義仲寺は、小さな寺でしたが、整備されていた。 ※ ぎちゅうじ
この寺について、Wikipediaでは、下のように。
この寺の創建については不詳であるが、源義仲(木曾義仲)の死後、愛妾であった巴御前が墓所近くに草庵を結び、
「われは名も無き女性」と称し、日々供養したことにはじまると伝えられる。
何で伝わっているのかは、分からない。
ただ、松尾芭蕉が、義仲寺は義仲の墓がある寺と信じている。
そして、義仲を慕う芭蕉も、自分の墓はここにした。
根拠は他にもあるかも知れないが、2人の墓がここであることは、定説になっている。
Wikipediaも、認めている。
そんなことで、再度行って来ました。
※ ※ ※ ※ ブログタイトル一覧は、右をクリック。
( 写真の上にカーソルを置いて、open になってクリックしたら、一瞬に大きく。 再度クリックしたら、元に )
膳所(ぜぜ)駅から、歩いた。
※ 気になる読み方を、してくれる。 調べてみた。
ここは、大津に近い。
天智天皇の都は、大津だった。
ここは、食べ物をつかさどる場所だった。
だから、膳が付く。
地名は、膳の崎、膳の前(ぜんのさき)、膳前(ぜんぜん)となって、ぜぜになったと、ネットの説明には。
ただ、「おまえのせいだ」は、「お前の所為だ」と書く。
所は、元々、「せ」と読める。 ※ 所為(しょい)の読みが、せいに変化。
膳の場所が、膳所になって、
読みは、ぜんしょから、ぜんせに変化、さらに、ぜんぜ、最後に、ぜぜ。
こんなのも考えられるなと、自分は。
※ 余談 天智天皇の弟は天武天皇。 壬申の乱に勝つ。 都は、飛鳥に。
百人一首の1番は、天智天皇。
秋の田の 仮庵(かりほ)の庵(いほ)の 苫(とま)をあらみ
わが衣手(ころもで)は 露にぬれつつ
場所は下。 駅から近い。
なだらかな、ときめき坂を下る。 右に。 しばらく行って、左に曲がる。
※ ときめき坂には、深い意味はない。(市議会での答弁)
ただこの坂は、朝晩は、駅に向かう、また駅からくる、女学生の姿が多い。
その風景から、愛称として名づけられたそう。 公募のよう。

曲がったら見える。

門が開いている。 ※ 寺にも休みがあるって、知らなかった。 あっても可笑しくないか。

ぽつんと本堂があって、終わりではない。 複雑そう。

右に、巴地蔵堂。

巴御前が墓を守った。 死ぬまで供養。
自分は巴御前とは、名乗らなかった。
美しい女性だったよう。
寺の案内には、見目麗(うるわ)しい尼僧と表現。 ※ 見目は、見た目。 容姿。 鉄幹は、顔に重さを。
※ この表現は、人を恋いうる歌に出てくるので、知られていますね。 与謝野鉄幹。

夫を亡くし、供養の半生を送った女性は、たくさんいます。
※ 高台寺のねね、寂光院の建礼門院もそうですね。 義経の静御前もか。
寂光院 夜の東山 他 (2009/11/28)
ここを入って、右に受付。 300円。 5分ほど、説明をしていただいた。
※ パフレットもいただいており、下の記事は、それを参考にして。

昨日行った、龍ヶ岡俳人墓地も、昔はこの寺の境内だった。 ここから直線で、500㍍程。
入って左。 正面は、書庫かな。
右の碑は、山吹塚。 義仲の側女(そばめ)の山吹御前の塚。 巴御前と信濃から来たよう。

見頃の花が。 句碑もいっぱい。

無名庵。 芭蕉はこの庵に滞在する。 何度も来ている。 年を越したことも。
伊勢の俳人又玄(ゆうげん)という人が、「木曽殿と背中合わせの寒さかな」を、ここで詠んだ。
芭蕉が来ていたのは、1600年代の終わりころ。

※ 芭蕉は何度か、ここから京都の落柿舎に行っている。
1694年の亡くなる年の夏にも、ここから行って、ここに戻っている。
その時の詠んだ句について等は、以前の下の記事に。
木曽義仲の宝篋印塔の墓。 向こう側隣に、芭蕉の墓。

芭蕉は、こんな句を。
義仲の 寝覚めの山か 月悲し
木曽の情雪や 生(はえ)ぬく 春の草

隣にしてほしいと云われたので、隣に。 芭蕉の墓。 木曽塚の右に眠る。

芭蕉翁って読める。 1694年10月12日午前4時ころに、大阪で亡くなる。 享年51歳。
以外は3日の午後には、門人たちで義仲寺に。 14日葬儀、埋葬。

朝日堂。 義仲寺の本堂。

正面に本尊の聖観音像。 右の厨子に、義仲と父の木造。
左にたくさんの位牌。 義仲、兼平、芭蕉など。

門人たちの句が、あちこちに。

翁(おきな)堂。

正面に、芭蕉の像。 左に丈艸(じょうそう)の像。(昨日会っている) 右に、去来の像。

俳人の画像。

左は、蝶夢法師。(芭蕉の研究家。 義仲寺の中興の祖) 他の2つは、上で紹介。

木曽八幡社。 別の人の墓。

最後の紅葉と云いながら、今日も名残の紅葉。

狭い敷地を工夫して。 義仲寺のために多くの人が関わっている。 義仲・芭蕉の人徳か。

史料観とある。 読むというより、観るのか。

写真は、OK。

粟津文庫にある資料を、交換しながら、一部をこのように。
義仲の先祖は、清和源氏。 清和天皇から始まる。
※ 明日、水尾を通るけど、そこに清和天皇の墓がある。
清和天皇の墓がある、京都の隠れ里、水尾 ~京都市~ ききょうの花(山崎ハコ) 他 (2012/6/25)

芭蕉の杖。 本物なんだろうか。 そうなら貴重。

右は、昔の義仲寺。

机かな。

義仲寺の全ての理解はできなかったが、行ってよかったかなと。
膳所(ぜぜ)の駅から戻る。 京都までは、直ぐ。

義経と義仲は、悲運の武将。
2人とも、頼朝に殺される。
芭蕉は、その2人に心を寄せた。
何がそうさせたのか、芭蕉の心の中を知りたいですね。
【関連ブログ】
源平合戦の地、倶利伽羅峠を歩く。 この戦いで、平氏の滅亡は始まる。~小矢部市~ 他 (2015/4/30)
木曽町日義は、木曽義仲が育ち、旗揚げした地だった。 また、巴御前の生地でも。~木曽町~ 他 (2012/11/12)
奥の細道を、3つほど。
雨の中尊寺を歩く。 五月雨の 降残してや 光堂。 ~平泉町~ 他 (2013/10/2)
山寺 ~人でいっぱい。 みんな、芭蕉のおかげ。 山形市山寺~ 他 (2011/10/18)
象潟や 雨に西施が ねぶの花 他 (2009/09/21)
【今日の一句】 「 芭蕉は 義仲寺で眠る義仲が好き 義仲寺があるこの地と人も好き 」
【今日の動画】 むかしばなし あさひ将軍木曽義仲 面白いので、再度。 時間があれば。
【停泊場所】 亀岡市運動公園駐車場
【明日の予定】 水尾から清滝への道を歩く。 初めて。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの.記事)
※ プロフィール・・・。 ⇒
今までの記事には、この2枚だけ。
【ランキング】 国内旅行、2位。 旅行全体、2位です。
気に入った所がありましたら、クリックをよろしく。
※ クリックするバナーは、下のです。
ランキングが、見られます。
⇓
ランキング
※ 最初は、国内旅行のランキングが。
旅行をクリックすると、旅行全体のが。
※ 1回のクリックで、10ポイント。 1週間生きます。
次の日のクリックも、また、1週間生きる。
【拍 手】
.
この寺について、Wikipediaでは、下のように。
この寺の創建については不詳であるが、源義仲(木曾義仲)の死後、愛妾であった巴御前が墓所近くに草庵を結び、
「われは名も無き女性」と称し、日々供養したことにはじまると伝えられる。
何で伝わっているのかは、分からない。
ただ、松尾芭蕉が、義仲寺は義仲の墓がある寺と信じている。
そして、義仲を慕う芭蕉も、自分の墓はここにした。
根拠は他にもあるかも知れないが、2人の墓がここであることは、定説になっている。
Wikipediaも、認めている。
そんなことで、再度行って来ました。
※ ※ ※ ※ ブログタイトル一覧は、右をクリック。

( 写真の上にカーソルを置いて、open になってクリックしたら、一瞬に大きく。 再度クリックしたら、元に )
膳所(ぜぜ)駅から、歩いた。
※ 気になる読み方を、してくれる。 調べてみた。
ここは、大津に近い。
天智天皇の都は、大津だった。
ここは、食べ物をつかさどる場所だった。
だから、膳が付く。
地名は、膳の崎、膳の前(ぜんのさき)、膳前(ぜんぜん)となって、ぜぜになったと、ネットの説明には。
ただ、「おまえのせいだ」は、「お前の所為だ」と書く。
所は、元々、「せ」と読める。 ※ 所為(しょい)の読みが、せいに変化。
膳の場所が、膳所になって、
読みは、ぜんしょから、ぜんせに変化、さらに、ぜんぜ、最後に、ぜぜ。
こんなのも考えられるなと、自分は。
※ 余談 天智天皇の弟は天武天皇。 壬申の乱に勝つ。 都は、飛鳥に。
百人一首の1番は、天智天皇。
秋の田の 仮庵(かりほ)の庵(いほ)の 苫(とま)をあらみ
わが衣手(ころもで)は 露にぬれつつ
場所は下。 駅から近い。


なだらかな、ときめき坂を下る。 右に。 しばらく行って、左に曲がる。
※ ときめき坂には、深い意味はない。(市議会での答弁)
ただこの坂は、朝晩は、駅に向かう、また駅からくる、女学生の姿が多い。
その風景から、愛称として名づけられたそう。 公募のよう。

曲がったら見える。

門が開いている。 ※ 寺にも休みがあるって、知らなかった。 あっても可笑しくないか。

ぽつんと本堂があって、終わりではない。 複雑そう。

右に、巴地蔵堂。

巴御前が墓を守った。 死ぬまで供養。
自分は巴御前とは、名乗らなかった。
美しい女性だったよう。
寺の案内には、見目麗(うるわ)しい尼僧と表現。 ※ 見目は、見た目。 容姿。 鉄幹は、顔に重さを。
※ この表現は、人を恋いうる歌に出てくるので、知られていますね。 与謝野鉄幹。


夫を亡くし、供養の半生を送った女性は、たくさんいます。
※ 高台寺のねね、寂光院の建礼門院もそうですね。 義経の静御前もか。
寂光院 夜の東山 他 (2009/11/28)
ここを入って、右に受付。 300円。 5分ほど、説明をしていただいた。
※ パフレットもいただいており、下の記事は、それを参考にして。

昨日行った、龍ヶ岡俳人墓地も、昔はこの寺の境内だった。 ここから直線で、500㍍程。
入って左。 正面は、書庫かな。
右の碑は、山吹塚。 義仲の側女(そばめ)の山吹御前の塚。 巴御前と信濃から来たよう。


見頃の花が。 句碑もいっぱい。


無名庵。 芭蕉はこの庵に滞在する。 何度も来ている。 年を越したことも。
伊勢の俳人又玄(ゆうげん)という人が、「木曽殿と背中合わせの寒さかな」を、ここで詠んだ。
芭蕉が来ていたのは、1600年代の終わりころ。

※ 芭蕉は何度か、ここから京都の落柿舎に行っている。
1694年の亡くなる年の夏にも、ここから行って、ここに戻っている。
その時の詠んだ句について等は、以前の下の記事に。

木曽義仲の宝篋印塔の墓。 向こう側隣に、芭蕉の墓。

芭蕉は、こんな句を。
義仲の 寝覚めの山か 月悲し
木曽の情雪や 生(はえ)ぬく 春の草


隣にしてほしいと云われたので、隣に。 芭蕉の墓。 木曽塚の右に眠る。

芭蕉翁って読める。 1694年10月12日午前4時ころに、大阪で亡くなる。 享年51歳。
以外は3日の午後には、門人たちで義仲寺に。 14日葬儀、埋葬。


朝日堂。 義仲寺の本堂。

正面に本尊の聖観音像。 右の厨子に、義仲と父の木造。
左にたくさんの位牌。 義仲、兼平、芭蕉など。


門人たちの句が、あちこちに。


翁(おきな)堂。

正面に、芭蕉の像。 左に丈艸(じょうそう)の像。(昨日会っている) 右に、去来の像。


俳人の画像。


左は、蝶夢法師。(芭蕉の研究家。 義仲寺の中興の祖) 他の2つは、上で紹介。


木曽八幡社。 別の人の墓。


最後の紅葉と云いながら、今日も名残の紅葉。


狭い敷地を工夫して。 義仲寺のために多くの人が関わっている。 義仲・芭蕉の人徳か。


史料観とある。 読むというより、観るのか。


写真は、OK。


粟津文庫にある資料を、交換しながら、一部をこのように。
義仲の先祖は、清和源氏。 清和天皇から始まる。
※ 明日、水尾を通るけど、そこに清和天皇の墓がある。
清和天皇の墓がある、京都の隠れ里、水尾 ~京都市~ ききょうの花(山崎ハコ) 他 (2012/6/25)


芭蕉の杖。 本物なんだろうか。 そうなら貴重。


右は、昔の義仲寺。


机かな。

義仲寺の全ての理解はできなかったが、行ってよかったかなと。
膳所(ぜぜ)の駅から戻る。 京都までは、直ぐ。


義経と義仲は、悲運の武将。
2人とも、頼朝に殺される。
芭蕉は、その2人に心を寄せた。
何がそうさせたのか、芭蕉の心の中を知りたいですね。
【関連ブログ】
源平合戦の地、倶利伽羅峠を歩く。 この戦いで、平氏の滅亡は始まる。~小矢部市~ 他 (2015/4/30)
木曽町日義は、木曽義仲が育ち、旗揚げした地だった。 また、巴御前の生地でも。~木曽町~ 他 (2012/11/12)
奥の細道を、3つほど。
雨の中尊寺を歩く。 五月雨の 降残してや 光堂。 ~平泉町~ 他 (2013/10/2)
山寺 ~人でいっぱい。 みんな、芭蕉のおかげ。 山形市山寺~ 他 (2011/10/18)
象潟や 雨に西施が ねぶの花 他 (2009/09/21)
【今日の一句】 「 芭蕉は 義仲寺で眠る義仲が好き 義仲寺があるこの地と人も好き 」
【今日の動画】 むかしばなし あさひ将軍木曽義仲 面白いので、再度。 時間があれば。
【停泊場所】 亀岡市運動公園駐車場
【明日の予定】 水尾から清滝への道を歩く。 初めて。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの.記事)

※ プロフィール・・・。 ⇒


【ランキング】 国内旅行、2位。 旅行全体、2位です。
気に入った所がありましたら、クリックをよろしく。
※ クリックするバナーは、下のです。
ランキングが、見られます。
⇓

※ 最初は、国内旅行のランキングが。
旅行をクリックすると、旅行全体のが。
※ 1回のクリックで、10ポイント。 1週間生きます。
次の日のクリックも、また、1週間生きる。
【拍 手】
.
コメント
コメントの投稿
トラックバック
https://akkamui.com/tb.php/1898-05d43202