○「6メートルの津波がきます。避難してください」
この町のこと。
11日、宮城県南三陸町の防災放送担当の職員、遠藤未希さん(24)は、津波にのまれるまで、
防災対策庁舎2階で訴え続けた。 最後は声が震えていた。 (産経新聞)
昨日書いた記事。
上のことは、テレビ・新聞・ネット等で、大きく取り扱われている。
情報の出所は、産経新聞。 だから、膨大にあるネットの情報は、みな同じ。
ところが、私が地元で聞いた話しは、少し違った。
それで、調べている。
※ どんなことがあっても、未希さんの名誉は、大丈夫。 そのことは、分かっている。
防災放送を、もう一人の人もしていた。
その人が、どこでしていたかが、はっきりしない。
それが確認できれば、すべて解決します。
産経新聞が言ってる通りの可能性は、半分でしょうか。
地元の人に、もう少し確認する必要があります。
※ 被災地を歩いていて、ある人にお会いしました。 そして、話を聞くことができました。
未希さんを、とてもよく知ってる人でした。
誰かは、言わない方が、楽しみが残りますね。
ボランティアの仕事は、アルバムから写真を取り出す作業。
アルバムは、泥だらけ。
1枚1枚 外して、干す。 この後、土を取るなどもある。
※ 写真の内容については、口外出来ない。
写真を1枚1枚見ていたら、その人の人生が、見えてくる。
写真が本人に渡れば、その人は生きていたことになる。 それを、誰もが願って作業した。
津波は、思い出もみんな流した。 流された思い出を、取り戻す作業。
アルバムは、被災地で、「思い出を探し隊」の人達が、見つけてくる。
※ 重機で作業している人も、集めてくれている。
道の駅津山の話をすることになっていましたね。
メモを取ってないし、酒も飲んだので、大分忘れた。 こんな感じです。
津波の後、停電になった。 海の方から十数人、行く所がなくて、やってきた。
道の駅の営業はストップ。 その人達の面倒を見ることに。
話を聞かせてくれたのは、道の駅の、食堂。
手打ち蕎麦があるというので、入った。
調理は奥さまに任せて、旦那さんは、のんびり。
私の「地震大変だったね」を皮きりに、話はどんどん進んだ。
被災者のことで、一番大変な食べ物は、食堂にある物を使った。
そのうち、地域の人達が、野菜やコメを持ってきてくれた。
一生懸命やってる人を助けると言うのは、陸前高田の、あのお風呂と同じ。
被災者は、いつも、暖かいものを食べることが出来た。
ここの避難所には、特徴があった。
朝起きる時間や、寝る時間をみんなで決めたそう。
ボ~ッと過ごすことはやめて、昼間は、生活のためにみんなで何かをしていた。
例えば、水道は出ないから、トイレに使う水を、川から汲んでくるとか。
食べ物に余裕が出たら、おにぎりなどを作って、他の避難所に届けた。
この道の駅は、支援団体の前進基地のようになっている。
ある団体が支援を終わって帰る時、余ったものだけどと云って、置いて行った。
でも、ローテーションで、次のグループがが来る時は、初めから食材等を、届けてくれたそう。
南三陸町まで、ここは10㌔ない。
でも、11日の次の日の情報は、100人くらい流されたようだ、
そういうレベルだったそう。 情報は全く入らなかった。
途中から、旦那さんと酒を飲み始めた。
帰る時、奥さまは、お金はいらないと言った。
申し訳ないからと、少しだけ置いて来た。
私は、自立の話がいいなと思った。
被災地の人達が、自立に向けて動き出した時、ほんとうの復興が始まる、そうも思った。
※ その時、仕事や生活資金を支援するのが、政治でしょうか。
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(2008年4月~2010年9月までの記事)
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この町のこと。
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防災対策庁舎2階で訴え続けた。 最後は声が震えていた。 (産経新聞)
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それで、調べている。
※ どんなことがあっても、未希さんの名誉は、大丈夫。 そのことは、分かっている。
防災放送を、もう一人の人もしていた。
その人が、どこでしていたかが、はっきりしない。
それが確認できれば、すべて解決します。
産経新聞が言ってる通りの可能性は、半分でしょうか。
地元の人に、もう少し確認する必要があります。
※ 被災地を歩いていて、ある人にお会いしました。 そして、話を聞くことができました。
未希さんを、とてもよく知ってる人でした。
誰かは、言わない方が、楽しみが残りますね。
ボランティアの仕事は、アルバムから写真を取り出す作業。
アルバムは、泥だらけ。
1枚1枚 外して、干す。 この後、土を取るなどもある。
※ 写真の内容については、口外出来ない。
写真を1枚1枚見ていたら、その人の人生が、見えてくる。
写真が本人に渡れば、その人は生きていたことになる。 それを、誰もが願って作業した。
津波は、思い出もみんな流した。 流された思い出を、取り戻す作業。
アルバムは、被災地で、「思い出を探し隊」の人達が、見つけてくる。
※ 重機で作業している人も、集めてくれている。

道の駅津山の話をすることになっていましたね。
メモを取ってないし、酒も飲んだので、大分忘れた。 こんな感じです。
津波の後、停電になった。 海の方から十数人、行く所がなくて、やってきた。
道の駅の営業はストップ。 その人達の面倒を見ることに。
話を聞かせてくれたのは、道の駅の、食堂。
手打ち蕎麦があるというので、入った。
調理は奥さまに任せて、旦那さんは、のんびり。
私の「地震大変だったね」を皮きりに、話はどんどん進んだ。
被災者のことで、一番大変な食べ物は、食堂にある物を使った。
そのうち、地域の人達が、野菜やコメを持ってきてくれた。
一生懸命やってる人を助けると言うのは、陸前高田の、あのお風呂と同じ。
被災者は、いつも、暖かいものを食べることが出来た。
ここの避難所には、特徴があった。
朝起きる時間や、寝る時間をみんなで決めたそう。
ボ~ッと過ごすことはやめて、昼間は、生活のためにみんなで何かをしていた。
例えば、水道は出ないから、トイレに使う水を、川から汲んでくるとか。
食べ物に余裕が出たら、おにぎりなどを作って、他の避難所に届けた。
この道の駅は、支援団体の前進基地のようになっている。
ある団体が支援を終わって帰る時、余ったものだけどと云って、置いて行った。
でも、ローテーションで、次のグループがが来る時は、初めから食材等を、届けてくれたそう。
南三陸町まで、ここは10㌔ない。
でも、11日の次の日の情報は、100人くらい流されたようだ、
そういうレベルだったそう。 情報は全く入らなかった。
途中から、旦那さんと酒を飲み始めた。
帰る時、奥さまは、お金はいらないと言った。
申し訳ないからと、少しだけ置いて来た。
私は、自立の話がいいなと思った。
被災地の人達が、自立に向けて動き出した時、ほんとうの復興が始まる、そうも思った。
※ その時、仕事や生活資金を支援するのが、政治でしょうか。
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(2008年4月~2010年9月までの記事)

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コメント
○「6メートルの津波がきます。避難してください」
Re: ○「6メートルの津波がきます。避難してください」
大きな期待はしないでくださいね。
何があったのか、詳しく知りたいです。
少なくとも、産経新聞の記事は、何かが足りない。
そう思っています。
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この話題は興味ある話題ですね。新聞が知らない種もあるんですね。ひとつこの話題を深く掘り下げてください。これが出来るのは、現地でボランティア活動しているアッカムイさんの強みです。今が腕の見せ所です。期待しています。あまり急がないでいいですよ。