今日から動ける日は、動くことに。
亀岡市に、穴太(あなお)寺という、古くからの寺がある。
安寿と厨子王の話の、厨子王が、丹後の由良から京に向かう時、この寺に寄ったと言う伝説が。
これが証拠というものが、一応は・・。
身代わり観音の話もあった。
この身代わり観音は、重要文化財。
ところが、盗難に遭って、今はない。
今日はクリスマスイブ。 何がって物や事はない。
ただの1日。
※ ※ ※ ※ ブログタイトル一覧は、右をクリック。
( 写真の上にカーソルを置いて、open になってクリックしたら、一瞬に大きく。 再度クリックしたら、元に )
穴太寺は、駅から離れている。
この辺りは、古い家並みがあり、昔は、日本海側の丹後と大阪を結ぶ、街道のよう。
京都へは、右の方への道がある。
朝来(あさご)や篠山などへ行く分岐は、寺の近くにあった。
運動公園の、土渕の近くから、歩いた。 駐車場が有料だったので、戻った。
こんな道。 車は来ない。 歩いて楽しい。 穴太寺は、右遠く。 800㍍程。
たくさん歩くのは、初めて。
松葉杖でも、普通の早さで歩ける。 たまに休憩。 右足は、LLのサンダル。 昨日買った。
家並みに入ったら、木に傘。 何でしょう。 向こうにも。
古い家並み。
途中で右を見たら、この道。 帰りに通って来る。 あと、300㍍。
見えてきた。 大きな木の所。
穴太寺。 地名が穴太なので、穴太寺。 逆かも知れない。
右から来た。 バス通りは、左に。 仁王門の前が、T字路の交差点。
仁王門は、江戸時代中期に再建。
今年も1年間、怒りっぱなし。
お疲れ様。
穴太寺の、ほとんどの建物は、京都市が指定している文化財。
江戸時代に建てられたものが多い。
身代わり観音の、木造聖観音立像だけが、国の重要文化財。
盗難で今はないが。 昔は、本尊だったよう。 これについては、後ほども。
本堂。
本堂の中は見学可能だけど、撮影は出来ないので、入らなかった 。 有料。
横になった仏像の、釈迦涅槃像(しゃかねはんぞう)がある。 こんなの。
この涅槃像には、面白い話が。 本当かの確認はしていないが。 あるサイトに下の話が。
明治29年、大阪のある女性の夢枕に、穴太寺の釈迦涅槃像が立ったというので、寺中調べた。
そうしたら、本堂の屋根裏から、美しい釈迦涅槃像が出てきた。
なでたら、娘の病気が治った。
この話があって、参拝者はみんな、釈迦涅槃像を触ると言う。
自分の体の調子悪い所と、同じ場所を。
小さなお堂。 鎮守堂。 山茶花(さざんか)。
身代わり観音の話が書いてある。
この話は、ただの寺伝ではなく、今昔物語に出て来るから、話に重さがある。
ここに、厨子王のことは書いてない。
多宝塔。 美しい。
本堂の左。 受付とかは、こちらに。
こんな庭園がある。(Wikipedia)
本堂。 江戸時代のものと言っても、300年近く前。
びんづるさんかな。 これにも、みんな触る。
みんな、意味があるんでしょうね。 奉納されたものか。 天井には、どうやって張るのでしょう。
薬師如来ですね。 薬壺を持って。 現在の本尊は、本堂の中の薬師如来。
境内には、いろんなお堂が。
石碑があったので、とりあえず、撮った。 右に墓。 誰のかが分かった。
木内傳左衛門の碑とある。 何者か調べてみた。
昔、今の茨城県に、下館藩(しもだてはん)というのがあった。
藩の多くの者が、四国の高松藩に行っていた。 行かされた。
その中に、この人がいる。
その時、高松藩とここの亀山藩が、関わりがあった。 分かるのは、そこまで。
1642年のこと。
身代わり観音の話に。(Wikipediaより)
昔、丹波国桑田郡の郡司をしていた男は、都の仏師に依頼して聖観音像を造り、
仏師には褒美として自分の大切にしていた名馬を与えた。
しかし、与えた名馬が惜しくなった男は、家来に命じて仏師を弓矢で射て殺してしまった。
ところが、後で確認すると仏師は健在で、観音像の胸に矢が刺さっていた。
改心した男は仏道を信じるようになったと。
男の名が「宇治 宮成」、仏師の名が「感世」とされている。
観音像が盗まれたのは、1968年。
観音像に矢を射た男が、宮成。
その人の墓だった。
山茶花だけに、色がある。
本堂には、5㎝ほどの、小さな仏像があると言う。
こんな話。(あるサイトから)
昔、安寿と厨子王が山椒太夫に捕まった。
二人は焼け火箸で額を焼かれるが、傷口に仏像を当てると火傷が治った。
代わりに、仏像の額に傷跡が残った。
安寿は厨子王を逃がす。 厨子王は、京都に向かった。
途中、厨子王をかくまったの寺の1つが、穴太寺だという。
厨子王は、後に、この仏像を穴太寺に奉納した。
安寿と厨子王の話って、どんな話なのか。(Wikipediaを、要約) 平安時代中過ぎの話。
奥羽五十六郡の太守、岩城正氏の一族は、嘘(うそ)によって筑紫に流された。
本国に残された正氏の妻と、その2人の子供は、正氏を訪ねて、越後の直江津にたどり着いた。
そこで、人買いの山岡太夫に捕まり、妻は佐渡に、姉弟は丹後由良湊の長者である山椒太夫に、
それぞれ売り渡された。
山椒大夫のもとで、姉の安寿と、弟の厨子王は、酷使された。
2人は、泣いて暮らす。
ある日、安寿は厨子王に勧めて密かに逃れさせようとし、罰として額に焼け火箸を当てられた。
しかし肌身離さぬ守りの地蔵尊のおかげで、痕が付かなかった。
そして姉弟はついに、再会を約して逃亡を図った。
姉を残して都へと行くのをためらう厨子王に、安寿姫は強く勧めた。
弟が去った後、自身は山椒館の近くの沼に身を投げて亡くなった。
その亡骸は村人により丁重に葬られた。
時に永保2年正月16日、安寿16歳、厨子王13歳であったという。
一方、厨子王は丹後の国分寺に逃げ込んで寺僧に助けられ、
京都七条朱雀の権現堂に送られた。 そこで世話になった。
後に、梅津某の養子となり、一家没落の経緯を朝廷に話す。
結果、岩城正氏の罪が赦された上に、旧国を与えられた。
嘘で陥(おとしい)れた者は、領地を没収され、領地は厨子王に与えられた。
厨子王は、山椒大夫とその子三郎とを鋸挽きの刑にした。
また越後では、山岡太夫を討ち取った。
報恩と復讐を果たした厨子王は、生き別れた母の行方を求めて佐渡にたずね歩いた。
片辺鹿野浦で老いた瞽女(ごぜ)が、鳥を追う唄をうたっているのに巡り会った。
「安寿恋しやホゥヤレホ。厨子王恋しやホゥヤレホ」。
厨子王は、この歌を聞いてこれぞ母と知り、駆け寄りすがりついた。
うれし涙に、盲いた母の眼は奇(くす)しくも開き、母子は再び抱き合ったという。
こんな話。 この動画で、だいたいわかる。 30秒過ぎから。 画面をクリックしたら、YouTubeに。
丹後の由良の、山椒大夫に働かされた場所は、下に。
厨子王が最初に逃げ込んだところは、和江の国分寺。 国分寺跡が今もある。
送られた京都の権現堂は、今は、権現寺。 京都駅に近い。
穴太寺は、京都への途中にある。
もしかしたら、本当かも知れない。
ただ、権現寺にも、厨子王が奉納した小さな仏像があるという。
話が面倒になってきた。
上の2つの話は、元々、伝説だから、仕方ない。
戻る途中に、こんなのが。
左は、あさご、でいいでしょうか。 あさごなら朝来で、竹田城跡のあるところ。
右は、かめ山。 亀岡は、昔は亀山。 城も亀山城。
ここの地名は、東の辻。 ここが分かれ道。 辻と呼ばれる所。
※ 辻は、日本で作った漢字。 辻の十は、交差点。
道は細くても、この道は街道。
鳥たちは助かる。
長屋門のある家。
車はあそこに。
今日から歩くことにしました。
何とかなると分かりました。
明日も近くの寺に行ってみます。
【今日の歌】 着物 山崎ハコ
【停泊場所】 亀岡市 運動公園
【明日の予定】 応挙寺 円山応挙が、ここで育ったという。 歩いて行ける。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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亀岡市に、穴太(あなお)寺という、古くからの寺がある。
安寿と厨子王の話の、厨子王が、丹後の由良から京に向かう時、この寺に寄ったと言う伝説が。
これが証拠というものが、一応は・・。
身代わり観音の話もあった。
この身代わり観音は、重要文化財。
ところが、盗難に遭って、今はない。
今日はクリスマスイブ。 何がって物や事はない。
ただの1日。
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( 写真の上にカーソルを置いて、open になってクリックしたら、一瞬に大きく。 再度クリックしたら、元に )
穴太寺は、駅から離れている。
この辺りは、古い家並みがあり、昔は、日本海側の丹後と大阪を結ぶ、街道のよう。
京都へは、右の方への道がある。
朝来(あさご)や篠山などへ行く分岐は、寺の近くにあった。
運動公園の、土渕の近くから、歩いた。 駐車場が有料だったので、戻った。
こんな道。 車は来ない。 歩いて楽しい。 穴太寺は、右遠く。 800㍍程。
たくさん歩くのは、初めて。
松葉杖でも、普通の早さで歩ける。 たまに休憩。 右足は、LLのサンダル。 昨日買った。

家並みに入ったら、木に傘。 何でしょう。 向こうにも。

古い家並み。

途中で右を見たら、この道。 帰りに通って来る。 あと、300㍍。

見えてきた。 大きな木の所。

穴太寺。 地名が穴太なので、穴太寺。 逆かも知れない。

右から来た。 バス通りは、左に。 仁王門の前が、T字路の交差点。
仁王門は、江戸時代中期に再建。

今年も1年間、怒りっぱなし。

お疲れ様。

穴太寺の、ほとんどの建物は、京都市が指定している文化財。
江戸時代に建てられたものが多い。
身代わり観音の、木造聖観音立像だけが、国の重要文化財。
盗難で今はないが。 昔は、本尊だったよう。 これについては、後ほども。
本堂。

本堂の中は見学可能だけど、撮影は出来ないので、入らなかった 。 有料。
横になった仏像の、釈迦涅槃像(しゃかねはんぞう)がある。 こんなの。
この涅槃像には、面白い話が。 本当かの確認はしていないが。 あるサイトに下の話が。
明治29年、大阪のある女性の夢枕に、穴太寺の釈迦涅槃像が立ったというので、寺中調べた。
そうしたら、本堂の屋根裏から、美しい釈迦涅槃像が出てきた。
なでたら、娘の病気が治った。
この話があって、参拝者はみんな、釈迦涅槃像を触ると言う。
自分の体の調子悪い所と、同じ場所を。
小さなお堂。 鎮守堂。 山茶花(さざんか)。

身代わり観音の話が書いてある。
この話は、ただの寺伝ではなく、今昔物語に出て来るから、話に重さがある。
ここに、厨子王のことは書いてない。

多宝塔。 美しい。

本堂の左。 受付とかは、こちらに。

こんな庭園がある。(Wikipedia)

本堂。 江戸時代のものと言っても、300年近く前。

びんづるさんかな。 これにも、みんな触る。

みんな、意味があるんでしょうね。 奉納されたものか。 天井には、どうやって張るのでしょう。

薬師如来ですね。 薬壺を持って。 現在の本尊は、本堂の中の薬師如来。

境内には、いろんなお堂が。

石碑があったので、とりあえず、撮った。 右に墓。 誰のかが分かった。

木内傳左衛門の碑とある。 何者か調べてみた。
昔、今の茨城県に、下館藩(しもだてはん)というのがあった。
藩の多くの者が、四国の高松藩に行っていた。 行かされた。
その中に、この人がいる。
その時、高松藩とここの亀山藩が、関わりがあった。 分かるのは、そこまで。
1642年のこと。

身代わり観音の話に。(Wikipediaより)
昔、丹波国桑田郡の郡司をしていた男は、都の仏師に依頼して聖観音像を造り、
仏師には褒美として自分の大切にしていた名馬を与えた。
しかし、与えた名馬が惜しくなった男は、家来に命じて仏師を弓矢で射て殺してしまった。
ところが、後で確認すると仏師は健在で、観音像の胸に矢が刺さっていた。
改心した男は仏道を信じるようになったと。
男の名が「宇治 宮成」、仏師の名が「感世」とされている。
観音像が盗まれたのは、1968年。
観音像に矢を射た男が、宮成。
その人の墓だった。

山茶花だけに、色がある。

本堂には、5㎝ほどの、小さな仏像があると言う。
こんな話。(あるサイトから)
昔、安寿と厨子王が山椒太夫に捕まった。
二人は焼け火箸で額を焼かれるが、傷口に仏像を当てると火傷が治った。
代わりに、仏像の額に傷跡が残った。
安寿は厨子王を逃がす。 厨子王は、京都に向かった。
途中、厨子王をかくまったの寺の1つが、穴太寺だという。
厨子王は、後に、この仏像を穴太寺に奉納した。
安寿と厨子王の話って、どんな話なのか。(Wikipediaを、要約) 平安時代中過ぎの話。
奥羽五十六郡の太守、岩城正氏の一族は、嘘(うそ)によって筑紫に流された。
本国に残された正氏の妻と、その2人の子供は、正氏を訪ねて、越後の直江津にたどり着いた。
そこで、人買いの山岡太夫に捕まり、妻は佐渡に、姉弟は丹後由良湊の長者である山椒太夫に、
それぞれ売り渡された。
山椒大夫のもとで、姉の安寿と、弟の厨子王は、酷使された。
2人は、泣いて暮らす。
ある日、安寿は厨子王に勧めて密かに逃れさせようとし、罰として額に焼け火箸を当てられた。
しかし肌身離さぬ守りの地蔵尊のおかげで、痕が付かなかった。
そして姉弟はついに、再会を約して逃亡を図った。
姉を残して都へと行くのをためらう厨子王に、安寿姫は強く勧めた。
弟が去った後、自身は山椒館の近くの沼に身を投げて亡くなった。
その亡骸は村人により丁重に葬られた。
時に永保2年正月16日、安寿16歳、厨子王13歳であったという。
一方、厨子王は丹後の国分寺に逃げ込んで寺僧に助けられ、
京都七条朱雀の権現堂に送られた。 そこで世話になった。
後に、梅津某の養子となり、一家没落の経緯を朝廷に話す。
結果、岩城正氏の罪が赦された上に、旧国を与えられた。
嘘で陥(おとしい)れた者は、領地を没収され、領地は厨子王に与えられた。
厨子王は、山椒大夫とその子三郎とを鋸挽きの刑にした。
また越後では、山岡太夫を討ち取った。
報恩と復讐を果たした厨子王は、生き別れた母の行方を求めて佐渡にたずね歩いた。
片辺鹿野浦で老いた瞽女(ごぜ)が、鳥を追う唄をうたっているのに巡り会った。
「安寿恋しやホゥヤレホ。厨子王恋しやホゥヤレホ」。
厨子王は、この歌を聞いてこれぞ母と知り、駆け寄りすがりついた。
うれし涙に、盲いた母の眼は奇(くす)しくも開き、母子は再び抱き合ったという。
こんな話。 この動画で、だいたいわかる。 30秒過ぎから。 画面をクリックしたら、YouTubeに。

丹後の由良の、山椒大夫に働かされた場所は、下に。
厨子王が最初に逃げ込んだところは、和江の国分寺。 国分寺跡が今もある。
送られた京都の権現堂は、今は、権現寺。 京都駅に近い。
穴太寺は、京都への途中にある。
もしかしたら、本当かも知れない。
ただ、権現寺にも、厨子王が奉納した小さな仏像があるという。
話が面倒になってきた。
上の2つの話は、元々、伝説だから、仕方ない。
戻る途中に、こんなのが。
左は、あさご、でいいでしょうか。 あさごなら朝来で、竹田城跡のあるところ。
右は、かめ山。 亀岡は、昔は亀山。 城も亀山城。
ここの地名は、東の辻。 ここが分かれ道。 辻と呼ばれる所。
※ 辻は、日本で作った漢字。 辻の十は、交差点。
道は細くても、この道は街道。

鳥たちは助かる。

長屋門のある家。

車はあそこに。

今日から歩くことにしました。
何とかなると分かりました。
明日も近くの寺に行ってみます。
【今日の歌】 着物 山崎ハコ
【停泊場所】 亀岡市 運動公園
【明日の予定】 応挙寺 円山応挙が、ここで育ったという。 歩いて行ける。
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(2008年4月~2010年9月までの記事)

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