浅間山が、一瞬光った。
と思った、その瞬間、真っ赤な火炎が、天に向かって吹きあがった。
同時に、灼熱の火砕流が、猛スピードで北斜面を襲った。
そこには、鎌原(かんばら)村。
村人477名は、必死で逃げた。 家族そして知人を、思いやりながら。
高台は、観音堂の場所しかない。 みんな、そこを目指した。
火砕流は、次から次と、人々を飲み込む。
石段の数は、50段。
登り切って、たどり着けたのは、たったの93名だった。
若い女性が、母親と思われる人を背負って、石段まで何とかたどり着いた。
最後の力を振り絞って、登り始めた。
でも、間に合わなかった。 力尽きた。
火砕流が収まった時、石段は、15段しかなかった。
35段は、埋まっていた。
十数分の、出来事だった。
天明3年(1783年)7月8日の、午前10時過ぎのこと。
火砕流の後、浅間山は、溶岩をさらに出した。
上で固まった溶岩は、山の斜面に、ずり落ちた。
今、その跡は、鬼押出し園として、公園になっていた。
※ ※ ※ ※ ブログタイトル一覧は、右をクリック。
( 写真の上にカーソルを置いて、open になってクリックしたら、一瞬に大きく。 再度クリックしたら、元に )
嬬恋村(つまごいむら)は、群馬県の西の端。
鎌原観音堂の位置。
※ 嬬恋カルタがあって、「嬬恋の由来は古し 吾嬬者耶(あずまはや)」というのが。
その解説は、こうだった。(嬬恋村文化協会)
日本武尊が碓日阪(今の鳥居峠)にお立ちになって、なき妻弟橘姫を追慕のあまり
「あづまはや」とおなげきになって、妻をいとしまれたという故事にちなんで、
嬬恋村と名づけられた。
妻と嬬の意味の違いが、難しい。 ネットで、見つからない。
気になったので、上を載せました。
鎌原観音堂。
※ かまはら、が、かんばら。 「ん」への変化は、最近3度目の出会い。
八ッ場(やんば)ダム。 向城(むこんじょう)。
橋の向こうに、15の石段。 この手前に、35段が、地面の下に。
右の建物に、人がいた。 今でも毎日、観音堂を守っている。
浅間山の噴火による火砕流は、このように、流れて来た。
鎌原村の人口は、570名。 観音堂に逃げられたのは、93名。
石段の数は、50段と、語り継がれていた。
実際に掘ってみた。 残りの35段が、出て来た。
そして、二人の骨。 骨の位置とかで、背負っていたと、考えられている。
※ 頭の位置は、分かりますね。
2つの手は、何を意味するでしょう。
負ぶっている、手か。 最後、抱きしめたのか。
2人の前の人は助かった。 石段に、他の骨はなかったから。
後ろの人は、助からなかった。
背負われた女性は、私を置いて、お前だけで行け、と言ったでしょうね。
でも、背負っていた女性は、離さなかった。
命(運命)を、共にした。
※ 嬬恋郷土資料館に、2人の女性の、復元した顔がある。
真っ赤な溶岩が、全ての飲み込んで、襲ってくる。
浅間山からここまでは、ほぼ、10㎞。
15分で来たとすれば、時速40㌔。 加速していたら、時速60㌔に。
※ 大正時代に起きた、上富良野の、十勝岳からの泥流は、時速60㌔。
下の説明も、資料として、載せます。
火砕流は、吾妻川をせき止め、それが破壊し、泥流となって下流の村を襲う。
多くの人が亡くなる。
赤い橋の下に、石段が見えた。
隣の石は、計りばばあ、とあった。 亡くなった人の服をはぎ取る、奪衣婆(だつえば)か。
15段から下は、地獄と考えて。
右は、「天明の 生死をわけた 15だん」
10秒早くて助かって、10秒遅れて火砕流につかまった。
そんな世界に、なっていた。
天明3年の、浅間山の噴火は、日本の空を曇らせた。
その前から不作は続いていたが、この噴火によって、天明の大飢饉を招くことになる。
※ 飢饉と、天明の大飢饉については、関連ブログで、最後に。
日本の人口が減ってしまう、大飢饉。
次は、浅間山の、鬼押出しをみる。
道は有料道路。 西武が昔作った。 鬼押出しの施設も、西武。
観光面で、邪魔な道。 当時、国はどうして、作ることに、許可を出したのでしょう。
※ 何があってもおかしくない政治が、日本で、続いていた時代かな。
1度だけ見ておこうと、やってきた。 異様な風景。
遊歩道が整備されている。 赤い門は、惣(そう)門。
鬼押出しの、鬼。
鎌原村への火砕流の後、火口から溶岩が出て来た。 それが固まって崩れて、ここに押し出されてきた。
押し出したのは鬼と考えて、鬼押出しの名前に。 それで、鬼がいる。
惣門の中に、二天尊像。
ガラスで、全体は撮れない。 お腹にも、顔があった。
ここには、浅間山観音堂がある。 東京上野の寛永寺の別院として。
このような灯篭も、持ってきた。
延宝九年は、1681年。 噴火より前に作られている。 五月八日も読める。
辛酉(かのととり)も、読める。(右から読んで)
※ 辛は、「甲、乙、丙、丁、・・・」の8番目。 全部で10個。
酉は、「子、丑、寅・・・・」の10番目。 全部で12個。
甲子、乙丑、丙寅、と順に組み合わせていくと、60通り。 そして、元に戻る。
辛酉は、上で組み合わせた、干支(えと)と呼ばれるものの、1つ。
60年に1度、同じのが、巡って来る。
石塔の年号の下に、たいてい書かさっている。
これが見えたら、年号の一部が見えなくても、何年かが分かる。
ちなみに、辛酉の年は、60で割ったら1余る年。
1681÷60=28あまり1。
2013年は、60で割ったら、33余る。 癸巳(みずのとみ)の年。
壬申の乱や、戊辰戦争の名前は、干支から取っている。
話がそれました。
固まった溶岩が、ごろごろ。 大きい。
それでも木は、たくましく生えて来る。
ヒカリゴケがあった。 少しだけ。
観音堂が近い。
温泉によくある、地獄の風景とも違う。
こんな岩が。
お金を、はさんでいる。 こんな、たまに見ます。
※ このお金を持ってきたら、泥棒になるんだろうか。
観音堂です。
寛永寺とありますね。
※ 寛永寺の開基は、天海僧正。
こんな話が、歴史の論争から消えません。 以前触れたことがあります。
この天海という人は、信長をやっつけた、明智光秀でないかと。
筆跡が似ていて、本人でないとしても、光秀に近い人ではと。
溶岩が、もこもこと山の上に出てきて、固まった。
それが、ずり落ちてきて、大きな岩だらけになった。 上でも触れたけど。
これが、現在の考え。
溶けたのが流れてきたら、大きな岩にならない。 岩手山の麓の、焼走りのようになる。
後ろから流れてきたが、今日は曇って、後ろの浅間山は見えない。
1時間ほど歩けば、みんな見られる。
ここは、奥之院。
岩の中に、仏様。 観音像。
小さな木の、紅葉。 終わったのかな。
ここの入園料は、600円。 道も有料だから、お金がかかる。
見える範囲、ずっと、大地は凸凹。
それでも、鎌原村の助かった93名は、他に行かないで、元の場所で、村を復活した。
※ これについては、上に書いた上富良野も同じです。
それを小説にしたのが、三浦綾子の泥流地帯。
上富良野の人たちは、泥流を災難と考えないで、試練と受け止めた。
そうして、ある人を中心に、立ち上がった。 関連ブログは、最後に。
もしかしたら、鎌原村の人たちも、同じように考えたかも知れない。

こんな道を、戻る。
花の紹介がある。 花の時期なら、もっと楽しめる。 ハクサンシャクナゲも咲く。
戻ってきました。 お土産の中心は、オニ。 大事にされている。
鬼押出しは、美しいというより、滅多に見られない風景。
自然にあったものだから、散策路だけ作って、無料で見られたら、一番。
そうしたら、この場所が、廃墟になることはない。
今の観光に失敗したら、鬼押出しは、悲惨な場所になってしまう。
鎌原村の人たちには、意志の強さを感じましたね。
村を復興させたことと、決して忘れることはないという姿勢に。
力尽きてしまった、あの女性に、心を打たれます。
【関連ブログ】 天明の大飢饉について、書いてあります。
家の周りの瓦礫の撤去。 東北は、今も昔も、大変な苦労をしている。 それでも、キム・ヨナを中心に動く。 他 (2011/4/30)
ブログの中で、さらに、ブログを紹介しています。 面白いのも、ありますよ。
ファーム富田 泥流地帯の舞台に・・。 他 (2009/07/26)
【今日の歌】 一昨日の人。 クラークって云う人。
【停泊場所】 国道沿いのパーキング。
【明日の予定】 白糸の滝 変わった滝です。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
【ランキング】 国内旅行、2位、 旅行全体、2位です。
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と思った、その瞬間、真っ赤な火炎が、天に向かって吹きあがった。
同時に、灼熱の火砕流が、猛スピードで北斜面を襲った。
そこには、鎌原(かんばら)村。
村人477名は、必死で逃げた。 家族そして知人を、思いやりながら。
高台は、観音堂の場所しかない。 みんな、そこを目指した。
火砕流は、次から次と、人々を飲み込む。
石段の数は、50段。
登り切って、たどり着けたのは、たったの93名だった。
若い女性が、母親と思われる人を背負って、石段まで何とかたどり着いた。
最後の力を振り絞って、登り始めた。
でも、間に合わなかった。 力尽きた。
火砕流が収まった時、石段は、15段しかなかった。
35段は、埋まっていた。
十数分の、出来事だった。
天明3年(1783年)7月8日の、午前10時過ぎのこと。
火砕流の後、浅間山は、溶岩をさらに出した。
上で固まった溶岩は、山の斜面に、ずり落ちた。
今、その跡は、鬼押出し園として、公園になっていた。
※ ※ ※ ※ ブログタイトル一覧は、右をクリック。

( 写真の上にカーソルを置いて、open になってクリックしたら、一瞬に大きく。 再度クリックしたら、元に )
嬬恋村(つまごいむら)は、群馬県の西の端。
鎌原観音堂の位置。
※ 嬬恋カルタがあって、「嬬恋の由来は古し 吾嬬者耶(あずまはや)」というのが。
その解説は、こうだった。(嬬恋村文化協会)
日本武尊が碓日阪(今の鳥居峠)にお立ちになって、なき妻弟橘姫を追慕のあまり
「あづまはや」とおなげきになって、妻をいとしまれたという故事にちなんで、
嬬恋村と名づけられた。
妻と嬬の意味の違いが、難しい。 ネットで、見つからない。
気になったので、上を載せました。
鎌原観音堂。
※ かまはら、が、かんばら。 「ん」への変化は、最近3度目の出会い。
八ッ場(やんば)ダム。 向城(むこんじょう)。

橋の向こうに、15の石段。 この手前に、35段が、地面の下に。

右の建物に、人がいた。 今でも毎日、観音堂を守っている。

浅間山の噴火による火砕流は、このように、流れて来た。

鎌原村の人口は、570名。 観音堂に逃げられたのは、93名。

石段の数は、50段と、語り継がれていた。
実際に掘ってみた。 残りの35段が、出て来た。
そして、二人の骨。 骨の位置とかで、背負っていたと、考えられている。
※ 頭の位置は、分かりますね。
2つの手は、何を意味するでしょう。
負ぶっている、手か。 最後、抱きしめたのか。


2人の前の人は助かった。 石段に、他の骨はなかったから。
後ろの人は、助からなかった。
背負われた女性は、私を置いて、お前だけで行け、と言ったでしょうね。
でも、背負っていた女性は、離さなかった。
命(運命)を、共にした。

※ 嬬恋郷土資料館に、2人の女性の、復元した顔がある。
真っ赤な溶岩が、全ての飲み込んで、襲ってくる。
浅間山からここまでは、ほぼ、10㎞。
15分で来たとすれば、時速40㌔。 加速していたら、時速60㌔に。
※ 大正時代に起きた、上富良野の、十勝岳からの泥流は、時速60㌔。

下の説明も、資料として、載せます。
火砕流は、吾妻川をせき止め、それが破壊し、泥流となって下流の村を襲う。
多くの人が亡くなる。

赤い橋の下に、石段が見えた。
隣の石は、計りばばあ、とあった。 亡くなった人の服をはぎ取る、奪衣婆(だつえば)か。
15段から下は、地獄と考えて。
右は、「天明の 生死をわけた 15だん」
10秒早くて助かって、10秒遅れて火砕流につかまった。
そんな世界に、なっていた。


天明3年の、浅間山の噴火は、日本の空を曇らせた。
その前から不作は続いていたが、この噴火によって、天明の大飢饉を招くことになる。
※ 飢饉と、天明の大飢饉については、関連ブログで、最後に。
日本の人口が減ってしまう、大飢饉。
次は、浅間山の、鬼押出しをみる。
道は有料道路。 西武が昔作った。 鬼押出しの施設も、西武。
観光面で、邪魔な道。 当時、国はどうして、作ることに、許可を出したのでしょう。
※ 何があってもおかしくない政治が、日本で、続いていた時代かな。
1度だけ見ておこうと、やってきた。 異様な風景。

遊歩道が整備されている。 赤い門は、惣(そう)門。

鬼押出しの、鬼。
鎌原村への火砕流の後、火口から溶岩が出て来た。 それが固まって崩れて、ここに押し出されてきた。
押し出したのは鬼と考えて、鬼押出しの名前に。 それで、鬼がいる。

惣門の中に、二天尊像。
ガラスで、全体は撮れない。 お腹にも、顔があった。

ここには、浅間山観音堂がある。 東京上野の寛永寺の別院として。
このような灯篭も、持ってきた。

延宝九年は、1681年。 噴火より前に作られている。 五月八日も読める。
辛酉(かのととり)も、読める。(右から読んで)

※ 辛は、「甲、乙、丙、丁、・・・」の8番目。 全部で10個。
酉は、「子、丑、寅・・・・」の10番目。 全部で12個。
甲子、乙丑、丙寅、と順に組み合わせていくと、60通り。 そして、元に戻る。
辛酉は、上で組み合わせた、干支(えと)と呼ばれるものの、1つ。
60年に1度、同じのが、巡って来る。
石塔の年号の下に、たいてい書かさっている。
これが見えたら、年号の一部が見えなくても、何年かが分かる。
ちなみに、辛酉の年は、60で割ったら1余る年。
1681÷60=28あまり1。
2013年は、60で割ったら、33余る。 癸巳(みずのとみ)の年。
壬申の乱や、戊辰戦争の名前は、干支から取っている。
話がそれました。
固まった溶岩が、ごろごろ。 大きい。

それでも木は、たくましく生えて来る。

ヒカリゴケがあった。 少しだけ。


観音堂が近い。

温泉によくある、地獄の風景とも違う。

こんな岩が。

お金を、はさんでいる。 こんな、たまに見ます。
※ このお金を持ってきたら、泥棒になるんだろうか。

観音堂です。

寛永寺とありますね。
※ 寛永寺の開基は、天海僧正。
こんな話が、歴史の論争から消えません。 以前触れたことがあります。
この天海という人は、信長をやっつけた、明智光秀でないかと。
筆跡が似ていて、本人でないとしても、光秀に近い人ではと。

溶岩が、もこもこと山の上に出てきて、固まった。
それが、ずり落ちてきて、大きな岩だらけになった。 上でも触れたけど。
これが、現在の考え。
溶けたのが流れてきたら、大きな岩にならない。 岩手山の麓の、焼走りのようになる。

後ろから流れてきたが、今日は曇って、後ろの浅間山は見えない。
1時間ほど歩けば、みんな見られる。

ここは、奥之院。

岩の中に、仏様。 観音像。

小さな木の、紅葉。 終わったのかな。

ここの入園料は、600円。 道も有料だから、お金がかかる。

見える範囲、ずっと、大地は凸凹。
それでも、鎌原村の助かった93名は、他に行かないで、元の場所で、村を復活した。
※ これについては、上に書いた上富良野も同じです。
それを小説にしたのが、三浦綾子の泥流地帯。
上富良野の人たちは、泥流を災難と考えないで、試練と受け止めた。
そうして、ある人を中心に、立ち上がった。 関連ブログは、最後に。
もしかしたら、鎌原村の人たちも、同じように考えたかも知れない。

こんな道を、戻る。

花の紹介がある。 花の時期なら、もっと楽しめる。 ハクサンシャクナゲも咲く。

戻ってきました。 お土産の中心は、オニ。 大事にされている。


鬼押出しは、美しいというより、滅多に見られない風景。
自然にあったものだから、散策路だけ作って、無料で見られたら、一番。
そうしたら、この場所が、廃墟になることはない。
今の観光に失敗したら、鬼押出しは、悲惨な場所になってしまう。
鎌原村の人たちには、意志の強さを感じましたね。
村を復興させたことと、決して忘れることはないという姿勢に。
力尽きてしまった、あの女性に、心を打たれます。
【関連ブログ】 天明の大飢饉について、書いてあります。
家の周りの瓦礫の撤去。 東北は、今も昔も、大変な苦労をしている。 それでも、キム・ヨナを中心に動く。 他 (2011/4/30)
ブログの中で、さらに、ブログを紹介しています。 面白いのも、ありますよ。
ファーム富田 泥流地帯の舞台に・・。 他 (2009/07/26)
【今日の歌】 一昨日の人。 クラークって云う人。
【停泊場所】 国道沿いのパーキング。
【明日の予定】 白糸の滝 変わった滝です。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

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