一身田(いっしんでん)の町並みは、お寺と門前町が、堀(濠)で囲まれている。
珍しい、環濠(かんごう)集落。
寺は、真宗高田派の本山で、専修(せんじゅ)寺。
大きな寺、そして古い町並みだった。
関宿の道の駅に来たので、町並みを少しだけ歩いた。
※ ※ ※ ※ ブログタイトル一覧は、右をクリック。
一身田は、津市の市街地の少し北に。
専修寺(せんじゅじ)という寺がある。 その下に、門前町。
2つの周りに、堀(濠)。
こういうところを、寺内町(じないちょう)って云う。
ちゃんと残っているのが、珍しいようだ。
専修寺。 浄土真宗高田派の本山。 どういう寺かですね。
真宗と云えば、京都にある東と西が大きく、有名。
でも、昔は、ここの方が大きい時代があったよう。
その証拠は、親鸞に関する書物を、この寺が一番多く持っている。
※ 他の寺は、親鸞の言ったことを弟子たちがまとめた「歎異抄」を、使ってるが、
修善寺は、親鸞の資料がたくさんあるので、それを使わなくて済んでいる。
正面の如来堂、右の御影堂は、この田舎にあって、驚く大きさ。
左のあって物は、親鸞の御廟(ごびょう)で、つまりお墓。
親鸞の墓は、いくつかあって、ここもそのうちの1つ。
奥に庭園がある。
雲幽(うんゆう)園。 茶室があって、利休なども関わりがあるそう。
この寺は、昔は僧兵を抱えて、血気盛んに戦っている。
山門。
専修寺の南側の道。 小さなお寺が、並んでいる。 どれも、専修寺関係の・・。
少し行って、右に曲がる。
曲がったら、向こうに家並み。
一身田は、珍しい名前。 奈良時代の三世一身の法とは、関わりないよう。
こんな説がある。 いいかなって思う。
平安時代に、政治的に功績のあった者に、朝廷は、その身一代限りの田を与えた。
与えられた者が亡くなれば、次の者に。
そうやって続いているうちに、地名が、一身田。
さらに、与えられた者は、斎王(さいおう)ではないかと、言われている。
斎王は、天皇に代わって伊勢に行く、皇女。 ※ 参考文献 一身田の歴史。
斎王は、こんなのに乗って。 (嵐山のトロッコ列車の駅に展示)
古い町並みが残っている。
専修寺の周りには、寺に関わる高校・大学まである。 宗教の町の感じ。
蔵でしょうか。
地図の右下にある橋。 橋を渡れば、環濠集落の外。 堀は、今は普通の川。
一身田寺内町の館があるんだが、休みだった。 そこは、資料館。
戻っている。
たけやまんじゅうを食べたい。 でも、店は閉まっていた。
どこも、祝日の次の日だから、休みなんだろうか。
※ たけやまんじゅうは、こんなの。 寺が高田派なので、高田。
饅頭を食べたいと思うことは無かったのに、疲れているのかな。 まてよ、年齢(とし)だったりして。
下に牛の絵。 南部牛追唄を思い出す。
※ YouTubeに、新しくいいのがないか探したが、ない。
アニメっぽいのが、哀愁をおびて雰囲気だけはいいので、今日の歌に。
いい編曲で、声を張り上げないで、静かに歌ってくれる、南部牛追唄を待っています。
いい町並みです。 重伝建地区に選定はされていない。 選定されるには、地域の取り組みが必要。
松阪もそうでしたが、この地域も、綿の織物が盛んだった。
一身田には、お寺の広い駐車場が、用意されている。
15㌔ほど走って、道の駅関宿に。 すぐ近くに、古い町並み。
せっかく来たから、少しだけ歩くことに。 ここは、3回目かな。
昔の家並みが、1.8㌔続いている。 規模の大きな、重伝建地区。
東海道五十三次の47番目の宿場。
東の追分(端)から、伊勢別街道が分岐。 西の追分からは、奈良へ行く大和街道が分岐している。
街道の、大きな要衝だった。
昔の名残。 ※ そういえば、神社は今でも、車馬を入れるな、と表示している。 馬は歩いてないのに。
ここの道の駅の欠点は、自由に車を走らせていること。
人がいても、車は、そんなにスピードを落とさない。 小さな子供にとっては、とても危険。
前回来た時も、感じた。 小さな段差を設けるとか、工夫はいくらでもあるのに。
何か面白いことは見つからないかなって、歩いている。
「~~は関の山」って諺があるが、ここで生まれた。
関宿の山(山車)が立派だから、そう云われた。
「あいつにとっては、魚を1匹釣るのが、関の山だな」、のように使う。
相手を良く云う時に使っていない感じがする。
また、関宿の山車を、どのくらいほめてるか、分かり難いようにも思う。 完璧にか、そうでないのか。
右の、織田信孝は、信長の三男ですね。 詳しいことは、分からない。
ただ、秀吉に自害を命じられ、切腹の時、自分の腸を梅の掛け軸に投げつけた。
英照皇太后(えいしょうこうたいごう)は、大正天皇の妃になった九条節子(くじょう さだこ)の父の姉。
※ 九条節子については、今まで何度か、ブログに。
また、英照皇太后は、明治天皇の父の孝明天皇の女御。
明治天皇を生んではいないが、この人が、母として育てている。
江(ごう)の末裔でもある九条家は、天皇家との関わりが強いと分かる。
町並みの真ん中あたり。
まだまだあるけど、行かない。
この道を、戻る。
ブログを書いていたら、何度かブログに登場している、亀山のカメさんがやってきた。 (1日午前)
カメさんは、松浦武四郎が好き。 北海道に詳しい。
そのカメさんが、面白いことを言った。
北海道の上富良野には、一身田の人たちが入植していた。 ※ 今は、津市と上富良野が姉妹都市。
十勝岳の泥流で上富良野は破壊されるはが、元に戻すのに燃えた村長がいた。
その人の墓は、専修寺にあると。
※ その村長さんの娘さんが、私が上富良野に行った時は、健在だった。
ファーム富田 泥流地帯の舞台に・・。 他 (2009/07/26) (戻るときは、左上の矢印をクリック)
一身田は、北海道と大きなつながりがあった。
【今日の歌】 南部牛追唄
【道の駅】 関宿
【明日の予定】 北に向かう。 時間があれば、ある山に。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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珍しい、環濠(かんごう)集落。
寺は、真宗高田派の本山で、専修(せんじゅ)寺。
大きな寺、そして古い町並みだった。
関宿の道の駅に来たので、町並みを少しだけ歩いた。
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一身田は、津市の市街地の少し北に。
専修寺(せんじゅじ)という寺がある。 その下に、門前町。
2つの周りに、堀(濠)。
こういうところを、寺内町(じないちょう)って云う。
ちゃんと残っているのが、珍しいようだ。

専修寺。 浄土真宗高田派の本山。 どういう寺かですね。
真宗と云えば、京都にある東と西が大きく、有名。
でも、昔は、ここの方が大きい時代があったよう。
その証拠は、親鸞に関する書物を、この寺が一番多く持っている。
※ 他の寺は、親鸞の言ったことを弟子たちがまとめた「歎異抄」を、使ってるが、
修善寺は、親鸞の資料がたくさんあるので、それを使わなくて済んでいる。
正面の如来堂、右の御影堂は、この田舎にあって、驚く大きさ。

左のあって物は、親鸞の御廟(ごびょう)で、つまりお墓。
親鸞の墓は、いくつかあって、ここもそのうちの1つ。
奥に庭園がある。

雲幽(うんゆう)園。 茶室があって、利休なども関わりがあるそう。

この寺は、昔は僧兵を抱えて、血気盛んに戦っている。
山門。

専修寺の南側の道。 小さなお寺が、並んでいる。 どれも、専修寺関係の・・。
少し行って、右に曲がる。

曲がったら、向こうに家並み。

一身田は、珍しい名前。 奈良時代の三世一身の法とは、関わりないよう。
こんな説がある。 いいかなって思う。
平安時代に、政治的に功績のあった者に、朝廷は、その身一代限りの田を与えた。
与えられた者が亡くなれば、次の者に。
そうやって続いているうちに、地名が、一身田。
さらに、与えられた者は、斎王(さいおう)ではないかと、言われている。
斎王は、天皇に代わって伊勢に行く、皇女。 ※ 参考文献 一身田の歴史。
斎王は、こんなのに乗って。 (嵐山のトロッコ列車の駅に展示)
古い町並みが残っている。

専修寺の周りには、寺に関わる高校・大学まである。 宗教の町の感じ。
蔵でしょうか。

地図の右下にある橋。 橋を渡れば、環濠集落の外。 堀は、今は普通の川。

一身田寺内町の館があるんだが、休みだった。 そこは、資料館。
戻っている。
たけやまんじゅうを食べたい。 でも、店は閉まっていた。
どこも、祝日の次の日だから、休みなんだろうか。
※ たけやまんじゅうは、こんなの。 寺が高田派なので、高田。

饅頭を食べたいと思うことは無かったのに、疲れているのかな。 まてよ、年齢(とし)だったりして。
下に牛の絵。 南部牛追唄を思い出す。
※ YouTubeに、新しくいいのがないか探したが、ない。
アニメっぽいのが、哀愁をおびて雰囲気だけはいいので、今日の歌に。
いい編曲で、声を張り上げないで、静かに歌ってくれる、南部牛追唄を待っています。

いい町並みです。 重伝建地区に選定はされていない。 選定されるには、地域の取り組みが必要。

松阪もそうでしたが、この地域も、綿の織物が盛んだった。

一身田には、お寺の広い駐車場が、用意されている。
15㌔ほど走って、道の駅関宿に。 すぐ近くに、古い町並み。
せっかく来たから、少しだけ歩くことに。 ここは、3回目かな。

昔の家並みが、1.8㌔続いている。 規模の大きな、重伝建地区。

東海道五十三次の47番目の宿場。
東の追分(端)から、伊勢別街道が分岐。 西の追分からは、奈良へ行く大和街道が分岐している。
街道の、大きな要衝だった。
昔の名残。 ※ そういえば、神社は今でも、車馬を入れるな、と表示している。 馬は歩いてないのに。

ここの道の駅の欠点は、自由に車を走らせていること。
人がいても、車は、そんなにスピードを落とさない。 小さな子供にとっては、とても危険。
前回来た時も、感じた。 小さな段差を設けるとか、工夫はいくらでもあるのに。

何か面白いことは見つからないかなって、歩いている。

「~~は関の山」って諺があるが、ここで生まれた。
関宿の山(山車)が立派だから、そう云われた。
「あいつにとっては、魚を1匹釣るのが、関の山だな」、のように使う。
相手を良く云う時に使っていない感じがする。
また、関宿の山車を、どのくらいほめてるか、分かり難いようにも思う。 完璧にか、そうでないのか。


右の、織田信孝は、信長の三男ですね。 詳しいことは、分からない。
ただ、秀吉に自害を命じられ、切腹の時、自分の腸を梅の掛け軸に投げつけた。
英照皇太后(えいしょうこうたいごう)は、大正天皇の妃になった九条節子(くじょう さだこ)の父の姉。
※ 九条節子については、今まで何度か、ブログに。
また、英照皇太后は、明治天皇の父の孝明天皇の女御。
明治天皇を生んではいないが、この人が、母として育てている。
江(ごう)の末裔でもある九条家は、天皇家との関わりが強いと分かる。


町並みの真ん中あたり。

まだまだあるけど、行かない。

この道を、戻る。

ブログを書いていたら、何度かブログに登場している、亀山のカメさんがやってきた。 (1日午前)
カメさんは、松浦武四郎が好き。 北海道に詳しい。
そのカメさんが、面白いことを言った。
北海道の上富良野には、一身田の人たちが入植していた。 ※ 今は、津市と上富良野が姉妹都市。
十勝岳の泥流で上富良野は破壊されるはが、元に戻すのに燃えた村長がいた。
その人の墓は、専修寺にあると。
※ その村長さんの娘さんが、私が上富良野に行った時は、健在だった。
ファーム富田 泥流地帯の舞台に・・。 他 (2009/07/26) (戻るときは、左上の矢印をクリック)
一身田は、北海道と大きなつながりがあった。
【今日の歌】 南部牛追唄
【道の駅】 関宿
【明日の予定】 北に向かう。 時間があれば、ある山に。
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(2008年4月~2010年9月までの記事)

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