最後は家康が勝つ。
でも、どっちが勝つか、分からない時があった。
家康に味方する者は、裏切らなかった。
西軍は、違った。
たった1日の戦いで、決着。
265年間の江戸時代が続くことに。
歴史を決めた1日だった。
3日間一緒だった東風さんは、朝、道の駅伊吹の里から、須坂に戻った。
※ ※ ※ ※ ブログタイトル一覧は、右をクリック。
( 写真の上にカーソルを置いて、open になってクリックしたら、一瞬に大きく。 再度クリックしたら、元に )
関ケ原は、岐阜県と滋賀県の、県境に近い。
車は、関ケ原町歴史民俗資料館のパーキングに。
ここで少し勉強して、地図をもらう。
中の写真は撮れない。 下の、関ケ原合戦図屏風があった。(写真は。Wikipediaから)
東軍の大将は、家康。 西軍は、石田三成。
小早川秀秋が、左下の、おかしな場所にいる。
この地図で動く。 左回り。 戻ってくるまで、2時間半かかった。
秀吉が死んで、歴史は、関ケ原に向かう。
細川忠興陣跡。
戦いの前、石田光成は、大阪にいた妻のガラシャを人質に捕ろうとした。
しかし、ガラシャは、自ら死を選んだ。 ※ ガラシャは、明智光秀の娘。
関ケ原の東の端に来ている。 戦いは、数百㍍向こうで。
西軍の豊臣家は、1つにまとまり切れてない。
光成は、戦国武将というより、秀吉の子の秀頼の世話役の感じ。
秀頼の力で、豊臣家を仕切っていた。
戦国大名の誰が信用できないとかの情報は、石田光成の口から、秀頼に入った。
だから、光成に恨みを持つ者もいた。
こんな道を。
家康は、周りの大名に、年始のあいさつに来いと、文書を出す。
断ったのがいた。 米沢の上杉景勝。
部下の直江兼続は、何で行かなければならないのかと、かみついた。(直江状)
※ 兼続は、気が強い。
子供の時、寺に預けられ、こんなとこに来とうはなかったと言った、あの気の強さと同じ。
雲洞庵は、兼続が、「わしは、こんなとこ、来とうはなかった」と言った寺。~南魚沼市~ 他 (2013/10/21)
岡山烽火場。 ここで、狼煙(のろし)を上げる。 戦い開始の合図。
家康は怒って、上杉征伐に、軍を出す。 米沢に向かう。
黒田長政、竹中重門(しげかど)。 竹中半兵衛の息子。
※ 竹中半兵衛の生地は、ここから遠くない。 今日の道の駅の池田温泉から数㌔。
石田三成は、家康に天下を取られる不安があった。
家康征伐に乗り出す。
まず、伏見城を攻撃する。 伏見城には、家康軍の残留部隊がいた。
鳥居元忠たち。 兵は1800。 この数では、太刀打ちできない。
討ち死に。 城内は血の海。 死体は、関ケ原の後に、片付け。
床に浸みた血は、洗っても取れない。 この床板が、血天井に使われる。
家康、それを聞いて、急いで引き返す。 宇都宮の手前の、小山から引き返す。
狼煙が上がって、戦闘開始。
見える平地の真ん中左に、家康の陣地。 戦いは、写真の右部分で。
光成の陣地は、見えない。 もっと右。
家康は、西に向かう時、部下にこう言った。
豊臣家に人質を取られている者は、向こうに行っていいと。 つまり、西軍に。
そして、決して追うことはしないとも。
家康は上手だ。 誰も、動かなかった。
妻のガラシャの細川忠興も。
徳川軍は、こうやって、心を1つにしていった。
遊歩道は、森の中。 クマに注意とあって、捕まえる檻(おり)もあった。
真田昌幸は、西軍に付いた。 これは、家康にとって痛かった。 息子の1人は、こっちだが。
ずっと雨。 傘をさして、カメラを抱いて。
家康軍の半分は、中山道を通った。 秀忠が率いて。
ところが、上田城で足止め。 中には、真田昌幸がいる。 城は落とせなかった。
秀忠軍は、関ケ原には間に合わなかった。
決戦地に来た。 この場所が、一番の激戦地。 右に、石田三成の陣地。 旗が見える。
それでも家康が勝てたのは、諜報戦が上手だったから。 ※ 諜報戦と云えば山本勘助を思い出す。
西軍の小早川秀秋を、まるめ込んでいた。
下にあるが、小早川軍は西軍の大谷軍をやっつけてしまう。
※ 大谷吉継は、ハンセン病と言われており、こんな格好をしていた。
形勢は一気に、東軍有利になる。 勝負は決まった。
小早川軍は、裏切り易い場所に、陣を構えていた。
右上に、石田三成軍の陣地。
島津義弘陣地。 負けが決まって、逃げる時、敵陣の中を突っ切った。 島津の気概を見せた。
島津義弘はしたたかで、関ケ原の後も、領地を安堵されることになる。
しかし、遺恨は残っており、250年後、薩摩は幕府に立ち向かう。
左に今見た、島津の陣地。 遠くの旗は、次に行く、開戦地。
開戦地。
福島正則軍が先陣を切る。 決めてあったこと。 ところが、井伊直政軍が、抜け駆けして発砲。
小西行長陣地。 西軍。 上のすぐ近く。 負けて、切腹を拒否して、斬首。
地図の南の方から、北を。 左側が、戦った部分。
この道は、中山道。
道を渡って、さらに。 旧道には、雰囲気がある。
福島陣跡。 福島正則は血気盛んな感じ。 似合う俳優が、いつも演じる。 先鋒を任されていた。
こうです。
藤堂高虎、京極高知陣地跡。 高知は、初(はつ)が嫁いだ高次の弟。
槍で突いて、刀で切って、戦場は、この世の地獄。
西首塚。 東もある。
松平と井伊陣跡。
東首塚。
首塚と云うから、首だけなのか。
※ 戦って倒した者の首は、証拠。 だから、首を切るよう。
でも、首を切ってる間に、自分が切られたらどうするのか。
1人倒したら、首を切って、一旦戻るのか。
強いものは、次から次と、切り倒すように思うが。
戻って来た。 資料館の向かいに、家康の陣が。 ※ 家康の陣の所に、資料館をつくったよう。
戦いが始まって、前線に近づいた。
誰が持ってきたかを、記録するんですね。
こうやって、戦場での戦いを評価する。 そういうことなのかな。
何万という戦った者は、勝ったとき、どんな恩賞があるのでしょう。
命をかけてるから、それなりの物でなければ、合わないような。
もしかして、無理やり戦場に駆り出されているのか。
勝った家康が、一番賢かった。
1600年の9月15日、この日、日本の未来が決まった。
※ なお、家康に逆らった上杉景勝は、家康に詫びを入れて、許してもらった。
大幅な、減封で。
【今日の歌】 夏の思い出 夏になりました。 立夏です。
【道の駅】 池田温泉
【明日の予定】 今いる近く。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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でも、どっちが勝つか、分からない時があった。
家康に味方する者は、裏切らなかった。
西軍は、違った。
たった1日の戦いで、決着。
265年間の江戸時代が続くことに。
歴史を決めた1日だった。
3日間一緒だった東風さんは、朝、道の駅伊吹の里から、須坂に戻った。
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関ケ原は、岐阜県と滋賀県の、県境に近い。
車は、関ケ原町歴史民俗資料館のパーキングに。
ここで少し勉強して、地図をもらう。

中の写真は撮れない。 下の、関ケ原合戦図屏風があった。(写真は。Wikipediaから)

東軍の大将は、家康。 西軍は、石田三成。
小早川秀秋が、左下の、おかしな場所にいる。

この地図で動く。 左回り。 戻ってくるまで、2時間半かかった。

秀吉が死んで、歴史は、関ケ原に向かう。
細川忠興陣跡。
戦いの前、石田光成は、大阪にいた妻のガラシャを人質に捕ろうとした。
しかし、ガラシャは、自ら死を選んだ。 ※ ガラシャは、明智光秀の娘。


関ケ原の東の端に来ている。 戦いは、数百㍍向こうで。

西軍の豊臣家は、1つにまとまり切れてない。
光成は、戦国武将というより、秀吉の子の秀頼の世話役の感じ。
秀頼の力で、豊臣家を仕切っていた。
戦国大名の誰が信用できないとかの情報は、石田光成の口から、秀頼に入った。
だから、光成に恨みを持つ者もいた。
こんな道を。

家康は、周りの大名に、年始のあいさつに来いと、文書を出す。
断ったのがいた。 米沢の上杉景勝。
部下の直江兼続は、何で行かなければならないのかと、かみついた。(直江状)
※ 兼続は、気が強い。
子供の時、寺に預けられ、こんなとこに来とうはなかったと言った、あの気の強さと同じ。
雲洞庵は、兼続が、「わしは、こんなとこ、来とうはなかった」と言った寺。~南魚沼市~ 他 (2013/10/21)
岡山烽火場。 ここで、狼煙(のろし)を上げる。 戦い開始の合図。

家康は怒って、上杉征伐に、軍を出す。 米沢に向かう。
黒田長政、竹中重門(しげかど)。 竹中半兵衛の息子。
※ 竹中半兵衛の生地は、ここから遠くない。 今日の道の駅の池田温泉から数㌔。

石田三成は、家康に天下を取られる不安があった。
家康征伐に乗り出す。
まず、伏見城を攻撃する。 伏見城には、家康軍の残留部隊がいた。
鳥居元忠たち。 兵は1800。 この数では、太刀打ちできない。
討ち死に。 城内は血の海。 死体は、関ケ原の後に、片付け。
床に浸みた血は、洗っても取れない。 この床板が、血天井に使われる。
家康、それを聞いて、急いで引き返す。 宇都宮の手前の、小山から引き返す。
狼煙が上がって、戦闘開始。

見える平地の真ん中左に、家康の陣地。 戦いは、写真の右部分で。
光成の陣地は、見えない。 もっと右。

家康は、西に向かう時、部下にこう言った。
豊臣家に人質を取られている者は、向こうに行っていいと。 つまり、西軍に。
そして、決して追うことはしないとも。
家康は上手だ。 誰も、動かなかった。
妻のガラシャの細川忠興も。
徳川軍は、こうやって、心を1つにしていった。
遊歩道は、森の中。 クマに注意とあって、捕まえる檻(おり)もあった。

真田昌幸は、西軍に付いた。 これは、家康にとって痛かった。 息子の1人は、こっちだが。
ずっと雨。 傘をさして、カメラを抱いて。

家康軍の半分は、中山道を通った。 秀忠が率いて。
ところが、上田城で足止め。 中には、真田昌幸がいる。 城は落とせなかった。
秀忠軍は、関ケ原には間に合わなかった。
決戦地に来た。 この場所が、一番の激戦地。 右に、石田三成の陣地。 旗が見える。

それでも家康が勝てたのは、諜報戦が上手だったから。 ※ 諜報戦と云えば山本勘助を思い出す。
西軍の小早川秀秋を、まるめ込んでいた。
下にあるが、小早川軍は西軍の大谷軍をやっつけてしまう。
※ 大谷吉継は、ハンセン病と言われており、こんな格好をしていた。
形勢は一気に、東軍有利になる。 勝負は決まった。
小早川軍は、裏切り易い場所に、陣を構えていた。

右上に、石田三成軍の陣地。

島津義弘陣地。 負けが決まって、逃げる時、敵陣の中を突っ切った。 島津の気概を見せた。
島津義弘はしたたかで、関ケ原の後も、領地を安堵されることになる。
しかし、遺恨は残っており、250年後、薩摩は幕府に立ち向かう。

左に今見た、島津の陣地。 遠くの旗は、次に行く、開戦地。

開戦地。

福島正則軍が先陣を切る。 決めてあったこと。 ところが、井伊直政軍が、抜け駆けして発砲。

小西行長陣地。 西軍。 上のすぐ近く。 負けて、切腹を拒否して、斬首。

地図の南の方から、北を。 左側が、戦った部分。

この道は、中山道。

道を渡って、さらに。 旧道には、雰囲気がある。

福島陣跡。 福島正則は血気盛んな感じ。 似合う俳優が、いつも演じる。 先鋒を任されていた。

こうです。

藤堂高虎、京極高知陣地跡。 高知は、初(はつ)が嫁いだ高次の弟。

槍で突いて、刀で切って、戦場は、この世の地獄。

西首塚。 東もある。

松平と井伊陣跡。

東首塚。

首塚と云うから、首だけなのか。
※ 戦って倒した者の首は、証拠。 だから、首を切るよう。
でも、首を切ってる間に、自分が切られたらどうするのか。
1人倒したら、首を切って、一旦戻るのか。
強いものは、次から次と、切り倒すように思うが。

戻って来た。 資料館の向かいに、家康の陣が。 ※ 家康の陣の所に、資料館をつくったよう。

戦いが始まって、前線に近づいた。

誰が持ってきたかを、記録するんですね。
こうやって、戦場での戦いを評価する。 そういうことなのかな。

何万という戦った者は、勝ったとき、どんな恩賞があるのでしょう。
命をかけてるから、それなりの物でなければ、合わないような。
もしかして、無理やり戦場に駆り出されているのか。
勝った家康が、一番賢かった。
1600年の9月15日、この日、日本の未来が決まった。
※ なお、家康に逆らった上杉景勝は、家康に詫びを入れて、許してもらった。
大幅な、減封で。
【今日の歌】 夏の思い出 夏になりました。 立夏です。
【道の駅】 池田温泉
【明日の予定】 今いる近く。
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(2008年4月~2010年9月までの記事)

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