札幌に来ている。
お世話になっているTさんが、珍しい家並みがあるって、案内してくれた。
途中に、ロイズの工場。
お店に、本庄陸男の紹介。
ここが、生誕の地だという。
彼は、「石狩川」という小説を書いたことで、知られる。
説明を読んだら、面白いことが。
8歳の時から、渚滑村に住んだとある。
それは、今の、紋別市上渚滑のこと。
私の最後に住んだところ。
何も知らなかったので、調べてみた。
分かった部分、書いてみます。
携帯を新しくしました。
かけ放題の、安いのを。
初めて、スマホ。
※ ※ ※ ※ ブログタイトル一覧は、右をクリック。
( 写真の上にカーソルを置いて、open になってクリックしたら、一瞬に大きく。 再度クリックしたら、元に )
※ 10日の日、カメラをどこかに置き忘れて、少し大変。
11日に見つかって、受け取りに。
携帯とカメラで、少しバタバタ。
Tさんの車で、当別町に向かった。
(Tさんは、中島みゆきの北の旅人の編曲。 北の岬の作曲。 東日本大震災写真集 「無言歌」 の作曲)
広い、石狩平野を走る。
チョコレートのロイズの工場があるよって、寄った。
ロイズ、ふとみ工場。 ※ この辺りは、当別町太美。 太美駅もある。
ロイズは、チョコレートのお菓子を作っている。
例えば、こんなの。 空港とかでも、売っている。 私は好き。
ふと美工場直売店。
チョコレートは見ただけで、買わなかった。
本庄陸男(ほんじょうむつお)の紹介。 昔、工場の敷地の中に、彼の生まれた家があった。
上の上の写真の、右端に、小さく記念碑が見える。
8歳の時に、渚滑村に行っている。 渚滑(しょこつ)村は、今の、紋別市上渚滑。
私の最後の職場は、そこにあった。
毎年、遊びに行く。 明日のミュージカルに出る娘さんは、上渚滑。
本庄陸男の本は、読んだことない。
北海道人が、北海道を舞台にして書いた作品。
それが特徴だそう。
それまでは、北海道を旅して書いた作品が多かった。 石川啄木がそう。
石狩川には、自分の経験が生かされているそう。
つまり、上渚滑の生活も。
調べてみたら、入植した場所は、上和訓辺。 印の場所に、小学校があった。
開校の時に、いた。 5年生。
学校の場所は、上渚滑の市街地から、6㌔程。
彼の家は、学校より、もう少し奥にあったよう。
川が2つに分かれているが、どっちの川沿いかは、分からない。
どっちにも、昔は家があって、今も道はある。 私は、魚釣りで、時々行った。
6㌔程入ると、この場所に来る。
見える建物は、教員住宅。 道の近くに、学舎の里という、閉校記念碑がある。
校舎は、この近くだったよう。
見える建物の、右後ろの方に、奉安殿が残っている。(天皇の写真があったところ)
戦後、神社として使われたため、解体を免れた。
向こうから来た。
このように、少し高い所に、建物がある。
これが校舎なのかは、はっきりしない。 奉安殿が遠すぎるから、違うかな。
校舎でなければ、一般の住宅か。 校舎っぽい感じもする。
和訓辺小学校は、 大正4年6月12日開校。 昭和51年3月31日閉校。
スタートは、上渚滑小学校の、分校の感じで。
※ 正確な、開校当時の名前は、第三渚滑尋常小学校付属和訓辺特別教授場。
下は、今の、上渚滑小学校。 5年前まで、私はいた。 昔は、上にある、第三渚滑尋常小学校。
本庄陸男を、整理しますね。
① 1913(大正2)年 尋常小学校3年生の時、上和訓辺に。 早生まれなので、8歳の時。
この時は、上和訓辺に学校はない。
上渚滑小学校に、通う。 8㌔程、歩いたそう。
渚滑川に橋がないので、渡船で。
② 1915(大正4)年。 上和訓辺に、小学校が出来る。 そこに通う。 尋常小学校5年生。 10歳。
③ 1917(大正6)年 小学校を卒業して、紋別尋常高等小学校に、入学。 12歳。
※ 今の、紋別小学校にあった。(この学校にも、私は勤めたことが。 8年間)
8㌔歩いて、バスで紋別まで通うのは大変。 下宿かも知れない。
③ 1919(大正8)年 高等小学校を卒業して、母校の上渚滑小学校に、勤める。 14歳。 代用教員。
※ 彼の教え子が、子供が子供を教えているみたいっだったと・・。
③ 1921(大正10)年 樺太の師範学校に進む。 16歳。
こんなことで、多感な時代を、上和訓辺、上渚滑、紋別で過ごしていた。
彼の墓は、上渚滑小学校に近い、西振寺にある。
34歳の時、結核で亡くなっている。
私は、上のことを、今日まで、何も知らなかった。
上渚滑小学校の卒業証書台帳には、本庄陸男の名前がきっとある。 永久保存なので。
知っていたら、勤務時代、見ることが出来た。
下は、上和訓辺に残っている、駅逓(えきてい)。 旅人が休んだり、泊まったり。
スウェーデンヒルズに、向かった。 この名前は、地名。
こんな家並み。 スウェーデン風の家だそう。
電柱がない。 土地が広い。 家の雰囲気が、共通している。
730人が暮らしている。 日本の中で、別世界。 店も見当たらなかった。
町並みの雰囲気を統一するのは、時々見ますね。
近くでは、美瑛町、層雲峡など。
思わぬところで、本庄陸男という人に、出会いました。
いつか、石狩川を読んでみます。
上和訓辺で生きた時代が、出て来るかも知れないので。
石狩川は、青空文庫にあります。 下です。
「石狩川」全文。
【関連ブログ】 最後の故郷 上渚滑町 ~散策 盆踊り お酒 紋別市~ 他 (2010/8/14)
【その他】 昨日の9日、徳島県で土砂崩れがあり、600人が孤立しました。
孤立した場所は、椿泊(つばきどまり)です。
崖崩れは、印の場所辺り。
椿泊まりほど、狭い道を車が通る集落は、他では知らない。
椿泊の町並みを歩く。 窓の手摺。 狭い道。 阿波水軍の本拠地。~阿南市~ 他 (2014/4/10)
【今日の歌】 一瞬の夏 西島三重子
【停泊場所】 Tさんの家の前
【明日の予定】 子供ミュージカルを見る。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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お世話になっているTさんが、珍しい家並みがあるって、案内してくれた。
途中に、ロイズの工場。
お店に、本庄陸男の紹介。
ここが、生誕の地だという。
彼は、「石狩川」という小説を書いたことで、知られる。
説明を読んだら、面白いことが。
8歳の時から、渚滑村に住んだとある。
それは、今の、紋別市上渚滑のこと。
私の最後に住んだところ。
何も知らなかったので、調べてみた。
分かった部分、書いてみます。
携帯を新しくしました。
かけ放題の、安いのを。
初めて、スマホ。
※ ※ ※ ※ ブログタイトル一覧は、右をクリック。

( 写真の上にカーソルを置いて、open になってクリックしたら、一瞬に大きく。 再度クリックしたら、元に )
※ 10日の日、カメラをどこかに置き忘れて、少し大変。
11日に見つかって、受け取りに。
携帯とカメラで、少しバタバタ。
Tさんの車で、当別町に向かった。
(Tさんは、中島みゆきの北の旅人の編曲。 北の岬の作曲。 東日本大震災写真集 「無言歌」 の作曲)
広い、石狩平野を走る。
チョコレートのロイズの工場があるよって、寄った。
ロイズ、ふとみ工場。 ※ この辺りは、当別町太美。 太美駅もある。

ロイズは、チョコレートのお菓子を作っている。
例えば、こんなの。 空港とかでも、売っている。 私は好き。

ふと美工場直売店。

チョコレートは見ただけで、買わなかった。
本庄陸男(ほんじょうむつお)の紹介。 昔、工場の敷地の中に、彼の生まれた家があった。
上の上の写真の、右端に、小さく記念碑が見える。

8歳の時に、渚滑村に行っている。 渚滑(しょこつ)村は、今の、紋別市上渚滑。
私の最後の職場は、そこにあった。
毎年、遊びに行く。 明日のミュージカルに出る娘さんは、上渚滑。

本庄陸男の本は、読んだことない。
北海道人が、北海道を舞台にして書いた作品。
それが特徴だそう。
それまでは、北海道を旅して書いた作品が多かった。 石川啄木がそう。
石狩川には、自分の経験が生かされているそう。
つまり、上渚滑の生活も。


調べてみたら、入植した場所は、上和訓辺。 印の場所に、小学校があった。
開校の時に、いた。 5年生。
学校の場所は、上渚滑の市街地から、6㌔程。
彼の家は、学校より、もう少し奥にあったよう。
川が2つに分かれているが、どっちの川沿いかは、分からない。
どっちにも、昔は家があって、今も道はある。 私は、魚釣りで、時々行った。
6㌔程入ると、この場所に来る。
見える建物は、教員住宅。 道の近くに、学舎の里という、閉校記念碑がある。
校舎は、この近くだったよう。
見える建物の、右後ろの方に、奉安殿が残っている。(天皇の写真があったところ)
戦後、神社として使われたため、解体を免れた。

向こうから来た。

このように、少し高い所に、建物がある。

これが校舎なのかは、はっきりしない。 奉安殿が遠すぎるから、違うかな。
校舎でなければ、一般の住宅か。 校舎っぽい感じもする。

和訓辺小学校は、 大正4年6月12日開校。 昭和51年3月31日閉校。
スタートは、上渚滑小学校の、分校の感じで。
※ 正確な、開校当時の名前は、第三渚滑尋常小学校付属和訓辺特別教授場。
下は、今の、上渚滑小学校。 5年前まで、私はいた。 昔は、上にある、第三渚滑尋常小学校。

本庄陸男を、整理しますね。
① 1913(大正2)年 尋常小学校3年生の時、上和訓辺に。 早生まれなので、8歳の時。
この時は、上和訓辺に学校はない。
上渚滑小学校に、通う。 8㌔程、歩いたそう。
渚滑川に橋がないので、渡船で。
② 1915(大正4)年。 上和訓辺に、小学校が出来る。 そこに通う。 尋常小学校5年生。 10歳。
③ 1917(大正6)年 小学校を卒業して、紋別尋常高等小学校に、入学。 12歳。
※ 今の、紋別小学校にあった。(この学校にも、私は勤めたことが。 8年間)
8㌔歩いて、バスで紋別まで通うのは大変。 下宿かも知れない。
③ 1919(大正8)年 高等小学校を卒業して、母校の上渚滑小学校に、勤める。 14歳。 代用教員。
※ 彼の教え子が、子供が子供を教えているみたいっだったと・・。
③ 1921(大正10)年 樺太の師範学校に進む。 16歳。
こんなことで、多感な時代を、上和訓辺、上渚滑、紋別で過ごしていた。
彼の墓は、上渚滑小学校に近い、西振寺にある。
34歳の時、結核で亡くなっている。
私は、上のことを、今日まで、何も知らなかった。
上渚滑小学校の卒業証書台帳には、本庄陸男の名前がきっとある。 永久保存なので。
知っていたら、勤務時代、見ることが出来た。
下は、上和訓辺に残っている、駅逓(えきてい)。 旅人が休んだり、泊まったり。

スウェーデンヒルズに、向かった。 この名前は、地名。
こんな家並み。 スウェーデン風の家だそう。

電柱がない。 土地が広い。 家の雰囲気が、共通している。

730人が暮らしている。 日本の中で、別世界。 店も見当たらなかった。

町並みの雰囲気を統一するのは、時々見ますね。
近くでは、美瑛町、層雲峡など。
思わぬところで、本庄陸男という人に、出会いました。
いつか、石狩川を読んでみます。
上和訓辺で生きた時代が、出て来るかも知れないので。
石狩川は、青空文庫にあります。 下です。
「石狩川」全文。
【関連ブログ】 最後の故郷 上渚滑町 ~散策 盆踊り お酒 紋別市~ 他 (2010/8/14)
【その他】 昨日の9日、徳島県で土砂崩れがあり、600人が孤立しました。
孤立した場所は、椿泊(つばきどまり)です。
崖崩れは、印の場所辺り。
椿泊まりほど、狭い道を車が通る集落は、他では知らない。
椿泊の町並みを歩く。 窓の手摺。 狭い道。 阿波水軍の本拠地。~阿南市~ 他 (2014/4/10)
【今日の歌】 一瞬の夏 西島三重子
【停泊場所】 Tさんの家の前
【明日の予定】 子供ミュージカルを見る。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

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