鎌倉時代末期、後醍醐天皇は、倒幕を謀(はか)った。
失敗して、隠岐に流罪になった。
その時、第1皇子の尊良親王(たかよししんのう )も流された。 ここ、土佐の地に。
追っ手から身を守るため、山の中に潜んだ。
親王を守り、世話をしたのは、庄司である有井氏だった。
※ ここ一帯は、荘園。 その管理をまかされていたのが庄司。 先日の興津も公家の庄園。
親王の館に、夜こっそり食事を届けたのは、庄司の娘、千代だった。
その千代に関わって、悲しい話が残っていた。
その舞台は、山の中。 そこへ行ってきた。
場所が分からず、やっとたどり着いた。
次の道の駅、ビオスおおがた に向かった。
ここは、白浜海岸。 ※ 最初の動画は、ここに着いてお終い。
(写真は、クリックで大きくなる)
どこまでも、太平洋。 方向は、南東。
黒潮町に入っている。 こういう町名は、昔からの感じがしない。 (2006年に誕生)
どこを見るかは、道の駅で調べた。 黒潮町のHPも見た。
滝や松原の他に、気になるのがあった。
千代の碑。 HPの説明は、こう。
有井庄司の娘、千代女は、屋敷から尊良親王の隠れ家であった米原宮へ食事を届ける役を言いつかっておりましたが、
ある日時間に遅れてしまいました。
それを自責して入水した場所といわれています。
これを見に行くことにした。
地図では、下の写真のあたりになる。 歩いて探したが、ない。 ※ 地図が、イラストっぽい。
5㌔以上は、山に入った。
戻って、集落で聞くことにした。
途中で、軽トラとすれ違った。 運転手さんに聞いた。
もっと上流だった。 車の後ろをついて行った。 ※ これは、動画に。
更に、数㌔山に入った。 谷の奥の奥に、あった。
蜷川(みながわ)地区の、奥になる。
ここに千代が眠っている。 川の名前も、蜷川(みながわ)。
支流に、小さな滝が見える。
この辺りを、千代が淵と呼ばれる。
「 若草の 萌え蘇る 千代が淵 」でいいかな。 誰が作ったのか。
こう書いてある。 点も丸もないが、適当に切ってみる。
尊良親王を守る 庄司の姫千代は か弱い少女の身で 毎夜深更宮の食物を この険路に運ぶ
ある夜 仮殿に達しないうち 懐の鶏が暁をつげ 任務の自責にかられ この淵に投身 可憐な生涯を終わった
宮は遺体をここに葬り 毎夜墓前に冥福を祈られた
下の絵をクリックしたら、どんな話なのかが、詳しく分かります。 ※ 合併する前は、ここは大方町。
下の方から見た。 車は、やっと方向転換して、下りてきた。 ※ 動画が終わった後、まあまあ広い場所がすぐに見つかる。
千代の家は、もっと下流なので、尊良親王の館は、もう少し上流と考えてよさそう。
尊良親王がここに来たのは、1332年の春のこと。
次の年には、九州、そして、京都へと戻る。
この年、つまり1333年に、鎌倉幕府は崩壊する。 ※ 一見(いちみ)さんざん、って憶えた。
1334年に建武の新政。 後醍醐天皇が中心になって、政治を始めた。
でも、足利尊氏が離れたため、1336年で終わる。
そして、尊氏が室町幕府を開くことになる。 (だいたい、こんな感じか)
尊良親王は、1337年に、足利軍に負けて、仲間と共に自害する。
自害の直前、一緒に戦った新田義顕が、尊良親王に落ち延びることを勧めた。
でも、仲間を見捨てて逃げることはできないと述べて、拒絶したという。
※ 尊良親王(Yahoo百科事典)
※ こんな歌を作っている。
「 土佐の海 身は浮き草の流れ来て 寄辺なき身を 哀れともしれ 」
この地が、昔、公家の荘園だったため、尊良親王に対して温かい形で、話しが残ったのかなと思う。
戻って、入野松原を見ることに。 ラッキョウの畑が広がっていた。
犬を散歩させていた人が、11月頃、花が咲くんだよと言った。 綺麗だって。
※ ラッキョウの花(Wikipedia)
さっきは、地図の蜷川沿いの道を行った。
左に松原。 向こうに、浮津海水浴場と道の駅。
入野松原は広い。 数十万本のクロマツ。 江戸時代の前に植えられた。
ここの松原の特徴は、木の数が多いこと。
※ 三保の松原 ① ② 高田の松原と碁石海岸(岩手県) 津田の松原(徳島県)
道の駅の隣に、家畜がいた。
牛が水を飲んでいる。 舌の動きが速い。 どっちに丸めているのか。 鼻をなめる時があるから、上かな。
※ 舌は「した」と読む。 「たん」ではない。
ヤギ。 角が大きい。
話しかけても反応が弱い。 犬や猫より知能が弱いと言われているが、ほんとうかな。
黒潮町の市街地。 ※ 逆光。
右手が、松原。
別の牛とニワトリ。 ニワトリは、いろんな場所に卵を生む。 それを探すのが楽しい。
最初に見た牛がいるかなと思って覗(のぞ)いたら、牛もこっちを見た。
千代の話ですが、実際は、何があったんでしょうね。
尊良親王がこの地に来たことは、事実。
千代が食事を届けたりしたことも、きっと事実。
話しに、ニワトリが出てくるのは、不思議。
こうでないかな。
千代が、尊良親王の所へ行く時、増水した川に流された。
流された原因は、分からない。
でも、事故で死んだのでは、話はできない。
かわいそうに思った村人は、きっとこうだと、「千代の話し」を生み出した。
そんなふうに思いますが、どうでしょう。
千代の話は、戦国時代が始まる、ずっと前にあったこと。
この地に生きた人々の「やさしさ」が、このような内容にまとめ上げた。
そして、少しずつ変化しながら、700年もの間、語り継がれた。 そんな感じがします。
【酒の肴】 道の駅で買った。 左は、サメのぬた。 右は、興津で見た、メジナ。
どっちも美味しかった。 黒霧島のお湯割りで食べた。 少し寝て、ブログが終わらなかった。
【道の駅】 ビオス おおがた
【明日の予定】 四万十市に入るか。
【動画】
黒崎町へ
千代の碑へ、そして、着く。 ゴールまで、12分ほど走ります。
【ランキング】 国内旅行は5位、 旅行全体で9位です。 放浪の旅は32位です。
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失敗して、隠岐に流罪になった。
その時、第1皇子の尊良親王(たかよししんのう )も流された。 ここ、土佐の地に。
追っ手から身を守るため、山の中に潜んだ。
親王を守り、世話をしたのは、庄司である有井氏だった。
※ ここ一帯は、荘園。 その管理をまかされていたのが庄司。 先日の興津も公家の庄園。
親王の館に、夜こっそり食事を届けたのは、庄司の娘、千代だった。
その千代に関わって、悲しい話が残っていた。
その舞台は、山の中。 そこへ行ってきた。
場所が分からず、やっとたどり着いた。
次の道の駅、ビオスおおがた に向かった。
ここは、白浜海岸。 ※ 最初の動画は、ここに着いてお終い。
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どこまでも、太平洋。 方向は、南東。

黒潮町に入っている。 こういう町名は、昔からの感じがしない。 (2006年に誕生)

どこを見るかは、道の駅で調べた。 黒潮町のHPも見た。
滝や松原の他に、気になるのがあった。
千代の碑。 HPの説明は、こう。
有井庄司の娘、千代女は、屋敷から尊良親王の隠れ家であった米原宮へ食事を届ける役を言いつかっておりましたが、
ある日時間に遅れてしまいました。
それを自責して入水した場所といわれています。
これを見に行くことにした。
地図では、下の写真のあたりになる。 歩いて探したが、ない。 ※ 地図が、イラストっぽい。

5㌔以上は、山に入った。

戻って、集落で聞くことにした。
途中で、軽トラとすれ違った。 運転手さんに聞いた。
もっと上流だった。 車の後ろをついて行った。 ※ これは、動画に。
更に、数㌔山に入った。 谷の奥の奥に、あった。

蜷川(みながわ)地区の、奥になる。
ここに千代が眠っている。 川の名前も、蜷川(みながわ)。
支流に、小さな滝が見える。
この辺りを、千代が淵と呼ばれる。

「 若草の 萌え蘇る 千代が淵 」でいいかな。 誰が作ったのか。

こう書いてある。 点も丸もないが、適当に切ってみる。
尊良親王を守る 庄司の姫千代は か弱い少女の身で 毎夜深更宮の食物を この険路に運ぶ
ある夜 仮殿に達しないうち 懐の鶏が暁をつげ 任務の自責にかられ この淵に投身 可憐な生涯を終わった
宮は遺体をここに葬り 毎夜墓前に冥福を祈られた

下の絵をクリックしたら、どんな話なのかが、詳しく分かります。 ※ 合併する前は、ここは大方町。

下の方から見た。 車は、やっと方向転換して、下りてきた。 ※ 動画が終わった後、まあまあ広い場所がすぐに見つかる。

千代の家は、もっと下流なので、尊良親王の館は、もう少し上流と考えてよさそう。
尊良親王がここに来たのは、1332年の春のこと。
次の年には、九州、そして、京都へと戻る。
この年、つまり1333年に、鎌倉幕府は崩壊する。 ※ 一見(いちみ)さんざん、って憶えた。
1334年に建武の新政。 後醍醐天皇が中心になって、政治を始めた。
でも、足利尊氏が離れたため、1336年で終わる。
そして、尊氏が室町幕府を開くことになる。 (だいたい、こんな感じか)
尊良親王は、1337年に、足利軍に負けて、仲間と共に自害する。
自害の直前、一緒に戦った新田義顕が、尊良親王に落ち延びることを勧めた。
でも、仲間を見捨てて逃げることはできないと述べて、拒絶したという。
※ 尊良親王(Yahoo百科事典)
※ こんな歌を作っている。
「 土佐の海 身は浮き草の流れ来て 寄辺なき身を 哀れともしれ 」
この地が、昔、公家の荘園だったため、尊良親王に対して温かい形で、話しが残ったのかなと思う。
戻って、入野松原を見ることに。 ラッキョウの畑が広がっていた。

犬を散歩させていた人が、11月頃、花が咲くんだよと言った。 綺麗だって。
※ ラッキョウの花(Wikipedia)
さっきは、地図の蜷川沿いの道を行った。

左に松原。 向こうに、浮津海水浴場と道の駅。

入野松原は広い。 数十万本のクロマツ。 江戸時代の前に植えられた。

ここの松原の特徴は、木の数が多いこと。
※ 三保の松原 ① ② 高田の松原と碁石海岸(岩手県) 津田の松原(徳島県)
道の駅の隣に、家畜がいた。
牛が水を飲んでいる。 舌の動きが速い。 どっちに丸めているのか。 鼻をなめる時があるから、上かな。
※ 舌は「した」と読む。 「たん」ではない。

ヤギ。 角が大きい。
話しかけても反応が弱い。 犬や猫より知能が弱いと言われているが、ほんとうかな。

黒潮町の市街地。 ※ 逆光。

右手が、松原。

別の牛とニワトリ。 ニワトリは、いろんな場所に卵を生む。 それを探すのが楽しい。

最初に見た牛がいるかなと思って覗(のぞ)いたら、牛もこっちを見た。

千代の話ですが、実際は、何があったんでしょうね。
尊良親王がこの地に来たことは、事実。
千代が食事を届けたりしたことも、きっと事実。
話しに、ニワトリが出てくるのは、不思議。
こうでないかな。
千代が、尊良親王の所へ行く時、増水した川に流された。
流された原因は、分からない。
でも、事故で死んだのでは、話はできない。
かわいそうに思った村人は、きっとこうだと、「千代の話し」を生み出した。
そんなふうに思いますが、どうでしょう。
千代の話は、戦国時代が始まる、ずっと前にあったこと。
この地に生きた人々の「やさしさ」が、このような内容にまとめ上げた。
そして、少しずつ変化しながら、700年もの間、語り継がれた。 そんな感じがします。
【酒の肴】 道の駅で買った。 左は、サメのぬた。 右は、興津で見た、メジナ。
どっちも美味しかった。 黒霧島のお湯割りで食べた。 少し寝て、ブログが終わらなかった。

【道の駅】 ビオス おおがた
【明日の予定】 四万十市に入るか。
【動画】
黒崎町へ
千代の碑へ、そして、着く。 ゴールまで、12分ほど走ります。
【ランキング】 国内旅行は5位、 旅行全体で9位です。 放浪の旅は32位です。
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