龍馬暗殺の日が、他人に仕組まれた 運命の時とするなら、
脱藩の日は、龍馬自身が選んだ 運命の時。
そして脱藩の道は、
龍馬がその運命をかけた、日本の夜明けへの道。 (坂本龍馬脱藩之日記念館の資料より)
韮ヶ峠を越えて土佐を出た。 野村村、河辺村を通り、現在の内子町に向かった。 ※ 野村村、河辺村とも旧
文久2年(1862)3月26日のこと。
龍馬が河辺村を通り抜けた日は、脱藩初日で、龍馬脱藩の日。
川辺町に向かっていたら、落石防止の金網の中で、鳥がバタバタしていた。
出られないでいた。 この場所から、左上にも、鳥は移動した。
「助けてやるから、待ってれよ」って言って、
左上に鳥を追いやって、写真の下の枯れ草を取り除いた。
出口に追ったら、元気に飛んでいった。
最初、ハヤブサかと思ったけど、違うようだ。 ※ 分かる人がいたら、教えてほしい。
精悍な顔つきだった。 野生の鳥は、美しい。
※ 追記 名前は、ツミ のようです。 日本では、最小の鷹。 鳩くらい。
(写真は、クリックで大きくなります)
坂本龍馬脱藩之日記念館に寄った。 地図は、そこにあった。
大分、山に入った。
こんな像もあった。 飛翔の像。 3人で、山を越えてきた。
左は、澤村惣之丞(さわむら そうのじょう)。 土佐海援隊で龍馬の片腕。 でも、若くして亡くなる。
この人の記録で、脱藩の道が分かった。
右は、那須俊平。 道案内をした。 土佐を出る前日、檮原でこの人の家に宿泊。
俊平も後に脱藩。 禁門の変(蛤御門の変)で討たれた。 ※ 討たれたのは、この地図の下の方の鷹司邸の近く。 御所に行った時撮影。
像の後ろの白い建物が、坂本龍馬脱藩之日記念館。
坂本龍馬脱藩之日記念館の中。
龍馬が脱藩を決意した時、2番目の姉の栄が、龍馬に刀を渡した。
その後、自害したと、影絵で説明があった。
調べたら、現在は、この説は否定されていた。
龍馬が使用していた重箱。 左は、龍馬が持っていた拳銃の文珍。
伏見の寺田屋事件の時は、拳銃で反撃したと、聞いたことがある。 ※ 風呂に入っていたお龍が、裸のまま急を知らせた。
乙女は3番目の姉。 実際は、この人が刀を渡したそう。
※ この人の養子の、坂本直寛と言う人が、上の拳銃を持っていた。 後に、北海道北見に開拓に入る。
屋根付きの橋の案内が、時々あった。 これは小さい。 豊年橋。
どうして屋根を付けるんだろうと思った。 橋に、椅子が置いてあった。
左の小さな建物は、お風呂。 外から、薪(まき)でたく。 こんなのに入りたい。
これは大きい。 三嶋橋。 車を停めたそばの家の方が、撮影場所に案内してくれた。
キャンピングカーの話を、たくさんした。
どうして屋根があるかを聞いた。 橋に椅子を置いて、宴会(?)とかするそうだ。
屋根があると、橋が傷まないとも。
せせらぎの音を聞きながらの酒はいいですよ。 旅人さんの家がそうだった。 こんな感じ。
この橋は、立派。 御幸の橋(みゆきのはし)。 ※ 御幸は、神様が通ると言う意味、の説明があった。
明治19年にできた。 県の民俗文化財だそう。
龍馬がこの橋を通ったとあった。 龍馬脱藩の道。
向こうに渡って、左に行った。
反対側の脱藩の道は、神社のそばを通り、川の上流に沿ってあった。 すぐに、山の上に上がって行った。
行こうとしたが、雪で行けなかった。
その道は、榎(えのき)ヶ峠につながり、龍馬達は、そっちから来た。
地元の人に聞いたら、当時は、今よりもっと細い道だったと言った。
天神社という神社の上から撮影。 左に見える木は、樹齢800年の大ケヤキ。
この雪だから、これより山には、車で行けない。
この車道が脱藩の道。 動画に写っている道。 車は向こうから。
脱藩の道は、少し行ったら、左に曲がる。
その道をしばらく行ったが、山への道は、見つからなかった。 戻った。
年配の人がいたので、聞いた。 地図を描いて教えてくれた。
車で連れて行ってやると言ってくれたが、濡れた道が凍っていたので、迷惑かけたら申し訳ないから、遠慮した。
再度、500㍍ほど歩いたら、ここに来た。 道は、ここから山道に。
急な登りが続いた。 当時はまだ、靴はなく、草鞋(わらじ)のようだ。
1日に歩いた正確な距離は分からないが、直線でも20㌔程ある。
1862年の3月20日には、少なくとも30㌔は歩いている。 山道の1㌔は遠い。
突然、タヌキが道を横切った。 10㍍程前方。 木の陰になった。 そっと近づいた。
あれ! いない。 化かされたかと思った。 そうしたら、穴があった。
龍馬は、何を思っていたのでしょう。 ここまで来たら、大丈夫、そんなことか。
※ 四国は、熊がいないから、山の中を歩いても、特別緊張しない。 イノシシのために、スプレーはリュックにあるが。
地図の横通りに着いた。 封事ヶ峠まであと800㍍だけど、ここで引き返した。
3時近くになっていた。 道に、雪があると思った。
龍馬たちは、あの山を越えて来た。
戻る時は、車道を戻った。 左に、シイタケの榾木(ほだぎ)。
龍馬にとって、自由に動くためには、脱藩が必要だった。
脱藩は、当時犯罪として扱われていた。
そのために、脱藩の道を歩いていた時は、緊張の時でもあった。
龍馬の魅力は、何なんでしょうね。
この後の龍馬の動きが、大政奉還や明治維新の時期に、大きな影響を与えることになるが。
人間的な魅力も大きい。 ずるさとかも、見つからないし。
※ お龍との九州の旅は、日本最初の新婚旅行と言われている。 ※ お龍(Wikpediaから)
龍馬は、寺田屋事件での親指の傷を、塩浸温泉で治す。 工事中の塩浸温泉。 一緒に見た犬飼の滝。
※ 龍馬の墓(京都霊山護国神社 高台寺の上 龍馬は左 右は、一緒に襲われた、中岡慎太郎)
※ 座ってる龍馬(Wikipediaから 最後の年か)
龍馬の人生、残り、5年と8カ月。
【道の駅】 清流の里ひじかわ 3日目です。
【明日の予定】 内子町に行きます。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、こちらです。
【動画】
御幸の橋へ ※ 御幸の橋に着いたのだが、気付いていない。
【ランキング】 国内旅行は、5位、 旅行全体で9位です。 放浪の旅は32位です。
記事は役立ったでしょうか。
気に入った所などがありましたら、クリックをよろしく。
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※ 1回のクリックで、10ポイント。 1週間生きます。
脱藩の日は、龍馬自身が選んだ 運命の時。
そして脱藩の道は、
龍馬がその運命をかけた、日本の夜明けへの道。 (坂本龍馬脱藩之日記念館の資料より)
韮ヶ峠を越えて土佐を出た。 野村村、河辺村を通り、現在の内子町に向かった。 ※ 野村村、河辺村とも旧
文久2年(1862)3月26日のこと。
龍馬が河辺村を通り抜けた日は、脱藩初日で、龍馬脱藩の日。
川辺町に向かっていたら、落石防止の金網の中で、鳥がバタバタしていた。
出られないでいた。 この場所から、左上にも、鳥は移動した。
「助けてやるから、待ってれよ」って言って、
左上に鳥を追いやって、写真の下の枯れ草を取り除いた。
出口に追ったら、元気に飛んでいった。
最初、ハヤブサかと思ったけど、違うようだ。 ※ 分かる人がいたら、教えてほしい。
精悍な顔つきだった。 野生の鳥は、美しい。
※ 追記 名前は、ツミ のようです。 日本では、最小の鷹。 鳩くらい。
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坂本龍馬脱藩之日記念館に寄った。 地図は、そこにあった。

大分、山に入った。
こんな像もあった。 飛翔の像。 3人で、山を越えてきた。
左は、澤村惣之丞(さわむら そうのじょう)。 土佐海援隊で龍馬の片腕。 でも、若くして亡くなる。
この人の記録で、脱藩の道が分かった。
右は、那須俊平。 道案内をした。 土佐を出る前日、檮原でこの人の家に宿泊。
俊平も後に脱藩。 禁門の変(蛤御門の変)で討たれた。 ※ 討たれたのは、この地図の下の方の鷹司邸の近く。 御所に行った時撮影。
像の後ろの白い建物が、坂本龍馬脱藩之日記念館。

坂本龍馬脱藩之日記念館の中。
龍馬が脱藩を決意した時、2番目の姉の栄が、龍馬に刀を渡した。
その後、自害したと、影絵で説明があった。
調べたら、現在は、この説は否定されていた。

龍馬が使用していた重箱。 左は、龍馬が持っていた拳銃の文珍。
伏見の寺田屋事件の時は、拳銃で反撃したと、聞いたことがある。 ※ 風呂に入っていたお龍が、裸のまま急を知らせた。

乙女は3番目の姉。 実際は、この人が刀を渡したそう。
※ この人の養子の、坂本直寛と言う人が、上の拳銃を持っていた。 後に、北海道北見に開拓に入る。

屋根付きの橋の案内が、時々あった。 これは小さい。 豊年橋。
どうして屋根を付けるんだろうと思った。 橋に、椅子が置いてあった。
左の小さな建物は、お風呂。 外から、薪(まき)でたく。 こんなのに入りたい。

これは大きい。 三嶋橋。 車を停めたそばの家の方が、撮影場所に案内してくれた。
キャンピングカーの話を、たくさんした。
どうして屋根があるかを聞いた。 橋に椅子を置いて、宴会(?)とかするそうだ。
屋根があると、橋が傷まないとも。
せせらぎの音を聞きながらの酒はいいですよ。 旅人さんの家がそうだった。 こんな感じ。

この橋は、立派。 御幸の橋(みゆきのはし)。 ※ 御幸は、神様が通ると言う意味、の説明があった。

明治19年にできた。 県の民俗文化財だそう。

龍馬がこの橋を通ったとあった。 龍馬脱藩の道。
向こうに渡って、左に行った。

反対側の脱藩の道は、神社のそばを通り、川の上流に沿ってあった。 すぐに、山の上に上がって行った。
行こうとしたが、雪で行けなかった。
その道は、榎(えのき)ヶ峠につながり、龍馬達は、そっちから来た。
地元の人に聞いたら、当時は、今よりもっと細い道だったと言った。

天神社という神社の上から撮影。 左に見える木は、樹齢800年の大ケヤキ。
この雪だから、これより山には、車で行けない。

この車道が脱藩の道。 動画に写っている道。 車は向こうから。
脱藩の道は、少し行ったら、左に曲がる。

その道をしばらく行ったが、山への道は、見つからなかった。 戻った。

年配の人がいたので、聞いた。 地図を描いて教えてくれた。
車で連れて行ってやると言ってくれたが、濡れた道が凍っていたので、迷惑かけたら申し訳ないから、遠慮した。

再度、500㍍ほど歩いたら、ここに来た。 道は、ここから山道に。

急な登りが続いた。 当時はまだ、靴はなく、草鞋(わらじ)のようだ。

1日に歩いた正確な距離は分からないが、直線でも20㌔程ある。
1862年の3月20日には、少なくとも30㌔は歩いている。 山道の1㌔は遠い。

突然、タヌキが道を横切った。 10㍍程前方。 木の陰になった。 そっと近づいた。
あれ! いない。 化かされたかと思った。 そうしたら、穴があった。


龍馬は、何を思っていたのでしょう。 ここまで来たら、大丈夫、そんなことか。
※ 四国は、熊がいないから、山の中を歩いても、特別緊張しない。 イノシシのために、スプレーはリュックにあるが。

地図の横通りに着いた。 封事ヶ峠まであと800㍍だけど、ここで引き返した。
3時近くになっていた。 道に、雪があると思った。

龍馬たちは、あの山を越えて来た。

戻る時は、車道を戻った。 左に、シイタケの榾木(ほだぎ)。

龍馬にとって、自由に動くためには、脱藩が必要だった。
脱藩は、当時犯罪として扱われていた。
そのために、脱藩の道を歩いていた時は、緊張の時でもあった。
龍馬の魅力は、何なんでしょうね。
この後の龍馬の動きが、大政奉還や明治維新の時期に、大きな影響を与えることになるが。
人間的な魅力も大きい。 ずるさとかも、見つからないし。
※ お龍との九州の旅は、日本最初の新婚旅行と言われている。 ※ お龍(Wikpediaから)
龍馬は、寺田屋事件での親指の傷を、塩浸温泉で治す。 工事中の塩浸温泉。 一緒に見た犬飼の滝。
※ 龍馬の墓(京都霊山護国神社 高台寺の上 龍馬は左 右は、一緒に襲われた、中岡慎太郎)
※ 座ってる龍馬(Wikipediaから 最後の年か)
龍馬の人生、残り、5年と8カ月。
【道の駅】 清流の里ひじかわ 3日目です。
【明日の予定】 内子町に行きます。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、こちらです。
【動画】
御幸の橋へ ※ 御幸の橋に着いたのだが、気付いていない。
【ランキング】 国内旅行は、5位、 旅行全体で9位です。 放浪の旅は32位です。
記事は役立ったでしょうか。
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コメント
龍馬の魅力
Re: 龍馬の魅力
四国は、この時期でも、陽の当たる所は温かいです。
日向ぼっこしているお年寄りに、時々会った。
だから、狭い地域の中で、7~8人と話した。
山から下りて来た時、みんな、ちゃんと行ってきたかい、と声をかけてくれた。
帰りは、車の窓を開けて、みんなに挨拶しながら戻った。
夏の暑い時は、橋の屋根が日陰を作ってくれる。
川の音は、涼しさをくれる。
屋根付き橋の上は、一休みには、ちょうどいい。
昨年の大河ドラマは、一度も見ていない。
日向ぼっこしているお年寄りに、時々会った。
だから、狭い地域の中で、7~8人と話した。
山から下りて来た時、みんな、ちゃんと行ってきたかい、と声をかけてくれた。
帰りは、車の窓を開けて、みんなに挨拶しながら戻った。
夏の暑い時は、橋の屋根が日陰を作ってくれる。
川の音は、涼しさをくれる。
屋根付き橋の上は、一休みには、ちょうどいい。
昨年の大河ドラマは、一度も見ていない。
ながながと駄文を
何故、橋に屋根が ・・・
調べてみましたが
明確にその目的を記述したものが
みつかりません。
そこで
・木造の橋ゆえ、その腐食を避け、橋の寿命を伸ばすため
・平地が少ないこともあり、
・川の両岸に住む人達の交流の場
・集会所の役割も果たすようになったのでは
と考え、
納得することにしました。
> ブログを要領よく書いて、
> 時間を生みだしたいです。
> 書くのは、面白いんだけど、・・・。
> 小さな目的でいいから、
> 歩くのがいいですね。
> 天気が良くて、
> 花があったら理想。
私は、残りのオマケの人生 ・・・
あれこれ、考えてみましたが
その時々
その日々
自分が面白いと思うことに
時間を費やして
天寿まで
生きていくことにしました
先を急ぐ旅ではないので
車は移動の手段にすぎず
そこに美しい景色があり
そこに美しい花があれば
ゆるりとめて ・・・
そこに人がいれば
ゆるりと語らい
それができるのが
キャンピングカーでの旅の
いいところ ・・・
だんだん
そんな
旅のスタイルに変化して
きました
ながながと駄文にて失礼!
調べてみましたが
明確にその目的を記述したものが
みつかりません。
そこで
・木造の橋ゆえ、その腐食を避け、橋の寿命を伸ばすため
・平地が少ないこともあり、
・川の両岸に住む人達の交流の場
・集会所の役割も果たすようになったのでは
と考え、
納得することにしました。
> ブログを要領よく書いて、
> 時間を生みだしたいです。
> 書くのは、面白いんだけど、・・・。
> 小さな目的でいいから、
> 歩くのがいいですね。
> 天気が良くて、
> 花があったら理想。
私は、残りのオマケの人生 ・・・
あれこれ、考えてみましたが
その時々
その日々
自分が面白いと思うことに
時間を費やして
天寿まで
生きていくことにしました
先を急ぐ旅ではないので
車は移動の手段にすぎず
そこに美しい景色があり
そこに美しい花があれば
ゆるりとめて ・・・
そこに人がいれば
ゆるりと語らい
それができるのが
キャンピングカーでの旅の
いいところ ・・・
だんだん
そんな
旅のスタイルに変化して
きました
ながながと駄文にて失礼!
屋根のある橋が日本にも存在してたとは、初めて知りました。映画「マディソン郡の橋」では、屋根のある橋を取材している放浪の写真家が主人公ですね。珍しい写真をありがとう。
Re: ながながと駄文を
橋の屋根のことですが、神社の所のは、
お参りに来る人が、せめて、橋の上だけでも雨が当たらないように、と考えたようです。
橋の上は、見晴らしがいいから、椅子を置いてみた。
狭い谷で暮らしていたら、橋の上が、一番見通しがいい。
屋根があったら、日差しの強い日も、雨の日も、いることが出来る。
日本中見終わったら、一日写真3枚のブログに変える。
のんびり、のんびり、過す。
全部見終わる前に、疲れるかもしれない。
また、読んでくれる人がいなくなった時も、考えるか。
でも、今の形を、やれる日まで続けてみようと思う。
ブログを書き始めて、まもなく3年。
あれ以来、夜ゆっくりテレビを見たことない。
いつも、時間がたりない。
キャンピングカーの生活で、どんなのがいいか、時々考えてみましょうか。
お参りに来る人が、せめて、橋の上だけでも雨が当たらないように、と考えたようです。
橋の上は、見晴らしがいいから、椅子を置いてみた。
狭い谷で暮らしていたら、橋の上が、一番見通しがいい。
屋根があったら、日差しの強い日も、雨の日も、いることが出来る。
日本中見終わったら、一日写真3枚のブログに変える。
のんびり、のんびり、過す。
全部見終わる前に、疲れるかもしれない。
また、読んでくれる人がいなくなった時も、考えるか。
でも、今の形を、やれる日まで続けてみようと思う。
ブログを書き始めて、まもなく3年。
あれ以来、夜ゆっくりテレビを見たことない。
いつも、時間がたりない。
キャンピングカーの生活で、どんなのがいいか、時々考えてみましょうか。
Re: タイトルなし
マディソン郡の橋の写真を見ました。 屋根がありますね。 初めて知りました。
このブログに、マディソン郡の恋を、載せたことあります。
内子にも、屋根付き橋があります。
明日見てきます。
明日のブログに、歌と、映画を載せましょうか。
このブログに、マディソン郡の恋を、載せたことあります。
内子にも、屋根付き橋があります。
明日見てきます。
明日のブログに、歌と、映画を載せましょうか。
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去年、京都へ行ったとき坂本龍馬のお墓と記念館みたいな所へ立ち寄りました。高台寺の上。
坂本龍馬の魅力って大河ドラマの 龍馬伝 の福山雅治をどうしてもイメージしてしまうのですが、武士=真面目でお堅い自分を作る。という武士像から逸脱して人と接する事ができた武士だったのかな。
当時は、白い物も黒と言わなくちゃいけない時代に、白い物は白と説得できたのでしょう。下級武士だった事がよかったかもしれませんね。
秀吉みたいな 人たらし的 な一面もあったような気がします。
dream come true を普通に実行しちゃうみたな人には現代人でも引きつけられますよね。
三嶋橋。いいですね。
このような風流な場所で一杯飲んでみたいものです。川のせせらぎを聞きながら。