1862年3月24日、龍馬は高知を出発。 澤村惣之丞と一緒に。 ※ 惣之丞~そうのじょう
翌25日に、檮原の那須俊平の家に着いた。 ※ 檮原~ゆすはら
夜酒を飲み、日本の未来を語り合う。
次の日、一気に韮ヶ峠を越え、脱藩する。 ※ 韮ヶ峠~にらがとうげ
昨晩お世話になった I さんに、出発するので、挨拶に行った。
自分の田んぼを見せてくれた。 一番小さいのは、これ。 五右衛門風呂より少し大きい。
※ 棚田を見ながら、以前から、最小の田んぼを探していた。 今のところ、これがチャンピオン。
(写真は、クリックで大きくなります)
檮原は、龍馬の脱藩の拠点と言っていい。 伊予との県境まで、遠くはない。
ここは、大河ドラマ檮原会場、とあった。 会館に向けて準備していた。
地図や資料をいただいた。 見学コースのアドバイスも。
直ぐ近くに、ゆすはら座があった。 少しだけ見た。
いつも前を撮るので、今回は後ろ。 劇場は、どこも似てますね。
保存に成功したので、次は中身ですね。 定期的に、何かが演じられると言い。
とにかく、使わないと、生きないかな。 ※ 秋田県小坂の康楽館は、大衆演劇も。
町の西側の丘に上がってきた。
脱藩の道は、後ろから来て、写真の右の方を通って、正面の山に登り、左の谷を行く。 韮ヶ峠に。
※ 鬼北町、そして宇和島への道は、写真の左の方に。
明治維新の先駆けとなった、6人の志士の分霊を祀ったお墓とあった。
後ほど紹介する、維新の像は、8人。 高知から来た龍馬と澤村惣之丞を除いた6名。
脱藩の道。 もちろん、当時は細い道。 向こうから来た。
建物は、茶堂。 だれでもが、休むことが出来る。 昔は、村々にあった。
維新の門の、8名の中の、掛橋和泉邸。 「姫隠しの間」と言う、隠し部屋があった。
地図の北の方にある、三嶋神社。 屋根付き橋があって、名前は、神幸橋(みゆきばし)。
※ 大洲市の河辺町にあったのは、御幸の橋(みゆきのはし)。
檮原川が流れている。 魚がいっぱい。 四万十川の支流。 魚も気持ちよさそう。
暑いので、上着は、腰に縛り付けている。 魚でなく私が。
鳥居の後ろの右に、大きな木が見える。 ハリモミという木だそう。 別名、朝鮮松とも。
長宗我部軍が、朝鮮遠征の時、持って来たそう。 400年前。
三嶋神社で行われている、津野山神楽。 ※ 檮原町では、他でも、
脱藩の道は、神幸橋を渡って、左の山に入る。
地図の左の方から見た、檮原の市街。 脱藩の道は、左奥の谷からこっちへ。
山を下る。
大庄屋の中平善之進と言う人の墓。 農民の暮らしが苦しく上訴しようとしたら密告され、打ち首。
打ち首の場所は、昨日のブログにあった所。 おばあちゃんたちのいた、近く。
藩から打ち首はしなくていいという通知が出た。 届いたのは、打ち首の終わった直後だった。
この後行く維新の門の像は、城のような建物の後ろの右に。
これが、その像。 圧倒される何かがある。 突き進む勢いも。
左から
前田繁馬 吉村虎太郎(後) 那須信吾(前) 中平龍之介(低い姿勢) 掛橋和泉(一番後) 澤村惣之丞 坂本龍馬 那須俊平
龍馬。
那須俊平。 この人は、今の内子町まで行く。
※ その途中の、大洲市川辺町にあった像。 右が那須俊平。左は澤村惣之丞。
那須信吾。 この人は、韮ヶ峠で引き返す。 ある人の暗殺のためか。(?)
8人は、こんな人。
後ろから。 韮ヶ峠は、写真左に見える沢を行く。 向こうに、長州、そして日本の未来がある。
いい像でしたね。 作者は、一人ひとりを調べつくしている感じがした。
作者の名前は、浜田浩造。 高知県を中心に活躍した人。
詳しいことは分からなかったが、像を作る時の考えが、YouTubeに載っていた。
車で少し移動して、龍馬が宿泊した、那須俊平の屋敷跡に向かった。
近くにあった、那須俊平と信吾の墓。 右の上に。 ※ 俊平は、禁門の変で死ぬ。 御所の下の方で。 (鷹司殿のそば)
檮原の市街地に向かっている。 脱藩の道は、左下から上がって来て、向こうに。
那須俊平の家は、左下を下りた所にあった。
ここ。 下に国道が通っている。
反対側から撮影。 池などが、残っていた。
槍(やり)の道場があった。 25日の晩、ここで酒を飲んで語る。
いよいよ明日、脱藩する。 そんな日。
※ なお、龍馬と惣之丞は、24日と25日の2日間で、140㌔を歩いた。
時速5㌔の速足だったとしても、1日、14時間は歩いている。
新暦では、4月22日と23日なので、結構明るい時間は、長い。
この晩、龍馬は、こんな歌を詠む。
「春くれて 五月まつ間の ほととぎす 初音をしのべ 深山津野里」
ネットで解釈を探したが、見つからない。
ホトトギスについて、調べてみた。
ホトトギスが鳴いたら、卯の花が咲いて、夏が来たと、言えるそう。
その年に初めて聞くホトトギスの鳴き声を、忍音(しのびね)といい、珍重された。 初音のこと。
※ 「夏は来ぬ」は、こんな歌。 ※ 来ぬは、来たの意味。
龍馬は、自分の願いが叶った時を、夏としたのではないでしょうか。
3月25日のこの日は、春の終わりで、5月は夏。 (龍馬は、旧暦で詠んでいる)
自分の夏は、もう少し先にある。 その時まで、鳴くのを待ってくれと。 (どうかな、自信はないが)
※ また、龍馬は、下の伝説を知っていたかもしれない。(Wikipedia)
古代の蜀国の帝王だった杜宇は、ある事情で故郷を離れたが、さまよううちにその魂が変化してホトトギスになった。
そのため、ホトトギスは今も「不如帰(帰るにしかず)」と鳴いている、という。
※ 私は、一度だけ聞いたことがある。 特許許可局、と聞こえた。
近くに、8人の1人、前田繁馬の家の跡があった。 この写真は、そこから市街地方面を撮影。
那須俊平の家は、真ん中の山の手前の沢にあった。
龍馬がいなくても、大政奉還や明治維新はきっとあった。
でも、何年ずれたか分からない。 龍馬は、歴史を動かしていた。
龍馬の夢は、幕藩体制を倒して、天皇中心の世の中にするという、単純なものではなかった。
民主政治も龍馬の視野には入っていた。
ジョン万次郎は、土佐の人間。 きっと、龍馬も、広く世界を見ていたように思いますね。
檮原は、日本の夜明けの地、と言えそうです。
【道の駅】 ゆすはら
【明日の予定】 津野町を調べています。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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翌25日に、檮原の那須俊平の家に着いた。 ※ 檮原~ゆすはら
夜酒を飲み、日本の未来を語り合う。
次の日、一気に韮ヶ峠を越え、脱藩する。 ※ 韮ヶ峠~にらがとうげ
昨晩お世話になった I さんに、出発するので、挨拶に行った。
自分の田んぼを見せてくれた。 一番小さいのは、これ。 五右衛門風呂より少し大きい。
※ 棚田を見ながら、以前から、最小の田んぼを探していた。 今のところ、これがチャンピオン。
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檮原は、龍馬の脱藩の拠点と言っていい。 伊予との県境まで、遠くはない。
ここは、大河ドラマ檮原会場、とあった。 会館に向けて準備していた。
地図や資料をいただいた。 見学コースのアドバイスも。

直ぐ近くに、ゆすはら座があった。 少しだけ見た。

いつも前を撮るので、今回は後ろ。 劇場は、どこも似てますね。
保存に成功したので、次は中身ですね。 定期的に、何かが演じられると言い。
とにかく、使わないと、生きないかな。 ※ 秋田県小坂の康楽館は、大衆演劇も。

町の西側の丘に上がってきた。
脱藩の道は、後ろから来て、写真の右の方を通って、正面の山に登り、左の谷を行く。 韮ヶ峠に。
※ 鬼北町、そして宇和島への道は、写真の左の方に。

明治維新の先駆けとなった、6人の志士の分霊を祀ったお墓とあった。
後ほど紹介する、維新の像は、8人。 高知から来た龍馬と澤村惣之丞を除いた6名。

脱藩の道。 もちろん、当時は細い道。 向こうから来た。
建物は、茶堂。 だれでもが、休むことが出来る。 昔は、村々にあった。

維新の門の、8名の中の、掛橋和泉邸。 「姫隠しの間」と言う、隠し部屋があった。

地図の北の方にある、三嶋神社。 屋根付き橋があって、名前は、神幸橋(みゆきばし)。
※ 大洲市の河辺町にあったのは、御幸の橋(みゆきのはし)。

檮原川が流れている。 魚がいっぱい。 四万十川の支流。 魚も気持ちよさそう。
暑いので、上着は、腰に縛り付けている。 魚でなく私が。

鳥居の後ろの右に、大きな木が見える。 ハリモミという木だそう。 別名、朝鮮松とも。
長宗我部軍が、朝鮮遠征の時、持って来たそう。 400年前。

三嶋神社で行われている、津野山神楽。 ※ 檮原町では、他でも、
脱藩の道は、神幸橋を渡って、左の山に入る。

地図の左の方から見た、檮原の市街。 脱藩の道は、左奥の谷からこっちへ。

山を下る。

大庄屋の中平善之進と言う人の墓。 農民の暮らしが苦しく上訴しようとしたら密告され、打ち首。
打ち首の場所は、昨日のブログにあった所。 おばあちゃんたちのいた、近く。
藩から打ち首はしなくていいという通知が出た。 届いたのは、打ち首の終わった直後だった。
この後行く維新の門の像は、城のような建物の後ろの右に。

これが、その像。 圧倒される何かがある。 突き進む勢いも。

左から
前田繁馬 吉村虎太郎(後) 那須信吾(前) 中平龍之介(低い姿勢) 掛橋和泉(一番後) 澤村惣之丞 坂本龍馬 那須俊平
龍馬。

那須俊平。 この人は、今の内子町まで行く。
※ その途中の、大洲市川辺町にあった像。 右が那須俊平。左は澤村惣之丞。

那須信吾。 この人は、韮ヶ峠で引き返す。 ある人の暗殺のためか。(?)

8人は、こんな人。








後ろから。 韮ヶ峠は、写真左に見える沢を行く。 向こうに、長州、そして日本の未来がある。

いい像でしたね。 作者は、一人ひとりを調べつくしている感じがした。
作者の名前は、浜田浩造。 高知県を中心に活躍した人。
詳しいことは分からなかったが、像を作る時の考えが、YouTubeに載っていた。
車で少し移動して、龍馬が宿泊した、那須俊平の屋敷跡に向かった。
近くにあった、那須俊平と信吾の墓。 右の上に。 ※ 俊平は、禁門の変で死ぬ。 御所の下の方で。 (鷹司殿のそば)

檮原の市街地に向かっている。 脱藩の道は、左下から上がって来て、向こうに。
那須俊平の家は、左下を下りた所にあった。

ここ。 下に国道が通っている。

反対側から撮影。 池などが、残っていた。
槍(やり)の道場があった。 25日の晩、ここで酒を飲んで語る。
いよいよ明日、脱藩する。 そんな日。
※ なお、龍馬と惣之丞は、24日と25日の2日間で、140㌔を歩いた。
時速5㌔の速足だったとしても、1日、14時間は歩いている。
新暦では、4月22日と23日なので、結構明るい時間は、長い。

この晩、龍馬は、こんな歌を詠む。
「春くれて 五月まつ間の ほととぎす 初音をしのべ 深山津野里」
ネットで解釈を探したが、見つからない。
ホトトギスについて、調べてみた。
ホトトギスが鳴いたら、卯の花が咲いて、夏が来たと、言えるそう。
その年に初めて聞くホトトギスの鳴き声を、忍音(しのびね)といい、珍重された。 初音のこと。
※ 「夏は来ぬ」は、こんな歌。 ※ 来ぬは、来たの意味。
龍馬は、自分の願いが叶った時を、夏としたのではないでしょうか。
3月25日のこの日は、春の終わりで、5月は夏。 (龍馬は、旧暦で詠んでいる)
自分の夏は、もう少し先にある。 その時まで、鳴くのを待ってくれと。 (どうかな、自信はないが)
※ また、龍馬は、下の伝説を知っていたかもしれない。(Wikipedia)
古代の蜀国の帝王だった杜宇は、ある事情で故郷を離れたが、さまよううちにその魂が変化してホトトギスになった。
そのため、ホトトギスは今も「不如帰(帰るにしかず)」と鳴いている、という。
※ 私は、一度だけ聞いたことがある。 特許許可局、と聞こえた。
近くに、8人の1人、前田繁馬の家の跡があった。 この写真は、そこから市街地方面を撮影。
那須俊平の家は、真ん中の山の手前の沢にあった。

龍馬がいなくても、大政奉還や明治維新はきっとあった。
でも、何年ずれたか分からない。 龍馬は、歴史を動かしていた。
龍馬の夢は、幕藩体制を倒して、天皇中心の世の中にするという、単純なものではなかった。
民主政治も龍馬の視野には入っていた。
ジョン万次郎は、土佐の人間。 きっと、龍馬も、広く世界を見ていたように思いますね。
檮原は、日本の夜明けの地、と言えそうです。
【道の駅】 ゆすはら
【明日の予定】 津野町を調べています。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

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コメント
余談ですが・・・
Re: 余談ですが・・・
桜の季節ですね。
弘前の他は、日本海側では、秋田県の月山、象潟。
内陸では、米沢の少し南の、銀山温泉。 少し上がって、山寺。
また、中尊寺、遠野なども、お勧め。
頂上近くまでロープウェーのある山は、岩木山と蔵王。 ※ 蔵王のお釜は、車でも。
近づいたら、再度情報を。
その時は、湖でいい所は? とか、条件をください。
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これで沖縄以外全県制覇(今の愛車では北海道と沖縄以外)となります。弘前城も行く予定で現存12城も制覇します。
akkamui21さんが北東北でここがお薦めなんて場所があれば教えてください。