どうして、二十四の瞳なのか。
なぜ、舞台を、田浦分校にしたのか。
一本松を登場させ、大石先生に自転車を乗せた理由は?
こんなことを考えるのが面白いかなと、・・。
※ 今日のブログの情報源は、観光協会さんのHPと、壺井栄文学館、そしておばあちゃんの話、他。
※ ※ ※ ※
一本松は、竹生(たこう)地区にある。 それで、竹生の一本松。
オリーブ公園から、歩いていくことに。
※ 下の地図は、大石先生が自転車で通った道。
子供たちが、先生のところに向かった道。
大石先生の家が、一本松の近くにあった。
二十四の瞳の中では、岬の村から一本松が、見えることになっている。
※ 二十四の瞳の中には、小豆島という名前も、田浦という地名も、出てこない。
読むと、間違いなく、小豆島であり、田浦と分かる。
実際には、分教場のある所からは、見えない。
お話の中では、見えることに。
道の駅 小豆島オリーブ公園。 見える一帯が、道の駅。
坂を下りてきたところ。
地図の、左に向かっている。
途中で、海を見た。 赤○に、分教場。
実際の一本松は、もっと左に。
二十四の瞳では、一本松は向こうから見える、この辺りにし、そばに大石先生の家があることにした。
実際の距離は13㌔程だが、話の中では8㌔。
標識があった。
一本松は、ここにあった。
昔あった木は、昭和20年に台風で倒れ、今のは2代目。 桜の木の向こうに、細く。
今は、このように。 一本松神社も。
昔の木は、樹齢600年の、島で一番の木だった。
話の中では、何度も出てくる。
神社から、海はこのように見える。 分教場は見えない。
道の駅に戻った。 坂道を上っていると、こんな看板。
「てのべそうめん」の文字が隠れている。 分かるでしょうか。 答えは、写真の下に。
※ て、は左に。 の、は上に。 べ、は右に。 そ、は中央右に。 う、は中央左。
め、と、ん、は分かりますね。
分教場に戻って、近くのおばあちゃんの話を聞いた。
基本的には、前回聞いた内容からは、大きな広がりはなかった。
ただ、再度、詳しく。
赤○の道が、昔の道。 大石先生が通った道。 5年生になったら、この道を通って、本校に。
※ 壺井栄の妹の、岩井シンさんが、坂手の紫の○から自転車で分教場に通った道。
緑の○の道は、昔は無かった。 私は、この道を戻ってくる。
緑が3㌔だから、赤○の道も、3㌔くらいか。
この道。
分教場の少し映画村寄りから、道は山に上る。 映画村が見える。
この時、午後の3時17分。 2時間後は、暗い。 懐中電灯を持った。
少し上ったら、この風景。 道を右に曲がったところに、分教場。
道の突き当たりの、ずっと遠くに、一本松。
段畑。 昔は、どこもこのように畑だった。 今は、木が生えてしまった。
ネギを植えている。 冬に向かってるのに。 ジャガイモもあった。
※ この後、道を間違って、15分ほど時間を使った。
道は折れ曲がって、右側が海。
急な坂道が続く。 快適に自転車は乗れない。
人に聞いた話だが、この山道は、半分ほどは自転車を押したという。
石垣が、このように見える。 先人が、苦労して、山の斜面を畑にした。
「二十四の瞳」の題は、どうして生まれたか。 こうなんですね。
壺井栄には、兄弟が10人いた。 他に、2人の子供が、一緒に住んでいた。
それで、12人。 二十四の瞳、となる。
壺井栄は、この題名は急に思いついたのではなく、きっと、温めていた。
山の尾根を越えたら、道は左に曲がり、反対側の海が見えてきた。
二十四の瞳の舞台を、どうして、田浦(たのうら)の分校にしたのか。 ※ 苗羽(のうま)小学校田浦分校。
これは、そこに、妹の岩井シンさんが、勤めていたことと、関係ありますね。
こんな崖なら、海沿いに道は作れない。
今は舗装してある。
物語は昭和3年から始まるが、この道は、車が通れるような道ではなかった。
映画の中でも、この道のどこかで撮影があったという。
やっと、道は下り始める。
向こうに、坂手の港。
あの町から、妹のシンさんは、田浦の分校に、自転車で通った。
途中で、散歩している男の人に会った。 一緒に歩いた。
イノシシが穴を掘ったと、教えてくれた。 ミミズとかを探すために、掘る。
坂手の港を、アップで。 フェリーは、神戸からの来た。
堀越の集落が見えた。
後で知るが、写真の左辺りに、壺井繁治の詩碑がある。
昔はそこに、堀越分校(分教場)があって、そばに壺井繁治の家があった。
壺井栄は、そこに遊びに行ってた。
堀越分校で高等小学校時代の同級生が勤めていた。
その先生の、子供たちとの関わりが気に入っていた。
このことが、大石先生のイメージを作り上げたよう。
※ 妹の岩井シンさんは、特に目立つ人ではなかった。
大石先生のハイカラなイメージは、壺井栄自身が、そうなってみたい姿だったよう。
壺井繁治の詩碑には、暗くなってから行く。
山の向こうは海。 内海湾。
昔は、今のような護岸は無かった。
瀬戸内海も、台風の時とかは、荒れるのでしょうか。
向こうから来た。 赤○の所を通って。
湾の方に向かった。
200㍍も歩かないうちに、湾沿いの道に出た。
この時、壺井繁治の詩碑を通り過ぎたことに、気づいた。
歩き出したら、道の駅と一本松の場所が、見え出した。
一本松には、壺井栄の知人とかが住んでるわけではなかった。
ただ、田浦の人たちが、船で湾を渡ることは、壺井栄は知っていた。
大石先生をどこに住まわすかを考えたとき、上のことがヒントになったと思う。
自分の実家には出来ない。 それでは、安易過ぎる。
急な崖が時々あるので、昔の技術では、道は作れなかった。
早く戻って、壺井繁治の詩碑を見なければならない。
間もなく5時。 暗くなってきた。
正面中央の少し左に、一本松。 私の真後ろの方向に、分教場。
左に曲がったら、分教場。
正面の左に、分教場。
田浦の中心街。 私の車も、見える。
奥に、分教場。
駐車場に戻ったら、おばあちゃんが、私の帰りを待っていた。
私は少しのお土産しか渡さなかったのに、おばあちゃんからは、山ほど頂いてしまった。
※ 田浦の人は、登場人物の誰々は、自分の身内の人と考えている人が多い、と聞く。
でも、おばあちゃんの言ってる事は、十分真実味があった。
おばあちゃんの叔母さんに当たる人が、壺井栄の妹の岩井シンさんに習っていた。
その叔母さんは、若くして結核で亡くなる。
二十四の瞳の中に、琴江と言う子が、結核になっている。
おばあちゃんは、琴江のモデルが、おばさんと考えている。
堀越に戻ってきた。
集落の一番奥に、壺井繁治の詩碑はあった。 ここに、昔、学校があった。
隣に、繁治の家。 壺井栄が遊びに来たとき、学校の様子が見えた。
暗くて読めない。 とりあえず写真を撮った。
「 石は億万年を黙って 暮らしつづけた その間に空は晴れたり曇ったりした 」と、あった。
動き出す時間が遅いから、最後は暗くなる。
5時22分。 坂手港からフェリーが出て行った。
十分ではないけど、「二十四の瞳」が生まれた背景が、何となく分かったでしょうか。
映画によって、二十四の瞳の輝きは、さらに増した。
そう、言えるでしょうね。
【今日の歌】
【道の駅】 オリーブ公園
【明日の予定】 坂手地区を歩く。 生田春月と云う人の、海の詩碑がある。 岬も。
壺井栄の文学碑も。
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一本松を登場させ、大石先生に自転車を乗せた理由は?
こんなことを考えるのが面白いかなと、・・。
※ 今日のブログの情報源は、観光協会さんのHPと、壺井栄文学館、そしておばあちゃんの話、他。
※ ※ ※ ※
一本松は、竹生(たこう)地区にある。 それで、竹生の一本松。
オリーブ公園から、歩いていくことに。
※ 下の地図は、大石先生が自転車で通った道。
子供たちが、先生のところに向かった道。

大石先生の家が、一本松の近くにあった。
二十四の瞳の中では、岬の村から一本松が、見えることになっている。
※ 二十四の瞳の中には、小豆島という名前も、田浦という地名も、出てこない。
読むと、間違いなく、小豆島であり、田浦と分かる。
実際には、分教場のある所からは、見えない。
お話の中では、見えることに。

道の駅 小豆島オリーブ公園。 見える一帯が、道の駅。
坂を下りてきたところ。

地図の、左に向かっている。

途中で、海を見た。 赤○に、分教場。
実際の一本松は、もっと左に。
二十四の瞳では、一本松は向こうから見える、この辺りにし、そばに大石先生の家があることにした。
実際の距離は13㌔程だが、話の中では8㌔。

標識があった。

一本松は、ここにあった。
昔あった木は、昭和20年に台風で倒れ、今のは2代目。 桜の木の向こうに、細く。

今は、このように。 一本松神社も。

昔の木は、樹齢600年の、島で一番の木だった。
話の中では、何度も出てくる。

神社から、海はこのように見える。 分教場は見えない。

道の駅に戻った。 坂道を上っていると、こんな看板。
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※ て、は左に。 の、は上に。 べ、は右に。 そ、は中央右に。 う、は中央左。
め、と、ん、は分かりますね。
分教場に戻って、近くのおばあちゃんの話を聞いた。
基本的には、前回聞いた内容からは、大きな広がりはなかった。
ただ、再度、詳しく。
赤○の道が、昔の道。 大石先生が通った道。 5年生になったら、この道を通って、本校に。
※ 壺井栄の妹の、岩井シンさんが、坂手の紫の○から自転車で分教場に通った道。
緑の○の道は、昔は無かった。 私は、この道を戻ってくる。
緑が3㌔だから、赤○の道も、3㌔くらいか。

この道。

分教場の少し映画村寄りから、道は山に上る。 映画村が見える。
この時、午後の3時17分。 2時間後は、暗い。 懐中電灯を持った。

少し上ったら、この風景。 道を右に曲がったところに、分教場。
道の突き当たりの、ずっと遠くに、一本松。

段畑。 昔は、どこもこのように畑だった。 今は、木が生えてしまった。
ネギを植えている。 冬に向かってるのに。 ジャガイモもあった。

※ この後、道を間違って、15分ほど時間を使った。
道は折れ曲がって、右側が海。
急な坂道が続く。 快適に自転車は乗れない。
人に聞いた話だが、この山道は、半分ほどは自転車を押したという。

石垣が、このように見える。 先人が、苦労して、山の斜面を畑にした。

「二十四の瞳」の題は、どうして生まれたか。 こうなんですね。
壺井栄には、兄弟が10人いた。 他に、2人の子供が、一緒に住んでいた。
それで、12人。 二十四の瞳、となる。
壺井栄は、この題名は急に思いついたのではなく、きっと、温めていた。
山の尾根を越えたら、道は左に曲がり、反対側の海が見えてきた。

二十四の瞳の舞台を、どうして、田浦(たのうら)の分校にしたのか。 ※ 苗羽(のうま)小学校田浦分校。
これは、そこに、妹の岩井シンさんが、勤めていたことと、関係ありますね。
こんな崖なら、海沿いに道は作れない。

今は舗装してある。
物語は昭和3年から始まるが、この道は、車が通れるような道ではなかった。

映画の中でも、この道のどこかで撮影があったという。
やっと、道は下り始める。

向こうに、坂手の港。
あの町から、妹のシンさんは、田浦の分校に、自転車で通った。

途中で、散歩している男の人に会った。 一緒に歩いた。
イノシシが穴を掘ったと、教えてくれた。 ミミズとかを探すために、掘る。

坂手の港を、アップで。 フェリーは、神戸からの来た。

堀越の集落が見えた。

後で知るが、写真の左辺りに、壺井繁治の詩碑がある。
昔はそこに、堀越分校(分教場)があって、そばに壺井繁治の家があった。
壺井栄は、そこに遊びに行ってた。
堀越分校で高等小学校時代の同級生が勤めていた。
その先生の、子供たちとの関わりが気に入っていた。
このことが、大石先生のイメージを作り上げたよう。
※ 妹の岩井シンさんは、特に目立つ人ではなかった。
大石先生のハイカラなイメージは、壺井栄自身が、そうなってみたい姿だったよう。
壺井繁治の詩碑には、暗くなってから行く。
山の向こうは海。 内海湾。

昔は、今のような護岸は無かった。

瀬戸内海も、台風の時とかは、荒れるのでしょうか。

向こうから来た。 赤○の所を通って。

湾の方に向かった。

200㍍も歩かないうちに、湾沿いの道に出た。
この時、壺井繁治の詩碑を通り過ぎたことに、気づいた。

歩き出したら、道の駅と一本松の場所が、見え出した。

一本松には、壺井栄の知人とかが住んでるわけではなかった。
ただ、田浦の人たちが、船で湾を渡ることは、壺井栄は知っていた。
大石先生をどこに住まわすかを考えたとき、上のことがヒントになったと思う。
自分の実家には出来ない。 それでは、安易過ぎる。
急な崖が時々あるので、昔の技術では、道は作れなかった。

早く戻って、壺井繁治の詩碑を見なければならない。

間もなく5時。 暗くなってきた。
正面中央の少し左に、一本松。 私の真後ろの方向に、分教場。

左に曲がったら、分教場。

正面の左に、分教場。

田浦の中心街。 私の車も、見える。

奥に、分教場。

駐車場に戻ったら、おばあちゃんが、私の帰りを待っていた。
私は少しのお土産しか渡さなかったのに、おばあちゃんからは、山ほど頂いてしまった。
※ 田浦の人は、登場人物の誰々は、自分の身内の人と考えている人が多い、と聞く。
でも、おばあちゃんの言ってる事は、十分真実味があった。
おばあちゃんの叔母さんに当たる人が、壺井栄の妹の岩井シンさんに習っていた。
その叔母さんは、若くして結核で亡くなる。
二十四の瞳の中に、琴江と言う子が、結核になっている。
おばあちゃんは、琴江のモデルが、おばさんと考えている。
堀越に戻ってきた。

集落の一番奥に、壺井繁治の詩碑はあった。 ここに、昔、学校があった。

隣に、繁治の家。 壺井栄が遊びに来たとき、学校の様子が見えた。

暗くて読めない。 とりあえず写真を撮った。
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動き出す時間が遅いから、最後は暗くなる。
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映画によって、二十四の瞳の輝きは、さらに増した。
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「二十四の瞳」は、映画がヒットして、これ程までになった。
そうだとしても、この話のどこが、面白いのでしょう。
むずかしい。
新美南吉の「ごんぎつね」を読んだら、江戸時代の農村の風景、人々の生活が、鮮やかに頭に浮かぶ。
これに、似ているようにも、思う。
二十四の瞳は、戦時中の、子供たちの生活や人々の考えが、小豆島の美しい風景の中で、表現されている。(特に映画)
そして、戦争についての作者の考えを、登場人物に、やわらかく語らせている。
こんなとこでしょうか。
作品は作品として歩んでいるから、生まれた背景はどうだっていい。
そうなんだが、気になる。
昨日書いたおばあちゃんは、元気だった。
お話は、明日聞くことに。
野球の話ですが、大谷は、日ハムに入りますね。
どうして分かるかって?
この晴れ晴れとした表情を見たら、誰だって、そう思います。
栗山監督の情熱に、大谷の頑(かたく)なな心は、とけてしまった。
※ ※ ※ ※
岬の分教場は、ここに。
道の駅より、少し高いところの展望台から。
左に、小さな湾が入っている。
二十四の瞳の舞台は、正面の低くなった部分の、少し左にある。
話の中の、大石先生は、一本松の近くに住んでいた。
その一本松は、目の前の坂の下の、右の方。(まだ行ってないが)
※ 壺井栄の妹の、岩井シンと言う人が、そこに住んでいた。(ネット上にこうあるが、確認が必要)
ピンクの所だが、山の陰になって見えない。 右の赤○に、映画村。
※ この後、向こうに行く。 映画村の方から見たら、下のように。 ○が、岬の分教場。
内海湾。 1年生の子供たちは、ぐるっとまわって、一本松まで先生に会いに来た。 13㌔ほど。
下の写真は、さらに高い展望台から。
車で向かった。 ここを曲がったら、分教場。 正面に、映画村。
岬の分教場。 ※ 旧苗場小学校田浦分校 校舎。
1954年の高峰秀子の映画が、ここで撮影。
昭和46年まで使われた。
※ 撮影された昭和29年と、どこが違うかは、分からない。
昔は、どこもこんなんだった。
高峰秀子。 右は、昔の子供の様子か。 細い道。
映画の一部。 短いです。
自然の描写は、どれも、普通ではないですよ。 満開の桜とか。
この中に、映画がヒットした理由が、十分にある感じ。
子供との関わりも、実際にこんな先生はいた。
昔のほうが、子供と一緒に生きている、という先生が多かった。
壺井栄の句。
学校と海の間に、今のような道は無かった。
道は、山の上を通っていた。 ※ 道は残っていて、明日歩く予定。
※ 写真はたくさんあったが、写真は撮れなかった。 個人の所有のよう。
山を背に、海を見ている。
下の動画は、高峰秀子の映画。
上の校舎を使ったことになっているが、建物は今と違う。
また、海の風景も違う。 どういうことだろう。 ※ 確認しなければならない。
※ 仰げば尊しの歌は、アメリカで作られた。 最近分かった。
国には、歌で国民の心を、まとめようとの考えがあった。
それで、よその国から。 ※ 日本に、いいのが無かったので。
歌は、利用されることが、時々・・。
※ 分教場の事務の人が、映画村にある「壺井栄文学館」に詳しい人がいると教えてくれた。
二十四の瞳 映画村。
田中裕子主演の映画のために作られた。
中は広く、いろんな建物がある。
小さな映画館では、二十四の瞳が、いつも上映されている。
今はどの建物も、お土産やさんに、変身。
岬の分教場。
高峰秀子も、田中裕子も、どっちも展示していた。
昨日、フェリーの中で見た写真。
田浦分校の子供も参加した。 ※ 体の小さな1年生だけだった。
※ 「喜びも悲しみも・・・」の映画も、木下恵介監督と高峰秀子のコンビ。
全国の岬に行くと、この歌、また映画によく出会う。
佐田啓二は、中井貴一にそっくり。
教員住宅。 昔は、地域の人と、よく酒を飲んだ。 娯楽の少ない時代だった。
映画村は、半島の細い部分にある。 向こうは四国。 小豆島は、四国とのつながり。
何に使う釜でしょう。
先生と子供たちの像。 田中裕子の映画の。
※ 高峰秀子の映画は、YouTubuで見ることが出来る。
映画の著作権の保護期間と云うのは、複雑。
50年が1つの目途なのか。
田中裕子の方は、YouTubeには、全く無い。
見てみたい。
当時は、騒がれたよう。 映画館にあった写真。
両方とも、高峰秀子。
右は、田中裕子。
写真の自転車は、今もある。
戦争に流されない人間を演じるなら、田中裕子は、合うように感じる。
左の写真の、真ん中の子は、高木美保。 松江役。 ※ 今の彼女。
(子供っぽいので、別人かな、とも)
右の写真に、武田鉄矢。 イメージが強いから、映画が壊れる。
右後ろの遠くから歩いてきた。 その時に、記念撮影。
左に、松江のことが書いてある。
子供たちの家庭は、どこも貧しかった。
壺井栄は、大石先生に、この小説で伝えたいことを、そっと語らせる。
これがいいんですね。
声高に叫びすぎると、人の心に、染み込まない。
※ 吉永小百合の行動も似ていますよ。
右の写真。 この人は、高木美保ですね。 松江役。
「・・・。一緒に泣いてあげる」とある。
上の言葉は、教育を深く学んでいないと、言えない。
しかし、学んでなくても、感覚的に言える先生は、いるんですね。
大石先生は、単なる教師ではなく、教育者に近い先生でしょうか。
今の時代、このような先生は、10人に1人は、いないな~。
映画は途中までしか見なかった。
二十四の瞳で描かれている子供は、みんな貧しい。
松江のように、貧しすぎる子も、いる。
こんなことを、思った。
子供は、貧しすぎると、夢を持たなくなるのでは、と。
最低限の豊かさは、「夢が持てる条件」かな・・とも。
※ 「二十四の瞳」が生まれた背景について、壺井栄文学館で、少し教えてもらった。
このことについては、明日のブログで書きますね。
【その他】 以前、大谷はきっと日ハムに入りますよ、と書いたことがあった。
それが、現実味を帯びてきた。
気の早いところは、日ハムに入ると書いてしまったところも。
本当に日ハムに入ったら、栗山監督の、逆転満塁ホームラン。
【道の駅】 オリーブ公園
【明日の予定】 大石先生がいたところに。 おばあちゃんとお話。 子供たちが歩いた道を。
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むずかしい。
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これに、似ているようにも、思う。
二十四の瞳は、戦時中の、子供たちの生活や人々の考えが、小豆島の美しい風景の中で、表現されている。(特に映画)
そして、戦争についての作者の考えを、登場人物に、やわらかく語らせている。
こんなとこでしょうか。
作品は作品として歩んでいるから、生まれた背景はどうだっていい。
そうなんだが、気になる。
昨日書いたおばあちゃんは、元気だった。
お話は、明日聞くことに。
野球の話ですが、大谷は、日ハムに入りますね。
どうして分かるかって?
この晴れ晴れとした表情を見たら、誰だって、そう思います。

栗山監督の情熱に、大谷の頑(かたく)なな心は、とけてしまった。
※ ※ ※ ※
岬の分教場は、ここに。
道の駅より、少し高いところの展望台から。
左に、小さな湾が入っている。
二十四の瞳の舞台は、正面の低くなった部分の、少し左にある。
話の中の、大石先生は、一本松の近くに住んでいた。
その一本松は、目の前の坂の下の、右の方。(まだ行ってないが)
※ 壺井栄の妹の、岩井シンと言う人が、そこに住んでいた。(ネット上にこうあるが、確認が必要)

ピンクの所だが、山の陰になって見えない。 右の赤○に、映画村。

※ この後、向こうに行く。 映画村の方から見たら、下のように。 ○が、岬の分教場。

内海湾。 1年生の子供たちは、ぐるっとまわって、一本松まで先生に会いに来た。 13㌔ほど。

下の写真は、さらに高い展望台から。


車で向かった。 ここを曲がったら、分教場。 正面に、映画村。

岬の分教場。 ※ 旧苗場小学校田浦分校 校舎。
1954年の高峰秀子の映画が、ここで撮影。

昭和46年まで使われた。
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昔は、どこもこんなんだった。

高峰秀子。 右は、昔の子供の様子か。 細い道。


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自然の描写は、どれも、普通ではないですよ。 満開の桜とか。
この中に、映画がヒットした理由が、十分にある感じ。
子供との関わりも、実際にこんな先生はいた。
昔のほうが、子供と一緒に生きている、という先生が多かった。
壺井栄の句。
学校と海の間に、今のような道は無かった。
道は、山の上を通っていた。 ※ 道は残っていて、明日歩く予定。


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山を背に、海を見ている。

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また、海の風景も違う。 どういうことだろう。 ※ 確認しなければならない。
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国には、歌で国民の心を、まとめようとの考えがあった。
それで、よその国から。 ※ 日本に、いいのが無かったので。
歌は、利用されることが、時々・・。
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二十四の瞳 映画村。
田中裕子主演の映画のために作られた。

中は広く、いろんな建物がある。
小さな映画館では、二十四の瞳が、いつも上映されている。

今はどの建物も、お土産やさんに、変身。


岬の分教場。

高峰秀子も、田中裕子も、どっちも展示していた。
昨日、フェリーの中で見た写真。
田浦分校の子供も参加した。 ※ 体の小さな1年生だけだった。


※ 「喜びも悲しみも・・・」の映画も、木下恵介監督と高峰秀子のコンビ。
全国の岬に行くと、この歌、また映画によく出会う。
佐田啓二は、中井貴一にそっくり。
教員住宅。 昔は、地域の人と、よく酒を飲んだ。 娯楽の少ない時代だった。

映画村は、半島の細い部分にある。 向こうは四国。 小豆島は、四国とのつながり。

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映画の著作権の保護期間と云うのは、複雑。
50年が1つの目途なのか。
田中裕子の方は、YouTubeには、全く無い。
見てみたい。
当時は、騒がれたよう。 映画館にあった写真。


両方とも、高峰秀子。


右は、田中裕子。


写真の自転車は、今もある。

戦争に流されない人間を演じるなら、田中裕子は、合うように感じる。

左の写真の、真ん中の子は、高木美保。 松江役。 ※ 今の彼女。
(子供っぽいので、別人かな、とも)
右の写真に、武田鉄矢。 イメージが強いから、映画が壊れる。


右後ろの遠くから歩いてきた。 その時に、記念撮影。

左に、松江のことが書いてある。
子供たちの家庭は、どこも貧しかった。
壺井栄は、大石先生に、この小説で伝えたいことを、そっと語らせる。
これがいいんですね。
声高に叫びすぎると、人の心に、染み込まない。
※ 吉永小百合の行動も似ていますよ。


右の写真。 この人は、高木美保ですね。 松江役。


「・・・。一緒に泣いてあげる」とある。
上の言葉は、教育を深く学んでいないと、言えない。
しかし、学んでなくても、感覚的に言える先生は、いるんですね。
大石先生は、単なる教師ではなく、教育者に近い先生でしょうか。
今の時代、このような先生は、10人に1人は、いないな~。

映画は途中までしか見なかった。
二十四の瞳で描かれている子供は、みんな貧しい。
松江のように、貧しすぎる子も、いる。
こんなことを、思った。
子供は、貧しすぎると、夢を持たなくなるのでは、と。
最低限の豊かさは、「夢が持てる条件」かな・・とも。
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それが、現実味を帯びてきた。
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本当に日ハムに入ったら、栗山監督の、逆転満塁ホームラン。


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