2階に5年生の教室。 その下に1年生。
爆弾はそこに落ちた。 昭和20年7月25日のこと。
・ ・ ・ ・ ・ ・
昨日四浦(ようら)半島の先端に。
目の前に、保戸(ほと)島が見えた。 それで、今日行くことに。
狭い斜面にコンクリート住宅がひしめく景観。
それは、未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選。
栄えた時代があって、見所はいっぱい。
最後に、爆撃で助かった人の話を聞くことが出来た。
※ ※ ※ ※ ブログタイトル一覧は、右をクリック。
( 写真の上にカーソルを置いて、open になってクリックしたら、一瞬に大きく。 再度クリックしたら、元に)
半島とくっ付いているように見える。

船は津久見港から。

11時10分のに乗る。 25分で着いた。 島に来る人戻る人。 釣り人。

四角っぽい建物。 土地が狭いから3階建て。 コンクリート住宅。 (今は、半分は空き家だという)

同じ地図を持っている。 右下に行って左上に行って戻る。 3時間半歩く。
7月に大きなお祭り。 その様子は最後に。

向こうに行く。

住宅街の中の道に入った。 県道612。 車は通れない。 (海の国道だって階段の国道だって、日本にはある)
猫とお話。 どこにでもいる。

山側に少し入ると、小学校の校舎。 (子供は1人とか。 休校の不安)
お堂には、虎御前の五輪塔(お墓)。
※ 頼朝の時代、曾我兄弟の仇討ちがあった。 それに関わる人。
2人が亡くなった後、冥福を祈って諸国を旅。
亡くなった遺体が、この島に流れ着いた。 美しい着物を着て。 そんな伝説が。
大分県にはいくつかの虎御前伝説が。 四国に渡る佐賀関の近くに、虎御前峠があった。
曽我兄弟の仇討については下に。
白糸の滝 音止の滝 田貫湖 ~富士宮市~ 他 (2010/6/29)

奥に入って校舎前に、戦没学徒慰霊碑。 グラマンの爆撃で127名が亡くなった。
子供達125名。 教師2名。
昭和20年7月25日。 もう少し早く戦争を終わらせることは出来た。 そうすれば助かった命。
グラマンが4機。 爆弾3発。 1つが校舎に。 ※ グラマンはこんな爆撃機。
助かった人の話は、最後に。(加茂神社の所で)
同じ苗字の子供たちも。 兄弟か親戚か。 珍しい、七五三の苗字も。(読みは「しめ」でしょうか。 しめ縄のしめ)

四浦半島の方に。

祠があった。 ここは元々は島。 中ノ島観音様。
カメの上にのっている。(顔が前。コップをずらせば良かった) たまに見る。 こんなのだって。

昨日はあそこにいた。 間元海峡。(読みは、まもとでいいかな) 島の人口が減ってるから、橋は出来ない。

戻ってきた。 人の少し向こうで右に入る。

上に行く。 海徳寺に。 向こうから上がってきた。 島で一番大きな寺。
127名の遺骨を納めた骨地蔵があるけど、分からなかった。
※ 調べたら、建物の中にあるよう。
(大分調べ学習館よりお借り)(戦前の校舎も載っています)

上に行く。 左は、説明にあった魚鱗塔でしょうか。

大師堂に。 左奥に、御大師様井戸。 長く島の飲料水に使われた。

少し高い墓地から。 マグロ漁従事者が1000人、船167隻の時代があった。 今は21隻、210人。
肩寄せ合うように、島の人たちはいつでも挨拶を交わし、仲良く暮らしてきた。(ある資料に)
遠くに加茂神社。 最後に。

山の上に道が見える。 あの道を行きそうだ。

一番上に上がってきた。 車道だった。 いい風景だ。

峠を過ぎたら、港が見えた。 向こうの奥に行く。

港に船はなく、奥に来た。
高甲(たかご)岩 が見えるんだが気づかなかった。(説明をちゃんと読まなかった)

たまたま撮っていた写真の左端に小さく。
高甲岩には、高甲岩灯台があった。 (右写真は峠の灯からお借り)

戻っていると、山菜を採ってる人に。 ボウフウなど。

市街地に入る前に、振り返ると石鎚(いしづち)山。 石鎚神社。
※ 本社は四国の石鎚山のふもとに。 石鎚山の頂上の様子。
危ないから気を付けてねと、何度も上の人に言われた。 ありがたい。

鳥居をくぐったら、崖を急登。

着いた。 石鎚神社。 右は、波切不動尊か。(のぼりがあった)

いい見晴らし。 絶景。 右を下る。

一旦下って、加茂神社に登った。 向こうから来た。

※ 上の右写真の人とお話。 20分ほど。 爆撃のこと。
男の人はその時、高等科2年。(今の中2)
午前8時半から外で朝礼。(今の全校朝会) 960名。
終わって教室に。
彼の担任は出張で自習だった。
9時ころ爆撃機の音が小さく聞こえた。
本人は不安になって家に戻った。 神社より山方面の祖父の家に。(勝手に戻った感じ)
家の裏の森の大木の陰に隠れていた。
9時20分頃、4機の爆撃機グラマンが。
爆弾を3発落とした。(他では4発ともあるけど、Wikipediaは3発)
一発は学校近くの海に。 もう一発は民家に。
そして一発が学校に。
5年生の教室に。 その下に1年生の教室。
2つの学年の子供たちと教師は即死。 他の学年の子が数名。
普通は学校には落とさないよう。
山の上に軍の施設があって、それと間違ったのではと男の人は。
(Wikipediaでは、爆撃の後機銃掃射で子供たちを狙っているとあって、真相は不明とある)
(詳しくは、保戸島小学校100年の歩みに)
男の人にお礼を言って別れた。
下の風景。

加茂神社。 本社はもちろん京都の加茂神社。

港に戻った。 出航は3時半。 少し大きな船。

前の方に乗った。 この後7人ほど。

津久見港着。

子供たちを亡くした責任はどこにあるって言いたくなる。
日本は戦争の反省をするのが遅すぎるって、海外から言われる。(ドイツと違う)
保戸島は再びの発展を模索しているようです。
その日が来るといいですね。
【動画】 2017年 #5 津久見保戸島の夏祭りに密着 | 海と日本PROJECT in 大分県(YouTube)
保戸島空襲~その1~
【停泊場所】 船着き場近くの駐車場。
【明日の予定】 天気が良くない。 津久見市のどこか。
※ 都道府県別のブログタイトル一覧表は、右をクリック。
(放浪の旅Ⅱと放浪の旅Ⅰの両方です。 記事の総数は3700ほど。)
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爆弾はそこに落ちた。 昭和20年7月25日のこと。
・ ・ ・ ・ ・ ・
昨日四浦(ようら)半島の先端に。
目の前に、保戸(ほと)島が見えた。 それで、今日行くことに。
狭い斜面にコンクリート住宅がひしめく景観。
それは、未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選。
栄えた時代があって、見所はいっぱい。
最後に、爆撃で助かった人の話を聞くことが出来た。
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( 写真の上にカーソルを置いて、open になってクリックしたら、一瞬に大きく。 再度クリックしたら、元に)
半島とくっ付いているように見える。


船は津久見港から。

11時10分のに乗る。 25分で着いた。 島に来る人戻る人。 釣り人。


四角っぽい建物。 土地が狭いから3階建て。 コンクリート住宅。 (今は、半分は空き家だという)

同じ地図を持っている。 右下に行って左上に行って戻る。 3時間半歩く。
7月に大きなお祭り。 その様子は最後に。



向こうに行く。

住宅街の中の道に入った。 県道612。 車は通れない。 (海の国道だって階段の国道だって、日本にはある)
猫とお話。 どこにでもいる。


山側に少し入ると、小学校の校舎。 (子供は1人とか。 休校の不安)
お堂には、虎御前の五輪塔(お墓)。
※ 頼朝の時代、曾我兄弟の仇討ちがあった。 それに関わる人。
2人が亡くなった後、冥福を祈って諸国を旅。
亡くなった遺体が、この島に流れ着いた。 美しい着物を着て。 そんな伝説が。
大分県にはいくつかの虎御前伝説が。 四国に渡る佐賀関の近くに、虎御前峠があった。
曽我兄弟の仇討については下に。
白糸の滝 音止の滝 田貫湖 ~富士宮市~ 他 (2010/6/29)


奥に入って校舎前に、戦没学徒慰霊碑。 グラマンの爆撃で127名が亡くなった。
子供達125名。 教師2名。
昭和20年7月25日。 もう少し早く戦争を終わらせることは出来た。 そうすれば助かった命。
グラマンが4機。 爆弾3発。 1つが校舎に。 ※ グラマンはこんな爆撃機。

助かった人の話は、最後に。(加茂神社の所で)
同じ苗字の子供たちも。 兄弟か親戚か。 珍しい、七五三の苗字も。(読みは「しめ」でしょうか。 しめ縄のしめ)


四浦半島の方に。

祠があった。 ここは元々は島。 中ノ島観音様。
カメの上にのっている。(顔が前。コップをずらせば良かった) たまに見る。 こんなのだって。


昨日はあそこにいた。 間元海峡。(読みは、まもとでいいかな) 島の人口が減ってるから、橋は出来ない。


戻ってきた。 人の少し向こうで右に入る。


上に行く。 海徳寺に。 向こうから上がってきた。 島で一番大きな寺。
127名の遺骨を納めた骨地蔵があるけど、分からなかった。
※ 調べたら、建物の中にあるよう。



上に行く。 左は、説明にあった魚鱗塔でしょうか。


大師堂に。 左奥に、御大師様井戸。 長く島の飲料水に使われた。

少し高い墓地から。 マグロ漁従事者が1000人、船167隻の時代があった。 今は21隻、210人。
肩寄せ合うように、島の人たちはいつでも挨拶を交わし、仲良く暮らしてきた。(ある資料に)
遠くに加茂神社。 最後に。


山の上に道が見える。 あの道を行きそうだ。

一番上に上がってきた。 車道だった。 いい風景だ。


峠を過ぎたら、港が見えた。 向こうの奥に行く。


港に船はなく、奥に来た。
高甲(たかご)岩 が見えるんだが気づかなかった。(説明をちゃんと読まなかった)


たまたま撮っていた写真の左端に小さく。


高甲岩には、高甲岩灯台があった。 (右写真は峠の灯からお借り)


戻っていると、山菜を採ってる人に。 ボウフウなど。


市街地に入る前に、振り返ると石鎚(いしづち)山。 石鎚神社。
※ 本社は四国の石鎚山のふもとに。 石鎚山の頂上の様子。
危ないから気を付けてねと、何度も上の人に言われた。 ありがたい。

鳥居をくぐったら、崖を急登。


着いた。 石鎚神社。 右は、波切不動尊か。(のぼりがあった)


いい見晴らし。 絶景。 右を下る。


一旦下って、加茂神社に登った。 向こうから来た。


※ 上の右写真の人とお話。 20分ほど。 爆撃のこと。
男の人はその時、高等科2年。(今の中2)
午前8時半から外で朝礼。(今の全校朝会) 960名。
終わって教室に。
彼の担任は出張で自習だった。
9時ころ爆撃機の音が小さく聞こえた。
本人は不安になって家に戻った。 神社より山方面の祖父の家に。(勝手に戻った感じ)
家の裏の森の大木の陰に隠れていた。
9時20分頃、4機の爆撃機グラマンが。
爆弾を3発落とした。(他では4発ともあるけど、Wikipediaは3発)
一発は学校近くの海に。 もう一発は民家に。
そして一発が学校に。
5年生の教室に。 その下に1年生の教室。
2つの学年の子供たちと教師は即死。 他の学年の子が数名。
普通は学校には落とさないよう。
山の上に軍の施設があって、それと間違ったのではと男の人は。
(Wikipediaでは、爆撃の後機銃掃射で子供たちを狙っているとあって、真相は不明とある)
(詳しくは、保戸島小学校100年の歩みに)
男の人にお礼を言って別れた。
下の風景。


加茂神社。 本社はもちろん京都の加茂神社。


港に戻った。 出航は3時半。 少し大きな船。


前の方に乗った。 この後7人ほど。


津久見港着。

子供たちを亡くした責任はどこにあるって言いたくなる。
日本は戦争の反省をするのが遅すぎるって、海外から言われる。(ドイツと違う)
保戸島は再びの発展を模索しているようです。
その日が来るといいですね。
【動画】 2017年 #5 津久見保戸島の夏祭りに密着 | 海と日本PROJECT in 大分県(YouTube)
保戸島空襲~その1~
【停泊場所】 船着き場近くの駐車場。
【明日の予定】 天気が良くない。 津久見市のどこか。
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