昨日、高山城跡の下で、照蓮寺(しょうれんじ)を見た。
ダムの底になるので、この場所に移築したと書いた。
そして、近くに、小さな荘川(しょうかわ)桜があることも、書いた。
今日、御母衣(みぼろ)湖のほとりに、2本の大きな荘川桜を見た。
そのうちの1本は、元々は、上に書いた、照蓮寺の境内にあった桜の木だった。
湖の底になるので、高台に移していた。
また、昨日見た、小さな荘川桜は、大きな荘川桜の枝を育てた、2世の荘川桜だった。
昔、御母衣(みぼろ)村があった。 ※ 今は、白川村御母衣。
そこに出来たダムなので、御母衣ダム。
※ ダム湖である御母衣ダムは、白川村御母衣と高山市荘川町に、またがっている。
どうして、御母衣という地名が生まれたのでしょう。
不思議な名前です。
※ ※ ※ ※ ブログタイトル一覧は、右をクリック。
何か見つかったら、車を停めることにして、出発。
小鳥峠。
山の上が湿原になっているので、広い駐車場が。 標高、1000㍍。
峠を越える人は、お地蔵さんがいるだけで、ほっとするでしょうね。
ミズバショウの群落。 時期は、そろそろ終わり。
少し走ったら、昔の家が。 門端(かどはし)縄文住居址(あと)。
この地は、東西南北の道の接点だった。 今もそうだけど。
何が面白いかって、ここからは、東西南北の地方の土器が、すべて見つかっている。
例えば、こんな台付土器。
豪雪地帯だから、冬は雪の中になる。 どんな会話をしたのかな。
食べ物をどうするかが、一番大事だから、その話か。 「雨、やまないかな」とか、天気の話も。
高山市荘川町、六厩(むまや)地区。 ※ 厩は、うまや、と読み、馬屋のこと。 地名に時々見る。
日陰には、雪。
駐車場にいた人が、左甚五郎が作ったお堂があると、教えてくれた。
千鳥格子御堂とある。
左が、千鳥格子。 どうやって作ったか、外から見てもわからない。
これの小さなのを、飛騨の里で見た。 組み立てるところを、動画を撮ればよかったと、後悔。
※ 2つの木を、十字に交じ合わせるとき、両方半分まで切り込みを入れたらいい。
それを、3分の2まで切り込んで、交じ合わせる。
これ以上の説明は難しいけど、そこがポイント。
高山市の説明には、書いてないが、左甚五郎の可能性は、ほんの少しでしょうか。
※ 左甚五郎は、子供のころから大人にかけて、高山に住んだことがある。
それで、飛騨の甚五郎と呼ばれた。
いつの間にか、ひだの、が、ひだり、に。 こんな説があります。
道の駅に着く前に、小さな、エーコープに寄った。 野菜を買った。
キュウリ7本107円。 安くなってきた。
レジの人とお話。
私は、高速が出来て、便利になったね、と言った。
その人は、
そうですね、実家まで、日帰りできるようになったんですよ。(岐阜市あたりでしょうか)
でも、そのために、実家に泊まりにくくなっちゃった。
と言った。
道の駅、桜の郷荘川。 荘川桜があるので、この名前ですね。
気温は、31度です。 真夏。 今年一番。
道の駅のお店に、行者にんにく。 スーパーで売ってたら、買って食べます。
川は、庄川。 荘川に、庄川が流れている。
遠くの橋は、下で吊っている。 左下に釣り人。 なかなか釣れない。 フライという、釣り方。
ここから見えないが、左前方に、白山がある。 直線で、20㌔ほど。
右は上流。 庄川の里という、遊びの施設。 有料。 ここにも、釣り人。
五連水車。 停まってるのがあるので、動画は撮らなかった。
御母衣湖の、左側を走る。 湖の長さは、10㌔。 大きい。
見える山の、もっと手前で、左に、白山。
ここから200㍍向こうに、荘川桜。
ここです。
道路と湖の間にあった。 中野展望台。 この下に、中野地区はあったのか。
手前が、光輪寺の。 向こうが、照蓮寺の。 右は、照蓮寺の桜の幹。
この僧は、照蓮寺開基の僧。 嘉念坊善俊(かねんぼう ぜんしゅん)。
後鳥羽上皇の皇子とあるが、これは、はっきりしません。 寺伝にあるということでしょう。
後鳥羽上皇は、壇ノ浦で海に沈んだ、安徳天皇の弟ですね。
右の歌は、ダム建設に中心になって反対した人の歌碑。
「ふるさとは 水底となりつ 移り来し、この老桜 咲け とこしえに」
今の姿を作り上げるまでは、大変な取り組みだった。 重さ40㌧の木を運んだ。
桜は傷に弱い。 枝を切ったら、墨を塗ったりする。
それでも、こうして運んだ。 すごい決断。
花は咲いた。 以前より、木は元気になったという。
反対側から。 手前、照蓮寺の。
ダムが出来て、桜だけは、多くの人に見てもらえて、幸せかもしれない。
※ 水上勉は、ここの桜のことを知って、「桜守」の小説を書いた。
少し走ったら、御母衣ダムが見えた。
ロックフィルダム。(rockfill) rockは、岩。 fillは、一杯にという意味。 fullと似た意味。
岩を積んで作った。 地盤とかが弱い時に、この作り方だそう。
内部には、水を通さない粘土がある。 地下に発電所も。
御母衣湖。
ここは、白川村御母衣。 昔は、御母衣村。
御母衣(みぼろ)。 不思議な名前。 何なんでしょう。
母衣(ほろ)という言葉がある。 濁らないで、ほろ。
礼文島のブログで、母衣について書いています。
馬に乗って戦う時、背中に着ける物です。 矢から自分を守る役割があるようです。
こんなのです。 走ると、大きく膨らむ。
男の人は、平敦盛(たいらのあつもり) ※ レブンアツモリソウは、こんな花。
ここまで書いて、何が予想されるかというと。
御母衣という地名は、農民が考えるのは難しい。
ここは山の中だから、平家の落ち武者かも知れない。
武士の中に、母衣(ほろ)を持ってる者がいた。 尊い人の母衣なので、御母衣と呼んでいた。
※ みほろでなく、なぜ、みぼろ、と濁したのかは分からない。
平家の落ち武者だとしたら、どこから来たのか。
北の方に、倶利伽羅峠(くりからとうげ)がある。
平家は、そこで、木曽義仲と戦った。 総崩れになった。
※ 平家はこの戦いで負けた後、戦いの主導権を握ることは、一度もなかった。
10万と云われる兵で助かった者は、散り散りになって逃げた。
倶利伽羅峠から山に向かうと、向かいやすい山奥は、白川郷になる。
多くの落人が、庄川沿いに登って来たと、当然考えられる。
その中のある集団が、この地にたどり着いた。
尊い人の母衣を持っていた者がいて、地名を御母衣とした。
※ そのまま、みほろ、と読むと危険なので、みぼろと濁したかも知れない。
こんな風に、想像します。
※ 追記 地元に、次のように伝わっていました。
その昔、泰澄大師という高僧が、白山を切り開いてこの村に入ってきた。
国元へ帰る時に、大切な衣を忘れた。
後に大師の母親がこの地に来て、衣を持ち帰った。
以来、この地を、御母衣と呼ぶようになった。
この話は、御母衣の言葉から生み出された話のように感じます。 江戸時代とかに。
御母衣の意味は、はっきりしていて、上の話を考えた人は、御母衣が何だかを知らなかったと思われます。
(誰かが、考えたとしたらですが。)
白川郷は、割と谷は広いので、平氏が登場する前から人は住んでいたと思われます。
ダムがなぜ御母衣に出来たかですが、この辺りは、谷が狭くなっています。
それで、この場所に作られた。
狭い谷だったため、開拓されないでいた。
それで、平家の落ち武者が、住み着くことができた。
(多少いても、追い出したかもしれない。)
白川村には、平家伝説が残っています。
上に書いたのは、まったくの想像ですが、平氏が関わりあるんでないかなって、思います。
ダムを下から見た。
ダムサイドパークの建物の中。
色々展示してあった。
移植してから、50年経った。
資料として、ここに。
旧遠山家民俗館。
ダムができると、そこに住めなくなる人が、たくさん出る。
御母衣ダムでは、230戸、1200人。
多くの人が、悲しい思いをする。
そんな中、一輪の花が咲いた。 それが、荘川桜でしょうか。
【今日の歌】 裕次郎、やさしい。 浅丘ルリ子の仕草が、何とも言えない。
【道の駅】 飛騨白山
※ 白山には、石川県側から登った。 日帰りしたので、大変だった。
2日かけて、ゆっくり登ると楽しい山。
白山に登る ~日本三名山、深田久弥のふるさとの山 白山市~ 他 (2011/7/6)
【明日の予定】 白川村の、南の地域にいます。 ここを散策します。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
【ランキング】 国内旅行、2位、 旅行全体、6位です。
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※ 1回のクリックで、10ポイント。 1週間生きます。
ダムの底になるので、この場所に移築したと書いた。
そして、近くに、小さな荘川(しょうかわ)桜があることも、書いた。
今日、御母衣(みぼろ)湖のほとりに、2本の大きな荘川桜を見た。
そのうちの1本は、元々は、上に書いた、照蓮寺の境内にあった桜の木だった。
湖の底になるので、高台に移していた。
また、昨日見た、小さな荘川桜は、大きな荘川桜の枝を育てた、2世の荘川桜だった。
昔、御母衣(みぼろ)村があった。 ※ 今は、白川村御母衣。
そこに出来たダムなので、御母衣ダム。
※ ダム湖である御母衣ダムは、白川村御母衣と高山市荘川町に、またがっている。
どうして、御母衣という地名が生まれたのでしょう。
不思議な名前です。
※ ※ ※ ※ ブログタイトル一覧は、右をクリック。

何か見つかったら、車を停めることにして、出発。
小鳥峠。
山の上が湿原になっているので、広い駐車場が。 標高、1000㍍。
峠を越える人は、お地蔵さんがいるだけで、ほっとするでしょうね。


ミズバショウの群落。 時期は、そろそろ終わり。


少し走ったら、昔の家が。 門端(かどはし)縄文住居址(あと)。
この地は、東西南北の道の接点だった。 今もそうだけど。
何が面白いかって、ここからは、東西南北の地方の土器が、すべて見つかっている。
例えば、こんな台付土器。

豪雪地帯だから、冬は雪の中になる。 どんな会話をしたのかな。
食べ物をどうするかが、一番大事だから、その話か。 「雨、やまないかな」とか、天気の話も。


高山市荘川町、六厩(むまや)地区。 ※ 厩は、うまや、と読み、馬屋のこと。 地名に時々見る。
日陰には、雪。


駐車場にいた人が、左甚五郎が作ったお堂があると、教えてくれた。
千鳥格子御堂とある。

左が、千鳥格子。 どうやって作ったか、外から見てもわからない。
これの小さなのを、飛騨の里で見た。 組み立てるところを、動画を撮ればよかったと、後悔。
※ 2つの木を、十字に交じ合わせるとき、両方半分まで切り込みを入れたらいい。
それを、3分の2まで切り込んで、交じ合わせる。
これ以上の説明は難しいけど、そこがポイント。
高山市の説明には、書いてないが、左甚五郎の可能性は、ほんの少しでしょうか。


※ 左甚五郎は、子供のころから大人にかけて、高山に住んだことがある。
それで、飛騨の甚五郎と呼ばれた。
いつの間にか、ひだの、が、ひだり、に。 こんな説があります。
道の駅に着く前に、小さな、エーコープに寄った。 野菜を買った。
キュウリ7本107円。 安くなってきた。
レジの人とお話。
私は、高速が出来て、便利になったね、と言った。
その人は、
そうですね、実家まで、日帰りできるようになったんですよ。(岐阜市あたりでしょうか)
でも、そのために、実家に泊まりにくくなっちゃった。
と言った。
道の駅、桜の郷荘川。 荘川桜があるので、この名前ですね。
気温は、31度です。 真夏。 今年一番。


道の駅のお店に、行者にんにく。 スーパーで売ってたら、買って食べます。

川は、庄川。 荘川に、庄川が流れている。
遠くの橋は、下で吊っている。 左下に釣り人。 なかなか釣れない。 フライという、釣り方。
ここから見えないが、左前方に、白山がある。 直線で、20㌔ほど。
右は上流。 庄川の里という、遊びの施設。 有料。 ここにも、釣り人。


五連水車。 停まってるのがあるので、動画は撮らなかった。

御母衣湖の、左側を走る。 湖の長さは、10㌔。 大きい。
見える山の、もっと手前で、左に、白山。
ここから200㍍向こうに、荘川桜。

ここです。
道路と湖の間にあった。 中野展望台。 この下に、中野地区はあったのか。

手前が、光輪寺の。 向こうが、照蓮寺の。 右は、照蓮寺の桜の幹。


この僧は、照蓮寺開基の僧。 嘉念坊善俊(かねんぼう ぜんしゅん)。

後鳥羽上皇の皇子とあるが、これは、はっきりしません。 寺伝にあるということでしょう。
後鳥羽上皇は、壇ノ浦で海に沈んだ、安徳天皇の弟ですね。
右の歌は、ダム建設に中心になって反対した人の歌碑。
「ふるさとは 水底となりつ 移り来し、この老桜 咲け とこしえに」


今の姿を作り上げるまでは、大変な取り組みだった。 重さ40㌧の木を運んだ。

桜は傷に弱い。 枝を切ったら、墨を塗ったりする。
それでも、こうして運んだ。 すごい決断。


花は咲いた。 以前より、木は元気になったという。


反対側から。 手前、照蓮寺の。
ダムが出来て、桜だけは、多くの人に見てもらえて、幸せかもしれない。
※ 水上勉は、ここの桜のことを知って、「桜守」の小説を書いた。

少し走ったら、御母衣ダムが見えた。
ロックフィルダム。(rockfill) rockは、岩。 fillは、一杯にという意味。 fullと似た意味。
岩を積んで作った。 地盤とかが弱い時に、この作り方だそう。
内部には、水を通さない粘土がある。 地下に発電所も。

御母衣湖。

ここは、白川村御母衣。 昔は、御母衣村。
御母衣(みぼろ)。 不思議な名前。 何なんでしょう。
母衣(ほろ)という言葉がある。 濁らないで、ほろ。
礼文島のブログで、母衣について書いています。
馬に乗って戦う時、背中に着ける物です。 矢から自分を守る役割があるようです。
こんなのです。 走ると、大きく膨らむ。
男の人は、平敦盛(たいらのあつもり) ※ レブンアツモリソウは、こんな花。
ここまで書いて、何が予想されるかというと。
御母衣という地名は、農民が考えるのは難しい。
ここは山の中だから、平家の落ち武者かも知れない。
武士の中に、母衣(ほろ)を持ってる者がいた。 尊い人の母衣なので、御母衣と呼んでいた。
※ みほろでなく、なぜ、みぼろ、と濁したのかは分からない。
平家の落ち武者だとしたら、どこから来たのか。
北の方に、倶利伽羅峠(くりからとうげ)がある。
平家は、そこで、木曽義仲と戦った。 総崩れになった。
※ 平家はこの戦いで負けた後、戦いの主導権を握ることは、一度もなかった。
10万と云われる兵で助かった者は、散り散りになって逃げた。
倶利伽羅峠から山に向かうと、向かいやすい山奥は、白川郷になる。
多くの落人が、庄川沿いに登って来たと、当然考えられる。
その中のある集団が、この地にたどり着いた。
尊い人の母衣を持っていた者がいて、地名を御母衣とした。
※ そのまま、みほろ、と読むと危険なので、みぼろと濁したかも知れない。
こんな風に、想像します。
※ 追記 地元に、次のように伝わっていました。
その昔、泰澄大師という高僧が、白山を切り開いてこの村に入ってきた。
国元へ帰る時に、大切な衣を忘れた。
後に大師の母親がこの地に来て、衣を持ち帰った。
以来、この地を、御母衣と呼ぶようになった。
この話は、御母衣の言葉から生み出された話のように感じます。 江戸時代とかに。
御母衣の意味は、はっきりしていて、上の話を考えた人は、御母衣が何だかを知らなかったと思われます。
(誰かが、考えたとしたらですが。)
白川郷は、割と谷は広いので、平氏が登場する前から人は住んでいたと思われます。
ダムがなぜ御母衣に出来たかですが、この辺りは、谷が狭くなっています。
それで、この場所に作られた。
狭い谷だったため、開拓されないでいた。
それで、平家の落ち武者が、住み着くことができた。
(多少いても、追い出したかもしれない。)
白川村には、平家伝説が残っています。
上に書いたのは、まったくの想像ですが、平氏が関わりあるんでないかなって、思います。
ダムを下から見た。

ダムサイドパークの建物の中。

色々展示してあった。
移植してから、50年経った。




資料として、ここに。

旧遠山家民俗館。

ダムができると、そこに住めなくなる人が、たくさん出る。
御母衣ダムでは、230戸、1200人。
多くの人が、悲しい思いをする。
そんな中、一輪の花が咲いた。 それが、荘川桜でしょうか。
【今日の歌】 裕次郎、やさしい。 浅丘ルリ子の仕草が、何とも言えない。
【道の駅】 飛騨白山

※ 白山には、石川県側から登った。 日帰りしたので、大変だった。
2日かけて、ゆっくり登ると楽しい山。
白山に登る ~日本三名山、深田久弥のふるさとの山 白山市~ 他 (2011/7/6)
【明日の予定】 白川村の、南の地域にいます。 ここを散策します。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

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