江戸時代に、船が遭難して漂流し、約800㌔沖の鳥島に漂着した男がいた。
13年後、自分で船を造って戻ってきた。
村に帰ったその時、ちょうど13回忌の法要をやっていた。
高知龍馬空港のそばに、飛行機を隠す、掩体壕(えんたいごう)というのがあった。
戦争の遺産。 地元の人2人に、話が聞けた。
香我美(かがみ)駅のそばに、無人島長平という人の、像があった。 小さな墓も。
場所はここ。 私が停泊しているのは、右隣の夜須(やす)。
こっちは、高知方面。 5㌔で高知龍馬空港。 高知市街まで、15㌔ほど。
夜須や手結港(ていこう)は、こっち。
岬をまわって向こうに行くと、先日いた、田野町がある。(慎太郎館を見た時の道の駅は、田野駅屋)
1785年の1月、長平はここから、田野町へ米を運んだ帰り、嵐で遭難した。
※ 無人島長平の本名は、野村長平。
船は、舵(かじ)や帆を張る柱が壊れ、漂流した。
黒潮に乗って、800㌔ほど離れた、鳥島に漂着した。
地図で見ても、遠い。
仲間が3人いて、4人での無人島生活が始まった。
最初は火がなかったから、アホウドリの生肉を食べた。 乾燥して保存食にも。
2年以内に、仲間は死んで、一人になった。
漂着して3年後に大阪船、更に2年後に薩摩船が漂着した。
通る船はなかった。 数年かかって、帆船を造る。 ※ 後から来た船に、道具があった。
13年後、北を目指す。 船に乗ったのは14名。 3分の1は、病気で死んでいた。
青ヶ島に寄って、八丈島にたどり着いた。 幕府の船で、江戸に戻った。
江戸からここまでは、歩いてきた。
長平の13回忌の法要の最中に着いた。 1798年の1月19日のこと。 今から213年前。
「こんな所で死んでたまるか」、との執念で生きたと、説明にあった。
※ 長平が戻って40年後、今度は、ジョン万次郎が鳥島に漂着する。
5ヶ月後、アメリカの船に助けられ、アメリカに渡る。
13年後に、ひょっこり戻って来るなんて、浦島太郎のような話し。
龍馬空港の近くに、珍しい物があるので、行ってみた。 ※ 情報は、旅人さんが教えてくれたサイト。
これです。 戦時中、戦闘機を隠した。 飛行機が入りそうな入り口。
名前は、掩体壕(えんたいごう)。
※ 壕は、防空壕の壕で、穴の意味ですね。 掩(えん)は、調べたら、隠すという意味でした。
滑走路から、道がつながっている。 昔は沢山あった。 木で作ったのもあったそう。
残っているのは、7つ。 造ったのは、昭和18年。
ほとんどは、この戦闘機を隠した。 名前は、白菊。
白菊は、訓練用の飛行機だった。
機銃掃射の跡。
白菊は、訓練だけでは、終わらなかった。 特攻用に改造された。
燃料タンクは、480㍑から700㍑へ。 ※ 大量の燃料ですね。
250キロ爆弾2個を搭載できるように。 2人ペアで米艦に突入する。
ここから沖縄は遠いので、鹿児島の海軍航空基地・鹿屋に集結。
昭和20年の、5月24日から6月25日にかけ、5回出撃した。 52名が戦死、2名が捕虜。
※ このことについての資料は、鹿屋航空基地資料館にあるようです。
※ 特攻については、知覧特攻平和会館と万世特攻平和祈念館がメイン。
※ 出発する前日の、若者の表情。(万世飛行場から飛び立った若者)
若者の命を、虫けらの命と同じように考えた時代があった。
これが、一番大きい。
通りの向こうに、新しいのが。
大きさは違っても、形は似てる。 物置に使っている。
一番大きいのを、別方向から。 登ることにした。 左端を登った。 造った時は、土をかぶせた。
左が、高知龍馬空港。 二つ見える。 まだ見てないのは、右奥のだけ。
右方面。 二つ見える。
年配の男の人がやってきた。 話しが聞けた。
造り方は、土の山を踏み固める。
その上に板を並べる。 板がなくなったら、ムシロやセメントの袋も。
その上に、コンクリート。 固まったら、土を出す。
だいたい、こんな造り方。
これができた時、男の人は小学生だった。
高知刑務所の人や、朝鮮人が集められたと言う。
ただ、土を出す仕事は、地元の人がやった。
龍馬空港から、飛行機が飛び立った。 プロペラ機。 ※ 機種は、ボンバルディアDHC8-Q300。 15:15発 伊丹行き
見覚えのある機体だった。 数年前、前輪が出なくて、胴体着陸した。 ※ 機種は、ボンバルディアDHC8-Q400。 300より、7㍍程長い。
機長の操縦は、完璧と言われた。
おばあちゃんにも、聞くことができた。
ここに住む者にとっては、じゃまだ。 畑を起こしにくい。
これを造る時、近くにたくさんのバラックの建物ができた。
作業する人は、そこに住んだ。
戦後、壊す費用が国から出たが、担当者が使ってしまった。
それ以来、国からお金は出ない。
これが最後。 真ん中を道が通っている。 ここの天井には、ムシロの跡があった。

戦争遺産と言っていいでしょうか。
説明の文は、「沖縄への出撃は、悲劇の出撃」と表現していた。
基本姿勢は、いいですね。
【道の駅】 やす 昨晩に同じ
【明日の予定】 香南市赤岡町で、絵金というのを見る。
【動画】
高知龍馬空港の近くを 曲は、冬のカモメ
【ランキング】 国内旅行は5位、 旅行全体で9位です。 放浪の旅は32位です。
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13年後、自分で船を造って戻ってきた。
村に帰ったその時、ちょうど13回忌の法要をやっていた。
高知龍馬空港のそばに、飛行機を隠す、掩体壕(えんたいごう)というのがあった。
戦争の遺産。 地元の人2人に、話が聞けた。
香我美(かがみ)駅のそばに、無人島長平という人の、像があった。 小さな墓も。

場所はここ。 私が停泊しているのは、右隣の夜須(やす)。
こっちは、高知方面。 5㌔で高知龍馬空港。 高知市街まで、15㌔ほど。

夜須や手結港(ていこう)は、こっち。
岬をまわって向こうに行くと、先日いた、田野町がある。(慎太郎館を見た時の道の駅は、田野駅屋)
1785年の1月、長平はここから、田野町へ米を運んだ帰り、嵐で遭難した。
※ 無人島長平の本名は、野村長平。
船は、舵(かじ)や帆を張る柱が壊れ、漂流した。
黒潮に乗って、800㌔ほど離れた、鳥島に漂着した。

地図で見ても、遠い。
仲間が3人いて、4人での無人島生活が始まった。
最初は火がなかったから、アホウドリの生肉を食べた。 乾燥して保存食にも。
2年以内に、仲間は死んで、一人になった。

漂着して3年後に大阪船、更に2年後に薩摩船が漂着した。
通る船はなかった。 数年かかって、帆船を造る。 ※ 後から来た船に、道具があった。
13年後、北を目指す。 船に乗ったのは14名。 3分の1は、病気で死んでいた。
青ヶ島に寄って、八丈島にたどり着いた。 幕府の船で、江戸に戻った。
江戸からここまでは、歩いてきた。
長平の13回忌の法要の最中に着いた。 1798年の1月19日のこと。 今から213年前。

「こんな所で死んでたまるか」、との執念で生きたと、説明にあった。
※ 長平が戻って40年後、今度は、ジョン万次郎が鳥島に漂着する。
5ヶ月後、アメリカの船に助けられ、アメリカに渡る。
13年後に、ひょっこり戻って来るなんて、浦島太郎のような話し。
龍馬空港の近くに、珍しい物があるので、行ってみた。 ※ 情報は、旅人さんが教えてくれたサイト。
これです。 戦時中、戦闘機を隠した。 飛行機が入りそうな入り口。

名前は、掩体壕(えんたいごう)。
※ 壕は、防空壕の壕で、穴の意味ですね。 掩(えん)は、調べたら、隠すという意味でした。

滑走路から、道がつながっている。 昔は沢山あった。 木で作ったのもあったそう。

残っているのは、7つ。 造ったのは、昭和18年。

ほとんどは、この戦闘機を隠した。 名前は、白菊。

白菊は、訓練用の飛行機だった。

機銃掃射の跡。

白菊は、訓練だけでは、終わらなかった。 特攻用に改造された。
燃料タンクは、480㍑から700㍑へ。 ※ 大量の燃料ですね。
250キロ爆弾2個を搭載できるように。 2人ペアで米艦に突入する。
ここから沖縄は遠いので、鹿児島の海軍航空基地・鹿屋に集結。
昭和20年の、5月24日から6月25日にかけ、5回出撃した。 52名が戦死、2名が捕虜。
※ このことについての資料は、鹿屋航空基地資料館にあるようです。
※ 特攻については、知覧特攻平和会館と万世特攻平和祈念館がメイン。
※ 出発する前日の、若者の表情。(万世飛行場から飛び立った若者)
若者の命を、虫けらの命と同じように考えた時代があった。
これが、一番大きい。

通りの向こうに、新しいのが。

大きさは違っても、形は似てる。 物置に使っている。

一番大きいのを、別方向から。 登ることにした。 左端を登った。 造った時は、土をかぶせた。

左が、高知龍馬空港。 二つ見える。 まだ見てないのは、右奥のだけ。

右方面。 二つ見える。

年配の男の人がやってきた。 話しが聞けた。
造り方は、土の山を踏み固める。
その上に板を並べる。 板がなくなったら、ムシロやセメントの袋も。
その上に、コンクリート。 固まったら、土を出す。
だいたい、こんな造り方。
これができた時、男の人は小学生だった。
高知刑務所の人や、朝鮮人が集められたと言う。
ただ、土を出す仕事は、地元の人がやった。

龍馬空港から、飛行機が飛び立った。 プロペラ機。 ※ 機種は、ボンバルディアDHC8-Q300。 15:15発 伊丹行き

見覚えのある機体だった。 数年前、前輪が出なくて、胴体着陸した。 ※ 機種は、ボンバルディアDHC8-Q400。 300より、7㍍程長い。
機長の操縦は、完璧と言われた。
おばあちゃんにも、聞くことができた。
ここに住む者にとっては、じゃまだ。 畑を起こしにくい。
これを造る時、近くにたくさんのバラックの建物ができた。
作業する人は、そこに住んだ。
戦後、壊す費用が国から出たが、担当者が使ってしまった。
それ以来、国からお金は出ない。

これが最後。 真ん中を道が通っている。 ここの天井には、ムシロの跡があった。

戦争遺産と言っていいでしょうか。
説明の文は、「沖縄への出撃は、悲劇の出撃」と表現していた。
基本姿勢は、いいですね。
【道の駅】 やす 昨晩に同じ
【明日の予定】 香南市赤岡町で、絵金というのを見る。
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高知龍馬空港の近くを 曲は、冬のカモメ
【ランキング】 国内旅行は5位、 旅行全体で9位です。 放浪の旅は32位です。
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コメント
Re: タイトルなし
当時遭難しても、ほとんどは、島に漂着出来ない。
運がよかったのかな。
記念館は、1度行ったら行かない。
あのような遺産は、毎日目にする。 違いますね。
私にとっては、資料館は有料。
外にある本物の遺産は、見学無料。 そこも違います。
早く春が来るといいですね。
運がよかったのかな。
記念館は、1度行ったら行かない。
あのような遺産は、毎日目にする。 違いますね。
私にとっては、資料館は有料。
外にある本物の遺産は、見学無料。 そこも違います。
早く春が来るといいですね。
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昔読んだ 井上靖のおろしや国酔夢譚 を思い出しました。
当時の人達の生きる力と能力の高さには感服します。現代の若者にはここまでのパワーがあるか疑問です。
戦争の遺物も是非とも残して後生に伝えたいものですね。戦争経験者が少なくなって言葉で伝えられることが少なくなって行く時代が来るので遺物で後生へ伝えることしか出来なくなるでしょう。
記念館みたいな所より、生活の地に忘れ去られたようにひっそりとある遺産の方が意味があるじゃないかな。と思ったりします。