戦いの主役が鉄砲になった、と云われるのが、長篠の戦い。
武田勝頼が負けて、戦乱の主導権は、信長・秀吉・家康達が、握る。
それが揺るぐことは、もうなかった。
信長・秀吉が死んで、天下は家康に行く。
この長篠の戦いでは、忘れられない人物がいる。
鳥居 強右衛門(とりいすねえもん)。
1人の力が、歴史を変えたとも、云われる。
2つの資料館を見た。 なぜか、負けた勝頼にあたたかかった。。
※ ※ ※ ※ ブログタイトル一覧は、右をクリック。
( 写真の上にカーソルを置いて、open になってクリックしたら、一瞬に大きく。 再度クリックしたら、元に )
武田軍が攻めてくる道は、北からになる。
山から出てきたところが、ちょうど、長篠。
そんなことで、ここが戦いの舞台。
赤○に行く。 黄色と青は、以前行った。
城跡に、長篠城址史跡保存館。
保存館を見た。 地元の人が、先祖代々持ってたものを、ここに集めた。
1575年のこと。
武田軍、1万5千。 信長・家康連合軍、3万8千。
武田軍は、銃撃にさらされたと、ある。
※ この説明は、最近は、少し不正確と云われている。 後で。
戦う時、下の人は、立派な鎧でない。 陣笠をかぶる。
これなら、顔や首は、直ぐに切られる。
例えば、武田軍1万5千のうち、武士はどの位なんでしょう。
農民を、かき集めないと、この数にならない。
もし戦いに参加して勝ったら、どんなご褒美がもらえるのか。
大きな恩賞がなければ、命をかけるのは、バカくさい。
この図は、設楽原(したらがはら)の図。 戦いは、設楽原で。
※ その前に、長篠城(ながしのじょう)の攻防戦があった。
勝頼軍は、右。 信長軍は、左。
信玄の道とあるけど、長篠の戦いのときは、信玄はいない。
信玄は死ぬ前、勝頼に、直ぐに戦いはしないで、3年は力を貯めろと言った。
自分が死んだことも、内緒にして。
でも、勝頼は、守らなかった。
武田軍が常勝軍団の時は、信玄と、勘助がいた。
人心の掌握も、信玄の様には、勝頼は上手でなかった。
長篠の戦と云えば、鉄砲。 鉄砲を活かす戦いに、変わっていく。
勝頼の最期の地は、天目山。 7年後のこと。 ずいぶん詳しく、展示している。
信長や家康のことは、展示が少ない。
勝頼は3月。 信長は、6月とある。
最後の場面。 殺される前に、自分で死ねた。 これは、やっとだった。
上の説明。 従ってきた女の人たちは、川に飛び込んだ。
家康は、勝頼が嫌いではなかったのか。
上の図の近くに、景徳院を建てて、勝頼を弔う。
※ 武田勝頼の最後は、天目山の麓の田野。 今はそこに、景徳院。~甲州市~ 他 (2011/11/2)
陣地は、草で、このように作るのでしょうか。
この人が、鳥居 強右衛門(とりいすねえもん)
長篠城は、勝頼に攻められて、数日で落城の状態だった。
強右衛門が、家康のいる岡崎まで、助けを求めに行く。
これは、大変なことで、勝頼軍が2重3重に取り巻いている。
彼は、川を利用した。
家康は、この行動に、感動する。
信長軍も家康軍も、士気が高まった。 後は、書いてある通り。
これは、勝頼が、逃げる途中での話。
城跡に、今は、何も残っていない。
少し高い所に、枯れてしまった松。
植えたのは、久邇宮良子(くにのみや ながこ)。
誰かって?。 誰でも知ってる人。
前に座っている人が、その人。 つまり、この人。 久邇宮良子(くにのみや ながこ)。 後に、昭和天皇の皇后。
歴史に興味があったんでしょうか。 家族で来たんですね。
※ 彼女は、美智子様が天皇家に入ることに、反対した。 その感情が消えることはなかった。
柳原白蓮が反対していたことは、以前書いたが、彼女と一緒に動いていたことを、今回調べて知った。
上から見ると。
鳥居 強右衛門(とりいすねえもん)。 想像で書いたのではなく、実際に見て描いた人がいる。
数㌔走って、設楽原(したらがはら)。 建物は、歴史資料館。
この鎧は、親子かな。 何を意味しているのか。
長篠・設楽原の戦いと、言っている。
こう呼んでほしいと、願っているんですね。 一般には、長篠の戦いだから。
長篠は、交通の分岐点、そして、歴史の分岐点と。
これが、戦いのときの、様子。
武田の騎馬軍団を、鉄砲隊が迎え撃つ。
この図は、今は否定されている。
馬に乗るのは、戦場に行くまで、また、引き返す時。
右の絵に、詩的な文。 負けたら、明日はない。
火縄銃の陳列が、見事なほどに。
天目山の戦い。
立派な展示館。
火縄銃の射程距離は、50~100㍍。 鉄砲の弾の届くところには、武田軍は近づかない。
なぜ、武田軍は負けたのか。
武田軍、15000。 連合軍は、28000。
勝ち負けの差は、今は、その数の差と云われている。
勝ち負けがはっきりしたら、片方は、逃げる。
その逃げるときに、多くの者が殺される。
資料館の屋上から、設楽原。 右の方に、勝頼軍。
左の方に、信長・家康軍。
無敵と云われた武田の軍団が、再度、世に出ることはなかった。
家康軍の力は、この時点では、まだ小さい。
でも、最後は、天下を取る。
この辺りを、大河ドラマでやってくれないかな。
きっと、面白い。
【関連ブログ】
鳳来寺・鳳来山東照宮 ~仏法僧(コノハズク)の鳴く山~ 他 (2009/11/13)
「歴史の小経」を歩く ~新城市作手(元作手村)~ 他 (2009/11/14)
山本勘助の魔利支天像 他 (2009/11/15)
【今日の歌】 ダリダです。 激しい恋をする。
【道の駅】 三河三石(みかわさんごく)
【明日の予定】 蓬莱山は行ったので、行ってない山奥の、棚田かな。
苗の植わっている棚田は、見たことがないような。 棚田はいつも冬。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
【ランキング】 国内旅行、2位、 旅行全体、3位です。
気に入った所がありましたら、クリックをよろしく。
※ クリックするバナーは、下のです。
※ 1回のクリックで、10ポイント。 1週間生きます。
武田勝頼が負けて、戦乱の主導権は、信長・秀吉・家康達が、握る。
それが揺るぐことは、もうなかった。
信長・秀吉が死んで、天下は家康に行く。
この長篠の戦いでは、忘れられない人物がいる。
鳥居 強右衛門(とりいすねえもん)。
1人の力が、歴史を変えたとも、云われる。
2つの資料館を見た。 なぜか、負けた勝頼にあたたかかった。。
※ ※ ※ ※ ブログタイトル一覧は、右をクリック。

( 写真の上にカーソルを置いて、open になってクリックしたら、一瞬に大きく。 再度クリックしたら、元に )
武田軍が攻めてくる道は、北からになる。
山から出てきたところが、ちょうど、長篠。
そんなことで、ここが戦いの舞台。
赤○に行く。 黄色と青は、以前行った。

城跡に、長篠城址史跡保存館。

保存館を見た。 地元の人が、先祖代々持ってたものを、ここに集めた。

1575年のこと。
武田軍、1万5千。 信長・家康連合軍、3万8千。
武田軍は、銃撃にさらされたと、ある。
※ この説明は、最近は、少し不正確と云われている。 後で。

戦う時、下の人は、立派な鎧でない。 陣笠をかぶる。
これなら、顔や首は、直ぐに切られる。
例えば、武田軍1万5千のうち、武士はどの位なんでしょう。
農民を、かき集めないと、この数にならない。
もし戦いに参加して勝ったら、どんなご褒美がもらえるのか。
大きな恩賞がなければ、命をかけるのは、バカくさい。


この図は、設楽原(したらがはら)の図。 戦いは、設楽原で。
※ その前に、長篠城(ながしのじょう)の攻防戦があった。
勝頼軍は、右。 信長軍は、左。

信玄の道とあるけど、長篠の戦いのときは、信玄はいない。
信玄は死ぬ前、勝頼に、直ぐに戦いはしないで、3年は力を貯めろと言った。
自分が死んだことも、内緒にして。
でも、勝頼は、守らなかった。
武田軍が常勝軍団の時は、信玄と、勘助がいた。
人心の掌握も、信玄の様には、勝頼は上手でなかった。

長篠の戦と云えば、鉄砲。 鉄砲を活かす戦いに、変わっていく。

勝頼の最期の地は、天目山。 7年後のこと。 ずいぶん詳しく、展示している。
信長や家康のことは、展示が少ない。
勝頼は3月。 信長は、6月とある。


最後の場面。 殺される前に、自分で死ねた。 これは、やっとだった。

上の説明。 従ってきた女の人たちは、川に飛び込んだ。
家康は、勝頼が嫌いではなかったのか。
上の図の近くに、景徳院を建てて、勝頼を弔う。

※ 武田勝頼の最後は、天目山の麓の田野。 今はそこに、景徳院。~甲州市~ 他 (2011/11/2)
陣地は、草で、このように作るのでしょうか。

この人が、鳥居 強右衛門(とりいすねえもん)
長篠城は、勝頼に攻められて、数日で落城の状態だった。
強右衛門が、家康のいる岡崎まで、助けを求めに行く。
これは、大変なことで、勝頼軍が2重3重に取り巻いている。
彼は、川を利用した。
家康は、この行動に、感動する。
信長軍も家康軍も、士気が高まった。 後は、書いてある通り。


これは、勝頼が、逃げる途中での話。

城跡に、今は、何も残っていない。

少し高い所に、枯れてしまった松。
植えたのは、久邇宮良子(くにのみや ながこ)。
誰かって?。 誰でも知ってる人。


前に座っている人が、その人。 つまり、この人。 久邇宮良子(くにのみや ながこ)。 後に、昭和天皇の皇后。
歴史に興味があったんでしょうか。 家族で来たんですね。

※ 彼女は、美智子様が天皇家に入ることに、反対した。 その感情が消えることはなかった。
柳原白蓮が反対していたことは、以前書いたが、彼女と一緒に動いていたことを、今回調べて知った。
上から見ると。

鳥居 強右衛門(とりいすねえもん)。 想像で書いたのではなく、実際に見て描いた人がいる。

数㌔走って、設楽原(したらがはら)。 建物は、歴史資料館。

この鎧は、親子かな。 何を意味しているのか。

長篠・設楽原の戦いと、言っている。
こう呼んでほしいと、願っているんですね。 一般には、長篠の戦いだから。
長篠は、交通の分岐点、そして、歴史の分岐点と。

これが、戦いのときの、様子。
武田の騎馬軍団を、鉄砲隊が迎え撃つ。
この図は、今は否定されている。
馬に乗るのは、戦場に行くまで、また、引き返す時。
右の絵に、詩的な文。 負けたら、明日はない。


火縄銃の陳列が、見事なほどに。

天目山の戦い。

立派な展示館。

火縄銃の射程距離は、50~100㍍。 鉄砲の弾の届くところには、武田軍は近づかない。
なぜ、武田軍は負けたのか。
武田軍、15000。 連合軍は、28000。
勝ち負けの差は、今は、その数の差と云われている。

勝ち負けがはっきりしたら、片方は、逃げる。
その逃げるときに、多くの者が殺される。


資料館の屋上から、設楽原。 右の方に、勝頼軍。

左の方に、信長・家康軍。

無敵と云われた武田の軍団が、再度、世に出ることはなかった。
家康軍の力は、この時点では、まだ小さい。
でも、最後は、天下を取る。
この辺りを、大河ドラマでやってくれないかな。
きっと、面白い。
【関連ブログ】
鳳来寺・鳳来山東照宮 ~仏法僧(コノハズク)の鳴く山~ 他 (2009/11/13)
「歴史の小経」を歩く ~新城市作手(元作手村)~ 他 (2009/11/14)
山本勘助の魔利支天像 他 (2009/11/15)
【今日の歌】 ダリダです。 激しい恋をする。
【道の駅】 三河三石(みかわさんごく)
【明日の予定】 蓬莱山は行ったので、行ってない山奥の、棚田かな。
苗の植わっている棚田は、見たことがないような。 棚田はいつも冬。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

【ランキング】 国内旅行、2位、 旅行全体、3位です。
気に入った所がありましたら、クリックをよろしく。
※ クリックするバナーは、下のです。

※ 1回のクリックで、10ポイント。 1週間生きます。
コメント
お疲れさまです
コメントの投稿
トラックバック
https://akkamui.com/tb.php/1068-6c9dc521
道中気をつけてドライブを~