出雲崎では、妻入りの町並み・良寛・芭蕉・おけさ と、4つに関わった。
途中に、良寛の里「わしま」があった。
良寛の墓があるので、寄ってみた。
良寛の弟子に、貞心尼(ていしんに)という人がいた。
2人が出会ったところが、この地だった。
※ 今は長岡市島崎。 昔は、和島(わしま)村。
出会いの庵(いおり)が復元されていた。 場所はここ。
下は、そこへの道。
壁に良寛の歌があった。 出だしは「盗人に」ですね。
良寛の母親は、佐渡の出身。
資料を元に復元。 小さな庵。
2人は、1827年の秋に、初めて出会う。
良寛70歳。 貞心尼30歳。
2人の歌があった。
きみにかく あひ見ることのうれしさも まださめやらぬ ゆめかとぞおもふ 貞心尼
ゆめの世に かつまどろ見てゆめをまた かたるもゆめも それがまにまに 良寛
こうして会えることが、夢のようにうれしいと、お互い言ってるのかな。
ここから、歩いて10分程の所に、木村家がある。
2人が出会う前年から、良寛は、この家で世話になる。
貞心尼は後に、蓮の露(はちすのつゆ)とい、自筆の本を出す。 ※ 「はちす」は、蓮(はす)の別名。
それで、出会いの庵から木村家までの道を、「はちすば通り」と呼んでいる。
こんなポスターを見かけた。
良寛終焉の地とあった。
ここが木村家。 ここで世話になり、ここで亡くなった。 1831年。 74歳。 場所はここ。
貞心尼との交流は、70歳からだから、短い。
ただ、良寛の一生は、貞心尼と関わるこの時期が、注目されてる感じもする。
隆泉寺。 ここに、良寛の墓があった。 途中に像も。
正面にお墓が。
左は、弟 由之の墓。 右は、木村家。
左に、下の歌が書いてある。(はっきりは、読めない)
山たづの向かひの丘に小牡鹿立てり神無月 時雨の雨に濡れつつ立てり
最後に、また少し歩いた。 貞心尼については、ここにくわしく。
出雲崎に向かった。 道は、すぐに日本海に出た。 荒れて風も強い。
国道7号線を走った。 去年の4月にも、京都に向かって走った。
ここは、妻入りの町並。 駐車場は、完備されている。
歩き始めたら、こんなのが。 聞いたら、サトイモだという。 自分家で食べる。
地図はあるかい、と聞かれた。 ないと言ったら、家に取りに行ってくれた。
西に向かって歩いたら、逆光で写真が難しい。 別の所に移動した。
おけさ源流の碑、があった。 ここです。 ※ 出雲崎が発祥のであることは、先日のブログに書いた。
細長い家は、この地域の家屋の、典型的なかたち。
先日は、おけさ という女の人がいたと書いたが、ここの説明は違った。
義経がからんでいた。 義経がからむと、一層伝説っぽくなる。
坊さんの袈裟(けさ)を着て踊ったので、おけさ となったとある。
向かいの浜は、海遊広場。 釣りが出来る。 佐渡島がうすく見える。
見やすく、少し加工。
左の方も、人がいっぱい。
サヨリ、という魚を釣っていた。
小1くらいの男の子が、見せてくれた。
小さな手だったので、魚より手がめんこかった。
仕事を離れたら、子どもとの関わりはなくなった。 さびしいこと。
駐車場を移動して、ここは、良寛堂。
お堂の中。 小さな石の地蔵は、良寛の持仏。 ※ 持仏(じぶつ)は、居間に置いたり、身近に置く仏像。
海に向かって撮影。
通りはこう。 家の間口が狭い。
こんな感じで神社が。 良寛の実家が関わる神社。
昔、ここに、旅人宿大崎屋があった。
1689年7月4日、芭蕉はそこに泊まった。
すぐ近くに、芭蕉園があった。
「荒海や 佐渡によこたふ 天河」は、この地で歌われたと言われている。
※ 上の俳句に関わって。
北原白秋が、砂山という詩を書いた。 「海は荒海 向こうは佐渡よ・・・」で始まる。
調べてみた。 白秋は、芭蕉の上の俳句を知っていた。
砂山の詩は、新潟で、子供たちに頼まれて書いた。
最初、中山晋平が曲を付けた。
子どもたちのための歌としっていたから、こんな曲になった。 砂山(YouTube) 芹洋子。
その後、山田耕作も曲を付けた。
そのメロディは、子供向けではなく、芭蕉の句をイメージしたものだった。 砂山(YouTube) 一般の人。
芭蕉は夏に来た。 荒海ではなかった。 でも、荒海にした。
いろんな考えがあるようだ。
佐渡は昔から、多くの人が流された。
流人も金山に連れて行かれた。(松本清張の小説に、佐渡流人行がある。 昔読んだ)
きびしい歴史を秘めた島は、芭蕉にとっては、荒海の向こうだった。
※ なお、北原白秋は、柳川の人。 それは、このブログに。 コメントをいただく、銀河宙太さんが案内してくれた。
江口章子は、一時、この人の妻だった。 白秋の詩作に、大きな影響を与えた。 それは、ここに。
良寛が若い時に学んだ寺があった。
光照寺。 18歳から、4年間ここで修行。 良寛剃髪の寺。
町並みの図。
家並みの説明。
わしまの町並みも、出雲崎のそれも、伝建地区のように整備はされていない。
歩いてどうの、という場所ではなかった。
それでも、歴史の「におい」を感じ取ることは出来たでしょうか。
良寛は貞心尼に、淡い恋心を抱きましたね。
それで人間。 もし、淡くなくても、それでいいですね。
【道の駅】 越後出雲崎 ここです。
【明日の予定】 時間がないので、調べなくても書ける、風景か花ですね。
書き残したブログを書かなければ。
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途中に、良寛の里「わしま」があった。
良寛の墓があるので、寄ってみた。
良寛の弟子に、貞心尼(ていしんに)という人がいた。
2人が出会ったところが、この地だった。
※ 今は長岡市島崎。 昔は、和島(わしま)村。
出会いの庵(いおり)が復元されていた。 場所はここ。
下は、そこへの道。

壁に良寛の歌があった。 出だしは「盗人に」ですね。

良寛の母親は、佐渡の出身。

資料を元に復元。 小さな庵。

2人は、1827年の秋に、初めて出会う。
良寛70歳。 貞心尼30歳。
2人の歌があった。

きみにかく あひ見ることのうれしさも まださめやらぬ ゆめかとぞおもふ 貞心尼
ゆめの世に かつまどろ見てゆめをまた かたるもゆめも それがまにまに 良寛
こうして会えることが、夢のようにうれしいと、お互い言ってるのかな。

ここから、歩いて10分程の所に、木村家がある。
2人が出会う前年から、良寛は、この家で世話になる。
貞心尼は後に、蓮の露(はちすのつゆ)とい、自筆の本を出す。 ※ 「はちす」は、蓮(はす)の別名。
それで、出会いの庵から木村家までの道を、「はちすば通り」と呼んでいる。


こんなポスターを見かけた。


良寛終焉の地とあった。
ここが木村家。 ここで世話になり、ここで亡くなった。 1831年。 74歳。 場所はここ。
貞心尼との交流は、70歳からだから、短い。
ただ、良寛の一生は、貞心尼と関わるこの時期が、注目されてる感じもする。

隆泉寺。 ここに、良寛の墓があった。 途中に像も。


正面にお墓が。

左は、弟 由之の墓。 右は、木村家。

左に、下の歌が書いてある。(はっきりは、読めない)
山たづの向かひの丘に小牡鹿立てり神無月 時雨の雨に濡れつつ立てり

最後に、また少し歩いた。 貞心尼については、ここにくわしく。

出雲崎に向かった。 道は、すぐに日本海に出た。 荒れて風も強い。
国道7号線を走った。 去年の4月にも、京都に向かって走った。
ここは、妻入りの町並。 駐車場は、完備されている。
歩き始めたら、こんなのが。 聞いたら、サトイモだという。 自分家で食べる。
地図はあるかい、と聞かれた。 ないと言ったら、家に取りに行ってくれた。

西に向かって歩いたら、逆光で写真が難しい。 別の所に移動した。

おけさ源流の碑、があった。 ここです。 ※ 出雲崎が発祥のであることは、先日のブログに書いた。
細長い家は、この地域の家屋の、典型的なかたち。

先日は、おけさ という女の人がいたと書いたが、ここの説明は違った。
義経がからんでいた。 義経がからむと、一層伝説っぽくなる。
坊さんの袈裟(けさ)を着て踊ったので、おけさ となったとある。

向かいの浜は、海遊広場。 釣りが出来る。 佐渡島がうすく見える。

見やすく、少し加工。

左の方も、人がいっぱい。

サヨリ、という魚を釣っていた。
小1くらいの男の子が、見せてくれた。
小さな手だったので、魚より手がめんこかった。
仕事を離れたら、子どもとの関わりはなくなった。 さびしいこと。

駐車場を移動して、ここは、良寛堂。

お堂の中。 小さな石の地蔵は、良寛の持仏。 ※ 持仏(じぶつ)は、居間に置いたり、身近に置く仏像。

海に向かって撮影。


通りはこう。 家の間口が狭い。

こんな感じで神社が。 良寛の実家が関わる神社。

昔、ここに、旅人宿大崎屋があった。
1689年7月4日、芭蕉はそこに泊まった。

すぐ近くに、芭蕉園があった。

「荒海や 佐渡によこたふ 天河」は、この地で歌われたと言われている。

※ 上の俳句に関わって。
北原白秋が、砂山という詩を書いた。 「海は荒海 向こうは佐渡よ・・・」で始まる。
調べてみた。 白秋は、芭蕉の上の俳句を知っていた。
砂山の詩は、新潟で、子供たちに頼まれて書いた。
最初、中山晋平が曲を付けた。
子どもたちのための歌としっていたから、こんな曲になった。 砂山(YouTube) 芹洋子。
その後、山田耕作も曲を付けた。
そのメロディは、子供向けではなく、芭蕉の句をイメージしたものだった。 砂山(YouTube) 一般の人。
芭蕉は夏に来た。 荒海ではなかった。 でも、荒海にした。
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佐渡は昔から、多くの人が流された。
流人も金山に連れて行かれた。(松本清張の小説に、佐渡流人行がある。 昔読んだ)
きびしい歴史を秘めた島は、芭蕉にとっては、荒海の向こうだった。
※ なお、北原白秋は、柳川の人。 それは、このブログに。 コメントをいただく、銀河宙太さんが案内してくれた。
江口章子は、一時、この人の妻だった。 白秋の詩作に、大きな影響を与えた。 それは、ここに。
良寛が若い時に学んだ寺があった。

光照寺。 18歳から、4年間ここで修行。 良寛剃髪の寺。

町並みの図。

家並みの説明。


わしまの町並みも、出雲崎のそれも、伝建地区のように整備はされていない。
歩いてどうの、という場所ではなかった。
それでも、歴史の「におい」を感じ取ることは出来たでしょうか。
良寛は貞心尼に、淡い恋心を抱きましたね。
それで人間。 もし、淡くなくても、それでいいですね。
【道の駅】 越後出雲崎 ここです。
【明日の予定】 時間がないので、調べなくても書ける、風景か花ですね。
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