「 阿弥陀の前に、何やら光る。 瞽女(ごぜ)の眼が光る 」
はやし歌の、最初の部分。
集落の隅に、阿弥陀堂。
子供が、隙間からの覗(のぞ)いたら、人の眼が光った。
それは、阿弥陀仏の前にいた、瞽女(ごぜ)の眼。
瞽女は、盲目の、流し歩く三味線弾き。
そこにいた、彼女の名は、おりん。
隙間風の入る、阿弥陀堂に寝て、朝を待った。
水上勉の生れた育った集落は、岡田(おかた)。
集落を歩くと、阿弥陀堂があった。
そばに、おりん供養塔。
水上勉は、この、おりんについて書く。
「はなれ瞽女(ごぜ)おりん」 として、まとめる。
そして、映画に。
水上勉の、生家跡はあった。
土地の人に、教えてもらって、やっと。
石碑も何もなかった。
その位置の、詳しい地図が、ネット上にない。
はっきりさせるのが、今回の目的。
そういうことでは、満足。
最初に、近くにあった、若州(じゃくしゅう)一滴文庫に寄った。
水上勉の記念館。
ビデオの中で、彼はこう言った。
「ありがたいことに、貧困だった」
「くつ下はいただけでも、うれしかった」
竹人形館があって、文楽を演じる、竹人形があった。
見応え十分。
紅葉が始まった庭も、よかった。
※ ※ ※ ※ ブログタイトル一覧は、右をクリック。
( 写真の上にカーソルを置いて、open になってクリックしたら、一瞬に大きく。 再度クリックしたら、元に )
水上勉は、今のおおい町で生まれた。 1919年。

岡田(おかた)という集落。

生家跡は、ここだったが、行く前は分からない。
若州(じゃくしゅう)一滴文庫が、下の方に。 最初は、そこに行く。

広い敷地に、いくつもの建物が。

若狭国(わかさのくに)は、若州(じゃくしゅう)とも、呼ばれる。
一滴は、一滴の水も粗末にしないという、禅宗の教え。
正面に、本館。 中心の建物。 記念館と云ってもいいか。

本人の希望で、田舎風。 コンクリートの建物より、ずっといい。

庭園。 間もなく、紅葉の盛り。

長野県の東御(とうみ)市にあった別荘を移築した。
右は、本館。

※ 東御市は、真田幸村の上田市の右隣。
信州北国(ほっこく)街道、海野宿を歩く。 海野格子、他。~東御市~ 他 (2013/5/31)
本館には、彼の歴史と、2万冊の蔵書。
飢餓海峡のポスターがあった。 ※ 写真は、個別に撮らなければいい。

飢餓海峡の話のスタートは、岩内の大火と連絡船の遭難。 ここから近い、舞鶴も登場。
飢餓海峡を観る~余市町~ 他 (2011/9/30)
下北半島の、湯野川温泉でも、撮影。
かもしかラインを走って、湯野川温泉へ。 濃々園は、ヒバの香り漂う湯。 他。~むつ市川内町~ 他 (2014/9/20)
移築した別荘。 屋根が傷んできた。

本館。

竹人形館。 サザンカかな。 この花を見たら、冬が近い。

竹人形館の中。 全体の撮影はいい。

右に、はなれ瞽女(ごぜ)おりん。 これについては、後ほど。
左に、五番町夕霧楼。
右の写真に、安寿と厨子王。
人形に、見つめられる。

五番町夕霧楼は、金閣寺を焼いた、林承賢(はやししょうけん)を描いている。
※ 三島由紀夫が金閣寺を書いた後。
※ 彼は、舞鶴の成生(なりう)で生まれている。 ここ⇒
母親は、京都の警察に呼ばれた。
承賢(しょうけん)の弟がいる福知山に戻るとき、列車から飛び降りた。
保津峡(ほづきょう)の深い谷の川に。
夕霧楼は、上七軒の近くにあった。 下は、足を痛くした時に見た、テレビ番組。 行かなければならない。
亀岡、22日目。 京都ふらり散歩、上七軒・京都御苑他~亀岡市~ 他 (2013/12/14)
厨子王と、身代わり観音の伝説が残る、穴太寺。~亀岡市~ 他 (2013/12/24)
いろんな作家の、色紙など。

右は休憩所。 左は、くるま椅子劇場。

劇場への通路。 集めた写真。

ここで、毎年2回、竹人形文楽を演じる。
竹人形館の人形を使って。 ※ ネット上に、動画はない。

戻って、次は、岡田の集落へ。

離れたところから、若州一滴文庫。

この集落に生家跡はある。 この時、まだ場所は分からない。

集落の外に、車を置いて歩き出した。 右の方に人がいた。 少し先を、右に行く。

その人は、越してきたばかりで、生家跡は分からなかった。
水上勉の親類の方が住んでいる家を、教えてくれた。
後で分かるが、生家跡の場所は、印の所。

後で、このように行くことになる。

集落の中を歩くことに。 看板の地図の上の方の道。
女の人が、畑にいた。 生家跡は、反対側の山側と、教えてくれた。

お堂があったので、寄ってみた。

おりん供養塔とある。 竹人形で見た、おりん。
おりんは、瞽女(ごぜ)。 目が見えない。 三味線を弾き、歌を歌って、各地を歩く。
普通は数人。 おりんは、1人で歩いたので、はなれ瞽女おりん。
こうやって生きた人がいるなんて、初めて知った。
書いてある内容を、調べてみた。
辛丑(かの と うし)の年で、享保7年という年はない。
どっちかが間違い。 享保6年のよう。 ※ 他でも確認。
ブログの最初の文は、「阿弥陀の前」の行事で言われる言葉。
石仏は、おりんが、亡くなった両親を偲(しの)んでつくった。

水上勉は、上のことを調べたんですね。 そして、小説に書いた。
※ 水上勉は、世の中の底辺に生きる人を見逃さない。
こんな作家を、もう一人、見ている。
直木賞を取った、桜木紫乃。 彼女の作品には、そんな人ばっかり。
風葬や氷平線など。 風葬に、根室の涙香(るいか)岬が登場。
尻屋崎の寒立馬、ニッコウキスゲ他。 下風呂温泉。~東通村他~ 桜木紫乃さん、直木賞。 (2013/7/17)
雰囲気のいい集落。 水上勉の親類の家は、途中にあった。

集落の左奥に、お寺。(看板の地図の右奥) 西安禅寺。
水上勉は、11歳の時、京都の相国寺の瑞春院に出る。 ※ 御所のすぐ北に。 ここ⇒
この時世話をしたのは、ここの和尚さん。

京都に行ったのは、ひどい言い方をすれば、口減らしの間引きだった。
彼は、5人兄弟の、2番目。
なお、上に書いた相国寺の塔頭(たっちゅう)が、金閣寺。 ※ 塔頭~付属する寺。 瑞春院も相国寺の塔頭。
だから、金閣寺と相国寺の僧は、顔を合わす機会があった。
水上勉は、金閣寺を焼いた林承賢に、偶然会ったことがあるよう。
五番町夕霧楼の中に、金閣寺の上層部の僧は、檀家からの浄財で毎夜放蕩三昧、のような表現がある。
林承賢の放火の遠因の1つとして、押さえて。
金閣寺の放火事件は、水上勉にとっては、身近な事件だった。
別の道を、神社の方に、向かっている。 右写真は、看板の地図の、右下へ。

神社に来た。 雨が降ってるため、人に会わない。
車に戻って、生家跡に行った人のサイトを、読み直した。

神社から50㍍の所から、細い道を入る。 どっちに50㍍かは、分からない。
細い道の右に、蔵。 左は、小さい川。
これを確認して、出直し。

ここを左に。 右写真は、真っ直ぐ行って、左に。

今度は、途中で女性の方に会った。 細い道の入り口まで、連れて行ってくれた。
墓地への道だから、入っても大丈夫だよって、教えてくれた。 ※ 集落の中では、人がいたら、挨拶が大事。
ここまで来た。 赤い〇は、公民館。 その向こうが、神社。
細い道は、右に。
神社の方に、少し行って、撮影。 ここから入る。
この道を行く。 道は、蔵の後ろの方に。 ※ 写真に、詳しく。
生家跡は、蔵の後ろの土地。
右の写真は、蔵の上に来た。 右奥に、墓地がある。
生家跡は、左の土地。

ここでした。 何もない。 右写真は、反対側から。
やっと分かった。

来た道を通って、戻る。 教えていただいた人に、お礼を言って。
遠くから。 生家跡は、右の黄色っぽい林の、左側だった。

岡田の集落は、水上勉の原点の地、と言ってもいいですね。
生家跡の位置を、はっきりさせる。
これが目的でしたから、よかったでしょうか。
※ 写真は全部、小さなカメラにしました。
大きな方を、若州一滴文庫に、持ち込みにくかったので。
【動画の紹介】 本物のゴゼさん。 「瞽女さんの唄が聞こえる」 少しだけ見える人が、先頭。
【今日の歌】 ヘイリーは、日本語でも歌います。 いいなって感じる詩です。
画面をクリックしたら、YouTubeに。
【道の駅】 若狭おばま

【今後の予定】 京都に向かう。 大原への道はいいけど、鞍馬への道は、はっきりしない。 どっちに。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
【ランキング】 国内旅行、3位。 旅行全体で、4位です。
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旅行をクリックすると、旅行全体のが。
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はやし歌の、最初の部分。
集落の隅に、阿弥陀堂。
子供が、隙間からの覗(のぞ)いたら、人の眼が光った。
それは、阿弥陀仏の前にいた、瞽女(ごぜ)の眼。
瞽女は、盲目の、流し歩く三味線弾き。
そこにいた、彼女の名は、おりん。
隙間風の入る、阿弥陀堂に寝て、朝を待った。
水上勉の生れた育った集落は、岡田(おかた)。
集落を歩くと、阿弥陀堂があった。
そばに、おりん供養塔。
水上勉は、この、おりんについて書く。
「はなれ瞽女(ごぜ)おりん」 として、まとめる。
そして、映画に。
水上勉の、生家跡はあった。
土地の人に、教えてもらって、やっと。
石碑も何もなかった。
その位置の、詳しい地図が、ネット上にない。
はっきりさせるのが、今回の目的。
そういうことでは、満足。
最初に、近くにあった、若州(じゃくしゅう)一滴文庫に寄った。
水上勉の記念館。
ビデオの中で、彼はこう言った。
「ありがたいことに、貧困だった」
「くつ下はいただけでも、うれしかった」
竹人形館があって、文楽を演じる、竹人形があった。
見応え十分。
紅葉が始まった庭も、よかった。
※ ※ ※ ※ ブログタイトル一覧は、右をクリック。

( 写真の上にカーソルを置いて、open になってクリックしたら、一瞬に大きく。 再度クリックしたら、元に )
水上勉は、今のおおい町で生まれた。 1919年。

岡田(おかた)という集落。

生家跡は、ここだったが、行く前は分からない。
若州(じゃくしゅう)一滴文庫が、下の方に。 最初は、そこに行く。


広い敷地に、いくつもの建物が。

若狭国(わかさのくに)は、若州(じゃくしゅう)とも、呼ばれる。
一滴は、一滴の水も粗末にしないという、禅宗の教え。
正面に、本館。 中心の建物。 記念館と云ってもいいか。


本人の希望で、田舎風。 コンクリートの建物より、ずっといい。

庭園。 間もなく、紅葉の盛り。


長野県の東御(とうみ)市にあった別荘を移築した。
右は、本館。


※ 東御市は、真田幸村の上田市の右隣。
信州北国(ほっこく)街道、海野宿を歩く。 海野格子、他。~東御市~ 他 (2013/5/31)
本館には、彼の歴史と、2万冊の蔵書。
飢餓海峡のポスターがあった。 ※ 写真は、個別に撮らなければいい。


飢餓海峡の話のスタートは、岩内の大火と連絡船の遭難。 ここから近い、舞鶴も登場。
飢餓海峡を観る~余市町~ 他 (2011/9/30)
下北半島の、湯野川温泉でも、撮影。
かもしかラインを走って、湯野川温泉へ。 濃々園は、ヒバの香り漂う湯。 他。~むつ市川内町~ 他 (2014/9/20)
移築した別荘。 屋根が傷んできた。

本館。


竹人形館。 サザンカかな。 この花を見たら、冬が近い。


竹人形館の中。 全体の撮影はいい。

右に、はなれ瞽女(ごぜ)おりん。 これについては、後ほど。
左に、五番町夕霧楼。
右の写真に、安寿と厨子王。
人形に、見つめられる。


五番町夕霧楼は、金閣寺を焼いた、林承賢(はやししょうけん)を描いている。
※ 三島由紀夫が金閣寺を書いた後。
※ 彼は、舞鶴の成生(なりう)で生まれている。 ここ⇒

母親は、京都の警察に呼ばれた。
承賢(しょうけん)の弟がいる福知山に戻るとき、列車から飛び降りた。
保津峡(ほづきょう)の深い谷の川に。
夕霧楼は、上七軒の近くにあった。 下は、足を痛くした時に見た、テレビ番組。 行かなければならない。
亀岡、22日目。 京都ふらり散歩、上七軒・京都御苑他~亀岡市~ 他 (2013/12/14)
厨子王と、身代わり観音の伝説が残る、穴太寺。~亀岡市~ 他 (2013/12/24)
いろんな作家の、色紙など。

右は休憩所。 左は、くるま椅子劇場。


劇場への通路。 集めた写真。


ここで、毎年2回、竹人形文楽を演じる。
竹人形館の人形を使って。 ※ ネット上に、動画はない。


戻って、次は、岡田の集落へ。

離れたところから、若州一滴文庫。

この集落に生家跡はある。 この時、まだ場所は分からない。


集落の外に、車を置いて歩き出した。 右の方に人がいた。 少し先を、右に行く。

その人は、越してきたばかりで、生家跡は分からなかった。
水上勉の親類の方が住んでいる家を、教えてくれた。
後で分かるが、生家跡の場所は、印の所。


後で、このように行くことになる。

集落の中を歩くことに。 看板の地図の上の方の道。
女の人が、畑にいた。 生家跡は、反対側の山側と、教えてくれた。


お堂があったので、寄ってみた。


おりん供養塔とある。 竹人形で見た、おりん。
おりんは、瞽女(ごぜ)。 目が見えない。 三味線を弾き、歌を歌って、各地を歩く。
普通は数人。 おりんは、1人で歩いたので、はなれ瞽女おりん。
こうやって生きた人がいるなんて、初めて知った。
書いてある内容を、調べてみた。
辛丑(かの と うし)の年で、享保7年という年はない。
どっちかが間違い。 享保6年のよう。 ※ 他でも確認。
ブログの最初の文は、「阿弥陀の前」の行事で言われる言葉。
石仏は、おりんが、亡くなった両親を偲(しの)んでつくった。



水上勉は、上のことを調べたんですね。 そして、小説に書いた。

※ 水上勉は、世の中の底辺に生きる人を見逃さない。
こんな作家を、もう一人、見ている。
直木賞を取った、桜木紫乃。 彼女の作品には、そんな人ばっかり。
風葬や氷平線など。 風葬に、根室の涙香(るいか)岬が登場。
尻屋崎の寒立馬、ニッコウキスゲ他。 下風呂温泉。~東通村他~ 桜木紫乃さん、直木賞。 (2013/7/17)
雰囲気のいい集落。 水上勉の親類の家は、途中にあった。

集落の左奥に、お寺。(看板の地図の右奥) 西安禅寺。
水上勉は、11歳の時、京都の相国寺の瑞春院に出る。 ※ 御所のすぐ北に。 ここ⇒

この時世話をしたのは、ここの和尚さん。


京都に行ったのは、ひどい言い方をすれば、口減らしの間引きだった。
彼は、5人兄弟の、2番目。
なお、上に書いた相国寺の塔頭(たっちゅう)が、金閣寺。 ※ 塔頭~付属する寺。 瑞春院も相国寺の塔頭。
だから、金閣寺と相国寺の僧は、顔を合わす機会があった。
水上勉は、金閣寺を焼いた林承賢に、偶然会ったことがあるよう。
五番町夕霧楼の中に、金閣寺の上層部の僧は、檀家からの浄財で毎夜放蕩三昧、のような表現がある。
林承賢の放火の遠因の1つとして、押さえて。
金閣寺の放火事件は、水上勉にとっては、身近な事件だった。
別の道を、神社の方に、向かっている。 右写真は、看板の地図の、右下へ。


神社に来た。 雨が降ってるため、人に会わない。
車に戻って、生家跡に行った人のサイトを、読み直した。


神社から50㍍の所から、細い道を入る。 どっちに50㍍かは、分からない。
細い道の右に、蔵。 左は、小さい川。
これを確認して、出直し。

ここを左に。 右写真は、真っ直ぐ行って、左に。


今度は、途中で女性の方に会った。 細い道の入り口まで、連れて行ってくれた。
墓地への道だから、入っても大丈夫だよって、教えてくれた。 ※ 集落の中では、人がいたら、挨拶が大事。
ここまで来た。 赤い〇は、公民館。 その向こうが、神社。
細い道は、右に。

神社の方に、少し行って、撮影。 ここから入る。

この道を行く。 道は、蔵の後ろの方に。 ※ 写真に、詳しく。
生家跡は、蔵の後ろの土地。
右の写真は、蔵の上に来た。 右奥に、墓地がある。
生家跡は、左の土地。


ここでした。 何もない。 右写真は、反対側から。
やっと分かった。


来た道を通って、戻る。 教えていただいた人に、お礼を言って。

遠くから。 生家跡は、右の黄色っぽい林の、左側だった。

岡田の集落は、水上勉の原点の地、と言ってもいいですね。
生家跡の位置を、はっきりさせる。
これが目的でしたから、よかったでしょうか。
※ 写真は全部、小さなカメラにしました。
大きな方を、若州一滴文庫に、持ち込みにくかったので。
【動画の紹介】 本物のゴゼさん。 「瞽女さんの唄が聞こえる」 少しだけ見える人が、先頭。
【今日の歌】 ヘイリーは、日本語でも歌います。 いいなって感じる詩です。
画面をクリックしたら、YouTubeに。

【道の駅】 若狭おばま

【今後の予定】 京都に向かう。 大原への道はいいけど、鞍馬への道は、はっきりしない。 どっちに。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

【ランキング】 国内旅行、3位。 旅行全体で、4位です。
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