ここは、四国西部の山の中。
愛媛県だけど、四万十川の支流の上流域にある。
川は、西の宇和島の方に向かって流れたが、岩の山にはね返されて、高知の四万十川に合流した。
昔は、日吉村だった。 村から外に出る、車が通れる道が出来たのは、大正2年だそう。
それまで、陸の孤島。 ここは、そんな山の中。
武佐衛門一揆記念館に向かった。 真っ直ぐ行ったら、大洲に。 途中、先日行った肱川を通る。
右に曲がったら、檮原(ゆすはら)に。 峠を越えたら高知。
この地域の地図はない。 ※ 町のHPにも見つからない。
人に聞きながら歩いた。
中央が、武佐衛門一揆記念館。 右に、日吉住民センターがあり、そこで受付。
ちょうど、講演会の受付中だった。
その流れに乗った感じで、私も聞いてしまった。 1時間半。
演題は、「文化財を活かした まちづくり」。 話された方は、高知県教育委員会の方。
たまに人の話を聞くのもいい。
話の中身は、古い家並みなどを、観光としてどう活かすか。
観光客が来て、お金を使ってもらうためには、どんな方法があるか。
この近辺では、内子が成功していると押さえていた。
雨切瓦の室戸市吉良川の町並みも、何度か登場した。
「観光地として成功するためには、どうすればいい」については、私も考えはあるつもり。
でも、私との違いは、考えが整理されていたことだった。 プロだと感じた。
私は、数えきれないほどの、町並みや観光地の取り組みを見てきた。
アイディアだったら、負けないかもしれない。 そうは思ったけどね。
一揆の像があった。
騒動というのは「多人数が騒ぎたてて秩序が乱れること」と辞書にはある。
つまり、藩側から見た時、騒動となる。 農民側から見たら、一揆になる。
では、ある程度、客観的に見たら、これはどっちなのかということになる。
百科事典や辞書は、武左衛門一揆としている。
ところが、宇和島市のHPでは、吉田騒動になっている。(吉田ふれあい 国安の郷 の説明で)
こうも書いてある。 商家の「法花津屋」について。
「紙の専売制の強化などにより、農民の怒りの対象とされ、寛政5年に吉田騒動(武左衛門一揆)が起こりました」
武佐衛門一揆の責任は、藩にではなく、法花津屋にあるようになっている。
法花津屋が勝手にやったのなら、指導力がなかった藩に大きな責任があるのに。
言葉の使い方で、どんな視点で見ているかが、見えてくる。
今日の動画の中で、私は、この一揆を吉田騒動と言ったが、間違いですね。
どんな一揆かというと。こうです。 (三省堂 大辞林)
【武左衛門一揆】 ぶざえもんいっき
1973年、伊予国吉田藩で藩の紙専売制に反対して起きた大規模な百姓一揆。
百姓武左衛門を指導者として、一揆は全藩領に広がり、農民側の勝利に終わったが、武左衛門は処刑された。
もう少し詳しいのは、こう。 武左衛門について。 (朝日日本歴史人物事典)
生年: 生年不詳
没年: 寛政6 (1794)
江戸中期の義民。
寛政5(1793)年伊予国(愛媛県)吉田藩に通称吉田騒動と呼ばれる百姓一揆が発生した。
吉田藩は特権商人と結託し,特産物である紙の専売化を計画し,紙生産者である小百姓に税を賦課し始めた。
百姓たちは,吉田藩の本家である宇和島藩への越訴を実行した。
このとき,一揆勢およそ9600人を指揮し,宇和島藩との交渉に当たった頭取が武左衛門である。
その結果百姓側の要求は全面的に受け入れられた。
しかし,吉田藩は頭取の追及を開始し,武左衛門は捕縛され,斬首のうえ獄門とされた。
後世,武左衛門に対する義民伝承が生まれた。
また大正8(1919)年には,顕彰碑も建立されている。 <参考文献>横山十四男『義民』
9600人を動かした。
赤い所が、吉田藩。 武左衛門のいた、日吉村は、一番右側。
浄瑠璃(じょうるり)語りになりすまし、信頼できる人物を探し歩いたそう。
24人の同志が集まった。 途中で密告されたらお終い。 信頼されていた、ということですね。
記念館で、映画の形のビデオを見た。
同士の一人が、法花津屋をつぶすと言った。
武左衛門は、一揆の目的を再度確認した。 生活をよくすることだと。
宇和島藩に、助けを求めることになる。
武佐衛門の魅力は、上に書いた部分でしょうね。
武佐衛門の夢は何だったのか、武佐衛門の言葉で知れたらよかったかな。
また、一揆の後、何が変わったのか。 その辺も知りたかった。
※ どこかにあったかも知れないが、見つけられなかった。
要求を認めたのは宇和島藩、吉田藩は分家とはいえ、どうもおかしい。
島原の乱は、こうだった。
「戦うしか生きる道はない」と考え、戦った。
生きるとは、人間らしく生きること。
現実には、高いレベルのものではなかったと思う。
でも、クリスチャンであったから、理想の世界も知っていた。
わらび座の「天草四郎」は、「理想の世界の夢」を遠くに見て戦ったとした。
その夢は、自由、平和、平等、愛 だった。
実際に乱の後、この天草・島原の地に住む人たちの生活は改善された。
戦いは、後の世に、活きた。
こんな感じの内容ですね、知りたかったことは。
ミュージカル天草四郎PV(ショートバージョン)
※ ブログ 明日を信じた人々の戦い「島原の乱」 他(5月7日)
この人の、人間的な魅力は、大きかったでしょうね。
目つきが、今の時代の目かな。 昔もこうなんだろうか。
こんな武器。 鉄砲はどのようにして、手に入れたのか。
江戸時代の一揆の数は、3200だそう。 野垂れ死にするなら、戦う。 そういうことか。
記念館の外から撮影。 向こうに行って、峠を越えたら、高知県の檮原。
神社が見えたので、行ってみた。
川は、向こうに流れる。 向こうから来た。
明星草庵とあった。
武佐衛門堂。
中はこう。
武佐衛門及び同志者碑。
古い家並みが残っている。
清流四万十川の支流の、上流。 四万十川に対する考えは、高知県の人と、違いはあるのか。
北方面。
武佐衛門一揆の大きな特徴は、宇和島藩がすべて聞き入れてくれたこと。
処罰しないことも、決まっていた。
でも、吉田藩は守らなかった。
人をまとめる力って、何でしょうね。
今の時代、どこの政党も大変。 まとめられないから、喧嘩ばっかり。
司馬遼太郎は、この一揆ついて、「街道をゆく」に書いたそう。
読んでみたいですね。
もし、司馬遼太郎が、武左衛門を小説にしたら、どんな内容にしたでしょう。
叶わぬ、夢。
※ 武佐衛門一揆について、詳しくは、このHPに載っています。
【道の駅】 日吉夢産地
【明日の予定】 この町を歩いてみます。
【動画akkamui】 道の駅 日吉夢産地へ
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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愛媛県だけど、四万十川の支流の上流域にある。
川は、西の宇和島の方に向かって流れたが、岩の山にはね返されて、高知の四万十川に合流した。
昔は、日吉村だった。 村から外に出る、車が通れる道が出来たのは、大正2年だそう。
それまで、陸の孤島。 ここは、そんな山の中。
武佐衛門一揆記念館に向かった。 真っ直ぐ行ったら、大洲に。 途中、先日行った肱川を通る。
右に曲がったら、檮原(ゆすはら)に。 峠を越えたら高知。

この地域の地図はない。 ※ 町のHPにも見つからない。
人に聞きながら歩いた。

中央が、武佐衛門一揆記念館。 右に、日吉住民センターがあり、そこで受付。

ちょうど、講演会の受付中だった。
その流れに乗った感じで、私も聞いてしまった。 1時間半。
演題は、「文化財を活かした まちづくり」。 話された方は、高知県教育委員会の方。

たまに人の話を聞くのもいい。
話の中身は、古い家並みなどを、観光としてどう活かすか。
観光客が来て、お金を使ってもらうためには、どんな方法があるか。
この近辺では、内子が成功していると押さえていた。
雨切瓦の室戸市吉良川の町並みも、何度か登場した。
「観光地として成功するためには、どうすればいい」については、私も考えはあるつもり。
でも、私との違いは、考えが整理されていたことだった。 プロだと感じた。
私は、数えきれないほどの、町並みや観光地の取り組みを見てきた。
アイディアだったら、負けないかもしれない。 そうは思ったけどね。
一揆の像があった。

騒動というのは「多人数が騒ぎたてて秩序が乱れること」と辞書にはある。
つまり、藩側から見た時、騒動となる。 農民側から見たら、一揆になる。
では、ある程度、客観的に見たら、これはどっちなのかということになる。
百科事典や辞書は、武左衛門一揆としている。
ところが、宇和島市のHPでは、吉田騒動になっている。(吉田ふれあい 国安の郷 の説明で)
こうも書いてある。 商家の「法花津屋」について。
「紙の専売制の強化などにより、農民の怒りの対象とされ、寛政5年に吉田騒動(武左衛門一揆)が起こりました」
武佐衛門一揆の責任は、藩にではなく、法花津屋にあるようになっている。
法花津屋が勝手にやったのなら、指導力がなかった藩に大きな責任があるのに。
言葉の使い方で、どんな視点で見ているかが、見えてくる。
今日の動画の中で、私は、この一揆を吉田騒動と言ったが、間違いですね。

どんな一揆かというと。こうです。 (三省堂 大辞林)
【武左衛門一揆】 ぶざえもんいっき
1973年、伊予国吉田藩で藩の紙専売制に反対して起きた大規模な百姓一揆。
百姓武左衛門を指導者として、一揆は全藩領に広がり、農民側の勝利に終わったが、武左衛門は処刑された。

もう少し詳しいのは、こう。 武左衛門について。 (朝日日本歴史人物事典)
生年: 生年不詳
没年: 寛政6 (1794)
江戸中期の義民。
寛政5(1793)年伊予国(愛媛県)吉田藩に通称吉田騒動と呼ばれる百姓一揆が発生した。
吉田藩は特権商人と結託し,特産物である紙の専売化を計画し,紙生産者である小百姓に税を賦課し始めた。
百姓たちは,吉田藩の本家である宇和島藩への越訴を実行した。
このとき,一揆勢およそ9600人を指揮し,宇和島藩との交渉に当たった頭取が武左衛門である。
その結果百姓側の要求は全面的に受け入れられた。
しかし,吉田藩は頭取の追及を開始し,武左衛門は捕縛され,斬首のうえ獄門とされた。
後世,武左衛門に対する義民伝承が生まれた。
また大正8(1919)年には,顕彰碑も建立されている。 <参考文献>横山十四男『義民』
9600人を動かした。
赤い所が、吉田藩。 武左衛門のいた、日吉村は、一番右側。

浄瑠璃(じょうるり)語りになりすまし、信頼できる人物を探し歩いたそう。
24人の同志が集まった。 途中で密告されたらお終い。 信頼されていた、ということですね。
記念館で、映画の形のビデオを見た。
同士の一人が、法花津屋をつぶすと言った。
武左衛門は、一揆の目的を再度確認した。 生活をよくすることだと。
宇和島藩に、助けを求めることになる。

武佐衛門の魅力は、上に書いた部分でしょうね。
武佐衛門の夢は何だったのか、武佐衛門の言葉で知れたらよかったかな。
また、一揆の後、何が変わったのか。 その辺も知りたかった。
※ どこかにあったかも知れないが、見つけられなかった。
要求を認めたのは宇和島藩、吉田藩は分家とはいえ、どうもおかしい。
島原の乱は、こうだった。
「戦うしか生きる道はない」と考え、戦った。
生きるとは、人間らしく生きること。
現実には、高いレベルのものではなかったと思う。
でも、クリスチャンであったから、理想の世界も知っていた。
わらび座の「天草四郎」は、「理想の世界の夢」を遠くに見て戦ったとした。
その夢は、自由、平和、平等、愛 だった。
実際に乱の後、この天草・島原の地に住む人たちの生活は改善された。
戦いは、後の世に、活きた。
こんな感じの内容ですね、知りたかったことは。
ミュージカル天草四郎PV(ショートバージョン)
※ ブログ 明日を信じた人々の戦い「島原の乱」 他(5月7日)
この人の、人間的な魅力は、大きかったでしょうね。
目つきが、今の時代の目かな。 昔もこうなんだろうか。

こんな武器。 鉄砲はどのようにして、手に入れたのか。

江戸時代の一揆の数は、3200だそう。 野垂れ死にするなら、戦う。 そういうことか。

記念館の外から撮影。 向こうに行って、峠を越えたら、高知県の檮原。

神社が見えたので、行ってみた。

川は、向こうに流れる。 向こうから来た。

明星草庵とあった。

武佐衛門堂。

中はこう。

武佐衛門及び同志者碑。

古い家並みが残っている。

清流四万十川の支流の、上流。 四万十川に対する考えは、高知県の人と、違いはあるのか。

北方面。

武佐衛門一揆の大きな特徴は、宇和島藩がすべて聞き入れてくれたこと。
処罰しないことも、決まっていた。
でも、吉田藩は守らなかった。
人をまとめる力って、何でしょうね。
今の時代、どこの政党も大変。 まとめられないから、喧嘩ばっかり。
司馬遼太郎は、この一揆ついて、「街道をゆく」に書いたそう。
読んでみたいですね。
もし、司馬遼太郎が、武左衛門を小説にしたら、どんな内容にしたでしょう。
叶わぬ、夢。
※ 武佐衛門一揆について、詳しくは、このHPに載っています。
【道の駅】 日吉夢産地
【明日の予定】 この町を歩いてみます。
【動画akkamui】 道の駅 日吉夢産地へ
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

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コメント
一揆
おはようございます
梼原より西は全く行った事がありません。どんな所か楽しみです。
この後は梼原方面、四国カルスト(雪がなければ)でしょうか。もし、四国カルストに行く場合は道の駅ゆすはらから197号を3Kくらい東に走って東津野城川林道(完全2車線)を北に行けば楽にカルストまで行けます。国道は狭くて走りにくいです。(因みに439号*よさく*は酷道と呼ばれていますので。)
この後は梼原方面、四国カルスト(雪がなければ)でしょうか。もし、四国カルストに行く場合は道の駅ゆすはらから197号を3Kくらい東に走って東津野城川林道(完全2車線)を北に行けば楽にカルストまで行けます。国道は狭くて走りにくいです。(因みに439号*よさく*は酷道と呼ばれていますので。)
Re: 一揆
私にとって、ガソリン(経由)の値段は、生命線。
暫定税率廃止の話も、どこかに消えた。
昔は民主政治でないし、憲法なんてなかったから、強いものが天下をとることは、仕方ない。
それでも、農民のためにそれなりのことを考えた藩は、いっぱいあった。
吉田藩はひど過ぎた、と言うことでしょうか。
今の時代も、問題はあるんでしょうね。
庶民は実際には、給料の倍以上の働きをしている。
みんなで作り上げた富が、偏って分配されている。
パートで人を働かす仕組みが出来上がった。
これもひどい。
暫定税率廃止の話も、どこかに消えた。
昔は民主政治でないし、憲法なんてなかったから、強いものが天下をとることは、仕方ない。
それでも、農民のためにそれなりのことを考えた藩は、いっぱいあった。
吉田藩はひど過ぎた、と言うことでしょうか。
今の時代も、問題はあるんでしょうね。
庶民は実際には、給料の倍以上の働きをしている。
みんなで作り上げた富が、偏って分配されている。
パートで人を働かす仕組みが出来上がった。
これもひどい。
Re: おはようございます
山の中の細い道は、行きたくない。
高い所は、雪が残っているかも。
また山に登る時に来るから、その時でも、いいかな。 カルストとかは。
先日の雨が、一気に雪を溶かしました。
風景から、消えました。
海沿いに比べたら、山の中は、少し寒いですね。 夜は特に。
R439は地図でも道が細いので、行きません。
山の中の峠は、きっと雪がある。
太い国道は、峠はなく、トンネル。
高い所は、雪が残っているかも。
また山に登る時に来るから、その時でも、いいかな。 カルストとかは。
先日の雨が、一気に雪を溶かしました。
風景から、消えました。
海沿いに比べたら、山の中は、少し寒いですね。 夜は特に。
R439は地図でも道が細いので、行きません。
山の中の峠は、きっと雪がある。
太い国道は、峠はなく、トンネル。
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昔の武器は槍や鎌。今の武器はインターネット。
時代が変わりました。灯油、ガソリンが上がらねばいいのですが。少し上がっていますね。