光秀は朝倉氏を頼って越前に。
そこを拠点に京に行ったり何したり。 大河は、今そこを。
・ ・ ・ ・ ・
光秀の美濃や越前での時代は、下積み時代。
どこで何してたのかは、はっきりしない。
光を浴びるのはこの後ですね。
越前の時代が、足利家や信長へと結び付けてくれる。
※ ※ ※ ※ ランキング
ブログタイトル一覧は、右をクリック。
( 写真の上にカーソルを置いて、open になってクリックしたら、一瞬に大きく。 再度クリックしたら、元に)
・ ・ ・ ・ ・
赤〇が一乗谷。 谷の奥深くではない。

駐車場は復元した家並みのそばに。 ここの見学は最後に。

道の反対側に、朝倉館跡。 朝倉義景の館。 大河でユースケ・サンタマリアが演じている。

上写真の右方面。 向こうから見学開始。

忠魂碑。 ここ一乗谷では、多くの者が戦で命を落としているのか。

向こうの上に行ってみる。 朝は雨だったため、まだ人が少ない。

上がって来た。 諏訪館庭園跡。 諏訪館に義景の妻が住んでいたと。

この写真は、諏訪館跡庭園を背に撮った。
中の御殿跡。 義景の母の高徳院の屋敷跡。
※ 1573年、義景は信長に攻められ、別の所で自害。 母たち一族は皆殺される。
1570年に、信長は義景に負けそうになっている。 命からがら信長は京都に逃げる。 義景は浅井と手を組んで。
ただ、その後信長は、姉川の戦いで朝倉、浅井(あざい)両軍に勝つ。 義景の未来はここで消えたよう。
浅井氏の小谷城についての記事。(淀・初・江はここで生まれた)

中の御殿跡の向こうの高い所に、湯殿跡庭園。 どんな建物があったかは分かっていない。
その向こうに、ここの中心の朝倉館跡。

下に下りてきた。 朝倉館跡の前に。 正面から入る。 唐門と呼ばれる門。

内部の左。 右正面に中心の建物。 大河では、ここで義景と光秀が対面していた。

右方面。 15代将軍足利義昭も来ている。 ※ 少し前の大河で、駒が将軍になる前の義昭に会っていましたね。

上に行く道。 右に墓所。

墓所。

義景は一番下。

朝倉館跡を上から。

写真上が正面。 建築の技術は、はるか昔から高いですね。
メインの場所は、会所(常御殿)。

先ほども紹介した、湯殿跡庭園。

反対側に来た。 お堀。 右の方に集落。 歩いた写真は明日の記事で紹介。

復元町並みに。

ここは戦国城下町か。

復元した通り。 この子の手の置き場所は、いつもここ。

右写真の女の人は何してるんだろう。 動かない。
人形だった。 すぐに気づかない。

昔の恰好をした人が。 右写真、鎧(よろい)の人。
左の人が重いですかと聞いていた。 重いですよと。
重いのは鎧だけでないようなので、動くの大変。
戦ったら、すぐに切られる。

光秀は、ここから離れたところに住んでいたよう。
時代は、1556年から1565年あたりまでの、10年ほど。
貧しい時代が続き、次第に義景に認められる。
光秀が、信長・義昭・義景を結び付ける。 義昭は、1568年にここに来る。
光秀は信長の家臣になって、歴史上に登場。(1570年頃)
朝倉義景が信長によって滅ぼされたのは、1573年。
本能寺は1582年。 関ヶ原は1600年。
戦国時代が終わりをつげ、家康の時代が来ようとしている。
光秀はこの地で力を蓄え、乱世に羽ばたいていく。
妻の煕子(ひろこ)は、それを献身的に支えた。
※ 光秀はどんな「つて」があって越前に来たのか、それは明日の記事に。
【道の駅】 くつき新本陣(高島市)
【明日の予定】 記事は明智神社他。 見学は朽木(くつき)。
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(放浪の旅Ⅱと放浪の旅Ⅰの両方です。 記事の総数は4300ほど。)
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忠魂碑。 ここ一乗谷では、多くの者が戦で命を落としているのか。

向こうの上に行ってみる。 朝は雨だったため、まだ人が少ない。

上がって来た。 諏訪館庭園跡。 諏訪館に義景の妻が住んでいたと。


この写真は、諏訪館跡庭園を背に撮った。
中の御殿跡。 義景の母の高徳院の屋敷跡。
※ 1573年、義景は信長に攻められ、別の所で自害。 母たち一族は皆殺される。
1570年に、信長は義景に負けそうになっている。 命からがら信長は京都に逃げる。 義景は浅井と手を組んで。
ただ、その後信長は、姉川の戦いで朝倉、浅井(あざい)両軍に勝つ。 義景の未来はここで消えたよう。
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中の御殿跡の向こうの高い所に、湯殿跡庭園。 どんな建物があったかは分かっていない。
その向こうに、ここの中心の朝倉館跡。

下に下りてきた。 朝倉館跡の前に。 正面から入る。 唐門と呼ばれる門。


内部の左。 右正面に中心の建物。 大河では、ここで義景と光秀が対面していた。

右方面。 15代将軍足利義昭も来ている。 ※ 少し前の大河で、駒が将軍になる前の義昭に会っていましたね。


上に行く道。 右に墓所。

墓所。

義景は一番下。


朝倉館跡を上から。

写真上が正面。 建築の技術は、はるか昔から高いですね。
メインの場所は、会所(常御殿)。

先ほども紹介した、湯殿跡庭園。


反対側に来た。 お堀。 右の方に集落。 歩いた写真は明日の記事で紹介。

復元町並みに。

ここは戦国城下町か。


復元した通り。 この子の手の置き場所は、いつもここ。

右写真の女の人は何してるんだろう。 動かない。
人形だった。 すぐに気づかない。


昔の恰好をした人が。 右写真、鎧(よろい)の人。
左の人が重いですかと聞いていた。 重いですよと。
重いのは鎧だけでないようなので、動くの大変。
戦ったら、すぐに切られる。


光秀は、ここから離れたところに住んでいたよう。
時代は、1556年から1565年あたりまでの、10年ほど。
貧しい時代が続き、次第に義景に認められる。
光秀が、信長・義昭・義景を結び付ける。 義昭は、1568年にここに来る。
光秀は信長の家臣になって、歴史上に登場。(1570年頃)
朝倉義景が信長によって滅ぼされたのは、1573年。
本能寺は1582年。 関ヶ原は1600年。
戦国時代が終わりをつげ、家康の時代が来ようとしている。
光秀はこの地で力を蓄え、乱世に羽ばたいていく。
妻の煕子(ひろこ)は、それを献身的に支えた。
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