徳川幕府を倒さないと、新しい時代は来ない。
土佐で出会った、吉村寅太郎や那須信吾も、龍馬と同じように考えていた。
彼らは、天誅組の中心人物となり、戦った。
幕府にまだ余力があり、負けてしまうが、維新に向けての戦いの、魁(さきがけ)になった。
この戦いにより、幕府の力は見透かされ、4年後には大政奉還。 翌年明治に。
最後に戦った地、鷲家口(わしかぐち)を、東吉野村に訪ねてみた。
また、東吉野村は、ニホンオオカミが、最後に見つかった地だった。
※ ※ ※ ※ ブログタイトル一覧は、右をクリック。
東吉野村は、奈良県の東部。
鷲家口に着いた。 右に旧道があって、そっちにまず、湯ノ谷墓地がある。
後ろに国道がある。 前の道を入っていくと、東吉野村の中心街。
ここを含めて、村の中心が、鷲家口。
天誅組の動き。 鷲家口で壊滅。
旧道を少し歩くと、墓地があった。 その一角に、天誅義士の墓。 ここには、5名。
鉄石、奎堂という人は、天誅組での役割は、上から2番目の総裁。 吉村寅太郎も同じ。
天誅組は、討幕を考えていたが、大義名分が必要。
天皇中心の世の中を作ると考えており、それで支持を得ようとした。
このような立派な墓。 天誅組が、この地の人々の心をつかんでいた。
幕末に、攘夷(じょうい)運動というのがあった。 外国を退ける動き。
この動きは、天皇中心の国を作るという、尊王運動と結びつく。 尊王攘夷。
1863年に、孝明天皇が神武天皇陵を参拝し、攘夷を祈願することになった。
攘夷祈願というけど、もちろん、それだけではない。
※ 神武天皇陵は、橿原市にある。 ここから遠くなく、西の方。
いろんな説明では、天誅組は、この天皇の行幸の先鋒として動いた、とある。
先鋒として戦うことの意味が、難しい。
天皇は、天皇中心の世の中になることを願うのだから、それを叶える意味で戦った。
こんな感じか。
1㌔ほど走ったら、吉村寅太郎の最期の地。
天誅組は、五條市で戦いを始めるが、すぐに、8月18日の政変が起きる。
それまでは、攘夷運動が盛り上がっていた。
反対勢力の、幕府を守ろうとする、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、反撃に出た。
攘夷派を、京都から追い出した。
孝明天皇のこっちの方への行幸も中止になった。 出来なくなった。
天誅組は、逆賊として、幕府から追われる身となった。
下の像は、高知県の檮原(ゆすはら)にあるもの。
吉村寅太郎は、後ろで手を挙げている、赤○の男。
その前にいるのは、この後出てくる、那須信吾。 右の方に、龍馬。
※ 寅太郎の生まれた村は、こんな所。(一昨年)
天誅組に関わる、地図。 いっぱいある。
辞世の句は、生まれた村にもあった。 すごい内容。
右は、東吉野村の天誅組のおさえ。
左の写真の石に、原瘞(げんえい)とある。
※ 瘞(えい)の字は、尾道で見ましたね。 瘞紅(えいこう)の碑があった。
瘞は埋(うず)めるの意味で、葬ったということ。
寅太郎の遺骸は、最初ここに葬って、後に、明治谷墓所に移す。
最初はここに埋めたので、原瘞。 そういうことかな。
今年村では、天誅組サミットがある。
いろんな説明。 この近くで、見つかった。
橋の向こうの、右に墓。
寅太郎は、この残念岩の下で、力尽きた。 村人が葬った。
少し走って、ニホンオオカミの像。 ここで、日本で最後に見つかった。
※ 反対側。 高見川。 吉野川の支流。 吉野川は、奈良県を出たら、紀ノ川。
宇陀松山は、ここから近く、小さな峠を越える。 そっちは、淀川の流域。
奈良方面は、淀川。 吉野方面は、吉野川で紀ノ川に。 初めて知った。
明治38年のこと。 それ以来、証拠のはっきりしているオオカミは、見つからない。
体重15㌔。 小型犬の大きさ。
シカだってイノシシだって、みんなやっつける。
剥製は、大英博物館に。 骨と皮は、別に。 研究のためですね。
右の石碑に、下の句が。
「 狼は亡び 木霊(こだま)ハ 存(ながら)ふる 」 三村純也
※ 三村という人は、俳人。 木霊は、樹木にやどる精霊。
「存(ながら)ふる」は、生きている、とうこと。 意味が難しい。
市街地の少し先に、明治谷墓所。 役場の人が、道の清掃をしていた。
役場に資料があるので、寄ったらいいよって、親切に対応してくれた。
※ この後役場に行くが、若い女性が、同じ対応。 村に来てよかったなって、感じる。
寅太郎、そして、信吾の墓もある。
小さな山の上に。
一番手前が、吉村寅太郎。 隣が、那須信吾。
土佐を出て、何年も経っていない。 2人並んで。
真吾は、檮原(ゆすはら)の人。 竜馬の脱藩を助けた。 韮ヶ峠(にらがとうげ)まで送ったとある。
この峠は、高知県と愛媛県の間にある。 彼の義理の父の那須俊平は、龍馬を、さらに内子まで送る。
真ん中の人は、昨日のブログの慶恩寺に石碑があった。 宇陀松山の人。
役場に寄って地図をいただいて、歩き始めた。 古い町並みが残っていた。
あっちこっちに説明が。
那須真吾はここで、絶命。
刀や槍では強くても、鉄砲には適わない。
ここよりつまらない伝建地区も、たまにある。 通る車が少ないのがいい。
またありました。 最後は、血みどろになって戦いますね。 指の1本や2本千切れたって。
建物は役場。 左手に山があって、そっちから、天誅組は、この村に入ってきた。
しかし、彦根藩や紀州藩が、待ち構えていた。
天誅組の動き。 右は、橋の欄干にあった。
天誅組については、初めて、少し分かりました。
戦った人間がいるから、明治がやってきて、今の時代があるのでしょうか。
夢に向かって、命をかけて戦った。
戦いは、維新に向けての魁(かきがけ)となったと、後に評価される。
東吉野村は、天誅組の1人1人にやさしい。
【今日の歌】 生きている不思議、死んでいく不思議、って・・。
【道の駅】 宇陀路大宇陀
【明日の予定】 国宝の建物の神社があるので、そこを。 昨日走っていて、気になるところが・・。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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土佐で出会った、吉村寅太郎や那須信吾も、龍馬と同じように考えていた。
彼らは、天誅組の中心人物となり、戦った。
幕府にまだ余力があり、負けてしまうが、維新に向けての戦いの、魁(さきがけ)になった。
この戦いにより、幕府の力は見透かされ、4年後には大政奉還。 翌年明治に。
最後に戦った地、鷲家口(わしかぐち)を、東吉野村に訪ねてみた。
また、東吉野村は、ニホンオオカミが、最後に見つかった地だった。
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東吉野村は、奈良県の東部。
鷲家口に着いた。 右に旧道があって、そっちにまず、湯ノ谷墓地がある。
後ろに国道がある。 前の道を入っていくと、東吉野村の中心街。
ここを含めて、村の中心が、鷲家口。

天誅組の動き。 鷲家口で壊滅。

旧道を少し歩くと、墓地があった。 その一角に、天誅義士の墓。 ここには、5名。
鉄石、奎堂という人は、天誅組での役割は、上から2番目の総裁。 吉村寅太郎も同じ。


天誅組は、討幕を考えていたが、大義名分が必要。
天皇中心の世の中を作ると考えており、それで支持を得ようとした。
このような立派な墓。 天誅組が、この地の人々の心をつかんでいた。

幕末に、攘夷(じょうい)運動というのがあった。 外国を退ける動き。
この動きは、天皇中心の国を作るという、尊王運動と結びつく。 尊王攘夷。
1863年に、孝明天皇が神武天皇陵を参拝し、攘夷を祈願することになった。
攘夷祈願というけど、もちろん、それだけではない。
※ 神武天皇陵は、橿原市にある。 ここから遠くなく、西の方。
いろんな説明では、天誅組は、この天皇の行幸の先鋒として動いた、とある。
先鋒として戦うことの意味が、難しい。
天皇は、天皇中心の世の中になることを願うのだから、それを叶える意味で戦った。
こんな感じか。
1㌔ほど走ったら、吉村寅太郎の最期の地。

天誅組は、五條市で戦いを始めるが、すぐに、8月18日の政変が起きる。
それまでは、攘夷運動が盛り上がっていた。
反対勢力の、幕府を守ろうとする、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、反撃に出た。
攘夷派を、京都から追い出した。
孝明天皇のこっちの方への行幸も中止になった。 出来なくなった。
天誅組は、逆賊として、幕府から追われる身となった。
下の像は、高知県の檮原(ゆすはら)にあるもの。
吉村寅太郎は、後ろで手を挙げている、赤○の男。
その前にいるのは、この後出てくる、那須信吾。 右の方に、龍馬。
※ 寅太郎の生まれた村は、こんな所。(一昨年)


天誅組に関わる、地図。 いっぱいある。

辞世の句は、生まれた村にもあった。 すごい内容。
右は、東吉野村の天誅組のおさえ。


左の写真の石に、原瘞(げんえい)とある。
※ 瘞(えい)の字は、尾道で見ましたね。 瘞紅(えいこう)の碑があった。
瘞は埋(うず)めるの意味で、葬ったということ。
寅太郎の遺骸は、最初ここに葬って、後に、明治谷墓所に移す。
最初はここに埋めたので、原瘞。 そういうことかな。
今年村では、天誅組サミットがある。


いろんな説明。 この近くで、見つかった。


橋の向こうの、右に墓。

寅太郎は、この残念岩の下で、力尽きた。 村人が葬った。



少し走って、ニホンオオカミの像。 ここで、日本で最後に見つかった。

※ 反対側。 高見川。 吉野川の支流。 吉野川は、奈良県を出たら、紀ノ川。
宇陀松山は、ここから近く、小さな峠を越える。 そっちは、淀川の流域。
奈良方面は、淀川。 吉野方面は、吉野川で紀ノ川に。 初めて知った。

明治38年のこと。 それ以来、証拠のはっきりしているオオカミは、見つからない。
体重15㌔。 小型犬の大きさ。
シカだってイノシシだって、みんなやっつける。


剥製は、大英博物館に。 骨と皮は、別に。 研究のためですね。
右の石碑に、下の句が。
「 狼は亡び 木霊(こだま)ハ 存(ながら)ふる 」 三村純也
※ 三村という人は、俳人。 木霊は、樹木にやどる精霊。
「存(ながら)ふる」は、生きている、とうこと。 意味が難しい。


市街地の少し先に、明治谷墓所。 役場の人が、道の清掃をしていた。
役場に資料があるので、寄ったらいいよって、親切に対応してくれた。
※ この後役場に行くが、若い女性が、同じ対応。 村に来てよかったなって、感じる。
寅太郎、そして、信吾の墓もある。


小さな山の上に。

一番手前が、吉村寅太郎。 隣が、那須信吾。

土佐を出て、何年も経っていない。 2人並んで。

真吾は、檮原(ゆすはら)の人。 竜馬の脱藩を助けた。 韮ヶ峠(にらがとうげ)まで送ったとある。
この峠は、高知県と愛媛県の間にある。 彼の義理の父の那須俊平は、龍馬を、さらに内子まで送る。

真ん中の人は、昨日のブログの慶恩寺に石碑があった。 宇陀松山の人。

役場に寄って地図をいただいて、歩き始めた。 古い町並みが残っていた。

あっちこっちに説明が。

那須真吾はここで、絶命。

刀や槍では強くても、鉄砲には適わない。


ここよりつまらない伝建地区も、たまにある。 通る車が少ないのがいい。

またありました。 最後は、血みどろになって戦いますね。 指の1本や2本千切れたって。


建物は役場。 左手に山があって、そっちから、天誅組は、この村に入ってきた。
しかし、彦根藩や紀州藩が、待ち構えていた。

天誅組の動き。 右は、橋の欄干にあった。



天誅組については、初めて、少し分かりました。
戦った人間がいるから、明治がやってきて、今の時代があるのでしょうか。
夢に向かって、命をかけて戦った。
戦いは、維新に向けての魁(かきがけ)となったと、後に評価される。
東吉野村は、天誅組の1人1人にやさしい。
【今日の歌】 生きている不思議、死んでいく不思議、って・・。
【道の駅】 宇陀路大宇陀
【明日の予定】 国宝の建物の神社があるので、そこを。 昨日走っていて、気になるところが・・。
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(2008年4月~2010年9月までの記事)

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