今回の四国南周りの旅は、88ヶ所霊場に寄ってみる。
だから、半分くらいは、巡礼の旅。
最初は、 第43番札所 源光山 明石寺(めいせきじ)。
卯之町(うのまち)の重伝建地区がある、西予(せいよ)市宇和町にある。
山号の源光山の源は、源頼朝の源。
面白いなって思う話だった。
※ ※ ※ ※ ブログタイトル一覧は、右をクリック。
( 写真の上にカーソルを置いて、open になってクリックしたら、一瞬に大きく。 再度クリックしたら、元に )
宇和島市の北部。
※ 右地図に小藪温泉が。
夕食が、囲炉裏で。 囲炉裏の経験は無い。 数日前、行くかどうか検討していた。 最後に紹介。

町並みから少し離れて。 坂を上る。

もしかして、一番西の端でしょうか。 境内図は、四国霊場のHPから。 詳しい方がいい。

ここまでの道はいい。 駐車場は広い。 石段を登って。 石垣の石が大きい。
山門は、石段の上正面に。

山門。 左に手水舎(ちょうずしゃ)。 奥に、次の寺への遍路道。(のちほど)

山門の中。 草鞋を履いてのお遍路の時代があった。
明日は節分。 行事がある。 こんなこともするよう。
(YouTubeから)

石段を上がった右に、本坊・納経所。 最後に行く。

本殿。 赤瓦の屋根。 唐破風(からはふ)のまるい屋根。 撮影場所の右に、地蔵堂。

お城の石垣のよう。

本堂。 本尊は、千手観音。 天井絵があったけど、気付かなかった。
※ 左下に古い神社があって、その末社の建物。 今は使ってないよう。

右に鐘楼と、大師堂。 鐘楼は、江戸時代の建物。 他は明治かな。

大師堂。 右の方に、仏足跡。 ※ 撮影のことは書いてなかったので、右写真。 本堂内は禁止。

左から、鐘楼・本堂・大師堂。 右に、夫婦杉。

ここで、山号の源光山のいわれを。
まず、Wikipediaでは下のように。
建久5年(1194年)に、源頼朝が池禅尼の菩提を弔うため阿弥陀如来を安置、経塚を築き堂宇の修繕をした。
この時に山号を現光山から源光山に改めたという。
頼朝が、池禅尼(いけのぜんに)を弔って以来、源光山になった。
上の阿弥陀如来は、今は無い。
池禅尼は、下のような人。
平忠盛の正室。平清盛の継母に当たる。後に崇徳天皇の皇子・重仁親王の乳母となる。
上について少し。
重仁親王(しげひとしんのう)は、崇徳天皇のあと天皇になれた。
でも、天皇は崇徳(すとく)天皇の弟が、後白河天皇に。
崇徳天皇(上皇)と後白河天皇の政権争いが起きる。 保元の乱。
崇徳天皇は負けて、讃岐(さぬき)に流される。
※ 重仁親王も讃岐に来た説が。 高松市の鬼無の近くに廟(びょう・はか)が。
頼朝について、下に。
平治の乱で、まだ子供の頼朝は、平家に捕まった。 普通は斬首。
頼朝の命を助けたのが、池善尼。 伊豆に流されることで済んだ。
※ なぜ助けたかは、色々理由。 ただ、人質時代、嫌われていなかったよう。
後の時代に、頼朝は伊豆から挙兵。
平治元年(1159年)の平治の乱においては複雑な政争を勝ち抜いた清盛が勝利し、
その結果、源義朝ら他の軍事貴族が駆逐された。
翌永暦元年(1160年)2月、義朝の嫡男で13歳の頼朝が池禅尼ならびに頼盛の郎党である平宗清に捕えられた。
この際、池禅尼は清盛に対して助命を嘆願したと言われている。
また頼朝の助命の為に池禅尼が断食をし始めたため、清盛も遂に折れて伊豆国への流罪へ減刑したとも言われている。
頼朝はこの恩があって、菩提を弔い、寺を整備。
どうしてこの地になったかは、分からない。(義経が伊予守になっていた時代はあるけど)
下は、池禅尼の像。 ※ 彼女の子孫は、平家だったけど、鎌倉幕府で厚遇される。

さるすべりの木かな。 皮がむけて、猿も木から滑(すべ)りそう。
〇に、顔。 怨念の表情でない。 池禅尼? 下に山門。

左隣の古い神社。 少し荒れて。 神仏習合の時代が長く続いた。

左に道。 参詣道。 次の44番札所に向かう道。 次は大洲(おおず)だから遠い。
明石寺の伝説が書いてあった。
※ 夜明けに驚いて去ったのは、暗いうち鶏が鳴いたから。
※ 鶏が鳴く話は他にも。
家康がある戦いで負け、家臣と岡崎に急いで戻る途中、ある寺で一晩。
夜明け前に、鶏が鳴いた。 家康は寺を出た。
追っ手から、間一髪逃れることが出来た。

境内のずっと左奥に、弘法の井戸。 童(わらべ)地蔵が。 ※ 京都大原の三千院で見た、童地蔵。

これがその井戸。 かぶりものが重そう。

向こうの納経所で、納経帳に書いてもらう。

真ん中は、本尊の名前。 千手観音。 一番上の字は、千手観音を表す梵字ですね。
左は、明石寺。 右は分からない。 本尊は、真ん中の写真の感じか。

納経所前から撮影。 明日の準備が始まった。

駐車場に戻ったら、この地図。 赤〇に重伝建地区が。 最後に紹介。 ロウバイ(蝋梅)の花。

坂の下には、里山が広がる。

四国巡礼の1日目でした。
面白い話があったので、よかったかなと。
何もなかったら、つらい。 信心深くない私には。
巡礼だから、お参りすればいいんだけど。
【今日の一句】 「 明日は節分 移りゆく季節を感じて 恵方巻でも空海 」
【記事の紹介】
西行法師の道を歩いて、崇徳天皇白峯の陵へ。 81番札所、白峯寺。~坂出市~ 他 (2012/12/26)
卯之町の街並み 開明学校~現存する西日本最古の小学校~ (2009/12/19)
渓流沿いの温泉宿、小薮温泉 ~有形登録文化財の建物 大洲市肱川町~ 他 (2011/2/3)
【今日の歌】 ある日の午後 森山良子
※ 歌詞に、「古いお寺のいわれ」という一節が。
※ 都忘れの花も。 一度紹介したことが。
崇徳上皇の少し後の時代、順徳天皇が佐渡に流された。
その時に、都をなつかしんで詠った歌が、最初と云われる。
「いかにして 契りおきけむ白菊を 都忘れと 名づくるも憂し」
【道の駅】 どんぶり館
【明日の予定】 42番札所 仏木寺
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの.記事)
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だから、半分くらいは、巡礼の旅。
最初は、 第43番札所 源光山 明石寺(めいせきじ)。
卯之町(うのまち)の重伝建地区がある、西予(せいよ)市宇和町にある。
山号の源光山の源は、源頼朝の源。
面白いなって思う話だった。
※ ※ ※ ※ ブログタイトル一覧は、右をクリック。

( 写真の上にカーソルを置いて、open になってクリックしたら、一瞬に大きく。 再度クリックしたら、元に )
宇和島市の北部。
※ 右地図に小藪温泉が。
夕食が、囲炉裏で。 囲炉裏の経験は無い。 数日前、行くかどうか検討していた。 最後に紹介。


町並みから少し離れて。 坂を上る。

もしかして、一番西の端でしょうか。 境内図は、四国霊場のHPから。 詳しい方がいい。


ここまでの道はいい。 駐車場は広い。 石段を登って。 石垣の石が大きい。
山門は、石段の上正面に。

山門。 左に手水舎(ちょうずしゃ)。 奥に、次の寺への遍路道。(のちほど)


山門の中。 草鞋を履いてのお遍路の時代があった。
明日は節分。 行事がある。 こんなこともするよう。




石段を上がった右に、本坊・納経所。 最後に行く。

本殿。 赤瓦の屋根。 唐破風(からはふ)のまるい屋根。 撮影場所の右に、地蔵堂。


お城の石垣のよう。

本堂。 本尊は、千手観音。 天井絵があったけど、気付かなかった。
※ 左下に古い神社があって、その末社の建物。 今は使ってないよう。


右に鐘楼と、大師堂。 鐘楼は、江戸時代の建物。 他は明治かな。

大師堂。 右の方に、仏足跡。 ※ 撮影のことは書いてなかったので、右写真。 本堂内は禁止。


左から、鐘楼・本堂・大師堂。 右に、夫婦杉。


ここで、山号の源光山のいわれを。
まず、Wikipediaでは下のように。
建久5年(1194年)に、源頼朝が池禅尼の菩提を弔うため阿弥陀如来を安置、経塚を築き堂宇の修繕をした。
この時に山号を現光山から源光山に改めたという。
頼朝が、池禅尼(いけのぜんに)を弔って以来、源光山になった。
上の阿弥陀如来は、今は無い。
池禅尼は、下のような人。
平忠盛の正室。平清盛の継母に当たる。後に崇徳天皇の皇子・重仁親王の乳母となる。
上について少し。
重仁親王(しげひとしんのう)は、崇徳天皇のあと天皇になれた。
でも、天皇は崇徳(すとく)天皇の弟が、後白河天皇に。
崇徳天皇(上皇)と後白河天皇の政権争いが起きる。 保元の乱。
崇徳天皇は負けて、讃岐(さぬき)に流される。
※ 重仁親王も讃岐に来た説が。 高松市の鬼無の近くに廟(びょう・はか)が。
頼朝について、下に。
平治の乱で、まだ子供の頼朝は、平家に捕まった。 普通は斬首。
頼朝の命を助けたのが、池善尼。 伊豆に流されることで済んだ。
※ なぜ助けたかは、色々理由。 ただ、人質時代、嫌われていなかったよう。
後の時代に、頼朝は伊豆から挙兵。
平治元年(1159年)の平治の乱においては複雑な政争を勝ち抜いた清盛が勝利し、
その結果、源義朝ら他の軍事貴族が駆逐された。
翌永暦元年(1160年)2月、義朝の嫡男で13歳の頼朝が池禅尼ならびに頼盛の郎党である平宗清に捕えられた。
この際、池禅尼は清盛に対して助命を嘆願したと言われている。
また頼朝の助命の為に池禅尼が断食をし始めたため、清盛も遂に折れて伊豆国への流罪へ減刑したとも言われている。
頼朝はこの恩があって、菩提を弔い、寺を整備。
どうしてこの地になったかは、分からない。(義経が伊予守になっていた時代はあるけど)
下は、池禅尼の像。 ※ 彼女の子孫は、平家だったけど、鎌倉幕府で厚遇される。

さるすべりの木かな。 皮がむけて、猿も木から滑(すべ)りそう。
〇に、顔。 怨念の表情でない。 池禅尼? 下に山門。


左隣の古い神社。 少し荒れて。 神仏習合の時代が長く続いた。

左に道。 参詣道。 次の44番札所に向かう道。 次は大洲(おおず)だから遠い。
明石寺の伝説が書いてあった。
※ 夜明けに驚いて去ったのは、暗いうち鶏が鳴いたから。
※ 鶏が鳴く話は他にも。
家康がある戦いで負け、家臣と岡崎に急いで戻る途中、ある寺で一晩。
夜明け前に、鶏が鳴いた。 家康は寺を出た。
追っ手から、間一髪逃れることが出来た。


境内のずっと左奥に、弘法の井戸。 童(わらべ)地蔵が。 ※ 京都大原の三千院で見た、童地蔵。


これがその井戸。 かぶりものが重そう。


向こうの納経所で、納経帳に書いてもらう。

真ん中は、本尊の名前。 千手観音。 一番上の字は、千手観音を表す梵字ですね。

左は、明石寺。 右は分からない。 本尊は、真ん中の写真の感じか。



納経所前から撮影。 明日の準備が始まった。


駐車場に戻ったら、この地図。 赤〇に重伝建地区が。 最後に紹介。 ロウバイ(蝋梅)の花。



坂の下には、里山が広がる。

四国巡礼の1日目でした。
面白い話があったので、よかったかなと。
何もなかったら、つらい。 信心深くない私には。
巡礼だから、お参りすればいいんだけど。
【今日の一句】 「 明日は節分 移りゆく季節を感じて 恵方巻でも空海 」
【記事の紹介】
西行法師の道を歩いて、崇徳天皇白峯の陵へ。 81番札所、白峯寺。~坂出市~ 他 (2012/12/26)
卯之町の街並み 開明学校~現存する西日本最古の小学校~ (2009/12/19)
渓流沿いの温泉宿、小薮温泉 ~有形登録文化財の建物 大洲市肱川町~ 他 (2011/2/3)
【今日の歌】 ある日の午後 森山良子
※ 歌詞に、「古いお寺のいわれ」という一節が。
※ 都忘れの花も。 一度紹介したことが。
崇徳上皇の少し後の時代、順徳天皇が佐渡に流された。
その時に、都をなつかしんで詠った歌が、最初と云われる。
「いかにして 契りおきけむ白菊を 都忘れと 名づくるも憂し」
【道の駅】 どんぶり館
【明日の予定】 42番札所 仏木寺
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの.記事)

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