釜石市は、電気・水道の復旧が進んだ。 ボランティアに参加できる人が増えた。
ボランティアセンターで、今日は休んでもらってもいい、と言われた。(仕事が来るのを待っててもいい)
休ませてもらった。
午前中寝て、午後、町民の半分ほどが行方不明という、大槌(おおつち)町に向かった。
今日行った所は、下の地図に。
通行止めになっていたので、車を停めて、写真を撮った。
港までは近いので、歩くつもりだった。
交通整理の人がいた。 行ってもいいって、行かしてくれた。
上の人は、3月11日の3時頃、仕事の帰りだった。 大槌町での話。
同僚をその人の家の近くで降ろした。 少しして津波は来た。 同僚の家は、津波に飲み込まれた。
自分は、津波との競争になった。 最後は、海水の中を走っていた。
トラックの後ろの方が、よごれてる。 津波のせい。
津波は黒かったという話もある。
息子さんは、両石の浜に坂道を下りてきた。 坂の途中で停まった。 目の前に津波が来ていた。
車を置いて、釜石まで暗闇の中、線路の上を歩いて帰ったという。
津波は、防波堤を越えて、最初の写真の所を襲った。
両石の港。 中央奥に、市街地は伸びている。(最後に、その道を下りてくる。動画に)
津波の高さが、見当つく。
津波は、向こうから来た。
ここは、鵜住居(うのすまい)。 国道から撮影。
上の写真は、下の写真の人のいる所から撮影。
みんな、釜石行来のバスを待っている。 寒い中待っている。
年配のご夫婦と話した。
荷台が幌のトラックが通り過ぎた。
男の人が、知らないトラックに向かって、乗せてってくれたっていいべやな、って言った。
家は、ここ鵜住居にあって、それを見に来た。
今は、釜石小に避難している。 (昨日行った所)
大槌は、地震・津波・火事の3つ、踏んだり蹴ったりだ、と言った。
みんな波を見ながら逃げた。 波におったてられながら。(男の人の表現)
誰かが、線路の向こうには、60人は眠っていると言った。
別の人が、いや、100人は、瓦礫の下だといった。
正確な数字は、地元の人だって分からない。
大槌では、無数に入っていると言った。(がれきの下に)
ある人が、こう言ったそう。
この家の中には、2人が間違いなくいる。 自分達で片づけるから、壊さないでくれって。
おじいちゃんの手を引きながら、逃げた人がいたという。
途中で、お前先に逃げれって、おじいちゃんは、無理やり手を振りほどいた。
おじいちゃんは、波に消えた。
防波堤は、第一波で壊された。 それでも、津波の勢いを少しは遅らせたと言う。
その少しの時間で助かった人もいた。
津波に乗り越えられた防波堤も、全くの無駄ではなかった。(初めて知った)
バスに乗って行った。
吉里吉里(きりきり)まで行って、戻ってきた。
ここは、大槌。 国道沿いに車を停めた。
大槌川にかかる、バイパスの橋から、上流を撮影。
海は右に。 大槌港まで、2㌔程。 市街地は、右手前に広がっている。
自衛隊が、道を作っている。
大槌川上流方向。
橋を歩きながら、この男の人と話した。 千葉の大学から、戻ってきた。
友達3人が亡くなった。 空手を一緒にやった仲間だと言った。
城山体育館に向かった。 そこは、避難所のよう。
中心街に向かって歩いた。 左奥が港。
写真の真ん中に、人がいた。
戻ってきたんですか、と聞いた。 ※ 一目、大学生に見えたので。
関西から戻ったと、女の人が言った。
家はもっと港の方だという。 ※ ここより港の方で、ちゃんと残った家は無い。
たくさん歩いたので、休憩している。
友人の安否確認もしたそう。
家族や友人の安否については、2人の表情を見て、聞けなかった。
ここ大槌町は、1000人単位の人が、つめたい瓦礫の下に、まだ眠ってる。
もう少し行った所が、中心街でしょうか。 正面に駅。 左に港。 右にずっと行ったら、そっちからも国道に出る。
津波に流されて、戻されて、元々ここにあったものは、ない。
墓地の手前の建物は、お寺。 避難場所になっていた。 助かったかどうかは、分からない。
※ ある町では、避難場所では危険と考え、更に高い所に逃げて助かった人もいる。
※ どこの町か確認してないが、船越小学校の話。(旭川の姉がメールで教えてくれた)
日頃の避難訓練は、校庭だった。 用務員の田代さん、海面が膨れ上がっているのに気付く。
佐々木校長に告げた。 山に逃げた方が良いと、 裏山に避難。 176名全員無事だった。
卒業式で児童が、 ありがとうと田代さんに駆け寄った。
大槌町の震災の特徴は、大規模な火災が起きたこと。 ガスボンベからガスが噴き出し、火が付いた。
※ 火災の様子(YouTube)
外国の報道が入っていた。
人が、2人いる。 物を探しているのではなく、人を探している。
ここに、大槌駅があった。
駅の構内。 右奥に、防潮堤の水門。 最後に、あの向こうに行く。
家族を探している。
女の人が、一人で立っていた。 上の写真の人と、一緒に来た。
女の人の前には、娘さんの旦那の親の家があった。 その日、おばあちゃんがいた。
娘さんの息子さんは高校生。 女の人の孫。
地震の時、息子さんは、駅の近くにいた。 自転車でいた。
真っ直ぐ高台に向かえば、余裕で助かった。 お墓のあった所でいい。
でも、おばあちゃんを助けに来た。 おばあちゃんは、体が不自由だった。
そうこうしているうちに、津波は来てしまった。
女の人は、そのお孫さんを探していた。
女の人は、こう言った。
おばあちゃんは、お孫さんが来てくれてうれしかったと思う。
それが、せめてもの救いだと言った。
お孫さんは、背が高く、素直な子だったとも。
娘さんの旦那さんもいなくなった。 まだ、3人とも見つからない。
少し上の写真に、高校生の母である娘さんと、女の人の長男が写っている。
(亡くなったことが確認できたわけでないが)
見つからない3人が生きてるなんて、大きすぎる望みだと言った。
今から見たら、チリ地震も何地震も、たいしたこと無かったと、話してくれた。
今は、大槌高校の避難所にいるが、食事の世話から掃除まで、生徒がやってくれると言う。 (生徒への指導は、先生)
「手伝わせてくれない」という表現で、生徒たちをほめた。
有り難くて、びっくりするとも。
夜は、トイレの入り口に、朝まで高校生の誰かがいる。
流す水がなくなったら、補充する。 (水道は来ていない)
私は、お孫さんが生きていたら、そこに一緒にいたね、って話した。
そして最後に、こう伝えて別れた。
「その生徒さん達が、この町を、もう一度作るね」って。
別の2人の女性がいた。
2人とも、家はこの近くにあった。 2人とも、旦那さんが行方不明。
アルバムを見ていた。 知人のだったら、届ける。
この辺りも、火事はひどい。 向こうには行かなかったが、ずっと行くと国道に出る。
ここにも、人が。
瓦礫は、このようにある。
中央に見える、2人の人とも話した。
少し前の3月3日に、町全体の避難訓練をしたと、教えてくれた。
※ この日は、昭和8年に、昭和三陸地震のあった日。 5000人が亡くなった。
港に向かった。 お寺の避難所の案内。
津波は、左奥から襲ってきた。
ここを越えた。 一部は、破壊した。
防波堤のとなりの橋。 防波堤の、水門のところから撮影。
子供の靴。
バレーボールか。
固いはずの鉄が。
何かの書類が見つかったようだった。
韓国映画のDVD。
こんな映画(YouTube)
大槌町には、復興に向けての、未来に向けての、希望と光が見えた。
今の若い者は、なんて、大槌高校の生徒に向かって、決して言えない。
近い将来、この高校生たちが更に成長して、新しい大槌町を作ってくれる。
目指す町の姿として、こんなのは、どうでしょう。
「なくなった人達が、もう一度生まれて来たら、その人達に、住みたいと思ってもらえる町」
【停泊場所】 ケーズデンキ駐車場
【明日の予定】 ボランティアに行くが、内容は未定。
釜石市のボランティアが、人数的的に不足してないので、別の所への移動も検討している。
遠野市のボランティアセンターに、探してもらっている。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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ボランティアセンターで、今日は休んでもらってもいい、と言われた。(仕事が来るのを待っててもいい)
休ませてもらった。
午前中寝て、午後、町民の半分ほどが行方不明という、大槌(おおつち)町に向かった。
今日行った所は、下の地図に。

通行止めになっていたので、車を停めて、写真を撮った。
港までは近いので、歩くつもりだった。

交通整理の人がいた。 行ってもいいって、行かしてくれた。

上の人は、3月11日の3時頃、仕事の帰りだった。 大槌町での話。
同僚をその人の家の近くで降ろした。 少しして津波は来た。 同僚の家は、津波に飲み込まれた。
自分は、津波との競争になった。 最後は、海水の中を走っていた。
トラックの後ろの方が、よごれてる。 津波のせい。
津波は黒かったという話もある。
息子さんは、両石の浜に坂道を下りてきた。 坂の途中で停まった。 目の前に津波が来ていた。
車を置いて、釜石まで暗闇の中、線路の上を歩いて帰ったという。
津波は、防波堤を越えて、最初の写真の所を襲った。

両石の港。 中央奥に、市街地は伸びている。(最後に、その道を下りてくる。動画に)

津波の高さが、見当つく。

津波は、向こうから来た。

ここは、鵜住居(うのすまい)。 国道から撮影。

上の写真は、下の写真の人のいる所から撮影。
みんな、釜石行来のバスを待っている。 寒い中待っている。
年配のご夫婦と話した。
荷台が幌のトラックが通り過ぎた。
男の人が、知らないトラックに向かって、乗せてってくれたっていいべやな、って言った。
家は、ここ鵜住居にあって、それを見に来た。
今は、釜石小に避難している。 (昨日行った所)
大槌は、地震・津波・火事の3つ、踏んだり蹴ったりだ、と言った。
みんな波を見ながら逃げた。 波におったてられながら。(男の人の表現)
誰かが、線路の向こうには、60人は眠っていると言った。
別の人が、いや、100人は、瓦礫の下だといった。
正確な数字は、地元の人だって分からない。
大槌では、無数に入っていると言った。(がれきの下に)
ある人が、こう言ったそう。
この家の中には、2人が間違いなくいる。 自分達で片づけるから、壊さないでくれって。
おじいちゃんの手を引きながら、逃げた人がいたという。
途中で、お前先に逃げれって、おじいちゃんは、無理やり手を振りほどいた。
おじいちゃんは、波に消えた。
防波堤は、第一波で壊された。 それでも、津波の勢いを少しは遅らせたと言う。
その少しの時間で助かった人もいた。
津波に乗り越えられた防波堤も、全くの無駄ではなかった。(初めて知った)

バスに乗って行った。

吉里吉里(きりきり)まで行って、戻ってきた。
ここは、大槌。 国道沿いに車を停めた。
大槌川にかかる、バイパスの橋から、上流を撮影。

海は右に。 大槌港まで、2㌔程。 市街地は、右手前に広がっている。

自衛隊が、道を作っている。

大槌川上流方向。

橋を歩きながら、この男の人と話した。 千葉の大学から、戻ってきた。
友達3人が亡くなった。 空手を一緒にやった仲間だと言った。
城山体育館に向かった。 そこは、避難所のよう。

中心街に向かって歩いた。 左奥が港。

写真の真ん中に、人がいた。

戻ってきたんですか、と聞いた。 ※ 一目、大学生に見えたので。
関西から戻ったと、女の人が言った。
家はもっと港の方だという。 ※ ここより港の方で、ちゃんと残った家は無い。
たくさん歩いたので、休憩している。
友人の安否確認もしたそう。
家族や友人の安否については、2人の表情を見て、聞けなかった。
ここ大槌町は、1000人単位の人が、つめたい瓦礫の下に、まだ眠ってる。

もう少し行った所が、中心街でしょうか。 正面に駅。 左に港。 右にずっと行ったら、そっちからも国道に出る。

津波に流されて、戻されて、元々ここにあったものは、ない。

墓地の手前の建物は、お寺。 避難場所になっていた。 助かったかどうかは、分からない。
※ ある町では、避難場所では危険と考え、更に高い所に逃げて助かった人もいる。
※ どこの町か確認してないが、船越小学校の話。(旭川の姉がメールで教えてくれた)
日頃の避難訓練は、校庭だった。 用務員の田代さん、海面が膨れ上がっているのに気付く。
佐々木校長に告げた。 山に逃げた方が良いと、 裏山に避難。 176名全員無事だった。
卒業式で児童が、 ありがとうと田代さんに駆け寄った。

大槌町の震災の特徴は、大規模な火災が起きたこと。 ガスボンベからガスが噴き出し、火が付いた。

※ 火災の様子(YouTube)
外国の報道が入っていた。

人が、2人いる。 物を探しているのではなく、人を探している。

ここに、大槌駅があった。

駅の構内。 右奥に、防潮堤の水門。 最後に、あの向こうに行く。

家族を探している。

女の人が、一人で立っていた。 上の写真の人と、一緒に来た。

女の人の前には、娘さんの旦那の親の家があった。 その日、おばあちゃんがいた。
娘さんの息子さんは高校生。 女の人の孫。
地震の時、息子さんは、駅の近くにいた。 自転車でいた。
真っ直ぐ高台に向かえば、余裕で助かった。 お墓のあった所でいい。
でも、おばあちゃんを助けに来た。 おばあちゃんは、体が不自由だった。
そうこうしているうちに、津波は来てしまった。
女の人は、そのお孫さんを探していた。
女の人は、こう言った。
おばあちゃんは、お孫さんが来てくれてうれしかったと思う。
それが、せめてもの救いだと言った。
お孫さんは、背が高く、素直な子だったとも。
娘さんの旦那さんもいなくなった。 まだ、3人とも見つからない。
少し上の写真に、高校生の母である娘さんと、女の人の長男が写っている。
(亡くなったことが確認できたわけでないが)
見つからない3人が生きてるなんて、大きすぎる望みだと言った。
今から見たら、チリ地震も何地震も、たいしたこと無かったと、話してくれた。
今は、大槌高校の避難所にいるが、食事の世話から掃除まで、生徒がやってくれると言う。 (生徒への指導は、先生)
「手伝わせてくれない」という表現で、生徒たちをほめた。
有り難くて、びっくりするとも。
夜は、トイレの入り口に、朝まで高校生の誰かがいる。
流す水がなくなったら、補充する。 (水道は来ていない)
私は、お孫さんが生きていたら、そこに一緒にいたね、って話した。
そして最後に、こう伝えて別れた。
「その生徒さん達が、この町を、もう一度作るね」って。
別の2人の女性がいた。
2人とも、家はこの近くにあった。 2人とも、旦那さんが行方不明。

アルバムを見ていた。 知人のだったら、届ける。

この辺りも、火事はひどい。 向こうには行かなかったが、ずっと行くと国道に出る。

ここにも、人が。

瓦礫は、このようにある。

中央に見える、2人の人とも話した。
少し前の3月3日に、町全体の避難訓練をしたと、教えてくれた。
※ この日は、昭和8年に、昭和三陸地震のあった日。 5000人が亡くなった。

港に向かった。 お寺の避難所の案内。

津波は、左奥から襲ってきた。

ここを越えた。 一部は、破壊した。

防波堤のとなりの橋。 防波堤の、水門のところから撮影。

子供の靴。

バレーボールか。

固いはずの鉄が。

何かの書類が見つかったようだった。

韓国映画のDVD。

こんな映画(YouTube)
大槌町には、復興に向けての、未来に向けての、希望と光が見えた。
今の若い者は、なんて、大槌高校の生徒に向かって、決して言えない。
近い将来、この高校生たちが更に成長して、新しい大槌町を作ってくれる。
目指す町の姿として、こんなのは、どうでしょう。
「なくなった人達が、もう一度生まれて来たら、その人達に、住みたいと思ってもらえる町」
【停泊場所】 ケーズデンキ駐車場
【明日の予定】 ボランティアに行くが、内容は未定。
釜石市のボランティアが、人数的的に不足してないので、別の所への移動も検討している。
遠野市のボランティアセンターに、探してもらっている。
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(2008年4月~2010年9月までの記事)

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コメント
ボランティア
Re: ボランティア
そのとき、何があったのか。
人を助けるために、自分が犠牲になった人もいっぱいいる。
それに報いるためにも、忘れないためにも、人々の行動の記録を残した方がいいと思う。
その掘り出しを、その町の、どこかで、取り組んでほしい。
私は、その、ほんの少しを、聞かせていただいた。
明日への希望は、確かに見えました。
それは、若者の中にあった。
人を助けるために、自分が犠牲になった人もいっぱいいる。
それに報いるためにも、忘れないためにも、人々の行動の記録を残した方がいいと思う。
その掘り出しを、その町の、どこかで、取り組んでほしい。
私は、その、ほんの少しを、聞かせていただいた。
明日への希望は、確かに見えました。
それは、若者の中にあった。
ことばが
見ています 見させていただいています
読んでいます 読ませていただいています
ごとばが出てきません
とにかく
現状を、発信してください
記録してください、
復興できるまで
記録しつづけることが
必要だと思います
亡くなられた方々が
安らかに眠れる故郷になるよう
年寄りの経験とねばり
若者たちの若さと力に期待しています
読んでいます 読ませていただいています
ごとばが出てきません
とにかく
現状を、発信してください
記録してください、
復興できるまで
記録しつづけることが
必要だと思います
亡くなられた方々が
安らかに眠れる故郷になるよう
年寄りの経験とねばり
若者たちの若さと力に期待しています
Re: ことばが
どんな考え方がいいでしょう。
それを探しています。 考えています。
どう考えて生きたらいいのか。
それを探しています。 考えています。
どう考えて生きたらいいのか。
発生1週間後に大槌へ
発生1週間後に大槌町に入りました3月19日です。
その日は、大槌町長の遺体が発見された日。
友人の父親はその数字後遺体で発見。その後は母親が行方不明だそうです。
同級生も亡くし、知り合いも亡くし、そして家をなくした友人は途方にくれていて、それを助けてあげられない私は本当に情けなく、申し訳ない気持ちです。ガソリン不足でしたが19日には青森から盛岡まで車を走らせ、友人とその妹さんを乗せて大槌まで行きました。
あの日の出来事、その後ガソリンを手に入れるまでの1週間の生活、友人とのやりとり、電話の声は忘れることが出来ません。
画像を見て何かを感じ取ってほしい。そう願うばかりです。
月1回以上、一緒に大槌まで同行しています。少しでも負担を減らしてあげないとと思っています。
8月4日の葬式で区切りを付けるとのことです。辛い決断だったと思いますが、これからも支えてあげたいと思っています。
貴重な画像を見せていただきありがとうございました。
その日は、大槌町長の遺体が発見された日。
友人の父親はその数字後遺体で発見。その後は母親が行方不明だそうです。
同級生も亡くし、知り合いも亡くし、そして家をなくした友人は途方にくれていて、それを助けてあげられない私は本当に情けなく、申し訳ない気持ちです。ガソリン不足でしたが19日には青森から盛岡まで車を走らせ、友人とその妹さんを乗せて大槌まで行きました。
あの日の出来事、その後ガソリンを手に入れるまでの1週間の生活、友人とのやりとり、電話の声は忘れることが出来ません。
画像を見て何かを感じ取ってほしい。そう願うばかりです。
月1回以上、一緒に大槌まで同行しています。少しでも負担を減らしてあげないとと思っています。
8月4日の葬式で区切りを付けるとのことです。辛い決断だったと思いますが、これからも支えてあげたいと思っています。
貴重な画像を見せていただきありがとうございました。
Re: 発生1週間後に大槌へ
大槌町の被災の状態は、他と違うものがありました。
どこも、黒く焼け焦げていた。
これからも、友人を支えてあげてくださいね。
友人は、どう生きて行けばいいのか、今も悩んでいると思います。
どこも、黒く焼け焦げていた。
これからも、友人を支えてあげてくださいね。
友人は、どう生きて行けばいいのか、今も悩んでいると思います。
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どこもここもガレキの山。復旧に時間が掛かるようだけど、諦めず、希望を持ち続けて活動してもらいたい。
ボランティア、ご苦労さまです。マスコミが伝えない市民の嘆きや、明日への希望を載せてください。