私が話を聞けたのは、一人の女性だった。
防災無線のあった防災庁舎の周りで、何かを探していた。
「この庁舎で、どなたか亡くなったんですか」と聞いた。
この庁舎で、旦那様が、防災無線で避難を呼びかけたと言った。
奥様は、その声を歌津で聞いた。
旦那様は、まだ見つかっていない。
何があったか、詳しく教えてくれた。
それは、自分がネットで知ったこととは、違っていた。
※ 次の14日、私は地元と歌津の人達十数人に、当日の放送について聞いた。
また、地元の新聞を中心に、調べてみた。(地元の人が、載ってることを教えてくれた)
その結果、奥さまが話してくれたことの確認ができた。
南三陸町の防災無線で、地震直後から、津波に飲み込まれるまで、避難を呼びかけた女性がいた。
遠藤未来さん。 命をかけた放送だった。
テレビ、新聞、ネット上で大きな話題になっている。
新しい情報が入ったので、正確には何があったのか、それを調べてみた。
下の記事は、産経新聞。
毎日新聞。
防災無線は、役場の別館で、防災対策庁舎。 北側にある。
※ 右の荒沢神社の近くに車を置いて、海沿いを通って、中心街に向かった。 4時半頃、スタート。
※ 途中で、防災対策庁舎の場所を聞いた。 その人は、車で連れて行ってくれた。
運転しながら、色々話してくれた。
当日、車で逃げた。 もう少しと云う時、車がふわっと浮いたと言う。 でも、なんとか脱出した。
この建物が、防災対策庁舎。 防災無線の放送室は2階。 役場の庁舎は隣にあったが、なくなった。
話してくれた人の旦那様は、南三陸町危機管理課課長補佐 三浦 毅さん。
防災無線の責任者。 遠藤未希さんの上司になる。
話してくれたことは、
○ 何か見つかるかと思って、いつも探しに来ている。
○ 別の場所で旦那さんの車が見つかった。(今日ではなく)
今日は旦那様の誕生日。
車の所に、お酒と大好きなつまみを置いて来た。 手紙も。
○ 合併する前は、歌津町の役場にいた。 合併して、職場がここになった。
○ 新庁舎は丘の上に建つ話もあったが、結局この場所になった。
○ 奥さまは、遠藤未希さんと、一緒に踊りを習っていた。
○ 未来さんが流されて、もし上司の夫が生きていたら、それはそれで辛い。
○ 未来さんは、昨年4月にこの職場に来た。
少し前休んでいて、先月の28日に復帰した。
防災無線の放送については、こう話してくれた。(助かった人から、聞いていた)
○ 津波が迫って来た最後の最後、未希さんを屋上に避難させた。(他にも少しの人がいて、その人達も)
○ 非常階段は、2階だけ部屋の中を通っている。
下から来た屋上に避難する人が、三浦さんに避難を呼びかけた。
三浦さんは、「あと1回」と言った。
○ 未希さんは、何人かと手をつないで、屋上でしゃがんでいたそう。(少し、はっきりしない部分も)
○ 1回目の波は直ぐにやって来た。
屋上の多くの人が流された。
助かったの、非常階段を上がった所の踊り場にいた人達と、流されてそこに引っ掛かった人。(下に写真が)
屋上の柵は壊れたが、階段の柵は丈夫だった。
(後で知ったことだが、屋上には30人ほどがいて、流されなかったのは10人)
未希さんは、10人の中にいなかった。
○ 奥さまは、放送は歌津で聞いていたが、途中で「ガガッ」って切れた。
上のことを確認するため、地元の人に話を聞いた。
・市街地側(志津川)は、未希さんの声を多く聞いている。
・歌津側の人は、三浦さんの声を多く聞いていた。 未希さんの声を聞いたと言う人も。
※ 防災無線の最初のうちは、市街地が未希さん、歌津は三浦さん、と分担していたと言う情報がある。
・必死で避難したので、細かく記憶してない人が多かった。
・歌津で、ある人が、数日前の「河北新報」に書いてあると教えてくれた。
河北新報他、もう一度ネットで調べてみた。 下のようなのが見つかった。
三浦さんの記事は少ないが、あった。
河北新報(4月12日)
「大津波警報が発令されました。高台に避難してください」
防災無線の呼び掛けが、多くの命を救った。だが、声の主の行方は震災から1カ月たった今も知れない。
3月11日午後2時46分、宮城県南三陸町の防災対策庁舎2階にある危機管理課。
町職員遠藤未希さん(24)は放送室に駆け込み、防災無線のマイクを握った。
「6メートルの津波が予想されます」「異常な潮の引き方です」「逃げてください」
防災無線が30分も続いたころ、津波は庁舎に迫りつつあった。
「もう駄目だ。避難しよう」。
上司の指示で遠藤さんたちは、一斉に席を離れた。
同僚は、遠藤さんが放送室から飛び出す姿を見ている。
屋上へ逃げたはずだった。
が、津波の後、屋上で生存が確認された10人の中に遠藤さんはいなかった。
南三陸町の住民約1万7700人のうち、半数近くが避難して命拾いした。
遠藤さんは、多くの同僚とともに果たすべき職責を全うした。
※ 河北新報の全文
日経新聞(3月28日)
「6㍍強の津波が予想されます。早く逃げてください」。
地震直後、同町危機管理課課長補佐の三浦毅さん(51)は
後輩に代わって防災無線のマイクに向かい、声を張り上げた。
「もう逃げろ」と同僚が袖を引っ張ったが、
毅さんは「あと1回だけ」と放送室を離れず、その後見えなくなった。
※ 上の文の「地震直後」は、「津波が来る直前」が正確ですね。
※ 日経新聞の全文
これで、三浦さんの奥さまが話されたことは、間違いない。
未希さんは、津波が目の前に迫る中、マイクを放さなかった。
もし、三浦さんの指示がなかったら、動かなかったと思う。
未希さんの行動は、「最後まで避難を呼びかけた」の表現で、何も問題ない。
三浦さんは、未希さんが屋上に逃げる時間を、上司として与えた。
三浦さん自身も、津波が建物を壊し始めた時は、屋上に向かおうとしたかも知れない。
でも、もう間に合わなかった。 ぎりぎりまで、避難を呼びかけた。
1回でも多く呼びかければ、助かる人が増えることを、知っていた。
防災庁舎。
お花があった。 多くの人が来て、手を合わせている。
放送室は、2階。 屋上の柵は、壊れた。
非常階段の屋上の踊り場。 この柵が、10名の命を救った。
屋上で助かった、町長さんの話し。(産経ニュース 3月15日)
別方向から。 手前に、役場の建物の基礎が見える。
奥さまからお話しを聞いた後、車まで送ると言っていただいたが、写真を撮りながら帰ります、と云って別れた。
これで、最後まで防災無線で叫び続けた人は、2人いたことが分かった。
南三陸町の人達は、いつまでも、2人のことを忘れることはないでしょうね。
防災対策庁舎は、広島の原爆ドームのように、保存する計画があるそうです。
どんな意味を持たせたらいいでしょう。
辛い思いはしたけど、助け合って復興を果たす。 それを願う、また祈念する。
こんなのも、ありますね。
この件に関しては、終わりです。
【今日の歌】 一人の手 (本田路津子)
宮城県の山元町に、200人が避難している坂本中学校がある。
その中に12名の中浜小学校の子供達がいる。
本間裕子先生のアコーディオン伴奏で、 毎朝唄ってる。 (姉が教えてくれた)
※ 画面をクリックしたら、YouTubeに行きます。(貼り付けられない)
【その他】
夕方、こんな道を、中心街に向かった。
被災した場所を写さなかったら、どこもこんな風景。 三陸は、美しい。
津波のことを、油断していたわけではなかった。
港には、たくさんの船が沈んでいる。
養殖の生簀(いけす)が、からまっている。
様似は、北海道の日高にあります。 サケが入っていたのか。
誰かが、こうした。
やっと温かくなってきた。 明日も晴れそうです。
津波は、山の高さで襲ってきた。
海と共に生きてきた。
チリ地震津波水位の標識。 どこかから、流れてきた。
日が沈みかける中、戻った。
※ 今日のボランティアも写真でした。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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防災無線のあった防災庁舎の周りで、何かを探していた。
「この庁舎で、どなたか亡くなったんですか」と聞いた。
この庁舎で、旦那様が、防災無線で避難を呼びかけたと言った。
奥様は、その声を歌津で聞いた。
旦那様は、まだ見つかっていない。
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※ 次の14日、私は地元と歌津の人達十数人に、当日の放送について聞いた。
また、地元の新聞を中心に、調べてみた。(地元の人が、載ってることを教えてくれた)
その結果、奥さまが話してくれたことの確認ができた。
南三陸町の防災無線で、地震直後から、津波に飲み込まれるまで、避難を呼びかけた女性がいた。
遠藤未来さん。 命をかけた放送だった。
テレビ、新聞、ネット上で大きな話題になっている。
新しい情報が入ったので、正確には何があったのか、それを調べてみた。
下の記事は、産経新聞。


毎日新聞。

防災無線は、役場の別館で、防災対策庁舎。 北側にある。
※ 右の荒沢神社の近くに車を置いて、海沿いを通って、中心街に向かった。 4時半頃、スタート。
※ 途中で、防災対策庁舎の場所を聞いた。 その人は、車で連れて行ってくれた。
運転しながら、色々話してくれた。
当日、車で逃げた。 もう少しと云う時、車がふわっと浮いたと言う。 でも、なんとか脱出した。
この建物が、防災対策庁舎。 防災無線の放送室は2階。 役場の庁舎は隣にあったが、なくなった。

話してくれた人の旦那様は、南三陸町危機管理課課長補佐 三浦 毅さん。
防災無線の責任者。 遠藤未希さんの上司になる。
話してくれたことは、
○ 何か見つかるかと思って、いつも探しに来ている。
○ 別の場所で旦那さんの車が見つかった。(今日ではなく)
今日は旦那様の誕生日。
車の所に、お酒と大好きなつまみを置いて来た。 手紙も。
○ 合併する前は、歌津町の役場にいた。 合併して、職場がここになった。
○ 新庁舎は丘の上に建つ話もあったが、結局この場所になった。
○ 奥さまは、遠藤未希さんと、一緒に踊りを習っていた。
○ 未来さんが流されて、もし上司の夫が生きていたら、それはそれで辛い。
○ 未来さんは、昨年4月にこの職場に来た。
少し前休んでいて、先月の28日に復帰した。
防災無線の放送については、こう話してくれた。(助かった人から、聞いていた)
○ 津波が迫って来た最後の最後、未希さんを屋上に避難させた。(他にも少しの人がいて、その人達も)
○ 非常階段は、2階だけ部屋の中を通っている。
下から来た屋上に避難する人が、三浦さんに避難を呼びかけた。
三浦さんは、「あと1回」と言った。
○ 未希さんは、何人かと手をつないで、屋上でしゃがんでいたそう。(少し、はっきりしない部分も)
○ 1回目の波は直ぐにやって来た。
屋上の多くの人が流された。
助かったの、非常階段を上がった所の踊り場にいた人達と、流されてそこに引っ掛かった人。(下に写真が)
屋上の柵は壊れたが、階段の柵は丈夫だった。
(後で知ったことだが、屋上には30人ほどがいて、流されなかったのは10人)
未希さんは、10人の中にいなかった。
○ 奥さまは、放送は歌津で聞いていたが、途中で「ガガッ」って切れた。
上のことを確認するため、地元の人に話を聞いた。
・市街地側(志津川)は、未希さんの声を多く聞いている。
・歌津側の人は、三浦さんの声を多く聞いていた。 未希さんの声を聞いたと言う人も。
※ 防災無線の最初のうちは、市街地が未希さん、歌津は三浦さん、と分担していたと言う情報がある。
・必死で避難したので、細かく記憶してない人が多かった。
・歌津で、ある人が、数日前の「河北新報」に書いてあると教えてくれた。
河北新報他、もう一度ネットで調べてみた。 下のようなのが見つかった。
三浦さんの記事は少ないが、あった。
河北新報(4月12日)
「大津波警報が発令されました。高台に避難してください」
防災無線の呼び掛けが、多くの命を救った。だが、声の主の行方は震災から1カ月たった今も知れない。
3月11日午後2時46分、宮城県南三陸町の防災対策庁舎2階にある危機管理課。
町職員遠藤未希さん(24)は放送室に駆け込み、防災無線のマイクを握った。
「6メートルの津波が予想されます」「異常な潮の引き方です」「逃げてください」
防災無線が30分も続いたころ、津波は庁舎に迫りつつあった。
「もう駄目だ。避難しよう」。
上司の指示で遠藤さんたちは、一斉に席を離れた。
同僚は、遠藤さんが放送室から飛び出す姿を見ている。
屋上へ逃げたはずだった。
が、津波の後、屋上で生存が確認された10人の中に遠藤さんはいなかった。
南三陸町の住民約1万7700人のうち、半数近くが避難して命拾いした。
遠藤さんは、多くの同僚とともに果たすべき職責を全うした。
※ 河北新報の全文


日経新聞(3月28日)
「6㍍強の津波が予想されます。早く逃げてください」。
地震直後、同町危機管理課課長補佐の三浦毅さん(51)は
後輩に代わって防災無線のマイクに向かい、声を張り上げた。
「もう逃げろ」と同僚が袖を引っ張ったが、
毅さんは「あと1回だけ」と放送室を離れず、その後見えなくなった。
※ 上の文の「地震直後」は、「津波が来る直前」が正確ですね。
※ 日経新聞の全文



これで、三浦さんの奥さまが話されたことは、間違いない。
未希さんは、津波が目の前に迫る中、マイクを放さなかった。
もし、三浦さんの指示がなかったら、動かなかったと思う。
未希さんの行動は、「最後まで避難を呼びかけた」の表現で、何も問題ない。
三浦さんは、未希さんが屋上に逃げる時間を、上司として与えた。
三浦さん自身も、津波が建物を壊し始めた時は、屋上に向かおうとしたかも知れない。
でも、もう間に合わなかった。 ぎりぎりまで、避難を呼びかけた。
1回でも多く呼びかければ、助かる人が増えることを、知っていた。
防災庁舎。

お花があった。 多くの人が来て、手を合わせている。

放送室は、2階。 屋上の柵は、壊れた。

非常階段の屋上の踊り場。 この柵が、10名の命を救った。

屋上で助かった、町長さんの話し。(産経ニュース 3月15日)



別方向から。 手前に、役場の建物の基礎が見える。

奥さまからお話しを聞いた後、車まで送ると言っていただいたが、写真を撮りながら帰ります、と云って別れた。
これで、最後まで防災無線で叫び続けた人は、2人いたことが分かった。
南三陸町の人達は、いつまでも、2人のことを忘れることはないでしょうね。
防災対策庁舎は、広島の原爆ドームのように、保存する計画があるそうです。
どんな意味を持たせたらいいでしょう。
辛い思いはしたけど、助け合って復興を果たす。 それを願う、また祈念する。
こんなのも、ありますね。
この件に関しては、終わりです。
【今日の歌】 一人の手 (本田路津子)
宮城県の山元町に、200人が避難している坂本中学校がある。
その中に12名の中浜小学校の子供達がいる。
本間裕子先生のアコーディオン伴奏で、 毎朝唄ってる。 (姉が教えてくれた)
※ 画面をクリックしたら、YouTubeに行きます。(貼り付けられない)

【その他】
夕方、こんな道を、中心街に向かった。
被災した場所を写さなかったら、どこもこんな風景。 三陸は、美しい。

津波のことを、油断していたわけではなかった。

港には、たくさんの船が沈んでいる。

養殖の生簀(いけす)が、からまっている。

様似は、北海道の日高にあります。 サケが入っていたのか。

誰かが、こうした。

やっと温かくなってきた。 明日も晴れそうです。

津波は、山の高さで襲ってきた。

海と共に生きてきた。

チリ地震津波水位の標識。 どこかから、流れてきた。


日が沈みかける中、戻った。

※ 今日のボランティアも写真でした。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

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コメント
南三陸の新しい事実に触れました。TVの情報の偏り方はひどくなるばかり。このような簡潔な情報の「重さ」がほしいものです。視察ではなく「歩く」ところに転がる情報が「真実」を語れるように感じた貴ブログでした。久しぶりに福岡の空が晴れています。
Re: タイトルなし
報道は、少ない情報を膨らませて書いてる時がありますね。
また、電話取材だけで、情報を手に入れることもある。
ボランティアの状況も、社会福祉協議会だけからの情報を、流していた。
歩きまわっていて、よく出会う新聞記者は、限られた新聞社ですね。。
今年の正月は、志賀島にいたんですよ。
教え子が、福岡の病院で、医師をしてます。
久しぶりに晴れましたね。
花も鳥も、生き生きしています。
また、電話取材だけで、情報を手に入れることもある。
ボランティアの状況も、社会福祉協議会だけからの情報を、流していた。
歩きまわっていて、よく出会う新聞記者は、限られた新聞社ですね。。
今年の正月は、志賀島にいたんですよ。
教え子が、福岡の病院で、医師をしてます。
久しぶりに晴れましたね。
花も鳥も、生き生きしています。
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報道では美談として脚色がなされて語られるばかりです。被災地に実際に足を運ばれた方のお話をお聞きすると、そうではない何かが見える気がしました。
ご家族様がそっとしておいて欲しいという気持もわかるきがします。当然復興計画には入っているのでしょうが、防災対策庁舎こそ安全な場所にあるべきでしたし、その教訓はいかされるべきだと思います。
ご家族様がそっとしておいて欲しいという気持もわかるきがします。当然復興計画には入っているのでしょうが、防災対策庁舎こそ安全な場所にあるべきでしたし、その教訓はいかされるべきだと思います。
Re: タイトルなし
2人いたことについては、大分後になりますが、NHKが詳しく調べています。
呼びかけた回数も、すべて分かっています。
どこかの記事で、書きました。
防災対策庁舎を高台に作ると判断できる機会は、あったんですね。
それとは別に、町長さんの動き方が、よく分からないかなって・・。
呼びかけた回数も、すべて分かっています。
どこかの記事で、書きました。
防災対策庁舎を高台に作ると判断できる機会は、あったんですね。
それとは別に、町長さんの動き方が、よく分からないかなって・・。
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