どうして、二十四の瞳なのか。
なぜ、舞台を、田浦分校にしたのか。
一本松を登場させ、大石先生に自転車を乗せた理由は?
こんなことを考えるのが面白いかなと、・・。
※ 今日のブログの情報源は、観光協会さんのHPと、壺井栄文学館、そしておばあちゃんの話、他。
※ ※ ※ ※
一本松は、竹生(たこう)地区にある。 それで、竹生の一本松。
オリーブ公園から、歩いていくことに。
※ 下の地図は、大石先生が自転車で通った道。
子供たちが、先生のところに向かった道。
大石先生の家が、一本松の近くにあった。
二十四の瞳の中では、岬の村から一本松が、見えることになっている。
※ 二十四の瞳の中には、小豆島という名前も、田浦という地名も、出てこない。
読むと、間違いなく、小豆島であり、田浦と分かる。
実際には、分教場のある所からは、見えない。
お話の中では、見えることに。
道の駅 小豆島オリーブ公園。 見える一帯が、道の駅。
坂を下りてきたところ。
地図の、左に向かっている。
途中で、海を見た。 赤○に、分教場。
実際の一本松は、もっと左に。
二十四の瞳では、一本松は向こうから見える、この辺りにし、そばに大石先生の家があることにした。
実際の距離は13㌔程だが、話の中では8㌔。
標識があった。
一本松は、ここにあった。
昔あった木は、昭和20年に台風で倒れ、今のは2代目。 桜の木の向こうに、細く。
今は、このように。 一本松神社も。
昔の木は、樹齢600年の、島で一番の木だった。
話の中では、何度も出てくる。
神社から、海はこのように見える。 分教場は見えない。
道の駅に戻った。 坂道を上っていると、こんな看板。
「てのべそうめん」の文字が隠れている。 分かるでしょうか。 答えは、写真の下に。
※ て、は左に。 の、は上に。 べ、は右に。 そ、は中央右に。 う、は中央左。
め、と、ん、は分かりますね。
分教場に戻って、近くのおばあちゃんの話を聞いた。
基本的には、前回聞いた内容からは、大きな広がりはなかった。
ただ、再度、詳しく。
赤○の道が、昔の道。 大石先生が通った道。 5年生になったら、この道を通って、本校に。
※ 壺井栄の妹の、岩井シンさんが、坂手の紫の○から自転車で分教場に通った道。
緑の○の道は、昔は無かった。 私は、この道を戻ってくる。
緑が3㌔だから、赤○の道も、3㌔くらいか。
この道。
分教場の少し映画村寄りから、道は山に上る。 映画村が見える。
この時、午後の3時17分。 2時間後は、暗い。 懐中電灯を持った。
少し上ったら、この風景。 道を右に曲がったところに、分教場。
道の突き当たりの、ずっと遠くに、一本松。
段畑。 昔は、どこもこのように畑だった。 今は、木が生えてしまった。
ネギを植えている。 冬に向かってるのに。 ジャガイモもあった。
※ この後、道を間違って、15分ほど時間を使った。
道は折れ曲がって、右側が海。
急な坂道が続く。 快適に自転車は乗れない。
人に聞いた話だが、この山道は、半分ほどは自転車を押したという。
石垣が、このように見える。 先人が、苦労して、山の斜面を畑にした。
「二十四の瞳」の題は、どうして生まれたか。 こうなんですね。
壺井栄には、兄弟が10人いた。 他に、2人の子供が、一緒に住んでいた。
それで、12人。 二十四の瞳、となる。
壺井栄は、この題名は急に思いついたのではなく、きっと、温めていた。
山の尾根を越えたら、道は左に曲がり、反対側の海が見えてきた。
二十四の瞳の舞台を、どうして、田浦(たのうら)の分校にしたのか。 ※ 苗羽(のうま)小学校田浦分校。
これは、そこに、妹の岩井シンさんが、勤めていたことと、関係ありますね。
こんな崖なら、海沿いに道は作れない。
今は舗装してある。
物語は昭和3年から始まるが、この道は、車が通れるような道ではなかった。
映画の中でも、この道のどこかで撮影があったという。
やっと、道は下り始める。
向こうに、坂手の港。
あの町から、妹のシンさんは、田浦の分校に、自転車で通った。
途中で、散歩している男の人に会った。 一緒に歩いた。
イノシシが穴を掘ったと、教えてくれた。 ミミズとかを探すために、掘る。
坂手の港を、アップで。 フェリーは、神戸からの来た。
堀越の集落が見えた。
後で知るが、写真の左辺りに、壺井繁治の詩碑がある。
昔はそこに、堀越分校(分教場)があって、そばに壺井繁治の家があった。
壺井栄は、そこに遊びに行ってた。
堀越分校で高等小学校時代の同級生が勤めていた。
その先生の、子供たちとの関わりが気に入っていた。
このことが、大石先生のイメージを作り上げたよう。
※ 妹の岩井シンさんは、特に目立つ人ではなかった。
大石先生のハイカラなイメージは、壺井栄自身が、そうなってみたい姿だったよう。
壺井繁治の詩碑には、暗くなってから行く。
山の向こうは海。 内海湾。
昔は、今のような護岸は無かった。
瀬戸内海も、台風の時とかは、荒れるのでしょうか。
向こうから来た。 赤○の所を通って。
湾の方に向かった。
200㍍も歩かないうちに、湾沿いの道に出た。
この時、壺井繁治の詩碑を通り過ぎたことに、気づいた。
歩き出したら、道の駅と一本松の場所が、見え出した。
一本松には、壺井栄の知人とかが住んでるわけではなかった。
ただ、田浦の人たちが、船で湾を渡ることは、壺井栄は知っていた。
大石先生をどこに住まわすかを考えたとき、上のことがヒントになったと思う。
自分の実家には出来ない。 それでは、安易過ぎる。
急な崖が時々あるので、昔の技術では、道は作れなかった。
早く戻って、壺井繁治の詩碑を見なければならない。
間もなく5時。 暗くなってきた。
正面中央の少し左に、一本松。 私の真後ろの方向に、分教場。
左に曲がったら、分教場。
正面の左に、分教場。
田浦の中心街。 私の車も、見える。
奥に、分教場。
駐車場に戻ったら、おばあちゃんが、私の帰りを待っていた。
私は少しのお土産しか渡さなかったのに、おばあちゃんからは、山ほど頂いてしまった。
※ 田浦の人は、登場人物の誰々は、自分の身内の人と考えている人が多い、と聞く。
でも、おばあちゃんの言ってる事は、十分真実味があった。
おばあちゃんの叔母さんに当たる人が、壺井栄の妹の岩井シンさんに習っていた。
その叔母さんは、若くして結核で亡くなる。
二十四の瞳の中に、琴江と言う子が、結核になっている。
おばあちゃんは、琴江のモデルが、おばさんと考えている。
堀越に戻ってきた。
集落の一番奥に、壺井繁治の詩碑はあった。 ここに、昔、学校があった。
隣に、繁治の家。 壺井栄が遊びに来たとき、学校の様子が見えた。
暗くて読めない。 とりあえず写真を撮った。
「 石は億万年を黙って 暮らしつづけた その間に空は晴れたり曇ったりした 」と、あった。
動き出す時間が遅いから、最後は暗くなる。
5時22分。 坂手港からフェリーが出て行った。
十分ではないけど、「二十四の瞳」が生まれた背景が、何となく分かったでしょうか。
映画によって、二十四の瞳の輝きは、さらに増した。
そう、言えるでしょうね。
【今日の歌】
【道の駅】 オリーブ公園
【明日の予定】 坂手地区を歩く。 生田春月と云う人の、海の詩碑がある。 岬も。
壺井栄の文学碑も。
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一本松を登場させ、大石先生に自転車を乗せた理由は?
こんなことを考えるのが面白いかなと、・・。
※ 今日のブログの情報源は、観光協会さんのHPと、壺井栄文学館、そしておばあちゃんの話、他。
※ ※ ※ ※
一本松は、竹生(たこう)地区にある。 それで、竹生の一本松。
オリーブ公園から、歩いていくことに。
※ 下の地図は、大石先生が自転車で通った道。
子供たちが、先生のところに向かった道。

大石先生の家が、一本松の近くにあった。
二十四の瞳の中では、岬の村から一本松が、見えることになっている。
※ 二十四の瞳の中には、小豆島という名前も、田浦という地名も、出てこない。
読むと、間違いなく、小豆島であり、田浦と分かる。
実際には、分教場のある所からは、見えない。
お話の中では、見えることに。

道の駅 小豆島オリーブ公園。 見える一帯が、道の駅。
坂を下りてきたところ。

地図の、左に向かっている。

途中で、海を見た。 赤○に、分教場。
実際の一本松は、もっと左に。
二十四の瞳では、一本松は向こうから見える、この辺りにし、そばに大石先生の家があることにした。
実際の距離は13㌔程だが、話の中では8㌔。

標識があった。

一本松は、ここにあった。
昔あった木は、昭和20年に台風で倒れ、今のは2代目。 桜の木の向こうに、細く。

今は、このように。 一本松神社も。

昔の木は、樹齢600年の、島で一番の木だった。
話の中では、何度も出てくる。

神社から、海はこのように見える。 分教場は見えない。

道の駅に戻った。 坂道を上っていると、こんな看板。
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※ て、は左に。 の、は上に。 べ、は右に。 そ、は中央右に。 う、は中央左。
め、と、ん、は分かりますね。
分教場に戻って、近くのおばあちゃんの話を聞いた。
基本的には、前回聞いた内容からは、大きな広がりはなかった。
ただ、再度、詳しく。
赤○の道が、昔の道。 大石先生が通った道。 5年生になったら、この道を通って、本校に。
※ 壺井栄の妹の、岩井シンさんが、坂手の紫の○から自転車で分教場に通った道。
緑の○の道は、昔は無かった。 私は、この道を戻ってくる。
緑が3㌔だから、赤○の道も、3㌔くらいか。

この道。

分教場の少し映画村寄りから、道は山に上る。 映画村が見える。
この時、午後の3時17分。 2時間後は、暗い。 懐中電灯を持った。

少し上ったら、この風景。 道を右に曲がったところに、分教場。
道の突き当たりの、ずっと遠くに、一本松。

段畑。 昔は、どこもこのように畑だった。 今は、木が生えてしまった。
ネギを植えている。 冬に向かってるのに。 ジャガイモもあった。

※ この後、道を間違って、15分ほど時間を使った。
道は折れ曲がって、右側が海。
急な坂道が続く。 快適に自転車は乗れない。
人に聞いた話だが、この山道は、半分ほどは自転車を押したという。

石垣が、このように見える。 先人が、苦労して、山の斜面を畑にした。

「二十四の瞳」の題は、どうして生まれたか。 こうなんですね。
壺井栄には、兄弟が10人いた。 他に、2人の子供が、一緒に住んでいた。
それで、12人。 二十四の瞳、となる。
壺井栄は、この題名は急に思いついたのではなく、きっと、温めていた。
山の尾根を越えたら、道は左に曲がり、反対側の海が見えてきた。

二十四の瞳の舞台を、どうして、田浦(たのうら)の分校にしたのか。 ※ 苗羽(のうま)小学校田浦分校。
これは、そこに、妹の岩井シンさんが、勤めていたことと、関係ありますね。
こんな崖なら、海沿いに道は作れない。

今は舗装してある。
物語は昭和3年から始まるが、この道は、車が通れるような道ではなかった。

映画の中でも、この道のどこかで撮影があったという。
やっと、道は下り始める。

向こうに、坂手の港。
あの町から、妹のシンさんは、田浦の分校に、自転車で通った。

途中で、散歩している男の人に会った。 一緒に歩いた。
イノシシが穴を掘ったと、教えてくれた。 ミミズとかを探すために、掘る。

坂手の港を、アップで。 フェリーは、神戸からの来た。

堀越の集落が見えた。

後で知るが、写真の左辺りに、壺井繁治の詩碑がある。
昔はそこに、堀越分校(分教場)があって、そばに壺井繁治の家があった。
壺井栄は、そこに遊びに行ってた。
堀越分校で高等小学校時代の同級生が勤めていた。
その先生の、子供たちとの関わりが気に入っていた。
このことが、大石先生のイメージを作り上げたよう。
※ 妹の岩井シンさんは、特に目立つ人ではなかった。
大石先生のハイカラなイメージは、壺井栄自身が、そうなってみたい姿だったよう。
壺井繁治の詩碑には、暗くなってから行く。
山の向こうは海。 内海湾。

昔は、今のような護岸は無かった。

瀬戸内海も、台風の時とかは、荒れるのでしょうか。

向こうから来た。 赤○の所を通って。

湾の方に向かった。

200㍍も歩かないうちに、湾沿いの道に出た。
この時、壺井繁治の詩碑を通り過ぎたことに、気づいた。

歩き出したら、道の駅と一本松の場所が、見え出した。

一本松には、壺井栄の知人とかが住んでるわけではなかった。
ただ、田浦の人たちが、船で湾を渡ることは、壺井栄は知っていた。
大石先生をどこに住まわすかを考えたとき、上のことがヒントになったと思う。
自分の実家には出来ない。 それでは、安易過ぎる。
急な崖が時々あるので、昔の技術では、道は作れなかった。

早く戻って、壺井繁治の詩碑を見なければならない。

間もなく5時。 暗くなってきた。
正面中央の少し左に、一本松。 私の真後ろの方向に、分教場。

左に曲がったら、分教場。

正面の左に、分教場。

田浦の中心街。 私の車も、見える。

奥に、分教場。

駐車場に戻ったら、おばあちゃんが、私の帰りを待っていた。
私は少しのお土産しか渡さなかったのに、おばあちゃんからは、山ほど頂いてしまった。
※ 田浦の人は、登場人物の誰々は、自分の身内の人と考えている人が多い、と聞く。
でも、おばあちゃんの言ってる事は、十分真実味があった。
おばあちゃんの叔母さんに当たる人が、壺井栄の妹の岩井シンさんに習っていた。
その叔母さんは、若くして結核で亡くなる。
二十四の瞳の中に、琴江と言う子が、結核になっている。
おばあちゃんは、琴江のモデルが、おばさんと考えている。
堀越に戻ってきた。

集落の一番奥に、壺井繁治の詩碑はあった。 ここに、昔、学校があった。

隣に、繁治の家。 壺井栄が遊びに来たとき、学校の様子が見えた。

暗くて読めない。 とりあえず写真を撮った。
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動き出す時間が遅いから、最後は暗くなる。
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映画によって、二十四の瞳の輝きは、さらに増した。
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「二十四の瞳」は、映画がヒットして、これ程までになった。
そうだとしても、この話のどこが、面白いのでしょう。
むずかしい。
新美南吉の「ごんぎつね」を読んだら、江戸時代の農村の風景、人々の生活が、鮮やかに頭に浮かぶ。
これに、似ているようにも、思う。
二十四の瞳は、戦時中の、子供たちの生活や人々の考えが、小豆島の美しい風景の中で、表現されている。(特に映画)
そして、戦争についての作者の考えを、登場人物に、やわらかく語らせている。
こんなとこでしょうか。
作品は作品として歩んでいるから、生まれた背景はどうだっていい。
そうなんだが、気になる。
昨日書いたおばあちゃんは、元気だった。
お話は、明日聞くことに。
野球の話ですが、大谷は、日ハムに入りますね。
どうして分かるかって?
この晴れ晴れとした表情を見たら、誰だって、そう思います。
栗山監督の情熱に、大谷の頑(かたく)なな心は、とけてしまった。
※ ※ ※ ※
岬の分教場は、ここに。
道の駅より、少し高いところの展望台から。
左に、小さな湾が入っている。
二十四の瞳の舞台は、正面の低くなった部分の、少し左にある。
話の中の、大石先生は、一本松の近くに住んでいた。
その一本松は、目の前の坂の下の、右の方。(まだ行ってないが)
※ 壺井栄の妹の、岩井シンと言う人が、そこに住んでいた。(ネット上にこうあるが、確認が必要)
ピンクの所だが、山の陰になって見えない。 右の赤○に、映画村。
※ この後、向こうに行く。 映画村の方から見たら、下のように。 ○が、岬の分教場。
内海湾。 1年生の子供たちは、ぐるっとまわって、一本松まで先生に会いに来た。 13㌔ほど。
下の写真は、さらに高い展望台から。
車で向かった。 ここを曲がったら、分教場。 正面に、映画村。
岬の分教場。 ※ 旧苗場小学校田浦分校 校舎。
1954年の高峰秀子の映画が、ここで撮影。
昭和46年まで使われた。
※ 撮影された昭和29年と、どこが違うかは、分からない。
昔は、どこもこんなんだった。
高峰秀子。 右は、昔の子供の様子か。 細い道。
映画の一部。 短いです。
自然の描写は、どれも、普通ではないですよ。 満開の桜とか。
この中に、映画がヒットした理由が、十分にある感じ。
子供との関わりも、実際にこんな先生はいた。
昔のほうが、子供と一緒に生きている、という先生が多かった。
壺井栄の句。
学校と海の間に、今のような道は無かった。
道は、山の上を通っていた。 ※ 道は残っていて、明日歩く予定。
※ 写真はたくさんあったが、写真は撮れなかった。 個人の所有のよう。
山を背に、海を見ている。
下の動画は、高峰秀子の映画。
上の校舎を使ったことになっているが、建物は今と違う。
また、海の風景も違う。 どういうことだろう。 ※ 確認しなければならない。
※ 仰げば尊しの歌は、アメリカで作られた。 最近分かった。
国には、歌で国民の心を、まとめようとの考えがあった。
それで、よその国から。 ※ 日本に、いいのが無かったので。
歌は、利用されることが、時々・・。
※ 分教場の事務の人が、映画村にある「壺井栄文学館」に詳しい人がいると教えてくれた。
二十四の瞳 映画村。
田中裕子主演の映画のために作られた。
中は広く、いろんな建物がある。
小さな映画館では、二十四の瞳が、いつも上映されている。
今はどの建物も、お土産やさんに、変身。
岬の分教場。
高峰秀子も、田中裕子も、どっちも展示していた。
昨日、フェリーの中で見た写真。
田浦分校の子供も参加した。 ※ 体の小さな1年生だけだった。
※ 「喜びも悲しみも・・・」の映画も、木下恵介監督と高峰秀子のコンビ。
全国の岬に行くと、この歌、また映画によく出会う。
佐田啓二は、中井貴一にそっくり。
教員住宅。 昔は、地域の人と、よく酒を飲んだ。 娯楽の少ない時代だった。
映画村は、半島の細い部分にある。 向こうは四国。 小豆島は、四国とのつながり。
何に使う釜でしょう。
先生と子供たちの像。 田中裕子の映画の。
※ 高峰秀子の映画は、YouTubuで見ることが出来る。
映画の著作権の保護期間と云うのは、複雑。
50年が1つの目途なのか。
田中裕子の方は、YouTubeには、全く無い。
見てみたい。
当時は、騒がれたよう。 映画館にあった写真。
両方とも、高峰秀子。
右は、田中裕子。
写真の自転車は、今もある。
戦争に流されない人間を演じるなら、田中裕子は、合うように感じる。
左の写真の、真ん中の子は、高木美保。 松江役。 ※ 今の彼女。
(子供っぽいので、別人かな、とも)
右の写真に、武田鉄矢。 イメージが強いから、映画が壊れる。
右後ろの遠くから歩いてきた。 その時に、記念撮影。
左に、松江のことが書いてある。
子供たちの家庭は、どこも貧しかった。
壺井栄は、大石先生に、この小説で伝えたいことを、そっと語らせる。
これがいいんですね。
声高に叫びすぎると、人の心に、染み込まない。
※ 吉永小百合の行動も似ていますよ。
右の写真。 この人は、高木美保ですね。 松江役。
「・・・。一緒に泣いてあげる」とある。
上の言葉は、教育を深く学んでいないと、言えない。
しかし、学んでなくても、感覚的に言える先生は、いるんですね。
大石先生は、単なる教師ではなく、教育者に近い先生でしょうか。
今の時代、このような先生は、10人に1人は、いないな~。
映画は途中までしか見なかった。
二十四の瞳で描かれている子供は、みんな貧しい。
松江のように、貧しすぎる子も、いる。
こんなことを、思った。
子供は、貧しすぎると、夢を持たなくなるのでは、と。
最低限の豊かさは、「夢が持てる条件」かな・・とも。
※ 「二十四の瞳」が生まれた背景について、壺井栄文学館で、少し教えてもらった。
このことについては、明日のブログで書きますね。
【その他】 以前、大谷はきっと日ハムに入りますよ、と書いたことがあった。
それが、現実味を帯びてきた。
気の早いところは、日ハムに入ると書いてしまったところも。
本当に日ハムに入ったら、栗山監督の、逆転満塁ホームラン。
【道の駅】 オリーブ公園
【明日の予定】 大石先生がいたところに。 おばあちゃんとお話。 子供たちが歩いた道を。
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むずかしい。
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これに、似ているようにも、思う。
二十四の瞳は、戦時中の、子供たちの生活や人々の考えが、小豆島の美しい風景の中で、表現されている。(特に映画)
そして、戦争についての作者の考えを、登場人物に、やわらかく語らせている。
こんなとこでしょうか。
作品は作品として歩んでいるから、生まれた背景はどうだっていい。
そうなんだが、気になる。
昨日書いたおばあちゃんは、元気だった。
お話は、明日聞くことに。
野球の話ですが、大谷は、日ハムに入りますね。
どうして分かるかって?
この晴れ晴れとした表情を見たら、誰だって、そう思います。

栗山監督の情熱に、大谷の頑(かたく)なな心は、とけてしまった。
※ ※ ※ ※
岬の分教場は、ここに。
道の駅より、少し高いところの展望台から。
左に、小さな湾が入っている。
二十四の瞳の舞台は、正面の低くなった部分の、少し左にある。
話の中の、大石先生は、一本松の近くに住んでいた。
その一本松は、目の前の坂の下の、右の方。(まだ行ってないが)
※ 壺井栄の妹の、岩井シンと言う人が、そこに住んでいた。(ネット上にこうあるが、確認が必要)

ピンクの所だが、山の陰になって見えない。 右の赤○に、映画村。

※ この後、向こうに行く。 映画村の方から見たら、下のように。 ○が、岬の分教場。

内海湾。 1年生の子供たちは、ぐるっとまわって、一本松まで先生に会いに来た。 13㌔ほど。

下の写真は、さらに高い展望台から。


車で向かった。 ここを曲がったら、分教場。 正面に、映画村。

岬の分教場。 ※ 旧苗場小学校田浦分校 校舎。
1954年の高峰秀子の映画が、ここで撮影。

昭和46年まで使われた。
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昔は、どこもこんなんだった。

高峰秀子。 右は、昔の子供の様子か。 細い道。


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自然の描写は、どれも、普通ではないですよ。 満開の桜とか。
この中に、映画がヒットした理由が、十分にある感じ。
子供との関わりも、実際にこんな先生はいた。
昔のほうが、子供と一緒に生きている、という先生が多かった。
壺井栄の句。
学校と海の間に、今のような道は無かった。
道は、山の上を通っていた。 ※ 道は残っていて、明日歩く予定。


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山を背に、海を見ている。

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また、海の風景も違う。 どういうことだろう。 ※ 確認しなければならない。
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国には、歌で国民の心を、まとめようとの考えがあった。
それで、よその国から。 ※ 日本に、いいのが無かったので。
歌は、利用されることが、時々・・。
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二十四の瞳 映画村。
田中裕子主演の映画のために作られた。

中は広く、いろんな建物がある。
小さな映画館では、二十四の瞳が、いつも上映されている。

今はどの建物も、お土産やさんに、変身。


岬の分教場。

高峰秀子も、田中裕子も、どっちも展示していた。
昨日、フェリーの中で見た写真。
田浦分校の子供も参加した。 ※ 体の小さな1年生だけだった。


※ 「喜びも悲しみも・・・」の映画も、木下恵介監督と高峰秀子のコンビ。
全国の岬に行くと、この歌、また映画によく出会う。
佐田啓二は、中井貴一にそっくり。
教員住宅。 昔は、地域の人と、よく酒を飲んだ。 娯楽の少ない時代だった。

映画村は、半島の細い部分にある。 向こうは四国。 小豆島は、四国とのつながり。

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映画の著作権の保護期間と云うのは、複雑。
50年が1つの目途なのか。
田中裕子の方は、YouTubeには、全く無い。
見てみたい。
当時は、騒がれたよう。 映画館にあった写真。


両方とも、高峰秀子。


右は、田中裕子。


写真の自転車は、今もある。

戦争に流されない人間を演じるなら、田中裕子は、合うように感じる。

左の写真の、真ん中の子は、高木美保。 松江役。 ※ 今の彼女。
(子供っぽいので、別人かな、とも)
右の写真に、武田鉄矢。 イメージが強いから、映画が壊れる。


右後ろの遠くから歩いてきた。 その時に、記念撮影。

左に、松江のことが書いてある。
子供たちの家庭は、どこも貧しかった。
壺井栄は、大石先生に、この小説で伝えたいことを、そっと語らせる。
これがいいんですね。
声高に叫びすぎると、人の心に、染み込まない。
※ 吉永小百合の行動も似ていますよ。


右の写真。 この人は、高木美保ですね。 松江役。


「・・・。一緒に泣いてあげる」とある。
上の言葉は、教育を深く学んでいないと、言えない。
しかし、学んでなくても、感覚的に言える先生は、いるんですね。
大石先生は、単なる教師ではなく、教育者に近い先生でしょうか。
今の時代、このような先生は、10人に1人は、いないな~。

映画は途中までしか見なかった。
二十四の瞳で描かれている子供は、みんな貧しい。
松江のように、貧しすぎる子も、いる。
こんなことを、思った。
子供は、貧しすぎると、夢を持たなくなるのでは、と。
最低限の豊かさは、「夢が持てる条件」かな・・とも。
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それが、現実味を帯びてきた。
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本当に日ハムに入ったら、栗山監督の、逆転満塁ホームラン。


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もう一度会えたらいいな、と思っているおばあちゃんが、この島にいる。
「二十四の瞳」の話が、どのように生まれたかを知っている。
3年前に聞いているんだが、さらに詳しく、と思っている。
元気でいてくれたらいい。
小豆島には、見所がいっぱい。
瀬戸内の楽園のような島を、のんびり散策。
いつまでいるか、分からない。
※ ※ ※ ※
フェリーは、姫路から。 19時30分。 買い物とかして、亀岡を2時半に出た。
歩いてみたくなる風景に出会った。
南丹市薗部町の山奥。 天引(あまびき)峠のふもとだった。
カーナビは迷わず、いい道を案内してくれた。
※ たまに、ナビの声の女性と、けんかすることが。 こんな細い道、通れるかって。
ここで右に曲がったら、姫路城。 ※ 姫路城 他 (2009/06/07)
夕方の6時前に、着いた。
像の名前は、「希望」。 2人は、少年少女。 持ってるのは、貝殻。 鳥はカモメ。
作者は、淀井敏夫と云う人。 針金に粘土をくっ付けたような像。 これが特徴だそう。
姫路港。
小豆島からのフェリーが着いた。 バスも3台ほど。
この1台は、もたもたして、遅れて出てきた。
第三オリーブ丸。
家島に行く船。 近い。 行ったことはない。
巡視船、ぬのびき。 姫路港に配置されている。 こうやって水を飛ばせる。
着く港は、福田港。 ピンクの○。 道の駅は、赤○。
フェリーの中に、二十四の瞳の写真。 田中裕子。
船が出ます。
釣り人が一人。
出ました。1時間40分の旅。
フェリーには、車が3台だけ。 人は、10人くらい。 ガラガラ。 観光の、オフシーズン。
テレビを見た。
水森かおり。
彩乃かなみ、と云う人は、宝塚出身のよう。 カチューシャの歌が、上手だった。
コピーと思うが、二十四の瞳の原稿。 写真は、この写真ですね。 高峰秀子。
航路図。 右は、船ナビか。 定刻は、19時10分。 早くても、定刻?
福田港が見えた。
間もなく。
小豆島に、何日いることになるでしょう。 急ぐ旅ではない。
20㌔ほど走って、道の駅に。
数台の車に出会っただけ。
人口3万人ほどの島。 夜は静か。
朝は雨だったけど、夜になって星が出た。
明日はいい天気。
【今日の歌】
※ 五能線 ~車窓からの風景~ 他 (2009/09/15)
【道の駅】 オリーブ公園
【明日の予定】 岬の学校へ
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(2008年4月~2010年9月までの記事)
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この秋最後の京都の夜。
東山を歩いて、知恩院のライトアップを見た。
何度も見た知恩院だが、夜は、違って見えた。
※ ※ ※ ※
いつもお世話になっている、亀岡駅のホーム。
清水寺は人が多かったので、三年坂から。 昨日までは、ここも人で埋まっていた。
みんな帰った。
数年前まで電信柱があったが、なくなった。
二年坂。 左に港屋。 竹久夢二の商品がある。
※ 2009年に書いた記事を紹介。
高台寺の下。 ねねの道。
※ ねねについても、2009年の記事を紹介。
ねねの道から、わき道に。 石塀小路。 京都の雰囲気。
石塀小路から、細い道を向けて、ねねの道に。
振り返って、ねねの道。 左の上に、高台寺。
※ 東山を歩く ~三年坂、高台寺ライトアップ 他 京都~ 他 (2010/11/19)
左は、高台寺茶屋。 突き当りを右に曲がって、左に曲がると、丸山公園に。
円山公園の下に、八坂神社。
さびしいほど、人が少ない。 昨日までが、夢のよう。
知恩院が見えた。 山門の大きさは、日本一。 国宝。
知恩院の地図。 ○の所を見る。 中心の、御影堂は修理中。 千姫の墓が、左上に。
見所が多いため、拝観料は、800円。
※ 知恩院は、普段は、庭や山門に上がらなければ、無料。
今まで、お金を使ったことは無い。
友禅苑という庭。 茶室。 宮崎友禅と言う人が、友禅染の模様を考えた。 ※ 友禅染の写真(ネット上)
友禅は知恩院前に住んでいた関係で、ここに庭を造った。 それで、友禅ゆかりの庭と、言っている。
これも茶室か。
おだやかな、ライトアップ。
不気味。
枯山水の石庭。
右の像は、高村光雲作。
山門に上がった。 急な階段だった。 ロープにつかまって。
正面方向。
山門の、正面側。 風が強いけど、揺れない。
山門の上には、仏像が安置されていた。 重要文化財。
※ 撮影禁止の張り紙はあるかも知れないけど、そう云うものは見ないようにする。
見てしまうと、撮影できない。
外国の人は、読めないから、気にしないで撮る。
普通、撮影した写真を、商用に使われたら困るものには、撮影禁止の張り紙をする。
夜は、別世界に。
昼間は寝てて、夜になったら、目をらんらんと輝かせている。
釈迦如来像。
山門を下りて、地図の上の方に。 今、工事中の、御影堂。 ※ 一昨年に撮影した、御影堂。
方丈庭園。
※ 左上の奥に、千姫の墓がある。
千姫は、知恩院で大事にされえいる。
江(ごう)の娘が千姫。 江は、秀忠の正室。
2代将軍秀忠が、山門を寄付している。
そんな事情で、大事に。
大鐘楼。 日本で、トップクラスの大きさ。 ※ どこが日本一の大きさなのかは、分からない。
幅、2.8㍍。 重さ、70㌧。
阿弥陀堂。 人がいたので、許可をいただいて撮影。
多宝塔。
女坂を下る。
正面から、山門を。 高さ24㍍。
山門の前の、この通りも、参道。 少し先に、新門がある。
私は、知恩院に来るのが、一番多いように思う。
夏に、東山を歩いていて疲れたら、知恩院のお堂の中で休んでいた。
中は涼しく、気持ちよかった。
※ 去年から工事が始まって、平成31年に完成。 今は、入れない。
知恩院を見て、その後、息子と食事。
久しぶりの、焼肉。
今度来るのは、来年の4月か5月頃かな。
今日、感じたことが1つ。
ライトアップした庭より、ふつうの通りなどに、より美しいところが、隠れている。
そんな風に、感じたでしょうか。
【今日の歌】 Johanna Beisteiner という人のギター。 オーストリアの人。
ヨハンナと読むのでしょうか。 隙の無い演奏に聴こえます。
※ 演奏しているギターの作者、編曲の作者も、それなりの人です。
男っぽい雰囲気ですが、美しい女性ですよ。
【道の駅】 ガレリアかめおか
【明日の予定】 小豆島に渡ります。
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清水寺は人が多かったので、三年坂から。 昨日までは、ここも人で埋まっていた。
みんな帰った。
数年前まで電信柱があったが、なくなった。


二年坂。 左に港屋。 竹久夢二の商品がある。

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高台寺の下。 ねねの道。

※ ねねについても、2009年の記事を紹介。

ねねの道から、わき道に。 石塀小路。 京都の雰囲気。

石塀小路から、細い道を向けて、ねねの道に。

振り返って、ねねの道。 左の上に、高台寺。

※ 東山を歩く ~三年坂、高台寺ライトアップ 他 京都~ 他 (2010/11/19)
左は、高台寺茶屋。 突き当りを右に曲がって、左に曲がると、丸山公園に。
円山公園の下に、八坂神社。
さびしいほど、人が少ない。 昨日までが、夢のよう。

知恩院が見えた。 山門の大きさは、日本一。 国宝。

知恩院の地図。 ○の所を見る。 中心の、御影堂は修理中。 千姫の墓が、左上に。

見所が多いため、拝観料は、800円。
※ 知恩院は、普段は、庭や山門に上がらなければ、無料。
今まで、お金を使ったことは無い。
友禅苑という庭。 茶室。 宮崎友禅と言う人が、友禅染の模様を考えた。 ※ 友禅染の写真(ネット上)
友禅は知恩院前に住んでいた関係で、ここに庭を造った。 それで、友禅ゆかりの庭と、言っている。

これも茶室か。

おだやかな、ライトアップ。

不気味。

枯山水の石庭。

右の像は、高村光雲作。

山門に上がった。 急な階段だった。 ロープにつかまって。
正面方向。

山門の、正面側。 風が強いけど、揺れない。

山門の上には、仏像が安置されていた。 重要文化財。
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見てしまうと、撮影できない。
外国の人は、読めないから、気にしないで撮る。
普通、撮影した写真を、商用に使われたら困るものには、撮影禁止の張り紙をする。
夜は、別世界に。

昼間は寝てて、夜になったら、目をらんらんと輝かせている。

釈迦如来像。

山門を下りて、地図の上の方に。 今、工事中の、御影堂。 ※ 一昨年に撮影した、御影堂。

方丈庭園。

※ 左上の奥に、千姫の墓がある。
千姫は、知恩院で大事にされえいる。
江(ごう)の娘が千姫。 江は、秀忠の正室。
2代将軍秀忠が、山門を寄付している。
そんな事情で、大事に。
大鐘楼。 日本で、トップクラスの大きさ。 ※ どこが日本一の大きさなのかは、分からない。

幅、2.8㍍。 重さ、70㌧。

阿弥陀堂。 人がいたので、許可をいただいて撮影。


多宝塔。

女坂を下る。

正面から、山門を。 高さ24㍍。

山門の前の、この通りも、参道。 少し先に、新門がある。

私は、知恩院に来るのが、一番多いように思う。
夏に、東山を歩いていて疲れたら、知恩院のお堂の中で休んでいた。
中は涼しく、気持ちよかった。
※ 去年から工事が始まって、平成31年に完成。 今は、入れない。
知恩院を見て、その後、息子と食事。
久しぶりの、焼肉。
今度来るのは、来年の4月か5月頃かな。
今日、感じたことが1つ。
ライトアップした庭より、ふつうの通りなどに、より美しいところが、隠れている。
そんな風に、感じたでしょうか。
【今日の歌】 Johanna Beisteiner という人のギター。 オーストリアの人。
ヨハンナと読むのでしょうか。 隙の無い演奏に聴こえます。
※ 演奏しているギターの作者、編曲の作者も、それなりの人です。
男っぽい雰囲気ですが、美しい女性ですよ。
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愛宕(あたご)山は、日本三百名山、新日本百名山の山だった。
標高は、924㍍と高くはないが、標高差が840㍍もあって、立派な登山の山だった。
日が短いこともあって、下山した時は、暗かった。
※ ※ ※ ※
正面の大きな山が、愛宕山。 (写真は、Wikipedia)
愛宕山のことを、考えたことは無かった。
※ 左の山は、小倉山。
登ってみて分かったが、○の中の、登山道がある。
左端から、左の方に下りたら、水尾。
愛宕山は、左端から、右に登っていく。
嵐山駅から清滝まで歩く。(4㌔)
地図を時計回りで、歩く。(9.5㌔) ※ 情報誌では、5時間のコース。
鳥居本の町並みの終わり。 平野屋があるところ。
この門は、愛宕山への入り口の門だった。
前回は、山越えしたが、今日はトンネルを歩いた。
清滝のバス停。 ここを出発して戻ってくるまで、9.5㌔。
登りがある山道でのこの距離は、楽ではなさそう。
駐車場から、下への道を行くと、小さな集落。 愛宕山の直ぐ下にある。
集落の向こう端に、左に上る道がある。 入り口に、小さな二の鳥居。
表参道の上り坂が始まった。 登山開始。
時々石垣があって、平らな土地。 昔は建物があったと、分かる。
火気権現があった。 権現だから、寺。
※ 今は愛宕神社だが、江戸時代は、神仏混交(こんこう)の白雲寺が、この山の中心だった。
明治の神仏分離により、白雲寺は廃絶されて、愛宕神社になった。
白雲寺は、大きな寺だった。(Wikipedia)
愛宕神社は、明治から昭和の初めまで、愛宕参詣として人気があった。
茶屋がたくさんあり、多くの参詣客でにぎわった。
今は、その面影だけが。
ここには、一文字屋という茶屋があった。
道を歩いていたら、ドングリなどの木の実が、さかんに落ちる。
風はまったく無い。
竹とかにぶつかったら、乾いた音がする。
人の足跡に、驚いて、ポトッ。
ほんの少しの風に、フッとふかれて、ポトッ。
鳥が木にとまって、ポトッ。
落ち葉が触れて、ポトッ。
斜面の道は、掘れている。
この時は、午後の1時10分。 上ってくる人は、少しだけ。
下山者とは、ひっきりなしに、出会う。
二十三丁と読める。 鳥居本の鳥居と、頂上を50に分けた。 頂上が、50丁。
丁ごとに茶店があったよう。
このように。
広い茶屋跡。
二十五丁目の、茶屋跡と説明が。 ちょうど、真ん中。
茶屋がたくさん見える。
途中で、小学生3人に出会った。
子供たちだけなの、と声をかけたら、トイレに行きたいから、親から離れて先に来たと言った。
下までトイレはないと伝えた。
トイレに行きたいのは、男の子。 困った顔をした。
道から少し離れた所でしたらいいよ、と伝えた。
落ち葉をたくさんかぶせておくといい、とも。
崖に近づかないで、を付け加えて。
登り始めて振り返ったら、その子は、危なくない場所で、していた。
3人に、バイバイって言って、別れた。
急な登りが続いて、大杉権現。 ここまで、1時間。
リュックの中には、パンとバナナと飲み物。 食べながら歩いた。
初めて、視界が開けた。 左の方に、京都の街。
少し歩いたら見えた。
左遠くに、京都タワー。 右に、桂川(保津川) 右のまるい山は、小倉山。
少しだけ、ゆるい坂道。 木の根道も。 ※ 最初の愛宕山の写真の○の辺りを、歩いている。
動くとあったかいので、上着は着ていない。
見晴台が見えた。
中央右に、広沢の池。 大覚寺が近くに。(右の方の木の陰)
※ 大沢池・名古曽(なこそ)の滝跡から、広沢池へ ~京都市~ モーツァルト、ピアノソナタ第11番 K.331 第1楽章 (2012/6/6)
水尾岐(みずおわかれ)。 左に行ったら、水尾。 ※ 水尾は、夏に行った。
山頂は、右に。
ここは、はな売場。
水尾の女性が、山を登ってきて、ここで、樒(しきみ)の木の枝を売った。
一応説明を。 初めて聞く、風習。
※ 清和天皇の墓がある、京都の隠れ里、水尾 ~京都市~ ききょうの花(山崎ハコ) 他 (2012/6/25)
見える門は、黒門。 ここから、神社の境内。
10分ほど歩いたら、石灯篭が並ぶ参道。
休憩所があった。 山の上のトイレは、ここだけ。
神社自体が、今は昔のように、賑わってはいない。
京都の街の中の神社のように、ちゃんと整備はされていない。
最後の石段。
あと少し。 小さな子供も、たくさんいた。
下の方。 こんな風に、人が。 連休最後の日。 いい天気。
着いた
愛宕山頂上。 下から、2時間かかった。
明智光秀は、本能寺の変の数日前に、ここに来ていた。
明智越えと云う道を通って。 そして、水尾の道を。
その時の歌。
「 ときは今 あめが下しる 五月哉(さつきかな)」
拝殿。 最近は、お参りしている。 以前は、お参りしないことが多かった。
振り返って。
若い人が来ていた。
お参りするところが、他に、2箇所あった。
そこでも、手を合わせた。 全部お参りしてないって、神様に指摘されたら困ると思って。
彫り物が多くあった。 新潟県で見た、石川雲蝶ほどではないにしても、いい。
別の道を下る。 この時、3時20分。 下りは、5㌔程。 1時間45分のコース。
明るいうちに、清滝に着くだろうか。 ※ 用心して、懐中電灯は、持ってきた。
上の写真の、奥辺りから、道は分かれて、一気に下った。
直ぐに、岩の上から、下が見えた。
若い人たちと、一緒に下った。 途中写真を撮ってるときに、離れた。
ずっと、急ぎ足よりは速く。
足元だけ見て、急いだ。
月輪(つきのわ)寺。 せまいので、離れて撮れない。
土砂崩れで、被害を受けていた。
桜の木が、有名なよう。
親鸞が植えた桜との、言い伝え。
雨が降らなくても、葉がぬれる。 涙のように、水が葉の先から落ちる。
※ 原因は、下の方にある、滝の霧のせいではと。
月輪寺で、5人ほどのグループを追い越していた。 私は最後ではなくなった。
下のほうで、10人ほどのグループの声が聞こえた。 賑やかだ。 間もなく追いつく。
追い越してみたら、たった3人のグループだった。
常に誰かがしゃべっていた。
家族。 この人たちは、この下に車があるよう。
ジグザグに下る。
山を下りたら、車道があった。 空也の岐(わかれ)。
300㍍山に入れば、滝がある。 誰かが行ったので、付いて行った。
鳥居を2回くぐった。
空也滝。 暗くなってきた。
信仰の滝。 お不動さんとかが、岩の上に。
この霧が舞い上がって、月輪寺に行くのか。
滝で、20分ほど使った。 1本道なので、迷うことはない。
あと少し。 4時56分。 ずっと急ぎ足。
清滝の橋の上に着いた。
バス停に着いたときは、真っ暗だった。 5時14分。
バスがちょうどあったので、乗ることにした。
嵐山の駅から、JRで、京都駅に。
ビッグカメラの店を少し見た。 買う予定のものはないけど。
京都タワーがライトアップしていた。
久しぶりに、たくさん歩いた。
まだまだ、京都には、知らないところがある。
【今日の歌】 シューベルトは、好きな人と一緒にはなれなかった。
その悲しみは、彼の生涯、消えることはなかった。
この曲は、シューベルトの心の中を表現しているように思う。
【道の駅】 ガレリアかめおか
【明日の予定】 オイル交換。 どこかを少し見る。 27日に京都を出る。 小豆島に。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
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旅行全体 4位です。
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標高は、924㍍と高くはないが、標高差が840㍍もあって、立派な登山の山だった。
日が短いこともあって、下山した時は、暗かった。
※ ※ ※ ※
正面の大きな山が、愛宕山。 (写真は、Wikipedia)
愛宕山のことを、考えたことは無かった。
※ 左の山は、小倉山。
登ってみて分かったが、○の中の、登山道がある。
左端から、左の方に下りたら、水尾。
愛宕山は、左端から、右に登っていく。

嵐山駅から清滝まで歩く。(4㌔)
地図を時計回りで、歩く。(9.5㌔) ※ 情報誌では、5時間のコース。

鳥居本の町並みの終わり。 平野屋があるところ。
この門は、愛宕山への入り口の門だった。

前回は、山越えしたが、今日はトンネルを歩いた。

清滝のバス停。 ここを出発して戻ってくるまで、9.5㌔。
登りがある山道でのこの距離は、楽ではなさそう。

駐車場から、下への道を行くと、小さな集落。 愛宕山の直ぐ下にある。

集落の向こう端に、左に上る道がある。 入り口に、小さな二の鳥居。
表参道の上り坂が始まった。 登山開始。
時々石垣があって、平らな土地。 昔は建物があったと、分かる。

火気権現があった。 権現だから、寺。
※ 今は愛宕神社だが、江戸時代は、神仏混交(こんこう)の白雲寺が、この山の中心だった。
明治の神仏分離により、白雲寺は廃絶されて、愛宕神社になった。
白雲寺は、大きな寺だった。(Wikipedia)


愛宕神社は、明治から昭和の初めまで、愛宕参詣として人気があった。
茶屋がたくさんあり、多くの参詣客でにぎわった。
今は、その面影だけが。
ここには、一文字屋という茶屋があった。


道を歩いていたら、ドングリなどの木の実が、さかんに落ちる。
風はまったく無い。
竹とかにぶつかったら、乾いた音がする。
人の足跡に、驚いて、ポトッ。
ほんの少しの風に、フッとふかれて、ポトッ。
鳥が木にとまって、ポトッ。
落ち葉が触れて、ポトッ。
斜面の道は、掘れている。

この時は、午後の1時10分。 上ってくる人は、少しだけ。
下山者とは、ひっきりなしに、出会う。

二十三丁と読める。 鳥居本の鳥居と、頂上を50に分けた。 頂上が、50丁。
丁ごとに茶店があったよう。

このように。

広い茶屋跡。

二十五丁目の、茶屋跡と説明が。 ちょうど、真ん中。

茶屋がたくさん見える。

途中で、小学生3人に出会った。
子供たちだけなの、と声をかけたら、トイレに行きたいから、親から離れて先に来たと言った。
下までトイレはないと伝えた。
トイレに行きたいのは、男の子。 困った顔をした。
道から少し離れた所でしたらいいよ、と伝えた。
落ち葉をたくさんかぶせておくといい、とも。
崖に近づかないで、を付け加えて。
登り始めて振り返ったら、その子は、危なくない場所で、していた。
3人に、バイバイって言って、別れた。
急な登りが続いて、大杉権現。 ここまで、1時間。

リュックの中には、パンとバナナと飲み物。 食べながら歩いた。
初めて、視界が開けた。 左の方に、京都の街。

少し歩いたら見えた。

左遠くに、京都タワー。 右に、桂川(保津川) 右のまるい山は、小倉山。

少しだけ、ゆるい坂道。 木の根道も。 ※ 最初の愛宕山の写真の○の辺りを、歩いている。


動くとあったかいので、上着は着ていない。
見晴台が見えた。

中央右に、広沢の池。 大覚寺が近くに。(右の方の木の陰)

※ 大沢池・名古曽(なこそ)の滝跡から、広沢池へ ~京都市~ モーツァルト、ピアノソナタ第11番 K.331 第1楽章 (2012/6/6)
水尾岐(みずおわかれ)。 左に行ったら、水尾。 ※ 水尾は、夏に行った。
山頂は、右に。

ここは、はな売場。
水尾の女性が、山を登ってきて、ここで、樒(しきみ)の木の枝を売った。


一応説明を。 初めて聞く、風習。

※ 清和天皇の墓がある、京都の隠れ里、水尾 ~京都市~ ききょうの花(山崎ハコ) 他 (2012/6/25)
見える門は、黒門。 ここから、神社の境内。

10分ほど歩いたら、石灯篭が並ぶ参道。

休憩所があった。 山の上のトイレは、ここだけ。

神社自体が、今は昔のように、賑わってはいない。
京都の街の中の神社のように、ちゃんと整備はされていない。

最後の石段。

あと少し。 小さな子供も、たくさんいた。

下の方。 こんな風に、人が。 連休最後の日。 いい天気。

着いた

愛宕山頂上。 下から、2時間かかった。

明智光秀は、本能寺の変の数日前に、ここに来ていた。
明智越えと云う道を通って。 そして、水尾の道を。
その時の歌。
「 ときは今 あめが下しる 五月哉(さつきかな)」
拝殿。 最近は、お参りしている。 以前は、お参りしないことが多かった。

振り返って。

若い人が来ていた。

お参りするところが、他に、2箇所あった。
そこでも、手を合わせた。 全部お参りしてないって、神様に指摘されたら困ると思って。


彫り物が多くあった。 新潟県で見た、石川雲蝶ほどではないにしても、いい。

別の道を下る。 この時、3時20分。 下りは、5㌔程。 1時間45分のコース。
明るいうちに、清滝に着くだろうか。 ※ 用心して、懐中電灯は、持ってきた。

上の写真の、奥辺りから、道は分かれて、一気に下った。
直ぐに、岩の上から、下が見えた。

若い人たちと、一緒に下った。 途中写真を撮ってるときに、離れた。
ずっと、急ぎ足よりは速く。

足元だけ見て、急いだ。

月輪(つきのわ)寺。 せまいので、離れて撮れない。

土砂崩れで、被害を受けていた。

桜の木が、有名なよう。
親鸞が植えた桜との、言い伝え。
雨が降らなくても、葉がぬれる。 涙のように、水が葉の先から落ちる。
※ 原因は、下の方にある、滝の霧のせいではと。

月輪寺で、5人ほどのグループを追い越していた。 私は最後ではなくなった。
下のほうで、10人ほどのグループの声が聞こえた。 賑やかだ。 間もなく追いつく。
追い越してみたら、たった3人のグループだった。
常に誰かがしゃべっていた。

家族。 この人たちは、この下に車があるよう。

ジグザグに下る。

山を下りたら、車道があった。 空也の岐(わかれ)。
300㍍山に入れば、滝がある。 誰かが行ったので、付いて行った。

鳥居を2回くぐった。


空也滝。 暗くなってきた。


信仰の滝。 お不動さんとかが、岩の上に。


この霧が舞い上がって、月輪寺に行くのか。


滝で、20分ほど使った。 1本道なので、迷うことはない。

あと少し。 4時56分。 ずっと急ぎ足。

清滝の橋の上に着いた。


バス停に着いたときは、真っ暗だった。 5時14分。
バスがちょうどあったので、乗ることにした。
嵐山の駅から、JRで、京都駅に。
ビッグカメラの店を少し見た。 買う予定のものはないけど。
京都タワーがライトアップしていた。

久しぶりに、たくさん歩いた。
まだまだ、京都には、知らないところがある。
【今日の歌】 シューベルトは、好きな人と一緒にはなれなかった。
その悲しみは、彼の生涯、消えることはなかった。
この曲は、シューベルトの心の中を表現しているように思う。
【道の駅】 ガレリアかめおか
【明日の予定】 オイル交換。 どこかを少し見る。 27日に京都を出る。 小豆島に。
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(2008年4月~2010年9月までの記事)

【ランキング】 国内旅行 2位、


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