学校は安全と、保護者はみな思っていた。
しかし、108名のうち、56名が死亡、18名が行方不明。 助かったのは、34名。
なぜこうなったのか、その原因をはっきりさせないと、子供の命が大事にされない状態が続く。
そういうことで、考えてみます。
津波は、校舎の屋根を乗り越えた。
その時、何が起きたかは、読売新聞の記事が詳しい。
※ 車で帰った子が何人かは、はっきりしない。 この子たちは、助かっている。
※ 読売の記事も、今後修正されるかもしれないが。
① 地震発生、午後2時46分。 津波警報発令、2時49分。
記事では2時49分にはグランドに出ているが、避難開始は、3時10分頃。
グランドに、20分。 何があったのか。
・大きな揺れの後、直ぐ出たよう。
1クラス約20人なので、2時50分にはグランドに集合して、人数の確認も終えている。
無理のない時間。
・間もなく保護者がやってくる。 どんな対応だったのか。
これは、避難訓練では起きないから、時間のロスがあったかもしれない。
・グランド自体が避難場所なので、更に上にという発想が生まれるのに、少しの時間がかかった可能性も。
教頭はいたという記事もあるが、はっきりしない。
全体を動かしたのは、誰なんだろう。
決断に時間がかかったことも、考えられる。
② 学校の防災計画で、避難場所は決めてなかったのか。
裏山に行かないで、橋に向かった。 そこを通って高い所に行こうと。
襲われる直前、裏山に逃げて助かった子がいる。
・市の防災マニュアルには「高台に上る」。
それを受けて、学校では、高台をどこにするかを決める。
・学校の防災計画には、それを決めていなかった可能性がある。
もしそれが決まっていて、避難訓練で実際に訓練していたら、グランドで児童の人数の確認が終わった時、
すぐに、そこに向かって出発する筈。
・結果的に、先生方が瞬時に動けなかった。 その責任は、校長にある。
・防災計画は、学校の経営の計画の中に必ずある。
それは、教育委員会に提出される。
教育委員会は、学校の管理を校長に任せているから、中身が不十分なら指導できる。
でも、実際は、言われているように、教育委員会制度は形骸化されてる部分があり、校長に任せきりになっている。
防災計画の部分だけ、消防に提出されるが、そこまでのチェックは少ない。
・遅くても、2時55分にグランドから動いていれば、どこに逃げても助かっていた。 高台なら。
③ どうして低い所に校舎を建てたのか。 だれも、疑問を持たなかったのか。
・ここは、北上川の河口から4㌔の所。 過去の地震でどうだったのか。
学校を避難場所にしていたから、危険な場所と言う認識は少なかったかもしれない。
※ 津波予測がもっと進歩していたら、今回、どれだけの人々を救えたか分からない。
(いつか来るかもしれない津波の、大きさの予測)
昔の教訓の方が、ずっと役に立った。
④ 教頭また副校長の名前が出てこない。 児童数108名。 いるはずだが。
・いたという情報もあるが、はっきりしない。
もしいたら、いざという時、校長に代わって動かなければならない。
⑤ 校長は休暇を取っていたが、地震直後から、どんな動きをしたのだろう。
・校長がどこで何してたかは、全て分かっています。
ただ、道が寸断されていて、直ぐには戻れなかった。
※ 校長の頭の中には、「想定外」があるように感じる。
自分の経営次第で、一人の犠牲者も出さずに済んだのに。
教育委員会にも、同じものを感じる。
裏山に倒木があって、と言うことで行かなかった。
でも、ある学校では、避難が間に合わないと、柵を無理やり越えさせた学校がある。
命を守るためには、多少の怪我は仕方ないと考えた。
臨機応変な発想と思う。
下の記事は、釜石でのこと。(北海道新聞)
どんなことがあっても、命だけは、と考えた。
東日本大震災で1200人を超す死者と行方不明者を出した岩手県釜石市では、
3千人近い小中学生のほとんどが無事に避難した。
背景には、古くから津波に苦しめられてきた三陸地方の言い伝え「津波てんでんこ」
(自分の責任で早く高台に逃げろの意味)に基づいた防災教育がある。
釜石市北部の大槌湾を望む釜石東中学校(生徒数222人)は、同湾に流れ出る鵜住居(うのすまい)川から
数十メートルしか離れていない。
11日午後の地震発生時は、各教室で下校前のホームルームが行われていた。
立っていられないほどの横揺れが生徒たちを襲った。
1階にいた3年生の栗沢正太君(15)は避難口を確保しようと、とっさに窓を開け、机の下へ。
揺れが一段落すると、担任教師が「逃げろ」と叫び、栗沢君が校庭に出ると、2、3階にいた1、2年生も
非常階段を下りてきた。
校庭に出た生徒たちは、教師の指示を待たず、高台に向かって走りだした。
途中、同校に隣接した鵜住居小学校(児童数361人)の児童も合流。
小学生の手を引く中学生の姿も目立ったという。
教師の決断の速さと生徒の行動は、見事と言っていい。
下は、越喜来(おきらい)小の避難状況。(岩手日報)
※ この地域には、ボランティアで行った。 海に近い所に学校はあった。
越喜来小は第1避難所に三陸駅、第2避難所に南区公民館を設定。
通常は揺れが収まってから避難するが、今回はあまりにも揺れる時間が長すぎた。
細心の注意を払いながら、揺れている間に避難を開始した。
大津希梨さん(4年)は「大きな揺れのときにしゃがみ、小さい揺れのときに急ぎ足で逃げた。
揺れが止まるのを待っていたら、波にのまれたかもしれない」と振り返る。
大きな揺れに泣きだす子もいたが、昨年整備した県道との連絡通路などを使って避難。
校舎を破壊する津波の猛威に危険を感じ、南区公民館からさらに背後の山に登らせた。
遠藤耕生副校長は「津波到達まで30分ないと想定すると、揺れが収まってからでは間に合わないと思った。
校舎が壊れることも考えた」と説明する。
上にある連絡通路は、ある議員さんの努力により生まれた。
2階から、高台に逃げることが出来る通路。
避難開始の判断が児童の命を救った。
※ 津波は、早いところでは、15分でやってきた。
教育委員会と校長にだけ責任があるとは言わないが、被災後の姿勢を見ていると、
何が自分たちに足りなかったか、それに気づいていないように見える。
また、責任回避の姿勢も。
今後、校舎の場所も、防災計画も変わると思う。
でも、そのために払った犠牲は、余りにも大きすぎる。
【その他】 今日、ある所で見た、自衛隊のホバークラフト。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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しかし、108名のうち、56名が死亡、18名が行方不明。 助かったのは、34名。
なぜこうなったのか、その原因をはっきりさせないと、子供の命が大事にされない状態が続く。
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その時、何が起きたかは、読売新聞の記事が詳しい。

※ 車で帰った子が何人かは、はっきりしない。 この子たちは、助かっている。
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① 地震発生、午後2時46分。 津波警報発令、2時49分。
記事では2時49分にはグランドに出ているが、避難開始は、3時10分頃。
グランドに、20分。 何があったのか。
・大きな揺れの後、直ぐ出たよう。
1クラス約20人なので、2時50分にはグランドに集合して、人数の確認も終えている。
無理のない時間。
・間もなく保護者がやってくる。 どんな対応だったのか。
これは、避難訓練では起きないから、時間のロスがあったかもしれない。
・グランド自体が避難場所なので、更に上にという発想が生まれるのに、少しの時間がかかった可能性も。
教頭はいたという記事もあるが、はっきりしない。
全体を動かしたのは、誰なんだろう。
決断に時間がかかったことも、考えられる。
② 学校の防災計画で、避難場所は決めてなかったのか。
裏山に行かないで、橋に向かった。 そこを通って高い所に行こうと。
襲われる直前、裏山に逃げて助かった子がいる。
・市の防災マニュアルには「高台に上る」。
それを受けて、学校では、高台をどこにするかを決める。
・学校の防災計画には、それを決めていなかった可能性がある。
もしそれが決まっていて、避難訓練で実際に訓練していたら、グランドで児童の人数の確認が終わった時、
すぐに、そこに向かって出発する筈。
・結果的に、先生方が瞬時に動けなかった。 その責任は、校長にある。
・防災計画は、学校の経営の計画の中に必ずある。
それは、教育委員会に提出される。
教育委員会は、学校の管理を校長に任せているから、中身が不十分なら指導できる。
でも、実際は、言われているように、教育委員会制度は形骸化されてる部分があり、校長に任せきりになっている。
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③ どうして低い所に校舎を建てたのか。 だれも、疑問を持たなかったのか。
・ここは、北上川の河口から4㌔の所。 過去の地震でどうだったのか。
学校を避難場所にしていたから、危険な場所と言う認識は少なかったかもしれない。
※ 津波予測がもっと進歩していたら、今回、どれだけの人々を救えたか分からない。
(いつか来るかもしれない津波の、大きさの予測)
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④ 教頭また副校長の名前が出てこない。 児童数108名。 いるはずだが。
・いたという情報もあるが、はっきりしない。
もしいたら、いざという時、校長に代わって動かなければならない。
⑤ 校長は休暇を取っていたが、地震直後から、どんな動きをしたのだろう。
・校長がどこで何してたかは、全て分かっています。
ただ、道が寸断されていて、直ぐには戻れなかった。
※ 校長の頭の中には、「想定外」があるように感じる。
自分の経営次第で、一人の犠牲者も出さずに済んだのに。
教育委員会にも、同じものを感じる。
裏山に倒木があって、と言うことで行かなかった。
でも、ある学校では、避難が間に合わないと、柵を無理やり越えさせた学校がある。
命を守るためには、多少の怪我は仕方ないと考えた。
臨機応変な発想と思う。
下の記事は、釜石でのこと。(北海道新聞)
どんなことがあっても、命だけは、と考えた。
東日本大震災で1200人を超す死者と行方不明者を出した岩手県釜石市では、
3千人近い小中学生のほとんどが無事に避難した。
背景には、古くから津波に苦しめられてきた三陸地方の言い伝え「津波てんでんこ」
(自分の責任で早く高台に逃げろの意味)に基づいた防災教育がある。
釜石市北部の大槌湾を望む釜石東中学校(生徒数222人)は、同湾に流れ出る鵜住居(うのすまい)川から
数十メートルしか離れていない。
11日午後の地震発生時は、各教室で下校前のホームルームが行われていた。
立っていられないほどの横揺れが生徒たちを襲った。
1階にいた3年生の栗沢正太君(15)は避難口を確保しようと、とっさに窓を開け、机の下へ。
揺れが一段落すると、担任教師が「逃げろ」と叫び、栗沢君が校庭に出ると、2、3階にいた1、2年生も
非常階段を下りてきた。
校庭に出た生徒たちは、教師の指示を待たず、高台に向かって走りだした。
途中、同校に隣接した鵜住居小学校(児童数361人)の児童も合流。
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下は、越喜来(おきらい)小の避難状況。(岩手日報)
※ この地域には、ボランティアで行った。 海に近い所に学校はあった。
越喜来小は第1避難所に三陸駅、第2避難所に南区公民館を設定。
通常は揺れが収まってから避難するが、今回はあまりにも揺れる時間が長すぎた。
細心の注意を払いながら、揺れている間に避難を開始した。
大津希梨さん(4年)は「大きな揺れのときにしゃがみ、小さい揺れのときに急ぎ足で逃げた。
揺れが止まるのを待っていたら、波にのまれたかもしれない」と振り返る。
大きな揺れに泣きだす子もいたが、昨年整備した県道との連絡通路などを使って避難。
校舎を破壊する津波の猛威に危険を感じ、南区公民館からさらに背後の山に登らせた。
遠藤耕生副校長は「津波到達まで30分ないと想定すると、揺れが収まってからでは間に合わないと思った。
校舎が壊れることも考えた」と説明する。
上にある連絡通路は、ある議員さんの努力により生まれた。
2階から、高台に逃げることが出来る通路。
避難開始の判断が児童の命を救った。
※ 津波は、早いところでは、15分でやってきた。

教育委員会と校長にだけ責任があるとは言わないが、被災後の姿勢を見ていると、
何が自分たちに足りなかったか、それに気づいていないように見える。
また、責任回避の姿勢も。
今後、校舎の場所も、防災計画も変わると思う。
でも、そのために払った犠牲は、余りにも大きすぎる。
【その他】 今日、ある所で見た、自衛隊のホバークラフト。

※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

【ランキング】 国内旅行は5位、 旅行全体で10位です。 放浪の旅は13位です。
記事は役立ったでしょうか。
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コメント
他人が造ったマニュアル
Re: 他人が造ったマニュアル
そうであったら、みんな助かりましたね。
子供のいる学校が、一番安全な場所。 そうなるといいです。
色んな危機があるから、自ら考える力が必要ですね。
子供のいる学校が、一番安全な場所。 そうなるといいです。
色んな危機があるから、自ら考える力が必要ですね。
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・ マニュアルに記載されている「鼻・蹄に水泡が出る」との症状が見られなかった だから届出なかった 検査依頼があっても検査をしなかった
口蹄疫は「想定外」だった てことで
・ 外遊中でゴルフをしていた 民主党の「馬鹿松」大臣のせいだ とされた
初めての口蹄疫発生のときは
・ 現場の臨床獣医が「鼻・蹄に水泡は出てないが」 これは、異常だ と 疑い 検査を依頼 県・国が ただちに検査して 「初動防疫」で抑え込む ことに 成功した
福島原発事故も東京電力・原子力関係者は口をそろえて「想定外」だったとしている
「他人が造ったマニュアル」を鵜呑みにして、指示待ち、折角、親から頂戴した自分の頭脳を働かせることができない 「マニュアル」に書いてないことには対応できない 判らないことがあれば すぐ 他人に聞いて行動する
折角、親から頂戴した頭脳を働かせることが出来るか出来ないか それが大きな分かれ道のひとつとなる のでは ないでしょうか
私は、親から頂戴した頭脳を使って、自ら調べ、判断して、行動する ことが 命を大切する ことの 第1歩 だと思っています