震災の後のボランティア作業では、泥出しが、たいていの町であった。
ところが、陸前高田市では、なかった。
泥水が家の中に侵入したというより、家やビルをみんな、押し流してしまった。
市の中心街は、消えてしまった。
震災から、約2年半。
陸前高田市では、復興計画に沿って、復興が始まっていた。
大きな夢に向かって。
奇跡の一本松保存プロジェクトによって、一本松は、元の姿で立っていた。
鎮魂、希望、復興の象徴として。
※ ※ ※ ※ ブログタイトル一覧は、右をクリック。
( 写真の上にカーソルを置いて、open になってクリックしたら、一瞬に大きく。 再度クリックしたら、元に )
陸前高田(りくぜんたかた)市までが、岩手県。 少し南の気仙沼は、宮城県。
ここは、震災前は、道の駅だった。 駐車場が広く、大きな道の駅だった。
今は、小さな駐車場に。 昨晩は、ここに停泊。
クレーン車が、あちこちで動いている。 どんな仕事か、すぐに分からない。
北方面。
市の中心街は、この方向にあった。
南の方向。 一本松は、向こうに。 左に広く、高田松原があった。
こんな建物があった。 追悼施設。 暗くなってから来たので、気づかなかった。
この町を訪れた人は、ここで、手を合わせる。
中には、写真が貼ってあった。
駅前通り。 家が消えてしまう。 森が、同じと分かる。
こんな写真も。
この後、お風呂を作った社長さんの所に、挨拶。
社長さんは、出かけていた。
事務所にいた女性の方が、復興の青写真を見せてくれた。
後始末だけでない復興が、始まっていた。
震災の後、赤○の所で、ドラム缶でお湯を沸かした。
そして、工場の中の手製の湯船に、ホースでお湯を入れた。
このように。 事務所にいた方も、この仕事をした。
※ 社長さん考案の手作りお風呂は、大賑わい。 大槌町、山田町、宮古市の被災状況(続き) (2011/4/4)
遠野市に戻って、水や軽油の補給。 津波直後と11日夜の避難所の様子。 他 (2011/4/8)
会社から下は、このように。 会社の人たちは、ここから、津波が押し寄せるのを見た。
下の駐車場の辺りは、高い瓦礫(がれき)の山になった。
※ 上の写真の下の様子は、このブログに。
復興に向けて 震度6弱の揺れ 他 (2011/4/7)
復興計画がどうなっているか、市のHPを見てみた。
具体的な、スケジュールがあった。 それを紹介。
一部を拡大。 防潮堤を、いつまで、どのように。
住宅地をどこに作るかなども。 市民への説明と意見を聞く場を、何度も持って。
計画は、修正しながら進む。
一本松がレプリカの形であって、見ることが出来ると、事務所で教えてもらった。
駐車場が用意されていた。 5分ほど歩くと、見えてくる。
途中で見た、北方面。 土地の造成工事だろうか。
広く地盤が沈下した。 数十㌢。 水が溜まった所もある。
通路に灯りをともした。 その灯りは、街に、人々の心に、灯すことに。
橋の向こうにある。 橋は、しおさい橋。 一本松と一緒に、残った。
流れて来る家などがぶつかっても、木は、立ち続けることは出来なかった。
残ったのは、奇跡だった。 7万本あった松の中の、たったの1本。
津波の高さは、10㍍を越えていたから、頭まで水をかぶった。
下の写真は、震災後の、4月5日に撮影。
この頃は、枯れていない。 土に塩分が浸みて、一本松は、苦しくなる。
奇跡の一本松を、鎮魂、希望、復興の象徴として、残すことにした。
そのままでは残せない。 プロジェクトが、始まる。
後ろには、仲間の木が、いっぱいあった。
現在地です。 私は4年前に、左の橋を渡ったことがある。 その橋の下に、道の駅。
一本松の保存方法。
太い幹の部分は、くり抜いて、中に丈夫な炭素繊維の金属を入れたよう。
木の部分の、防腐処理も。 根の部分は、コンクリート。
枝、葉っぱは、型を取って、レプリカ。
経費は、1億5000万円。 寄付で。
この辺り一帯の、震災前の地図。 右の赤○が、一本松。
下の写真は、2009年に撮影。 道の駅から、そばの橋に向かって行く。
橋の上から、左を見たら、カモがいた。
渡って、堤防をくぐったら、松原に出る。
啄木や、虚子の句があった。 右は、啄木の句碑。
高田の松原は、世界遺産になった美保の松原と並んで、日本屈指の美しい松原だった。
年間、100万人以上が訪れた。(2009年は、104万人)
どこまでも、続いていた。 松原は、高田の街を、風から守った。
一本松から、北を見た。 遠くに、小さく橋。
山の上では、住宅地の、造成工事。
タイヤの多い車が見える。
気仙沼に向かった。 途中、海を見た。 大理石海岸の近く。
赤○の中は、傷んでいる。 ここから津波は、谷の中を襲った。
向こうが、大理石海岸。
こんな風景。 少し波で洗われたら、ピカピカ。
※ 近くに墓地があって、江戸時代に作った、墓石があった。
それは、風化は全くなく、昨日作ったように見えた。(少しオーバーか)
左に見えた海岸が、大理石っぽい。
気仙沼に入ってきた。 解体することになった、打ち上げられた船。 こうだった。
市街地に入ってきた。 この辺りは低いので、被害が大きい。
私は、あるところに向かっていますが、ここで、遊びの問題です。
※ 遠野と気仙沼には、同じ名前の温泉があります。
名前は、夜寝津(よねつ)温泉。
2つ温泉には、ある特徴があります。
その特徴は、何でしょう。 夜寝るは、ヒントなのか、そうでないのか。
答えは、右をクリック。
5年後、10年後、陸前高田の町は、どうなっているでしょう。
震災の教訓を生かした、安全で住みよい町に、きっとなっているでしょうね。
学者の考えより、教訓。 それが大事に思います。
空と海の青さ、山の緑は、昔のまま。 人々の、心も。
震災で一番大変だった町の復興が、具体的に、始まっていました。
奇跡の一本松を、旗印にして。
【今日の歌】 麦畑のひばり。 ピアノは、山下洋輔。 いいですね。
岡林信康と美空ひばりは、お互い、理解しあっていた。 後年になって。
【停泊場所】 気仙沼の少し南にある、駐車場。 道の駅の感じ。 確認できたら、詳しく。
【明日の予定】 南下するけど、変更になるかも知れない。
南三陸で、ある人に会いたいが、連絡がうまく取れなかったら、中尊寺に向かいます。
そのあと、福島県に、一気に南下します。
12日に、碓氷峠で、須坂の東風さんと落ち合う予定。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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ところが、陸前高田市では、なかった。
泥水が家の中に侵入したというより、家やビルをみんな、押し流してしまった。
市の中心街は、消えてしまった。
震災から、約2年半。
陸前高田市では、復興計画に沿って、復興が始まっていた。
大きな夢に向かって。
奇跡の一本松保存プロジェクトによって、一本松は、元の姿で立っていた。
鎮魂、希望、復興の象徴として。
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( 写真の上にカーソルを置いて、open になってクリックしたら、一瞬に大きく。 再度クリックしたら、元に )
陸前高田(りくぜんたかた)市までが、岩手県。 少し南の気仙沼は、宮城県。
ここは、震災前は、道の駅だった。 駐車場が広く、大きな道の駅だった。
今は、小さな駐車場に。 昨晩は、ここに停泊。

クレーン車が、あちこちで動いている。 どんな仕事か、すぐに分からない。
北方面。

市の中心街は、この方向にあった。

南の方向。 一本松は、向こうに。 左に広く、高田松原があった。

こんな建物があった。 追悼施設。 暗くなってから来たので、気づかなかった。

この町を訪れた人は、ここで、手を合わせる。

中には、写真が貼ってあった。
駅前通り。 家が消えてしまう。 森が、同じと分かる。


こんな写真も。


この後、お風呂を作った社長さんの所に、挨拶。
社長さんは、出かけていた。
事務所にいた女性の方が、復興の青写真を見せてくれた。
後始末だけでない復興が、始まっていた。
震災の後、赤○の所で、ドラム缶でお湯を沸かした。
そして、工場の中の手製の湯船に、ホースでお湯を入れた。

このように。 事務所にいた方も、この仕事をした。

※ 社長さん考案の手作りお風呂は、大賑わい。 大槌町、山田町、宮古市の被災状況(続き) (2011/4/4)
遠野市に戻って、水や軽油の補給。 津波直後と11日夜の避難所の様子。 他 (2011/4/8)
会社から下は、このように。 会社の人たちは、ここから、津波が押し寄せるのを見た。
下の駐車場の辺りは、高い瓦礫(がれき)の山になった。

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復興に向けて 震度6弱の揺れ 他 (2011/4/7)
復興計画がどうなっているか、市のHPを見てみた。
具体的な、スケジュールがあった。 それを紹介。

一部を拡大。 防潮堤を、いつまで、どのように。

住宅地をどこに作るかなども。 市民への説明と意見を聞く場を、何度も持って。
計画は、修正しながら進む。

一本松がレプリカの形であって、見ることが出来ると、事務所で教えてもらった。
駐車場が用意されていた。 5分ほど歩くと、見えてくる。

途中で見た、北方面。 土地の造成工事だろうか。
広く地盤が沈下した。 数十㌢。 水が溜まった所もある。

通路に灯りをともした。 その灯りは、街に、人々の心に、灯すことに。

橋の向こうにある。 橋は、しおさい橋。 一本松と一緒に、残った。

流れて来る家などがぶつかっても、木は、立ち続けることは出来なかった。
残ったのは、奇跡だった。 7万本あった松の中の、たったの1本。
津波の高さは、10㍍を越えていたから、頭まで水をかぶった。

下の写真は、震災後の、4月5日に撮影。
この頃は、枯れていない。 土に塩分が浸みて、一本松は、苦しくなる。

奇跡の一本松を、鎮魂、希望、復興の象徴として、残すことにした。

そのままでは残せない。 プロジェクトが、始まる。

後ろには、仲間の木が、いっぱいあった。

現在地です。 私は4年前に、左の橋を渡ったことがある。 その橋の下に、道の駅。

一本松の保存方法。
太い幹の部分は、くり抜いて、中に丈夫な炭素繊維の金属を入れたよう。
木の部分の、防腐処理も。 根の部分は、コンクリート。
枝、葉っぱは、型を取って、レプリカ。
経費は、1億5000万円。 寄付で。

この辺り一帯の、震災前の地図。 右の赤○が、一本松。

下の写真は、2009年に撮影。 道の駅から、そばの橋に向かって行く。

橋の上から、左を見たら、カモがいた。

渡って、堤防をくぐったら、松原に出る。

啄木や、虚子の句があった。 右は、啄木の句碑。


高田の松原は、世界遺産になった美保の松原と並んで、日本屈指の美しい松原だった。
年間、100万人以上が訪れた。(2009年は、104万人)

どこまでも、続いていた。 松原は、高田の街を、風から守った。

一本松から、北を見た。 遠くに、小さく橋。

山の上では、住宅地の、造成工事。
タイヤの多い車が見える。

気仙沼に向かった。 途中、海を見た。 大理石海岸の近く。
赤○の中は、傷んでいる。 ここから津波は、谷の中を襲った。

向こうが、大理石海岸。

こんな風景。 少し波で洗われたら、ピカピカ。
※ 近くに墓地があって、江戸時代に作った、墓石があった。
それは、風化は全くなく、昨日作ったように見えた。(少しオーバーか)

左に見えた海岸が、大理石っぽい。

気仙沼に入ってきた。 解体することになった、打ち上げられた船。 こうだった。

市街地に入ってきた。 この辺りは低いので、被害が大きい。

私は、あるところに向かっていますが、ここで、遊びの問題です。
※ 遠野と気仙沼には、同じ名前の温泉があります。
名前は、夜寝津(よねつ)温泉。
2つ温泉には、ある特徴があります。
その特徴は、何でしょう。 夜寝るは、ヒントなのか、そうでないのか。
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5年後、10年後、陸前高田の町は、どうなっているでしょう。
震災の教訓を生かした、安全で住みよい町に、きっとなっているでしょうね。
学者の考えより、教訓。 それが大事に思います。
空と海の青さ、山の緑は、昔のまま。 人々の、心も。
震災で一番大変だった町の復興が、具体的に、始まっていました。
奇跡の一本松を、旗印にして。
【今日の歌】 麦畑のひばり。 ピアノは、山下洋輔。 いいですね。
岡林信康と美空ひばりは、お互い、理解しあっていた。 後年になって。
【停泊場所】 気仙沼の少し南にある、駐車場。 道の駅の感じ。 確認できたら、詳しく。
【明日の予定】 南下するけど、変更になるかも知れない。
南三陸で、ある人に会いたいが、連絡がうまく取れなかったら、中尊寺に向かいます。
そのあと、福島県に、一気に南下します。
12日に、碓氷峠で、須坂の東風さんと落ち合う予定。
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(2008年4月~2010年9月までの記事)

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