啄木が函館にいたのは、4ヶ月間。
明治40年(1907)年の5月から8月まで。
※ 函館大火があって、勤めていた新聞社も焼けたため、札幌に出た。
なぜ函館に来たかだが、Wikipediaには、こうある。
① 函館の文芸結社苜蓿社より 原稿の依頼があった。
② 新生活を北海道で開こうとした。(長女が生まれての、新生活か)
※ 函館に来たのは、放浪のスタート。
車の部品が届いたので、明日車は工場に。 9時に持って行って、夕方までかかる。
日中、どう過ごすか。 どこを見るか。 晩は、花火。
函館山の海岸線を、ぐるっと周りたいが、道は壊れているよう。
行けるとこまで、行って見るか。
気温が急に下がってきた。
寒いくらい。 セーターがいる。
今日は、ここに行く。 右の赤○に、啄木は住んでいた。
大森浜に向かった。 道は、適当。
この人に会った。
アイヌですよと、自分から言った。
私のカメラを見て、古いみたいだけど、ちゃんと写るのと言った。
私は、まあ何とか、と答えた。
首から下げてる、モモンガの彫り物にも興味を持った。 ※ モモンガは、アイヌ語で、アッカムイ(akkamui)
きっと、砂澤ビッキの弟子がつくったね、と言った。
※ モモンガは、阿寒で買った。 砂澤ビッキは阿寒にいたことがある。 ※ 砂澤ビッキ(Wikipedia)
何してるのと聞いたら、年金で暮らしているといった。
立派な髭(ひげ)だね、と言って別れた。
啄木小公園。
良く見る啄木の像は、これかな。
像の作者は、本郷新。
台座の詩は、「潮かをる北の浜辺の 砂山のかの浜薔薇よ 今年も咲けるや」。
「東海の 小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」
これは、啄木の代表作。 でも、ここで作られたとは、証明できていない。
どこでかは、分からない。 大間とも言われているが。
※ 西洋やインドから見たら、日本は東海にある。 日本は、小島のように小さい。
そんな解釈も。
こんな説明。
西條八十の歌碑。
「眠れる君に捧ぐべき 矢車草の花もなく ひとり佇む五月寒 立待岬の波静か おもいでの砂 ただひかる 捧 啄木 西條八十」
※ 啄木には、「函館の 青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」の歌がある。
立待岬に向かった。 少し手前に、啄木の墓がある。
ここを登った左側にある。
ここ。 いつだかも来た。
代表作にしたのか。
函館は、啄木に優しかった。 理解者もいた。
啄木は、短い時間だったが、函館は心休まる土地だった。
それで、「死ぬときは函館で死ぬ」と口にしたことがあった。
啄木一族の墓の後ろに、宮崎郁雨と砂山影二の歌碑があった。
上の写真の左が、宮崎郁雨の歌。
蹣跚(まんさん)と 夜道をたどる 淋しさよ
酒はひとりし 飲むものならず
※ 蹣跚~よろよろと歩く様子。 蹣跚く、は、よろめく、と読む。
宮崎と言う人が、啄木の面倒を見た。 啄木の妻節子の妹を妻にする。
啄木の墓も、この人が中心になって、つくられた。
啄木は、この人がいたから、墓を函館にしたのかもしれない。
右は、砂山影二の歌。
「わがいのち この海峡の浪の間に 消ゆる日を想ふ ――岬に立ちて」
この人は、啄木が好きだった。
上のような歌を作って、実際に、連絡船から身を投げた。 20歳。
啄木の墓の前から、大森浜を見た。
与謝野鉄幹と晶子の歌碑。 2人は、啄木の墓をお参りに来ている。
立待岬。
向こうに、寒川村があった。 行ってみたい。
正面は、下北半島の大間。
ハマナスが、たくさんの実をつけていた。
駅の方に、向かった。
この辺りに、啄木は住んだことがあった。 青柳町。
「函館の 青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」は、ここにいる時つくった。
啄木が函館にいた頃、全くの無名。 お金もない。
宮崎郁雨は、啄木の力を見抜いていた。
啄木にとっては、とてもうれしいことだった。
それで、墓の中だけど、ずっと函館にいることになった。
【停泊場所】 昨晩に同じ
【明日の予定】 朝から、夜遅くまで、街の中を。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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明治40年(1907)年の5月から8月まで。
※ 函館大火があって、勤めていた新聞社も焼けたため、札幌に出た。
なぜ函館に来たかだが、Wikipediaには、こうある。
① 函館の文芸結社苜蓿社より 原稿の依頼があった。
② 新生活を北海道で開こうとした。(長女が生まれての、新生活か)
※ 函館に来たのは、放浪のスタート。
車の部品が届いたので、明日車は工場に。 9時に持って行って、夕方までかかる。
日中、どう過ごすか。 どこを見るか。 晩は、花火。
函館山の海岸線を、ぐるっと周りたいが、道は壊れているよう。
行けるとこまで、行って見るか。
気温が急に下がってきた。
寒いくらい。 セーターがいる。
今日は、ここに行く。 右の赤○に、啄木は住んでいた。

大森浜に向かった。 道は、適当。
この人に会った。
アイヌですよと、自分から言った。
私のカメラを見て、古いみたいだけど、ちゃんと写るのと言った。
私は、まあ何とか、と答えた。
首から下げてる、モモンガの彫り物にも興味を持った。 ※ モモンガは、アイヌ語で、アッカムイ(akkamui)
きっと、砂澤ビッキの弟子がつくったね、と言った。
※ モモンガは、阿寒で買った。 砂澤ビッキは阿寒にいたことがある。 ※ 砂澤ビッキ(Wikipedia)

何してるのと聞いたら、年金で暮らしているといった。
立派な髭(ひげ)だね、と言って別れた。

啄木小公園。

良く見る啄木の像は、これかな。
像の作者は、本郷新。
台座の詩は、「潮かをる北の浜辺の 砂山のかの浜薔薇よ 今年も咲けるや」。

「東海の 小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」
これは、啄木の代表作。 でも、ここで作られたとは、証明できていない。
どこでかは、分からない。 大間とも言われているが。
※ 西洋やインドから見たら、日本は東海にある。 日本は、小島のように小さい。
そんな解釈も。

こんな説明。

西條八十の歌碑。
「眠れる君に捧ぐべき 矢車草の花もなく ひとり佇む五月寒 立待岬の波静か おもいでの砂 ただひかる 捧 啄木 西條八十」
※ 啄木には、「函館の 青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」の歌がある。

立待岬に向かった。 少し手前に、啄木の墓がある。

ここを登った左側にある。

ここ。 いつだかも来た。

代表作にしたのか。

函館は、啄木に優しかった。 理解者もいた。
啄木は、短い時間だったが、函館は心休まる土地だった。
それで、「死ぬときは函館で死ぬ」と口にしたことがあった。

啄木一族の墓の後ろに、宮崎郁雨と砂山影二の歌碑があった。

上の写真の左が、宮崎郁雨の歌。
蹣跚(まんさん)と 夜道をたどる 淋しさよ
酒はひとりし 飲むものならず
※ 蹣跚~よろよろと歩く様子。 蹣跚く、は、よろめく、と読む。
宮崎と言う人が、啄木の面倒を見た。 啄木の妻節子の妹を妻にする。
啄木の墓も、この人が中心になって、つくられた。
啄木は、この人がいたから、墓を函館にしたのかもしれない。
右は、砂山影二の歌。
「わがいのち この海峡の浪の間に 消ゆる日を想ふ ――岬に立ちて」
この人は、啄木が好きだった。
上のような歌を作って、実際に、連絡船から身を投げた。 20歳。
啄木の墓の前から、大森浜を見た。

与謝野鉄幹と晶子の歌碑。 2人は、啄木の墓をお参りに来ている。


立待岬。

向こうに、寒川村があった。 行ってみたい。

正面は、下北半島の大間。

ハマナスが、たくさんの実をつけていた。

駅の方に、向かった。
この辺りに、啄木は住んだことがあった。 青柳町。

「函館の 青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」は、ここにいる時つくった。

啄木が函館にいた頃、全くの無名。 お金もない。
宮崎郁雨は、啄木の力を見抜いていた。
啄木にとっては、とてもうれしいことだった。
それで、墓の中だけど、ずっと函館にいることになった。
【停泊場所】 昨晩に同じ
【明日の予定】 朝から、夜遅くまで、街の中を。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

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コメント
函館の啄木
Re: 函館の啄木
啄木にとって、函館の人達の温かさは、忘れられないものだった。
苦しい時期のことだったので、尚更だったのでしょうね。
有名になったら、誰だって寄って来ますから。
友達は増えて、親類まで多くなる。
光子は、色んな土地に行ってるようですね。
北海道に来たら、暖かさを大事にしたくなります。
すぐに、涼しくなるので。
やっと、函館を出発です。
苦しい時期のことだったので、尚更だったのでしょうね。
有名になったら、誰だって寄って来ますから。
友達は増えて、親類まで多くなる。
光子は、色んな土地に行ってるようですね。
北海道に来たら、暖かさを大事にしたくなります。
すぐに、涼しくなるので。
やっと、函館を出発です。
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啄木の記事は、興味深く読みました。函館には、4ヶ月しかいなかったようですね。意外でした。しかし、函館の人たちは啄木の銅像を建てられ、感心しました。短い期間でも市民に慕われているのですね。
啄木の妹・光子は、長じて伝道師になり、夫の三浦精一とともに九州各地を歩き回っています。熊本の協会でも活動しています。光子は79歳まで生きたようです。兄の啄木は短命でしたが。
北海道の便りを楽しみにしています。涼しい便りを期待しています。