いつの間にか、4月が終わる。 はやい。
今日の仕事は、瓦礫の撤去。 初めて。
相馬市の街外れに、小さな新沼観音堂があり、そこに、天明餓死供養碑というのがあった。
東北は寒いから、飢饉の時は、他よりも被害が大きい。 1回の飢饉で、死者数万人。
昔も今も、東北の人達は、辛い思いをする。
ボランティアセンターの受け付けは、9時から。
昨日遅れて行ったら、仕事が午後からになったので、8時半過ぎに行ってみた。
下のように、人が並んでいた。
私は、並ばない。
車で休んでたら、9時20分頃、列は消えた。
仕事は無いかもしれないと思ったが、受付に行った。
ボランティアの人は、20人ほどいた。
一つだけ仕事が、貼り出してあった。
内容は、「力仕事、瓦礫の撤去」とあった。
5人必要だが、2人しか希望していない。 みんな敬遠したために、残っていた。
私は、すぐそれに申し込んだ。
集合時間は12時過ぎで、場所は下の地図の、松川浦。 北隣に相馬港がある。
たくさんの船が打ち上げられていた。 船の向こうは海。
上の写真の船の方から撮影。 右手前の家が、仕事場。
家の周りの瓦礫を、写真の左手前に運んだ。 一輪車を使って。 大きな物は、何人かで。
※ 釘を踏まないようにだけ、注意を払っていた。
瓦礫は、流れてきた物と、家の中から出した物。
家の中では、業者が床下の泥出しの準備をしていた。
発電機で電動の工具を使い、切ったりして、要領よく床板を剥がしていた。
床下の水と泥は、吸い取ると言った。 ※ バキュームカーのように。
3時頃には終わった。
お茶やお菓子を御馳走になった。
みんな記念写真を撮り出したので、私も1枚。 女性の方が、ここにお家の人。
オレンジのジャケットの人は、迎えに来た人。
黄色のジャケットの人は、まとめ役。
3時半過ぎには戻ったので、天明餓死供養碑を見に行くことに。
この碑については、相馬市の歴史を調べていたら、たまたま見つけた。
※ 話はそれるが、私の母方の苗字は相馬。
先祖はこの町かなと思って、母に聞いてみたら違った。
母の母方の先祖は、盛岡市。 母の父方の先祖は、栃木県だった。
その碑は、新沼観音堂の入り口にあった。
説明の下にある、小さな石碑が、天明餓死供養碑。
これが、供養碑。 なんて書いてあるか、全部読めない。 ※ ネットにもない。
餓死と、男女が読める。 右に、寛永二とあるのかな。
説明は、こう。 200年とちょっと前の話し。
天明の大飢饉が、一番大変だったが、江戸時代どんな飢饉があったのか。
① 寛永の大飢饉 寛永19年(1642年)~寛永20年(1643年)
② 享保の大飢饉 享保17年(1732年)
③ 天明の大飢饉 天明2年 (1782年)~天明7年(1787年)
④ 天保の大飢饉 天保4年 (1833年)~天保10年(1839年)
※ ここまでの4つが、4大飢饉。 他に、
⑤ 元禄の飢饉(元禄年間 1691年~1695年)
⑥ 延宝の飢饉(延宝年間 1674年~1675年)
⑦ 天和の飢饉(天和年間 1682年~1683年)
⑧ 宝暦の飢饉(宝暦年間 1753年~1757年)
上の中で、半分の、③④⑤⑧は、東北地方が特にひどかった。
※ 他は、東北だけでなく、全国的に。 東北は、いつも大変。
死者については、下のように。 ※ 数字は、Wikipedia と 相馬の歴史講座と相馬郷土史研究のHP より。
※ 相馬市は、昔は相馬中村藩。
○ 元禄の大飢饉 東北全体で、50000人。
○ 宝暦の大飢饉 東北全体で、60000人。
○ 天明の大飢饉 相馬中村藩で、16000人。 ※ 弘前藩だけで、10万人、
東北全体で、80万人とも。 松平定信の記録は、全国で140万人。
○ 天保の大飢饉 全国で、20~30万人。
下の絵は、江戸期の出版物「卯辰飢饉物語」にあるもの。 詳しくは、ここのHPに。
人が馬の肉を食べている。 犬が人の肉も。
※ 人が人を食べてる文や絵もある。
東北は、今の時期も、海からの風は冷たい。
夏になっても吹く、その風は「やませ」と呼ばれる。 冷害が飢饉を引き起こす。
天明の飢饉の時は、岩木山が噴火している。 火山灰を降らせ、空を曇らせた。 これも、冷害の要因の一つ。
東北では、醤油の原料の大豆を作らされた所もある。 大豆は冷害に弱かった。 あわやひえは、強い。
新沼観音堂は、少し行って、左に登った所にあった。
新沼観音堂。
石塔が、雑多にならんでいた。 ・・三夜と読めるのがあった。 二十三夜塔かな。
庚申塔もあった。 庚申塔(Wikipedia)
東北の人々は、今回の津波や放射能で、辛い思いをした。 また、今もしている。
天明餓死供養碑を知った時、もしかしたら、他と比較して、昔から大変な思いをして来たのでは、と思ったので、調べてみた。
東北の人達の厳しい生活は、少なくとも、江戸時代から続いていた。
復興を果たした時の東北の姿は、
「もう津波の心配はなく、涼しさが米作りに有利で、豊かな漁場を抱え、そして、誰もが幸せに生きられる所」
そんなイメージでしょうか。 そうなったらいい。
※ なお、松尾芭蕉の「奥の細道」の旅は、「寛永の大飢饉」と「元禄の飢饉」の間に行っている。
1689年のこと。
飢饉の時には行かないから、きっと、落ち着いてる時に行った。
※ キム・ヨナは負けました。
昨日、不安を1つだけ書いた。
コーチと並んだ時、二人の間に一体感が感じられなかった。
コーチが、ヨナの心のコントロールを助けることは出来なかった。
オーサーコーチとの違いだ。
負けたけど、キム・ヨナの魅力が少しも減ったわけではない。
オリンピックで勝つことは、歴史に歴然と残る。
それほど大きなことで、それによって、心も何もかも、すり減らした。
だから、次の1年くらいダメだって、どうってことない。
フィギュアスケートの女子は、キム・ヨナを中心にまわっていることには変わりない。
次のシーズンを気分よく勝ってやめるか、次のオリンピックを勝ってやめるか、どちらでもいいと思う。
勝負の世界は、誰かが泣く。 きびしい。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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今日の仕事は、瓦礫の撤去。 初めて。
相馬市の街外れに、小さな新沼観音堂があり、そこに、天明餓死供養碑というのがあった。
東北は寒いから、飢饉の時は、他よりも被害が大きい。 1回の飢饉で、死者数万人。
昔も今も、東北の人達は、辛い思いをする。
ボランティアセンターの受け付けは、9時から。
昨日遅れて行ったら、仕事が午後からになったので、8時半過ぎに行ってみた。
下のように、人が並んでいた。
私は、並ばない。

車で休んでたら、9時20分頃、列は消えた。
仕事は無いかもしれないと思ったが、受付に行った。
ボランティアの人は、20人ほどいた。
一つだけ仕事が、貼り出してあった。
内容は、「力仕事、瓦礫の撤去」とあった。
5人必要だが、2人しか希望していない。 みんな敬遠したために、残っていた。
私は、すぐそれに申し込んだ。
集合時間は12時過ぎで、場所は下の地図の、松川浦。 北隣に相馬港がある。
たくさんの船が打ち上げられていた。 船の向こうは海。

上の写真の船の方から撮影。 右手前の家が、仕事場。
家の周りの瓦礫を、写真の左手前に運んだ。 一輪車を使って。 大きな物は、何人かで。
※ 釘を踏まないようにだけ、注意を払っていた。

瓦礫は、流れてきた物と、家の中から出した物。
家の中では、業者が床下の泥出しの準備をしていた。
発電機で電動の工具を使い、切ったりして、要領よく床板を剥がしていた。
床下の水と泥は、吸い取ると言った。 ※ バキュームカーのように。
3時頃には終わった。
お茶やお菓子を御馳走になった。
みんな記念写真を撮り出したので、私も1枚。 女性の方が、ここにお家の人。
オレンジのジャケットの人は、迎えに来た人。
黄色のジャケットの人は、まとめ役。

3時半過ぎには戻ったので、天明餓死供養碑を見に行くことに。
この碑については、相馬市の歴史を調べていたら、たまたま見つけた。
※ 話はそれるが、私の母方の苗字は相馬。
先祖はこの町かなと思って、母に聞いてみたら違った。
母の母方の先祖は、盛岡市。 母の父方の先祖は、栃木県だった。
その碑は、新沼観音堂の入り口にあった。
説明の下にある、小さな石碑が、天明餓死供養碑。

これが、供養碑。 なんて書いてあるか、全部読めない。 ※ ネットにもない。
餓死と、男女が読める。 右に、寛永二とあるのかな。

説明は、こう。 200年とちょっと前の話し。

天明の大飢饉が、一番大変だったが、江戸時代どんな飢饉があったのか。
① 寛永の大飢饉 寛永19年(1642年)~寛永20年(1643年)
② 享保の大飢饉 享保17年(1732年)
③ 天明の大飢饉 天明2年 (1782年)~天明7年(1787年)
④ 天保の大飢饉 天保4年 (1833年)~天保10年(1839年)
※ ここまでの4つが、4大飢饉。 他に、
⑤ 元禄の飢饉(元禄年間 1691年~1695年)
⑥ 延宝の飢饉(延宝年間 1674年~1675年)
⑦ 天和の飢饉(天和年間 1682年~1683年)
⑧ 宝暦の飢饉(宝暦年間 1753年~1757年)
上の中で、半分の、③④⑤⑧は、東北地方が特にひどかった。
※ 他は、東北だけでなく、全国的に。 東北は、いつも大変。
死者については、下のように。 ※ 数字は、Wikipedia と 相馬の歴史講座と相馬郷土史研究のHP より。
※ 相馬市は、昔は相馬中村藩。
○ 元禄の大飢饉 東北全体で、50000人。
○ 宝暦の大飢饉 東北全体で、60000人。
○ 天明の大飢饉 相馬中村藩で、16000人。 ※ 弘前藩だけで、10万人、
東北全体で、80万人とも。 松平定信の記録は、全国で140万人。
○ 天保の大飢饉 全国で、20~30万人。
下の絵は、江戸期の出版物「卯辰飢饉物語」にあるもの。 詳しくは、ここのHPに。
人が馬の肉を食べている。 犬が人の肉も。
※ 人が人を食べてる文や絵もある。

東北は、今の時期も、海からの風は冷たい。
夏になっても吹く、その風は「やませ」と呼ばれる。 冷害が飢饉を引き起こす。
天明の飢饉の時は、岩木山が噴火している。 火山灰を降らせ、空を曇らせた。 これも、冷害の要因の一つ。
東北では、醤油の原料の大豆を作らされた所もある。 大豆は冷害に弱かった。 あわやひえは、強い。
新沼観音堂は、少し行って、左に登った所にあった。

新沼観音堂。

石塔が、雑多にならんでいた。 ・・三夜と読めるのがあった。 二十三夜塔かな。
庚申塔もあった。 庚申塔(Wikipedia)

東北の人々は、今回の津波や放射能で、辛い思いをした。 また、今もしている。
天明餓死供養碑を知った時、もしかしたら、他と比較して、昔から大変な思いをして来たのでは、と思ったので、調べてみた。
東北の人達の厳しい生活は、少なくとも、江戸時代から続いていた。
復興を果たした時の東北の姿は、
「もう津波の心配はなく、涼しさが米作りに有利で、豊かな漁場を抱え、そして、誰もが幸せに生きられる所」
そんなイメージでしょうか。 そうなったらいい。
※ なお、松尾芭蕉の「奥の細道」の旅は、「寛永の大飢饉」と「元禄の飢饉」の間に行っている。
1689年のこと。
飢饉の時には行かないから、きっと、落ち着いてる時に行った。
※ キム・ヨナは負けました。
昨日、不安を1つだけ書いた。
コーチと並んだ時、二人の間に一体感が感じられなかった。
コーチが、ヨナの心のコントロールを助けることは出来なかった。
オーサーコーチとの違いだ。
負けたけど、キム・ヨナの魅力が少しも減ったわけではない。
オリンピックで勝つことは、歴史に歴然と残る。
それほど大きなことで、それによって、心も何もかも、すり減らした。
だから、次の1年くらいダメだって、どうってことない。
フィギュアスケートの女子は、キム・ヨナを中心にまわっていることには変わりない。
次のシーズンを気分よく勝ってやめるか、次のオリンピックを勝ってやめるか、どちらでもいいと思う。
勝負の世界は、誰かが泣く。 きびしい。
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(2008年4月~2010年9月までの記事)

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