秀吉が駒姫を殺していなかったら、関ケ原の戦いはどうなったか分からない。
父最上義光(もがみよしあき)だけでなく、伊達政宗他有力な武将は秀吉から離れていった。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
昨年の夏、山形市で駒姫の寺に行く予定だった。
しかし、天気が良くなって予定を変更。 立石寺に行った。
立石寺は1015段の石段を登って奥の院に。 3回に挑戦。 セミはまだ鳴いてない。 最上義光公御霊屋。~山形市~ 他 (2018/6/8)
その時、下の記事を書いた。 駒姫のこと。

駒姫の専称寺(せんしょうじ)は印。
山形城で駒姫は生まれた。 近くに千歳山。

下は、あるサイトからお借り。
最上義光の妹は、伊達政宗の母。 義光と政宗は仲が良かった。
文中の御駒山(おこまやま)はずっと北にある。 花の百名山の栗駒山の南に。(栗駒山には2度)
駒姫(天正7年(1581年) - 文禄4年8月2日(1595年9月5日))は伊達政宗の伯父にあたる最上義光と大崎夫人の
次女として産まれた。
最上家に女の子が生まれたこの日、少年であった伊達政宗と伯父義光が千歳山阿古屋の松を題材にした和歌を
歌った。
「恋しさは秋ぞまされる千とせ山の あこやの松に木隠(こがく)れの月 政宗」
「恋しくば尋ね来よかし千年山 あこやの松に木隠るる月 義光」
義光の妻は、娘誕生の日に政宗から寄越された和歌にちなんで「千年」と名づけたいと言ったが、義光は、安倍貞任
の娘「千年」は父母を滅ぼしたのだから悪い名だと言ってこの名は採用されず、出羽の名山「御駒山」にちなんで「お駒」
と名づけた。
山形市の千歳山万萬松寺に、阿古耶姫伝説。 千歳山の頂上へ。 古くからあり、西行も訪れて。~山形市~ 他 (2016/6/14)
※ ※ ※ ※ ブログタイトル一覧は、右をクリック。
( 写真の上にカーソルを置いて、open になってクリックしたら、一瞬に大きく。 再度クリックしたら、元に)
印は瑞泉寺(ずいせんじ)。 右地図の酢屋は、龍馬が住んでいた所。

三条大橋。 瑞泉寺は、右の橋の袂の少し向こう。
その辺に、三条河原の処刑場があった。

瑞泉寺。 木屋町通から入る。

処刑から16年後に寺ができた。 その4年後に大阪城落城。 秀頼・淀君は自害。 豊臣家は終わる。
(右の写真等、瑞泉寺のHPからお借り)

本堂。 右奥にお墓。

正面に秀次の。 秀次は秀吉の姉の子。 秀吉に子供がいなかったから、跡継ぎにと養子。
関白を譲っていた。 秀頼が生まれて、秀次は邪魔になってきた。

石棺(せきかん)を祀っている。 高野山から秀次の首を入れて持ってきた。 首は三条河原に晒(さら)した。
※ 真田丸では頼りなく見えた。 実際は多くの戦いを指揮して活躍。

側室とその子供、30数名。 駒姫に印。 この時は、誰だったか思い出せなかった。

赤〇が駒姫。 十五歳と読める。

父の義光(よしあき)は、仕方なく駒姫を差し出した。 断れなかった。
秀次が欲しいというから。
駒姫が京都に入ったのは、7月の初め。 最上邸にいた。
秀次の切腹は、7月15日。 側室たちの打ち首は8月2日。

義光と伊達政宗は、秀次に協力的だったと言われ秀吉に呼び出されていた。
秀吉のいる聚楽第(じゅらくだい)に。 ※ 聚楽第は二条城の北。 昨日の記事に。
駒姫が打ち首と知った義光は慌てた。
秀吉に何度も助命を嘆願した。 聞き入れてもらえない。
江戸から家康もやってきた。 必死に頼んだが難しい。 加賀の前田利家も。
そんなことがあって、8月2日になる。
秀吉は折れた。 尼になることを条件に命だけ助けると。
それを伝えるため、処刑場に馬を走らせた。 使者が乗って。
聚楽第からの距離は、約4㌔。 10分か15分。
間に合わなかった。 あと1町というところで、処刑は行われた。 (約100㍍)(文献にあるよう)
20秒早く着いたら、待て~って叫べた。
彼女は11番目に処刑。 もし12番目でも、助かっていた。
下の図は、YouTubeから。
幼子(おさなご)は刀で突き刺した。 側室たちは、打ち首。 斬首。 遺体は穴を掘って埋めた。
最後の動画に出てくるけど、近くに地蔵菩薩像がある。 秀次の首も。
高台寺に近い大雲院の和尚が持ってきた。 側室たちはそれに手を合わせ、覚悟を決めた。

遺体を埋めた穴の上に、畜生塚。 そばに、後に瑞泉寺を建てた。 ※ 右上の川は白川。

駒姫が死んで2週間後、駒姫の母は死ぬ。 自殺と言われている。
あの世で一人は可哀そう、って考えたんですね。
義光の悲嘆の大きさは、はかり知れない。
義光は家康への恩を忘れず、家康に近づくことになる。 関ヶ原では、東軍に。
政宗も前田利家も同じ。
江戸時代に描かれた絵図。

ここに、上で書いた地蔵菩薩が祀られている。 説明があると、気づかなかった。

大きな像ではない。 前回来た時に撮った写真。 右の大河をやってた時。

秀次の子供は、ほとんど殺された。
処刑から逃れた女の子がいた。 後の名前は隆清院。
その子は、真田信繁に嫁ぐ。
大坂夏の陣で信繁は死ぬが、隆清院とその娘は秀次の母の所に身を寄せ助かった。

下は、義光と家康が秀吉に懇願するときの様子。(最上義光 駒姫 日本の歴史 雑学の世界 娘への遺言 駒姫5から)
2人の必死さが伝わってくる。
義光の無念さは、最初に書いた寺の大きさでも分かるでしょうか。

秀吉は我が子の秀頼に後を継がせたかった。
秀次は力があるから不安になった。
秀次だけ殺すのでは、まだ不安。 子供たちが力をつけるかもしれない。
それで、皆殺し。
駒姫はまだ側室になってない。 秀次の顔も見てない。
※ 秀吉は秀次を殺す予定はなかったという説も。
無実の意思を表すために秀次は自害したと、秀吉は考えた。
それに怒って、側室達も打ち首。
駒姫の死は、時代を動かしたと言えそうです。
この夏、駒姫の専称寺と山形城跡に行ってみましょうか。
【今日の動画】 戦国の美女駒姫が悲劇すぎる!
【停泊場所】 亀岡市運動公園駐車場。
【明日の予定】 木屋町通。 (写真は撮ってあります) ※ 午後歯科医院。
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父最上義光(もがみよしあき)だけでなく、伊達政宗他有力な武将は秀吉から離れていった。
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昨年の夏、山形市で駒姫の寺に行く予定だった。
しかし、天気が良くなって予定を変更。 立石寺に行った。
立石寺は1015段の石段を登って奥の院に。 3回に挑戦。 セミはまだ鳴いてない。 最上義光公御霊屋。~山形市~ 他 (2018/6/8)
その時、下の記事を書いた。 駒姫のこと。


駒姫の専称寺(せんしょうじ)は印。
山形城で駒姫は生まれた。 近くに千歳山。

下は、あるサイトからお借り。
最上義光の妹は、伊達政宗の母。 義光と政宗は仲が良かった。
文中の御駒山(おこまやま)はずっと北にある。 花の百名山の栗駒山の南に。(栗駒山には2度)
駒姫(天正7年(1581年) - 文禄4年8月2日(1595年9月5日))は伊達政宗の伯父にあたる最上義光と大崎夫人の
次女として産まれた。
最上家に女の子が生まれたこの日、少年であった伊達政宗と伯父義光が千歳山阿古屋の松を題材にした和歌を
歌った。
「恋しさは秋ぞまされる千とせ山の あこやの松に木隠(こがく)れの月 政宗」
「恋しくば尋ね来よかし千年山 あこやの松に木隠るる月 義光」
義光の妻は、娘誕生の日に政宗から寄越された和歌にちなんで「千年」と名づけたいと言ったが、義光は、安倍貞任
の娘「千年」は父母を滅ぼしたのだから悪い名だと言ってこの名は採用されず、出羽の名山「御駒山」にちなんで「お駒」
と名づけた。
山形市の千歳山万萬松寺に、阿古耶姫伝説。 千歳山の頂上へ。 古くからあり、西行も訪れて。~山形市~ 他 (2016/6/14)
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( 写真の上にカーソルを置いて、open になってクリックしたら、一瞬に大きく。 再度クリックしたら、元に)
印は瑞泉寺(ずいせんじ)。 右地図の酢屋は、龍馬が住んでいた所。


三条大橋。 瑞泉寺は、右の橋の袂の少し向こう。
その辺に、三条河原の処刑場があった。

瑞泉寺。 木屋町通から入る。

処刑から16年後に寺ができた。 その4年後に大阪城落城。 秀頼・淀君は自害。 豊臣家は終わる。
(右の写真等、瑞泉寺のHPからお借り)


本堂。 右奥にお墓。

正面に秀次の。 秀次は秀吉の姉の子。 秀吉に子供がいなかったから、跡継ぎにと養子。
関白を譲っていた。 秀頼が生まれて、秀次は邪魔になってきた。

石棺(せきかん)を祀っている。 高野山から秀次の首を入れて持ってきた。 首は三条河原に晒(さら)した。
※ 真田丸では頼りなく見えた。 実際は多くの戦いを指揮して活躍。



側室とその子供、30数名。 駒姫に印。 この時は、誰だったか思い出せなかった。

赤〇が駒姫。 十五歳と読める。


父の義光(よしあき)は、仕方なく駒姫を差し出した。 断れなかった。
秀次が欲しいというから。
駒姫が京都に入ったのは、7月の初め。 最上邸にいた。
秀次の切腹は、7月15日。 側室たちの打ち首は8月2日。


義光と伊達政宗は、秀次に協力的だったと言われ秀吉に呼び出されていた。
秀吉のいる聚楽第(じゅらくだい)に。 ※ 聚楽第は二条城の北。 昨日の記事に。
駒姫が打ち首と知った義光は慌てた。
秀吉に何度も助命を嘆願した。 聞き入れてもらえない。
江戸から家康もやってきた。 必死に頼んだが難しい。 加賀の前田利家も。
そんなことがあって、8月2日になる。
秀吉は折れた。 尼になることを条件に命だけ助けると。
それを伝えるため、処刑場に馬を走らせた。 使者が乗って。
聚楽第からの距離は、約4㌔。 10分か15分。
間に合わなかった。 あと1町というところで、処刑は行われた。 (約100㍍)(文献にあるよう)
20秒早く着いたら、待て~って叫べた。
彼女は11番目に処刑。 もし12番目でも、助かっていた。
下の図は、YouTubeから。
幼子(おさなご)は刀で突き刺した。 側室たちは、打ち首。 斬首。 遺体は穴を掘って埋めた。
最後の動画に出てくるけど、近くに地蔵菩薩像がある。 秀次の首も。
高台寺に近い大雲院の和尚が持ってきた。 側室たちはそれに手を合わせ、覚悟を決めた。

遺体を埋めた穴の上に、畜生塚。 そばに、後に瑞泉寺を建てた。 ※ 右上の川は白川。


駒姫が死んで2週間後、駒姫の母は死ぬ。 自殺と言われている。
あの世で一人は可哀そう、って考えたんですね。
義光の悲嘆の大きさは、はかり知れない。
義光は家康への恩を忘れず、家康に近づくことになる。 関ヶ原では、東軍に。
政宗も前田利家も同じ。
江戸時代に描かれた絵図。

ここに、上で書いた地蔵菩薩が祀られている。 説明があると、気づかなかった。

大きな像ではない。 前回来た時に撮った写真。 右の大河をやってた時。


秀次の子供は、ほとんど殺された。
処刑から逃れた女の子がいた。 後の名前は隆清院。
その子は、真田信繁に嫁ぐ。
大坂夏の陣で信繁は死ぬが、隆清院とその娘は秀次の母の所に身を寄せ助かった。

下は、義光と家康が秀吉に懇願するときの様子。(最上義光 駒姫 日本の歴史 雑学の世界 娘への遺言 駒姫5から)
2人の必死さが伝わってくる。
義光の無念さは、最初に書いた寺の大きさでも分かるでしょうか。

秀吉は我が子の秀頼に後を継がせたかった。
秀次は力があるから不安になった。
秀次だけ殺すのでは、まだ不安。 子供たちが力をつけるかもしれない。
それで、皆殺し。
駒姫はまだ側室になってない。 秀次の顔も見てない。
※ 秀吉は秀次を殺す予定はなかったという説も。
無実の意思を表すために秀次は自害したと、秀吉は考えた。
それに怒って、側室達も打ち首。
駒姫の死は、時代を動かしたと言えそうです。
この夏、駒姫の専称寺と山形城跡に行ってみましょうか。
【今日の動画】 戦国の美女駒姫が悲劇すぎる!
【停泊場所】 亀岡市運動公園駐車場。
【明日の予定】 木屋町通。 (写真は撮ってあります) ※ 午後歯科医院。
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