り合いになる。
それがきっかけで、1年半、グルジアに行って暮らすことになる。(2005年~)
※ グルジアは、「百万本のバラ」の唄で、バラを贈った画家、ピロスマニの国でもある。
※ 場所は、シリアの北にトルコ、トルコの北にある。
※


ピロスマニはマルガリータに、バラを贈るんだが、その舞台は、ソチ。 1894年のこと。
※ この時のピロスマニの年齢は、32歳と分かっている。
でも、マルガリータの年齢が、どうしても分からない。
1969年に、彼女は、ピロスマニの描いた上の右の絵を、パリで見ている。(と言われる)
出会った年から、75年経っている。 15歳から、20歳の間か。
分かる人がいたら、教えてほしい。
ソチは、2014年の冬季オリンピックが、開催される町。
ソチは、ソ連時代、保養地として整備されていった。

※ グルジアでは、バラ革命と云う、無血の革命があった。
このバラは、アンネのバラ。
( つぼみは深紅、花が開き始めると、黄色から淡いピンクへ変化。)
2006年の秋に、1年半ぶりに、日本に戻った。
ニーナさんから見た東京は、人が混み入っていた。
北海道を旅した。 道東に住むつもりでいた。
息子さんが稚内にいたので、遊びに行ったみた。
そうしたら、稚内を気に入ってしまった。
それで、2006年の秋から、稚内に拠点を移す。
あっという間に、地域に溶け込んで、観光の面でも、大きな役割を果たしている。
吉永小百合の映画のロケが、稚内であった。
ニーナさんの生き方、輝きは、吉永小百合のそれと重なった。
映画、音楽と、住む世界は違っても。
ニーナさんにお会いして、今日、そんなことを感じた。
間もなく、お店が閉まる、午後11時。

歌を聴いて、ニーナさんとお話しできた。
美味しいものをいっぱい食べて、そして飲んだ。
男3人で、懐かしい話も、した。
月のいい、晩だった。

※ 今日のブログは、ニーナさんの携帯のメールに、送ることになっていた。
でも、量が多いので、印刷して、30日の晩に、ニーナさんに渡す。
31日の晩に、直す所を、教えてもらう。
※ 追記 ニーナさんにお会いし、変更する部分を教えていただいた。
31日の深夜現在、一応、修正は、完了しています。
※ 追記 下の動画は、誰が歌っているか、分からない。 偶然、見つけた。
もしかしたら、ニーナさんかもしれない。 声質と歌い方が、似てる感じがする。
ある人が、コメントで、
テレビの「ロシア語会話」のなかの今月の歌で流れていたものではないでしょうか、と言っている。
ニーナさんに確認しなければならない。
この部分、ニーナさんに渡していない。
もしそうだったら、ニーナさんが、最初に歌った、百万本のバラになる。
貴重な音源。 (念のため、保存した)
※ 追記 ニーナさへの確認は出来ていないが、私は、歌っているのは、ニーナさんに間違いないと思っている。(9月1日朝)
上を聴いた時、冴木杏奈と云う人に発声が似ていると思った。 それが、第一印象。
そして、ニーナさんのCDを1日の朝に、聴いた。
ペチカでは気づかなかったが、CDから流れてきた声は、冴木杏奈の声の出し方に、とても似ていた。
冴木杏奈が、ニーナさんに似ていた訳だけど。 ※ 冴木杏奈 は、旭川出身。
ニーナさんに、間違いないと思っています。
※ 追記 確認できました。(9月2日朝)
ニーナさんから、電話をいただきました。
間違いなく、ニーナさんでした。
ロシア語の発音を正確に、歌おうとしたそうです。
ニーナさんは、YouTubeに、この動画があることは、知りませんでした。
いろんな話をしました。 40分程。
ニーナさんの生い立ちを含めて。
メモした物は、整理しておきます。
ブログには書きませんが、1つのドラマにまとめることが出来る内容です。
細かな点の修正も終わり、これで一段落です。
たくさんの情報を、ニーナさんから頂きました。
感謝します。
※ このブログは、インターネットで、「稚内市 ニーナ」で検索すると、9月2日現在、一番上に出てきます。
多くの人に、読んでいただいたおかげです。
いつまでも、読まれることを願います。
私は、今年の3月7日に、九州の最南端に近い、かのやばら園に行きました。
その日に、百万本のバラを調べました。
ニーナさんを知りました。 そして、こう書きました。
彼女は現在、最北の稚内で、ロシア料理店を経営している。
稚内に行ったら、寄ってみましょうか。
今年の夏は、稚内そして礼文島でもいい。 花の浮島礼文島ですから。
この時の願いが、叶いました。
またいつか、ニーナさんのお店「ペチカ」に、お邪魔します。
そして、ペチカで、心を温めてもらいます。
【動画】 この動画は、9月1日に撮影したものです。
ペチカの、すぐ側を通ります。
ニーナさんが歌う、「18才」が流れます。
訳詞を作ったのは、ニーナさん本人です。
※ 「ロシア民謡と弾き語りの夕べ ’07」の中の1曲。
黒い瞳など、聴いて、いいな~ってのが、詰まっている。 (い、を、に に、したいところ)
お話しも、なかなか、面白い。
CDは、ペチカで買うことが出来ます。
※ このCDを聴いた時、上の動画は、ニーナさんに間違いない、と思いました。

【その他】 ニーナさんは、稚内観光マイスターの資格を持っています。
また、「ふるさと稚内」という曲の作詞・作曲をし、歌っています。
ふるさと稚内(YouTybe)
【関連ブログ】 一日雨でした。 かのやばら園を少しだけ。~鹿屋市~ 百万本のバラ 「ラトビアで、ソ連で、日本で最初に歌った人達」 (2012/3/7)
高さ68㍍の吊橋から見る、神川大滝 小滝は裏見の滝 ~錦江町~ マーラが与えた人生(百万本のバラの原曲) (2012/3/8)
南大隅町を散策 ~島泊の磨崖仏は山奥だった~ 「マーラが与えた人生」と「百万本のバラ」、まとめ (2012/3/9)
【停泊場所】 稚内副港市場の駐車場
【明日の予定】 市内の散策
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

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小さな集落が、たまにあるだけ。
街も、コンビニも、どこまで行ってもない。
釧路、根室、羅臼より、車も人も少ない。
終点の稚内まで、何もない。 自然だけ。
※ ※ ※ ※
いつ見ても、美しい。 利尻岳。 ※ 利尻山でもいい。
小川の水は、このように赤い。 泥炭から出てくると、こうなる。
今日走る道も、ずっと、こう。
向こうの風景を撮ろうとしていたら、バイクがやってきた。 時速70㌔くらいで。
目の前を通った瞬間に、シャッターを押してみた。
コウホネの家の屋上から撮影。 利尻岳。
小さなコウホネ沼に、ネムロコウホネが咲いていた。
場所はここ。
小さな公園になっている。 遠くに、野寒布(のしゃっぷ)岬。
礼文島は見えない。 低いからか。 霞んでいるし。
歌碑があった。
森繁久弥(久彌)だった。
「 浜茄子の 咲きみだれたる サロベツの 砂丘の涯の 海に立つ富士 」 ※ 浜茄子~ハマナス
森繁は、昭和52年2月下旬から3月上旬まで、テレビドラマ「天北原野」のロケのため、稚内に来ていた。
富士と言ってるのは、利尻富士の、利尻岳。
また、森繁は、稚内海上保安部に、下の歌をプレゼントしている。
「 海のごとく大らかに 海のごとくやさしく 海のごとく時にまた 非情の力をもて 」
※ 上の歌について調べていたら、下のことが分かった。
森繁は、昭和33年、京都府最北にある、丹後半島の間人(たいざ)に行っている。
そこにある、ある温泉旅館に、こんな歌を贈っていた。
「 海の如 大らかに. 海の如 やさしく. 海の如 又. 我がままでも ありたい.」
どっちも、いい歌と思う。
森繁は「海のごとく」の表現が好きだった、と分かりますね。
※ 間人(たいざ)は、珍しい読み方です。
近畿地方最北端、経ヶ岬 どうして間人(たいざ)という地名に? ~京丹後市~ 他 (2011/6/20)
三浦綾子の天北原野は、こんな話。
※ 氷雪の門(稚内公園) 日本最北の地 宗谷岬 ~稚内市~ 幼い大鵬が運命の分かれ道にいた日 他 (2010/8/21)
※ 北海太郎 引き揚げ船の悲劇 他 (2009/08/19)
三浦綾子は、「小さな一歩から」という本を出している。
その中に、「森繁久弥夫人を思う」という、文がある。
なかなか面白い文。
食欲が無くても、下のようにして食べたら、美味しい。
三浦綾子、52歳の時の話。 ロケがあった、1977年。
※ 次の年に、代表作でもある、「泥流地帯」を書いている。
海の方から見た、コウホネの家。
オニユリ、でいいでしょうか。
花が水についてるけど、普通は、飛び出している。
水から、きゅっと首を出している、品のある花。
首の部分が、骨に似ている。 フライドチキンを食べた後の骨のような。
根室で最初に発見されたので、ネムロコウホネ。
※ オゼコウホネも似てるが、花の真ん中の部分の色が違う、と言われる。
牧草を運んでいる、トラクター。 縛っていない。 乗っけているだけ。 そ~っと、通り過ぎた。
抜海(ばっかい)漁港。 港の部分は、海に突き出している。 灯台の所は、抜海岬。
稚内市抜海村。
野寒布(のしゃっぷ)岬。 ノシャップ岬とも書くのかな。
※ 最北は、宗谷岬。 根室にあるのは、納沙布(のさっぷ)岬。
今日は、礼文島も樺太も、どっちも見えない。
岬から、後ろを見た。 右を行くと、オロロンライン。 ※ 天売島にオロロン鳥がいるので、この名前。
小山の左を行くと、数㌔で、稚内市街地。
※ 稚内に、この春、道の駅が出来た。
今、ノシャップ岬でブログを書いている。
車には、1滴のビールも焼酎もない。
はるばるやって来たのに、乾杯が出来ない。
真夜中に、道の駅に、動くかも知れない。
※ 稚内のTさんには、明日行くと言ってあるけど。
向こうに、稚内市ノシャップ寒流水族館。
入館料は、400円。
ゴマフアザラシ。 立っている。
左に、若い女の人がいる。 その人が、パタパタやってって、お願いしている。
でも、手は、気をつけのまま。
※ かしこそうな顔。 こんな表情をされたら、たまらない。
イトウがいっぱいいた。 大きいのも小さいのも。 養殖の技術が確立された。
何エビか?
メバル。
ホッケ。 背中の方から開いて干したら、ホッケの開き。 ダイコンおろしで食べたら、美味しい。
これも、メバルか。 ?。 ソイだとか、ガヤだとか、アイナメだとか、みんな似ている。
50㌢ほどのカレイ。 大きい。
カレイは、ちゃんと起きていると思っているのか。
それとも、横になって寝ていると思っているのか。 どっちだろう。
スケトウダラ。 干したら、棒だら。 京都では、いもぼう、になる。
だんご、のような魚。
毛ガニ。 口の周りが、いっつも動いている。
ズワイガニ。 鎧(よろい)を身に付けた、武士の顔。
稚内での目的は2つ。 百万本のバラの、ニーナさんに会うこと。 もう一つは、礼文島に行くこと。
日程はまだはっきりしない。
あ、そうだ。 もう一つ目的があった。 Tさんと、お酒を飲むこと。
※ Tさんは、昔から、私達のグループの中で、一番の兄きの雰囲気を持っていた。 やさしい兄き。
不思議なもんで、だれも呼び捨てにしない。
私なんか、「さん」を付けて呼ばれたことなんか、一度もないのに。
【その他】 ニーナさんに会うので、歌を聞く練習を、少し前から、始めた。
7月から、歌はまったく聞いていない。 心が、受けつけない。
【停泊場所】 野寒布岬駐車場
【明日の予定】 稚内の市街地に入る。
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場所はここ。
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礼文島は見えない。 低いからか。 霞んでいるし。

歌碑があった。

森繁久弥(久彌)だった。

「 浜茄子の 咲きみだれたる サロベツの 砂丘の涯の 海に立つ富士 」 ※ 浜茄子~ハマナス
森繁は、昭和52年2月下旬から3月上旬まで、テレビドラマ「天北原野」のロケのため、稚内に来ていた。
富士と言ってるのは、利尻富士の、利尻岳。
また、森繁は、稚内海上保安部に、下の歌をプレゼントしている。
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森繁は、昭和33年、京都府最北にある、丹後半島の間人(たいざ)に行っている。
そこにある、ある温泉旅館に、こんな歌を贈っていた。
「 海の如 大らかに. 海の如 やさしく. 海の如 又. 我がままでも ありたい.」
どっちも、いい歌と思う。
森繁は「海のごとく」の表現が好きだった、と分かりますね。
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三浦綾子の天北原野は、こんな話。

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三浦綾子は、「小さな一歩から」という本を出している。
その中に、「森繁久弥夫人を思う」という、文がある。
なかなか面白い文。
食欲が無くても、下のようにして食べたら、美味しい。
三浦綾子、52歳の時の話。 ロケがあった、1977年。
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海の方から見た、コウホネの家。

オニユリ、でいいでしょうか。

花が水についてるけど、普通は、飛び出している。
水から、きゅっと首を出している、品のある花。
首の部分が、骨に似ている。 フライドチキンを食べた後の骨のような。
根室で最初に発見されたので、ネムロコウホネ。
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牧草を運んでいる、トラクター。 縛っていない。 乗っけているだけ。 そ~っと、通り過ぎた。

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今日は、礼文島も樺太も、どっちも見えない。


岬から、後ろを見た。 右を行くと、オロロンライン。 ※ 天売島にオロロン鳥がいるので、この名前。
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何エビか?

メバル。

ホッケ。 背中の方から開いて干したら、ホッケの開き。 ダイコンおろしで食べたら、美味しい。

これも、メバルか。 ?。 ソイだとか、ガヤだとか、アイナメだとか、みんな似ている。

50㌢ほどのカレイ。 大きい。
カレイは、ちゃんと起きていると思っているのか。
それとも、横になって寝ていると思っているのか。 どっちだろう。

スケトウダラ。 干したら、棒だら。 京都では、いもぼう、になる。

だんご、のような魚。

毛ガニ。 口の周りが、いっつも動いている。

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稚内での目的は2つ。 百万本のバラの、ニーナさんに会うこと。 もう一つは、礼文島に行くこと。
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不思議なもんで、だれも呼び捨てにしない。
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7月から、歌はまったく聞いていない。 心が、受けつけない。
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たった5年しかいなかった国府だけど、大きな影響をもらった感じがする。
今、山の中を1人で歩くけど、思えば、小学校の頃からそうだった。
熊さえいなければ、ササやぶの中の道は、平気だった。
今日は、国府を出たら、海辺でのんびりする予定だった。
途中で、幌延ビジターセンターに寄った。
カナヘビがいると教えられた。
夢中になってしまった。
写真が増えて、のんびり出来なくなった。
カナヘビは、明日見たことにしようかなと思ったんだけど・・・。
山本さんの最後の現場、不思議なことが、まだ残っている。
また、佐藤さんは、振り返ることはなかったんだろうか。
※ ※ ※ ※
○の所に、家があった。
昔の道は、細く、人が歩くだけの道。 自転車は走れた。
出発。
マンテマです。 調べてみたら、チシママンテマ。 いっぱいあった。
※ アポイマンテマが有名。(一昨年撮影)
学校までは、2㌔程。 大人になったら、近く感じる。
国道が見えてきた。 この辺りの、左に、郵便受けがあった。
木に、縛り付けてあった。 配達員は、いつも自転車に乗っていた。
国道に出た。 いつもは、正面にペンケ山が見える。
左側に家があった。 3人ほどの子供を残して、母親は病気で亡くなった。
薪(まき)を積んで焼いた。 病気の部分は、なかなか焼けないと、親父が言った。
どこかに、引っ越した。
何度か遊びに行った。
お昼になって、納屋に、ニワトリの卵を探しに行った。
1個しか見つからなかった。
フライパンにたくさん水を入れて、沸かして、卵を1個かきまわした。
醤油を入れた。
それをご飯にかけて食べた。 5人位で。
国道から、右に入る道。 向こうに行っても家はあった。
虫の巣と花。 花の名前は、調べていない。
地図で、2の家。 一度だけ、遊びに行った。
この道を行ったら、3と4の家があった。
冷たい味噌汁をかけて食べたご飯は、4の家で頂いた。
ここの父さんが、味の素は石炭で作ると言った。 ※ 今は、サトウキビのよう。
ちゃんと働かない父さんだった。
少し行ったら、道の下を川が流れている。 右から左に。
太い、コンクリートの土管。 その中に入って遊んだ。
この近くで、私を含めた男の子たちが、女の子を泣かした。
後で叱られた。
学校が右に、見えてきた。
こんな川。 右側で、こっちが上流。
○の所に、家があった。 5の家。
親父が、駅逓(えきてい)と呼んでた家。 ※ カラフトで、駅逓だった。
ここの家の誘いで、留辺蘂から、国府にやってきた。
昭和31年の3月。 最初の日は、この家に泊まった。
うどんを御馳走になった。 五右衛門風呂に入った。 浮いてる板を沈めて。
着いた。 学校の所は、道は十字。 角にお店があった。
国道の右に、学校はあった。 全部、当時の物ではない。 今は、会館のよう。
国道から、右に入っていく道。 最初の半年ほど、この道の奥に家があった。
左に家があった。 何かの時に、カレーライスを御馳走になった。
スープカレーのような、カレーだった。
水っぽいカレーを見たら、この時を、いつも思い出す。
正面に学校はあった。 職員玄関は、中央。 児童玄関は、右の方。
体育館は、左に。 校舎の手前が、グランド。 大きな木が2本あった。
体育館の左の部分に、若い先生が住んでいた。
学校の裏に、校長先生と、女の先生。
秋遅くに、校舎の裏の納屋に、薪(まき)運びをした。 のこ屑が目に入ったら、取れない。
先生方の分も、運んだ。
電気はないから、鐘を鳴らしていた。
国道の方を向いた。 真っ直ぐ行くと、歌内の駅に行く。
右に、グランド。 バックネットの支柱が残っていた。
右に見える山は、丸山。 ここでスキーをした。
長靴をはいたままのスキーだから、すぐに転ぶ。
○の所に、家があった。 ここで、牛乳の汁粉を御馳走になった。
母親が、この家で仕事をした。 それについて行った。
少し手前に、左から右に小川が流れていた。 今もある。
濡れた足は、乾いた砂を付けたら、直ぐに乾くことを、ここで学んだ。
上の写真の右の方。 ○の所に神社があった。
お祭りでは、いつも相撲があった。
私は小さかったので、負けてばっかり。
※ 相撲は後に少し強くなるけど、それは、美瑛に行ってから。
右の写真に、かなり古い校舎の一部が見える。
学校の学芸会は、机を並べて、舞台を作った。
運動会は、足袋をはいていた。
お化けの話をしてくれる先生がいた。 これで、私も好きになった。
全校児童の数は、100人位だったかな。 私の学年は、17人。
どこの家も貧しかった。 ちゃんと弁当を持って来れない家もあった。
3年生の頃、歯を抜くため、1度だけ休んだ。
私は、小学校から高校まで、学校を休んだのは、この1回だけ。
1度だけ、夏の夜に、学校で映画会があった。
家族5人で見に行った。 帰り、蛍が飛んでいた。 飛んでるのを、追いかけた。
来た道を、戻った。 お腹を空かして歩くことが多かった。
左に入ったら、家の方。 昔は、国道沿いに、木はなかった。
冬は、いつもスキーではなかった。 ここを歩くことも多かった。
足が冷たいって、2つ下の妹は、泣くことがあった。
母親の手編みの毛糸の靴下をはいていた。 兄弟全員のセーターも、母親の手編み。
この後、北に向かった。 こんど、いつ来れるかわからんな~、と思いながら。
ここは、幌延ビジターセンター。 通りがかりにあったから、寄っただけ。
この一帯は、サロベツと呼ばれる所。 赤○に、停泊。
遊歩道があるので、歩くことに。
センターの人が、黄色い○の辺りに、コモチカナヘビがいると言った。 カナヘビなんて、知らない。
珍しそうなので、探すことにした。
2階から見た風景。 長沼が見える。
木道を行く。 ここには、コモチカナヘビはいない。 木道が高い。
長沼。
左は、サワギキョウ。 右は、小さなシャクナゲっぽい。
この木道になって、10回以上、コモチカナヘビを見た。
木道の上は温かいので、それでやってくる。
風下から近づいた方が、写真は撮り易かった。 直ぐに逃げない。
カナヘビは、ヘビではなかった。 トカゲ。
親と同じ格好した子供を生む。 それが珍しい。 日本では、この辺りと、稚内の方にいる。
スルスルって逃げる。
こんなに見れるとは、思わなかった。
コモチカナヘビは、子持金蛇と書く。
卵でなく、お腹の中で子供を育てるので、子持となる。
どうして、トカゲなのに、カナヘビ(金蛇)かが、面倒。
調べてみたら、こうだった。
カナヘビは、昔は、愛蛇と書いた。 愛蛇は、カナヘビと読む。
愛しいは、かなしいと読むことが出来る。
意味は、かわいらしい。
昔、カナヘビに名前が無かった時、名前をどうするか考えた。
トカゲと云う言葉は、日本にはなかった。
※ トカゲは、マレーシア語で、遅くに日本に入ってきた。
小さいくてかわいいので、愛(かな)しい蛇として、愛蛇(カナヘビ)になった。
愛(かな)しい、の表現は、本当にあったのか、ということになる。
まず、啄木が、こんな歌を歌っている。
「函館の 青柳町こそ かなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」
上の「かなしけれ」は、悲しけれではなく、愛しけれ、と書くと言われている。
いとおしい とかの意味で。
また、女の子の名前で、愛と書いて「かなさ」と読ますことができるそう。
古い歌に、こんなのがある。
「あしひきの 山沢人(やまさはびと)の 人さはに まなといふ児(こ)が あやに愛(かな)しさ」
意味は、
「山の谷沢に住んでいる 大勢の人たちが 可愛いと評判しているあの娘は、私にはこの上もなく可愛く恋しい」
※ 小説のタイトルに、愛(かな)しい、と読ませてるのは、けっこうある。
「愛(かな)しき人 たちの詩(うた)」 「人は愛(かな)しき」 「愛(かな)しき歌びとたち」 など
これで、大丈夫ですね。
愛という漢字は、愛(かな)しいと読めることを、初めて知りました。
キリギリスのメスが、卵を生んでいた。
そんなとこに生んで、大丈夫なのかって、言っておいた。
ネムロコウホネ。
○の所に、深い穴があった。 手すりの所に棒があった。
2㍍以上ある棒を入れてみたが、底には着かなかった。
やちまなこは、恐ろしい穴。
花を探しながら、木道を戻った。
海の近くに、風車が28、並んでいた。
こんな道が、どこまでも北に続く。
サロベツ海岸。
稚咲内(わかさきない)のパーキングに、今日は停泊。
昔、番屋のようなの建物があった。
利尻島が見えた。
※ 利尻岳は厳しい山だった ~日本海に浮かぶ最北の百名山~ 他 (2010/8/19)
コモチカナヘビに関わったら、いそがしい1日になってしまった。
面白かったから、いいことにするか。
【その他】 山本美香さんが撃たれた時、前にいた自由シリア軍の兵士が、あわてない。
それが、不思議。
また、日本人だと叫んだ男は、どう云う目的で叫んだのでしょう。
なぜ、日本人と分かったのか。
佐藤さんが撃たれなかったのは、素早く逃げたからか。
他に理由はあるのか。
佐藤さんは、逃げる時、振り向かなかったようだが、どうしてだろう。
代われるものなら代わってあげたいと云う程、美香さんのことを思っていたのに。
数㍍しか、離れていなかった。
【停泊場所】 稚咲内(わかさきない)のパーキング。
【明日の予定】 北に。 明日こそ、のんびり。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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今、山の中を1人で歩くけど、思えば、小学校の頃からそうだった。
熊さえいなければ、ササやぶの中の道は、平気だった。
今日は、国府を出たら、海辺でのんびりする予定だった。
途中で、幌延ビジターセンターに寄った。
カナヘビがいると教えられた。
夢中になってしまった。
写真が増えて、のんびり出来なくなった。
カナヘビは、明日見たことにしようかなと思ったんだけど・・・。
山本さんの最後の現場、不思議なことが、まだ残っている。
また、佐藤さんは、振り返ることはなかったんだろうか。
※ ※ ※ ※
○の所に、家があった。

昔の道は、細く、人が歩くだけの道。 自転車は走れた。
出発。

マンテマです。 調べてみたら、チシママンテマ。 いっぱいあった。
※ アポイマンテマが有名。(一昨年撮影)

学校までは、2㌔程。 大人になったら、近く感じる。
国道が見えてきた。 この辺りの、左に、郵便受けがあった。
木に、縛り付けてあった。 配達員は、いつも自転車に乗っていた。

国道に出た。 いつもは、正面にペンケ山が見える。
左側に家があった。 3人ほどの子供を残して、母親は病気で亡くなった。
薪(まき)を積んで焼いた。 病気の部分は、なかなか焼けないと、親父が言った。
どこかに、引っ越した。
何度か遊びに行った。
お昼になって、納屋に、ニワトリの卵を探しに行った。
1個しか見つからなかった。
フライパンにたくさん水を入れて、沸かして、卵を1個かきまわした。
醤油を入れた。
それをご飯にかけて食べた。 5人位で。

国道から、右に入る道。 向こうに行っても家はあった。

虫の巣と花。 花の名前は、調べていない。


地図で、2の家。 一度だけ、遊びに行った。

この道を行ったら、3と4の家があった。
冷たい味噌汁をかけて食べたご飯は、4の家で頂いた。
ここの父さんが、味の素は石炭で作ると言った。 ※ 今は、サトウキビのよう。
ちゃんと働かない父さんだった。

少し行ったら、道の下を川が流れている。 右から左に。
太い、コンクリートの土管。 その中に入って遊んだ。
この近くで、私を含めた男の子たちが、女の子を泣かした。
後で叱られた。
学校が右に、見えてきた。

こんな川。 右側で、こっちが上流。
○の所に、家があった。 5の家。
親父が、駅逓(えきてい)と呼んでた家。 ※ カラフトで、駅逓だった。
ここの家の誘いで、留辺蘂から、国府にやってきた。
昭和31年の3月。 最初の日は、この家に泊まった。
うどんを御馳走になった。 五右衛門風呂に入った。 浮いてる板を沈めて。

着いた。 学校の所は、道は十字。 角にお店があった。

国道の右に、学校はあった。 全部、当時の物ではない。 今は、会館のよう。

国道から、右に入っていく道。 最初の半年ほど、この道の奥に家があった。
左に家があった。 何かの時に、カレーライスを御馳走になった。
スープカレーのような、カレーだった。
水っぽいカレーを見たら、この時を、いつも思い出す。

正面に学校はあった。 職員玄関は、中央。 児童玄関は、右の方。
体育館は、左に。 校舎の手前が、グランド。 大きな木が2本あった。
体育館の左の部分に、若い先生が住んでいた。
学校の裏に、校長先生と、女の先生。

秋遅くに、校舎の裏の納屋に、薪(まき)運びをした。 のこ屑が目に入ったら、取れない。
先生方の分も、運んだ。
電気はないから、鐘を鳴らしていた。
国道の方を向いた。 真っ直ぐ行くと、歌内の駅に行く。

右に、グランド。 バックネットの支柱が残っていた。

右に見える山は、丸山。 ここでスキーをした。
長靴をはいたままのスキーだから、すぐに転ぶ。
○の所に、家があった。 ここで、牛乳の汁粉を御馳走になった。
母親が、この家で仕事をした。 それについて行った。
少し手前に、左から右に小川が流れていた。 今もある。
濡れた足は、乾いた砂を付けたら、直ぐに乾くことを、ここで学んだ。

上の写真の右の方。 ○の所に神社があった。
お祭りでは、いつも相撲があった。
私は小さかったので、負けてばっかり。
※ 相撲は後に少し強くなるけど、それは、美瑛に行ってから。

右の写真に、かなり古い校舎の一部が見える。


学校の学芸会は、机を並べて、舞台を作った。
運動会は、足袋をはいていた。
お化けの話をしてくれる先生がいた。 これで、私も好きになった。
全校児童の数は、100人位だったかな。 私の学年は、17人。
どこの家も貧しかった。 ちゃんと弁当を持って来れない家もあった。
3年生の頃、歯を抜くため、1度だけ休んだ。
私は、小学校から高校まで、学校を休んだのは、この1回だけ。
1度だけ、夏の夜に、学校で映画会があった。
家族5人で見に行った。 帰り、蛍が飛んでいた。 飛んでるのを、追いかけた。
来た道を、戻った。 お腹を空かして歩くことが多かった。

左に入ったら、家の方。 昔は、国道沿いに、木はなかった。

冬は、いつもスキーではなかった。 ここを歩くことも多かった。
足が冷たいって、2つ下の妹は、泣くことがあった。
母親の手編みの毛糸の靴下をはいていた。 兄弟全員のセーターも、母親の手編み。

この後、北に向かった。 こんど、いつ来れるかわからんな~、と思いながら。
ここは、幌延ビジターセンター。 通りがかりにあったから、寄っただけ。

この一帯は、サロベツと呼ばれる所。 赤○に、停泊。

遊歩道があるので、歩くことに。
センターの人が、黄色い○の辺りに、コモチカナヘビがいると言った。 カナヘビなんて、知らない。
珍しそうなので、探すことにした。

2階から見た風景。 長沼が見える。

木道を行く。 ここには、コモチカナヘビはいない。 木道が高い。

長沼。

左は、サワギキョウ。 右は、小さなシャクナゲっぽい。


この木道になって、10回以上、コモチカナヘビを見た。
木道の上は温かいので、それでやってくる。

風下から近づいた方が、写真は撮り易かった。 直ぐに逃げない。

カナヘビは、ヘビではなかった。 トカゲ。
親と同じ格好した子供を生む。 それが珍しい。 日本では、この辺りと、稚内の方にいる。

スルスルって逃げる。

こんなに見れるとは、思わなかった。

コモチカナヘビは、子持金蛇と書く。
卵でなく、お腹の中で子供を育てるので、子持となる。
どうして、トカゲなのに、カナヘビ(金蛇)かが、面倒。
調べてみたら、こうだった。
カナヘビは、昔は、愛蛇と書いた。 愛蛇は、カナヘビと読む。
愛しいは、かなしいと読むことが出来る。
意味は、かわいらしい。
昔、カナヘビに名前が無かった時、名前をどうするか考えた。
トカゲと云う言葉は、日本にはなかった。
※ トカゲは、マレーシア語で、遅くに日本に入ってきた。
小さいくてかわいいので、愛(かな)しい蛇として、愛蛇(カナヘビ)になった。
愛(かな)しい、の表現は、本当にあったのか、ということになる。
まず、啄木が、こんな歌を歌っている。
「函館の 青柳町こそ かなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」
上の「かなしけれ」は、悲しけれではなく、愛しけれ、と書くと言われている。
いとおしい とかの意味で。
また、女の子の名前で、愛と書いて「かなさ」と読ますことができるそう。
古い歌に、こんなのがある。
「あしひきの 山沢人(やまさはびと)の 人さはに まなといふ児(こ)が あやに愛(かな)しさ」
意味は、
「山の谷沢に住んでいる 大勢の人たちが 可愛いと評判しているあの娘は、私にはこの上もなく可愛く恋しい」
※ 小説のタイトルに、愛(かな)しい、と読ませてるのは、けっこうある。
「愛(かな)しき人 たちの詩(うた)」 「人は愛(かな)しき」 「愛(かな)しき歌びとたち」 など
これで、大丈夫ですね。
愛という漢字は、愛(かな)しいと読めることを、初めて知りました。
キリギリスのメスが、卵を生んでいた。
そんなとこに生んで、大丈夫なのかって、言っておいた。

ネムロコウホネ。

○の所に、深い穴があった。 手すりの所に棒があった。

2㍍以上ある棒を入れてみたが、底には着かなかった。
やちまなこは、恐ろしい穴。


花を探しながら、木道を戻った。

海の近くに、風車が28、並んでいた。

こんな道が、どこまでも北に続く。

サロベツ海岸。

稚咲内(わかさきない)のパーキングに、今日は停泊。

昔、番屋のようなの建物があった。

利尻島が見えた。

※ 利尻岳は厳しい山だった ~日本海に浮かぶ最北の百名山~ 他 (2010/8/19)
コモチカナヘビに関わったら、いそがしい1日になってしまった。
面白かったから、いいことにするか。
【その他】 山本美香さんが撃たれた時、前にいた自由シリア軍の兵士が、あわてない。
それが、不思議。
また、日本人だと叫んだ男は、どう云う目的で叫んだのでしょう。
なぜ、日本人と分かったのか。
佐藤さんが撃たれなかったのは、素早く逃げたからか。
他に理由はあるのか。
佐藤さんは、逃げる時、振り向かなかったようだが、どうしてだろう。
代われるものなら代わってあげたいと云う程、美香さんのことを思っていたのに。
数㍍しか、離れていなかった。
【停泊場所】 稚咲内(わかさきない)のパーキング。
【明日の予定】 北に。 明日こそ、のんびり。
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一日雨で、歩けなかった。
※ 歩くのは、明日に。 学校跡まで、往復。 天気は、大丈夫のよう。
昔のことを思い出しながら、少しだけ、車で走った。
少しだけ歯車がずれていたら、山本美香さんは死なずに済んだのに、と思った。
今更、遅いけど。
※ ※ ※ ※
昨日から、ここに車を停めている。
国道から、600㍍程入った。 国道は、私のずっと後ろに。
家は、左奥にあった。
左の方。 ○の辺りにあった。 ブロック造りの平屋の小さな家。
昭和31年の秋から、昭和36年の3月まで、4年半程住む。
国道の方は、このように。 昔は、歩くだけの道だった。
馬車とかは、別の道を通っていた。
上の写真の右側。 ○の辺りは、昔は、湿原だった。 エゾカンゾウが咲いていた。
家のあった方から撮影。 左端に車。 中央の○の方角に、小学校。
右の○は、国道への出口。
国道の近くに、郵便受けがあった。 新聞と郵便を取りに行くのは、私の仕事。
最初の半年ほど、地図の印の所に住んだ。
向こうから来た。 家は、右の方に。
右の方は、こうなんだけど、正確な場所は分からない。 ここから、100㍍か200㍍入ったところ。
この場所の、後ろの方が、上の写真の場所。
道の突き当たりを左に行くと、学校の方に行く。
右に行くと、山道を通って、歌内の駅に行く。 今は、途中から使っていない道。
右に少し行ったら、昔は、少しだけ水田があった。
※ 現在の日本最北の水田は、日本海側の遠別町にあるそう。
この場所は、遠別より更に北になる。
もしかしたら、当時は、日本最北だったかもしれない。
天気が悪いので、バッテリーに充電されていない。
少し走るかとなって、中川のセイコーマートまで、少しの買い物に。 ゴミも捨てて。
帰りに、歌内の駅に寄った。
昔は立派な駅。
※ ネットで写真を探したが、見つからない。
図書館がやっていたら行こうと思ったが、休みだった。
図書館に行けば、きっと見つけられる。
国府小学校の写真も、きっとある。 図書館は、明日月曜も休み。
この駅で汽車を待つ時、汽車が恐ろしかったので、いつも、ホームの一番後ろにいた。
留辺蘂町まで往復したことがある。
何時間外の景色を眺めても、飽きることはなかった。
放浪の旅にあこがれる、スタートかもしれない。
駅前の様子。 昔は賑やかだった。 歌内には、小学校も中学校もあった。 今は、どっちもない。
この店で、凧を買ったことがある。
この場所は、天塩川の国府側。 橋を渡ったら、歌内。
昭和15年5月6日、天塩川の渡船が、ひっくり返った。
乗っていた児童17人と父兄2人全員が流されて亡くなった。
下は、その遭難碑。
橋が出来たのは、昭和35年。 4年生の時だった。
戻ってきた。 遠くから家があった場所を見ると、こう。
朝は見えなかったペンケ山が見えた。 いつも眺めた山。
思い出をいくつか。 (思い出すままに)
○ 家で飼っていたのは、馬、牛、ヒツジ、ヤギ、ニワトリ(100羽)、猫。
卵は、おふくろが中川の市街まで売りに行った。
○ 家の軒下に、いつも、松葉ボタンを植えていた。 ツメキリソウと呼んでいた。
○ 家の近くに小川があって、トゲウオをすくって遊んだ。 ザリガニもいた。
○ 最初の家の近くには、熊が出ると言われていた。
姉が2年生だったので、親は、登下校のとき心配していた。
○ 電気が無いので、ランプ。 ランプのホヤを磨いた。
○ ラジオは聴けた。 針金のような有線で、どこかとつながっていた。
○ 冬は、スキーで通っていた。 道でなく、最短距離で真っ直ぐ。
○ 鴨(かも)の卵を見つけて、焼いて食べたことがある。
○ ある家で、汁粉を御馳走になった。 牛乳が入っていた。
今でも、牛乳の入った汁粉が大好き。 たま~に、作る。
○ トマトやカンロを育てた。 毎日必ず見に行った。 大きくなったかなって。
○ トノサマバッタを山ほど捕まえた。 それ以来、バッタは好きでなくなった。
○ ラーメンを最初に食べたのは、1年生の時。 中川の、にこにこ食堂。
かん水のにおいがした。 ちりちり麺。 忘れられない味。
同じ味が作れたら、今の時代でも、売れると思う。
似た味のラーメンは、食べたことない。
○ 国府にいた時、荒馬という相撲取りを応援していた。 中川町の出身。(佐久かな)
荒馬の他に、木ノ村と名乗った時もあった。 十両には上がれなかった。
荒馬は、のちのラッシャー木村。 プロレスラー。
○ ある時、よその家でご飯を御馳走になった。
それは、冷たい味噌汁をかけたご飯。 具はジャガイモだけ。
それを思い出して、今でも、同じご飯を食べることがある。
○ 留辺蘂のおばさんが、動物の図鑑を送ってくれた。
本は、それしかなかった。 ボロボロになるまで読んだ。
そこそこ勉強が分かるようになったのは、この本のお陰。 感謝している。
○ 風呂は、木で出来ていた。 桶(おけ)の感じの。
あれから、同じ風呂に入ったことない。 見たことはあるけど。
この辺でお終い。 明日は、学校の思い出。
こうだったら、山本美香さんは死なずに済んだかもしれない、と思うことが2つ。
下の写真。 彼女はビデオカメラを指差している。
転んで、カメラをぶつけたと、佐藤さんに言っている。
彼女は、壊れたかもしれないと、心配している。
佐藤さんは、大丈夫、俺のあるから、と言った。
でも、カメラは壊れてはいなかった。
この後撮影に使う。
使っていたために、日本のジャーナリストと見破られ、銃撃されてしまう。
もし、この時壊れていれば、どうなったか分からない。
彼女は、ビデオカメラでの撮影はしていなかった。
撃たれなかったかも知れない。
彼女が銃撃された日、ジャーナリスト2人が政府側に捕まってしまう。
山本さんが銃撃された日から、ジャーナリストへの弾圧が激しくなった。
山本さんと佐藤さんの、シリアに入る予定が、もう1日遅かったら、上の情報が耳に入った。
そうしたら、危険と感じて、20日にシリアに入るのは止めたかもしれない。
いくら用心しても避けきれない危険はある。
運命の歯車がどう回るかは、運次第の感じがする。
【停泊場所】 昨晩に同じ
【明日の予定】 学校跡まで歩いた後、北に向かう。 途中から、海に出ようかと。
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※ 歩くのは、明日に。 学校跡まで、往復。 天気は、大丈夫のよう。
昔のことを思い出しながら、少しだけ、車で走った。
少しだけ歯車がずれていたら、山本美香さんは死なずに済んだのに、と思った。
今更、遅いけど。
※ ※ ※ ※
昨日から、ここに車を停めている。
国道から、600㍍程入った。 国道は、私のずっと後ろに。
家は、左奥にあった。

左の方。 ○の辺りにあった。 ブロック造りの平屋の小さな家。
昭和31年の秋から、昭和36年の3月まで、4年半程住む。

国道の方は、このように。 昔は、歩くだけの道だった。
馬車とかは、別の道を通っていた。

上の写真の右側。 ○の辺りは、昔は、湿原だった。 エゾカンゾウが咲いていた。

家のあった方から撮影。 左端に車。 中央の○の方角に、小学校。
右の○は、国道への出口。
国道の近くに、郵便受けがあった。 新聞と郵便を取りに行くのは、私の仕事。

最初の半年ほど、地図の印の所に住んだ。

向こうから来た。 家は、右の方に。

右の方は、こうなんだけど、正確な場所は分からない。 ここから、100㍍か200㍍入ったところ。

この場所の、後ろの方が、上の写真の場所。
道の突き当たりを左に行くと、学校の方に行く。
右に行くと、山道を通って、歌内の駅に行く。 今は、途中から使っていない道。
右に少し行ったら、昔は、少しだけ水田があった。
※ 現在の日本最北の水田は、日本海側の遠別町にあるそう。
この場所は、遠別より更に北になる。
もしかしたら、当時は、日本最北だったかもしれない。

天気が悪いので、バッテリーに充電されていない。
少し走るかとなって、中川のセイコーマートまで、少しの買い物に。 ゴミも捨てて。
帰りに、歌内の駅に寄った。
昔は立派な駅。
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図書館がやっていたら行こうと思ったが、休みだった。
図書館に行けば、きっと見つけられる。
国府小学校の写真も、きっとある。 図書館は、明日月曜も休み。
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留辺蘂町まで往復したことがある。
何時間外の景色を眺めても、飽きることはなかった。
放浪の旅にあこがれる、スタートかもしれない。

駅前の様子。 昔は賑やかだった。 歌内には、小学校も中学校もあった。 今は、どっちもない。
この店で、凧を買ったことがある。

この場所は、天塩川の国府側。 橋を渡ったら、歌内。
昭和15年5月6日、天塩川の渡船が、ひっくり返った。
乗っていた児童17人と父兄2人全員が流されて亡くなった。
下は、その遭難碑。
橋が出来たのは、昭和35年。 4年生の時だった。

戻ってきた。 遠くから家があった場所を見ると、こう。

朝は見えなかったペンケ山が見えた。 いつも眺めた山。

思い出をいくつか。 (思い出すままに)
○ 家で飼っていたのは、馬、牛、ヒツジ、ヤギ、ニワトリ(100羽)、猫。
卵は、おふくろが中川の市街まで売りに行った。
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姉が2年生だったので、親は、登下校のとき心配していた。
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○ ある家で、汁粉を御馳走になった。 牛乳が入っていた。
今でも、牛乳の入った汁粉が大好き。 たま~に、作る。
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○ トノサマバッタを山ほど捕まえた。 それ以来、バッタは好きでなくなった。
○ ラーメンを最初に食べたのは、1年生の時。 中川の、にこにこ食堂。
かん水のにおいがした。 ちりちり麺。 忘れられない味。
同じ味が作れたら、今の時代でも、売れると思う。
似た味のラーメンは、食べたことない。
○ 国府にいた時、荒馬という相撲取りを応援していた。 中川町の出身。(佐久かな)
荒馬の他に、木ノ村と名乗った時もあった。 十両には上がれなかった。
荒馬は、のちのラッシャー木村。 プロレスラー。
○ ある時、よその家でご飯を御馳走になった。
それは、冷たい味噌汁をかけたご飯。 具はジャガイモだけ。
それを思い出して、今でも、同じご飯を食べることがある。
○ 留辺蘂のおばさんが、動物の図鑑を送ってくれた。
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○ 風呂は、木で出来ていた。 桶(おけ)の感じの。
あれから、同じ風呂に入ったことない。 見たことはあるけど。
この辺でお終い。 明日は、学校の思い出。
こうだったら、山本美香さんは死なずに済んだかもしれない、と思うことが2つ。
下の写真。 彼女はビデオカメラを指差している。
転んで、カメラをぶつけたと、佐藤さんに言っている。
彼女は、壊れたかもしれないと、心配している。
佐藤さんは、大丈夫、俺のあるから、と言った。
でも、カメラは壊れてはいなかった。
この後撮影に使う。
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もし、この時壊れていれば、どうなったか分からない。
彼女は、ビデオカメラでの撮影はしていなかった。
撃たれなかったかも知れない。

彼女が銃撃された日、ジャーナリスト2人が政府側に捕まってしまう。
山本さんが銃撃された日から、ジャーナリストへの弾圧が激しくなった。
山本さんと佐藤さんの、シリアに入る予定が、もう1日遅かったら、上の情報が耳に入った。
そうしたら、危険と感じて、20日にシリアに入るのは止めたかもしれない。

いくら用心しても避けきれない危険はある。
運命の歯車がどう回るかは、運次第の感じがする。
【停泊場所】 昨晩に同じ
【明日の予定】 学校跡まで歩いた後、北に向かう。 途中から、海に出ようかと。
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