蝦夷地はアイヌの天地だった。
でも、明治に入って、土地は奪われ、アイヌは絶望の淵に立たされていた。
そんな中、アイヌ民族に自信と光を与え、重大な復権・復活の転機を生みだした書物があった。
それは、17歳の少女が綴った『アイヌ神謡集』。
彼女の名前は、知里幸恵(ちりゆきえ)。
完成したその晩に、持病の心臓発作で亡くなる。
金田一京助との出会いが、全ての始まりだった。
☆ ☆ ☆ ☆
アイヌ記念館は、近文駅に近い。
記念館は、左側手前から2番目の建物。
川村カ子ト(かねと)アイヌ記念館。
この記念館は、大正5年に開館している。 道内で最も古いアイヌ博物館。
昔、この辺りは近文コタンと呼ばれていた。
その生活が分かる。
エゾモモンガです。 アッカムイとあります。
私は、akkamuiと書いてるけど、ここでは、Atkamuiとなっている。 Kが一つ、tになってる。
口の中で少し「こもる」ような発音になるのでしょうか。
「ア」が子どもの意味なので、子どもの守り神となったんですね。 いい意味です。
愛くるしい目。 めんこい。
舞台。 ムックリの演奏など、発表会もあるのかな。
アイヌの特徴として、目の周りの骨格が、しっかりしている感じ。
メノコは、女(め)の子。 美しいです。
アイヌ独自のものですね。
一般的な日本人より、眼鼻立ちがはっきりしている。
立派な髭。 東洋人の顔立ちとは、少し違う。 彫りが深い。
この人が、川村カ子ト。 銀のしずく・・・、があります。
川村カ子トと云う人は、こんな人。 測量で活躍している。
この人は、知里幸恵の弟。 大げさでなく、アイヌの天才姉弟と言われた。
この写真は、明治43年(1910)頃に撮影されたもの。 ※ ほぼ100年前。
左の方に、小学生だった、知里幸恵がいる。
※ 右の方に、ピアソンがいる。 この人は宣教師で、北見の発展にも貢献する。
北見市に、ピアソン記念館がある。
知里幸恵は、1903年(明治36)に登別市に生まれた。
6歳から 19歳まで叔母の住む旭川で暮らした。
※ 叔母は、キリスト教の布教活動をしていた。 (それで、ピアソンとの写真)
幸恵の祖母は、アイヌの口承の叙事詩“カムイユカラ”の謡い手だった。
※ Wikipediaには、こうある。
カムイユカラは、文字を持たなかったアイヌ民族にとって、その価値観・道徳観・伝統文化等を子孫に継承していく上で重要なものであり、
幸恵はこのカムイユカラを身近に聞くことができる環境で育った。
幸恵は、旭川高等女学校を受けるが、合格しなかった。
※ 最高点だったという話がある。 アイヌへの偏見は強かった。
尋常高等小学校へ行く。
それも、川の向こうで、40分かけて通ったそうだ。
元々幸恵は心臓が悪かった。 館長さんは、通ったことが、大きな負担になったんでないかなと、言った。
1918年(大正7)、金田一京助がアイヌ語採集で旭川に来る。
金田一は、彼女の才を見出すことになる。
幸恵の頭には、祖母から聞いたもの全てが、入っていた。
金田一は、神謡の筆録と和訳を勧めた。
翻訳作業は、東京の金田一宅に身を寄せて続けた。
『アイヌ神謡集』は1922年(大正11年)9月18日に完成したが、その日の夜、心臓発作で幸恵は倒れ亡くなった。
享年19。
※ 今日買ってきて読んでみた。 言われるように、美しい文と言っていいように思う。
NHKの「そのとき歴史が動いた」で、アイヌ神謡集が紹介された。(2008年10月15日)

神謡集の原文は、旭川市の博物館にある。
登別市に「銀のしずく」記念館があって、譲ってほしいと旭川市はお願いされているそうだ。
でも、旭川市は譲らない。
※ 登別市は、観光の目的で記念館を作ったと思う。
でも、知里幸恵は、物心ついてからのほとんどを旭川市で過したから、旭川市に置いてあっていいように思うかな。
知里幸恵の記念館が、旭川市に出来るのが、一番良かった。 そうも思う。
知里幸恵は、流れ星のように、一気に輝いて人生を終えた。
【停泊地】 姉の家の前
【明日の予定】 旭川駅が新しくなったので、見てこようかなと。
注文したものが入ったら、明日旭川を離れます。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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でも、明治に入って、土地は奪われ、アイヌは絶望の淵に立たされていた。
そんな中、アイヌ民族に自信と光を与え、重大な復権・復活の転機を生みだした書物があった。
それは、17歳の少女が綴った『アイヌ神謡集』。
彼女の名前は、知里幸恵(ちりゆきえ)。
完成したその晩に、持病の心臓発作で亡くなる。
金田一京助との出会いが、全ての始まりだった。
☆ ☆ ☆ ☆
アイヌ記念館は、近文駅に近い。
記念館は、左側手前から2番目の建物。

川村カ子ト(かねと)アイヌ記念館。

この記念館は、大正5年に開館している。 道内で最も古いアイヌ博物館。
昔、この辺りは近文コタンと呼ばれていた。
その生活が分かる。





エゾモモンガです。 アッカムイとあります。
私は、akkamuiと書いてるけど、ここでは、Atkamuiとなっている。 Kが一つ、tになってる。
口の中で少し「こもる」ような発音になるのでしょうか。
「ア」が子どもの意味なので、子どもの守り神となったんですね。 いい意味です。

愛くるしい目。 めんこい。

舞台。 ムックリの演奏など、発表会もあるのかな。

アイヌの特徴として、目の周りの骨格が、しっかりしている感じ。

メノコは、女(め)の子。 美しいです。


アイヌ独自のものですね。

一般的な日本人より、眼鼻立ちがはっきりしている。

立派な髭。 東洋人の顔立ちとは、少し違う。 彫りが深い。

この人が、川村カ子ト。 銀のしずく・・・、があります。

川村カ子トと云う人は、こんな人。 測量で活躍している。


この人は、知里幸恵の弟。 大げさでなく、アイヌの天才姉弟と言われた。

この写真は、明治43年(1910)頃に撮影されたもの。 ※ ほぼ100年前。
左の方に、小学生だった、知里幸恵がいる。
※ 右の方に、ピアソンがいる。 この人は宣教師で、北見の発展にも貢献する。
北見市に、ピアソン記念館がある。

知里幸恵は、1903年(明治36)に登別市に生まれた。
6歳から 19歳まで叔母の住む旭川で暮らした。
※ 叔母は、キリスト教の布教活動をしていた。 (それで、ピアソンとの写真)

幸恵の祖母は、アイヌの口承の叙事詩“カムイユカラ”の謡い手だった。
※ Wikipediaには、こうある。
カムイユカラは、文字を持たなかったアイヌ民族にとって、その価値観・道徳観・伝統文化等を子孫に継承していく上で重要なものであり、
幸恵はこのカムイユカラを身近に聞くことができる環境で育った。
幸恵は、旭川高等女学校を受けるが、合格しなかった。
※ 最高点だったという話がある。 アイヌへの偏見は強かった。
尋常高等小学校へ行く。
それも、川の向こうで、40分かけて通ったそうだ。
元々幸恵は心臓が悪かった。 館長さんは、通ったことが、大きな負担になったんでないかなと、言った。
1918年(大正7)、金田一京助がアイヌ語採集で旭川に来る。
金田一は、彼女の才を見出すことになる。
幸恵の頭には、祖母から聞いたもの全てが、入っていた。
金田一は、神謡の筆録と和訳を勧めた。
翻訳作業は、東京の金田一宅に身を寄せて続けた。
『アイヌ神謡集』は1922年(大正11年)9月18日に完成したが、その日の夜、心臓発作で幸恵は倒れ亡くなった。
享年19。
※ 今日買ってきて読んでみた。 言われるように、美しい文と言っていいように思う。

NHKの「そのとき歴史が動いた」で、アイヌ神謡集が紹介された。(2008年10月15日)

神謡集の原文は、旭川市の博物館にある。
登別市に「銀のしずく」記念館があって、譲ってほしいと旭川市はお願いされているそうだ。
でも、旭川市は譲らない。
※ 登別市は、観光の目的で記念館を作ったと思う。
でも、知里幸恵は、物心ついてからのほとんどを旭川市で過したから、旭川市に置いてあっていいように思うかな。
知里幸恵の記念館が、旭川市に出来るのが、一番良かった。 そうも思う。
知里幸恵は、流れ星のように、一気に輝いて人生を終えた。
【停泊地】 姉の家の前
【明日の予定】 旭川駅が新しくなったので、見てこようかなと。
注文したものが入ったら、明日旭川を離れます。
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(2008年4月~2010年9月までの記事)

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