昨日、長崎堤防を見た。
小野神社の場所が分からず、戻って来た。
今日、再度行ってきた。
見学を少しにして、市内のスーパーセンターに。
そこの駐車場で、車の中の窓側の部分を、使いやすく変える作業を。
必要なものが手に入るので、ここに。
朝の4時まで、かかってしまった。
28日は、大変。
※ ※ ※ ※ ブログタイトル一覧は、右をクリック。
( 写真の上にカーソルを置いて、open になってクリックしたら、一瞬に大きく。 再度クリックしたら、元に )
小野神社は、川内川の下流に。
この場所は、昨日見た、江之口橋の近く。
水路のための、水路桁橋(すいろけたはし)。
川内市の高江町にあるので、高江の水路桁橋と呼んでいる。
説明とかは、なかった。 ネットにもない。
川は、八間川。 江戸時代の初めに、長崎堤防。
長崎堤防の少しあとに、八間川。 その後になりますね。
※ 石橋には、普通のアーチ橋と、このような桁橋がある。
桁橋を、久しぶりに見た。
桁橋の大きいのが、天草の天草市にある。
祇園橋。
大きさは違っても、つくりは、とっても似ている。
天草キリシタン館。 祇園橋付近、川は血に染まった。~天草市~ The Wedding の日本語訳 他 (2013/2/9)
昨日の場所に来た。 長崎堤防。
堤防の上から撮影。 遠くの森に、小野神社。
これが、堤防によって生まれた、長崎新田。
※ なぜ、この一帯に、長崎という地名が付いたのでしょう。
堤防が出来る前は、川内川(せんだいがわ)に突き出た小さな、半島のような地形だったのではないだろうか。
岬のような地形は、長崎鼻ともよばれ、九州の多くの地域に見ます。
堤防が出来て、昔の地形では、今はなくなったが。
小野神社の位置です。 印の右に、長崎堤防の、ギザギザ。
鳥居があった。 石碑は、顕彰碑。 どんな神社だろう。
堤防を作った小野仙右衛門が彫った、磨崖仏ではなく磨崖「心」がある、とある。
顕彰碑の説明も。
上には、神社の建物はなく、墓。 ここにも墓を作ったのか。
磨崖「心」は、反対側の崖に。
あった。 心も見える。
石の祠が、神社。 小さい。
この場所からは、木が邪魔して、海が見えなかった。
下に降りたら、このように見える。
小野仙右衛門が、この岩に彫ったと言うことは、ここから、堤防を作る場所全体が、見渡せたんですね。
どこに、どう作るか、思案した場所。
神お告げがあった。 娘を人柱にした。
人柱は、袈裟姫伝説として残っている。
袈裟姫伝説の、詳しい話は、見つからない。
もしかしたら、無いかもしれない。
いくつかのネットの情報にあったのですが、
小野仙右衛門の娘さんが、川内川で溺れて亡くなった。
そのことを、袈裟姫伝説として、まとめたよう。
別の高い所からは、このように。
仙右衛門は、水に浮かぶ娘さんを発見した。
帯の流れを見て、水の流れの何かを感じた。
仙右衛門は、縄を刻んで、川に流した。
藁(わら)くずは、蛇行しながら流れて行った。
流れに沿って、堤防を作ることを、思い付いた。
蛇行は、何によって生まれたのでしょう。
川底の地形でしょうか。
堤防と新田。
時代は、今になっても、ここに暮らす人は、小野仙右衛門に対する恩を忘れない。
これが、日本人の心かなって、感じます。
神社は少し小さかったですが。
【その他 ①】
岩永三五郎は、昨日のブログに書いた人。
江之口橋を作った人。
彼は、薩摩に、他にもいくつかの石橋を作った。
薩摩に長くいて、薩摩藩のことも、詳しく知った。
工事が終わって、肥後に戻る時、薩摩藩によって殺されそうになる。
彼もそれを予想した。
しかし、刺客に、「日本人の心」があった。
殺すことが出来なかった。
詳しくは、Wikipediaの文を紹介。
肥後藩内に聖橋をはじめとするアーチ式石橋を架け続けた三五郎に、天保11年(1840年)薩摩藩より依頼が来る。
三平らを従え薩摩に赴いた三五郎は、鹿児島の町中を流れる甲突川に甲突川五石橋を川の護岸工事と併せて架けた。
中でも西田橋は参勤交代に藩主が利用する橋だったため、三五郎のつくった橋の中で最も豪華な装飾が施されている。
鹿児島県内には、三五郎作の石橋がこのほか複数残されている。
石橋の建造中、石橋建造技術の漏洩防止のため、三五郎達を永送り(暗殺)するのではないかという噂が立った。
これは三五郎が藩の内情に通じ過ぎたためとも言われる。
かねてよりこの事を心配していた三五郎は、連れてきた仲間たちを様々な口実をつけて肥後に返した。
最後まで残った三五郎自身も、嘉永2年(1849年)に帰郷を許される。
薩摩藩から送られた刺客により現在の出水市付近で捕らえられるが、腹を据えた三五郎の態度に感心した刺客が、
秘密裏に三五郎を逃がしたと言われる。
故郷に戻った三五郎は嘉永4年(1851年)、鏡町(現八代市)にて59歳で没する。同地には現在でも墓が存在する。
三五郎が、仲間を事前に帰したところに、彼の人間性が見えますね。
【その他 ②】
窓側を、このようにしました。
構想からスタートして、寸法を測って棚を買ったり、時間がかかる。
使いやすいようにしたい。 日常、多く使用するものを、近くに置く。
以前は、下でした。
ベッドの枕元にも、小さな本棚を置きました。
どこに、何を収納するかは、まだこれからです。
車を、走る居酒屋から、走る書斎に、イメージチェンジしたいです。
【今日の歌】 ゴールデンボンバー「抱きしめてシュヴァルツ」
深夜に、鬼龍院 翔の、オールナイトニッポンを聞きながら、作業。
鬼龍院 翔は、めちゃくちゃ。 めちゃくちゃが人気。
曲は、7分50秒から。
【停泊場所】 ニシムタの駐車場
【明日の予定】 冠嶽(かんむりだけ)の山の道を歩きたいが、眠たいから、麓の公園を歩くかも。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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小野神社の場所が分からず、戻って来た。
今日、再度行ってきた。
見学を少しにして、市内のスーパーセンターに。
そこの駐車場で、車の中の窓側の部分を、使いやすく変える作業を。
必要なものが手に入るので、ここに。
朝の4時まで、かかってしまった。
28日は、大変。
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小野神社は、川内川の下流に。
この場所は、昨日見た、江之口橋の近く。
水路のための、水路桁橋(すいろけたはし)。
川内市の高江町にあるので、高江の水路桁橋と呼んでいる。
説明とかは、なかった。 ネットにもない。

川は、八間川。 江戸時代の初めに、長崎堤防。
長崎堤防の少しあとに、八間川。 その後になりますね。
※ 石橋には、普通のアーチ橋と、このような桁橋がある。
桁橋を、久しぶりに見た。
桁橋の大きいのが、天草の天草市にある。
祇園橋。
大きさは違っても、つくりは、とっても似ている。
天草キリシタン館。 祇園橋付近、川は血に染まった。~天草市~ The Wedding の日本語訳 他 (2013/2/9)

昨日の場所に来た。 長崎堤防。
堤防の上から撮影。 遠くの森に、小野神社。

これが、堤防によって生まれた、長崎新田。

※ なぜ、この一帯に、長崎という地名が付いたのでしょう。
堤防が出来る前は、川内川(せんだいがわ)に突き出た小さな、半島のような地形だったのではないだろうか。
岬のような地形は、長崎鼻ともよばれ、九州の多くの地域に見ます。
堤防が出来て、昔の地形では、今はなくなったが。
小野神社の位置です。 印の右に、長崎堤防の、ギザギザ。
鳥居があった。 石碑は、顕彰碑。 どんな神社だろう。

堤防を作った小野仙右衛門が彫った、磨崖仏ではなく磨崖「心」がある、とある。

顕彰碑の説明も。

上には、神社の建物はなく、墓。 ここにも墓を作ったのか。


磨崖「心」は、反対側の崖に。

あった。 心も見える。

石の祠が、神社。 小さい。

この場所からは、木が邪魔して、海が見えなかった。
下に降りたら、このように見える。
小野仙右衛門が、この岩に彫ったと言うことは、ここから、堤防を作る場所全体が、見渡せたんですね。
どこに、どう作るか、思案した場所。

神お告げがあった。 娘を人柱にした。
人柱は、袈裟姫伝説として残っている。

袈裟姫伝説の、詳しい話は、見つからない。
もしかしたら、無いかもしれない。
いくつかのネットの情報にあったのですが、
小野仙右衛門の娘さんが、川内川で溺れて亡くなった。
そのことを、袈裟姫伝説として、まとめたよう。
別の高い所からは、このように。

仙右衛門は、水に浮かぶ娘さんを発見した。
帯の流れを見て、水の流れの何かを感じた。
仙右衛門は、縄を刻んで、川に流した。
藁(わら)くずは、蛇行しながら流れて行った。
流れに沿って、堤防を作ることを、思い付いた。
蛇行は、何によって生まれたのでしょう。
川底の地形でしょうか。
堤防と新田。

時代は、今になっても、ここに暮らす人は、小野仙右衛門に対する恩を忘れない。
これが、日本人の心かなって、感じます。
神社は少し小さかったですが。
【その他 ①】
岩永三五郎は、昨日のブログに書いた人。
江之口橋を作った人。
彼は、薩摩に、他にもいくつかの石橋を作った。
薩摩に長くいて、薩摩藩のことも、詳しく知った。
工事が終わって、肥後に戻る時、薩摩藩によって殺されそうになる。
彼もそれを予想した。
しかし、刺客に、「日本人の心」があった。
殺すことが出来なかった。
詳しくは、Wikipediaの文を紹介。
肥後藩内に聖橋をはじめとするアーチ式石橋を架け続けた三五郎に、天保11年(1840年)薩摩藩より依頼が来る。
三平らを従え薩摩に赴いた三五郎は、鹿児島の町中を流れる甲突川に甲突川五石橋を川の護岸工事と併せて架けた。
中でも西田橋は参勤交代に藩主が利用する橋だったため、三五郎のつくった橋の中で最も豪華な装飾が施されている。
鹿児島県内には、三五郎作の石橋がこのほか複数残されている。
石橋の建造中、石橋建造技術の漏洩防止のため、三五郎達を永送り(暗殺)するのではないかという噂が立った。
これは三五郎が藩の内情に通じ過ぎたためとも言われる。
かねてよりこの事を心配していた三五郎は、連れてきた仲間たちを様々な口実をつけて肥後に返した。
最後まで残った三五郎自身も、嘉永2年(1849年)に帰郷を許される。
薩摩藩から送られた刺客により現在の出水市付近で捕らえられるが、腹を据えた三五郎の態度に感心した刺客が、
秘密裏に三五郎を逃がしたと言われる。
故郷に戻った三五郎は嘉永4年(1851年)、鏡町(現八代市)にて59歳で没する。同地には現在でも墓が存在する。
三五郎が、仲間を事前に帰したところに、彼の人間性が見えますね。
【その他 ②】
窓側を、このようにしました。
構想からスタートして、寸法を測って棚を買ったり、時間がかかる。
使いやすいようにしたい。 日常、多く使用するものを、近くに置く。

以前は、下でした。

ベッドの枕元にも、小さな本棚を置きました。
どこに、何を収納するかは、まだこれからです。
車を、走る居酒屋から、走る書斎に、イメージチェンジしたいです。
【今日の歌】 ゴールデンボンバー「抱きしめてシュヴァルツ」
深夜に、鬼龍院 翔の、オールナイトニッポンを聞きながら、作業。
鬼龍院 翔は、めちゃくちゃ。 めちゃくちゃが人気。
曲は、7分50秒から。
【停泊場所】 ニシムタの駐車場
【明日の予定】 冠嶽(かんむりだけ)の山の道を歩きたいが、眠たいから、麓の公園を歩くかも。
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(2008年4月~2010年9月までの記事)

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