谷中(やなか)湖を含む一帯は、渡良瀬遊水地となっていた。
※ この場所は、足尾鉱毒事件による鉱毒を沈殿させることを目的に、渡良瀬川下流に作られた。
遊水池である谷中湖が中心。
谷中村があった跡が、一部残っていた。
※ ※ ※ ※
道の駅にある建物の、屋上から撮影。
赤○が道の駅。 黄色の○が、谷中村の跡。 ピンクの橋まで、自転車で行く。
右に、渡良瀬川が流れている。
谷中村跡の北に、展望台がある。 そこから撮影。 谷中湖が見えている。
写真の左方面に、役場跡とかがある。
広く公園になっていた。 憩いの場、と云う感じ。 小学生や中学生も来ていた。
自転車で散策していたら、釣りをしている人がいた。 遊水地(谷中湖)には、釣りで来る人も多い。
コイの子供。 持って帰って、近くの池に放すと云う。 ここの来れない時は、そこで釣る。
遊水地は3つに仕切られていて、この道は、仕切っている道。 向こうに行く。
上の地図の、北橋。
この後、谷中村の痕跡探し。 ここに、役場があった。 でも、標示はあっても、何もない。
消えかけた地図があった。 黄色の○が、役場跡。
この後、神社とかの場所が分かる。
「谷中村遺跡を守る会」が、昔の歴史を残そうとしていた。
この後、村の痕跡を探したが、見つけられない。
環境整備をしている人たちが、昼休みで集まっていたので、聞いた。
親切に教えてくれた。
砂利の細い道を、しばらく行ったら、それらしい場所に出た。
左に、神社跡。
高くなっていて、上はこう。 標示はあるが、あったのは、石が1個。
昔は、右の写真の神社があった。 谷中村雷電神社。
田中正造は、何度もここに来ている。 村の人達と、ここで話し合った。
ここが墓地。 右には延命院というお寺があった。 今は、何もないが。
その寺にあった鐘。 この後行く、藤岡町歴史民俗資料館で、撮影。
遺跡を守るために、陳情が必要だったことが分かる。
墓石。 江戸時代のも多い。
十九夜供養とある。 初めて見る。 Wikipediaには、こうあった。
※ 月待行事とは、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、
「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、
悪霊を追い払うという宗教行事である。
十九夜供養塔は、関東地方に少し見られるだけのよう。 少ない。
何を怒っているのか。
この地蔵さんは、村が無くなったことを知っているのか。
天和元年は、1681年のこと。 古いですね。
この後、藤岡町歴史民俗資料館に向かった。
田中正造に関する資料は、ネット上にいくらでもある。
知りたかったのは、谷中村の人たちの動き。
特に、北海道に移住した人たちのこと。 佐呂間町栃木に。
資料館で、下の写真のが目に入った。 石塚倉子と云う人。
※ 調べてみたら、代表作に、下のようなのが。
もしかしたら、この人に、光が当たる時が来るかもしれませんよ。
※ 詳しくは、ここに。
田中正造。
右の写真は、大洪水の視察とある。
谷中村は、洪水はもともとあった。
でも、足尾銅山が出来て山の木が無くなったため、洪水の規模が大きくなった。
※ 銅山では、精錬のため、大量の燃料がいる。
議会での質問書。 正造は、衆議院議員になっている。
田中正造の衣類など。
読みは、左下に。 意味を調べたが、分からない。
洪水の時の、谷中村。 その時代の、人の表情のある写真は、貴重ですね。 屋根の上にも一人。
強硬破壊に用いた木槌とある。 よく残してあったもんです。
資料館では、谷中村の人たちの動きについての資料を見せてくれた。
それを、写真に撮らせてもらった。 旧谷中村関連資料調査報告書。
※ これについては、以前読んだことがあった。
3年程前、藤岡町のホームページに載っていたような気がした。
資料館の人の話では、栃木市と合併したため、今は載っていないと言った。(HPを整理中か)
上の報告書以外もあったように思う。
その時、HPをもとに書いたのが、以前のブログに書いた、下の内容。(他もあるが)
上の内容以上のことは、分からなかった。
※ 明治44年4月出発とあるが、この時はまだ、旭川から北見まで石北線は通っていない。
開通は、この年の秋。
陸別を通ったと云うことは、帯広まわりで行っている。
当時開通しているのは、旭川まで行って、富良野線に乗れば、列車で帯広まで行けた。
そこから先、どうやって行ったのだろう。
かなりの部分は、きっと歩いた。
留辺蘂まで行ったら、ひと山越えて、栃木と名前をつけた、その地になる。
※ 栃木団体と云う名前で、開拓に入っていた。
※ 私のおじいちゃんは、秋田団体の一員として、同じ時代に、留辺蘂の少し南に入っている。
栃木は、留辺蘂の少し北。
※ 北海道に開拓に入った人達は、どこも、同じような苦労をした。
※ 2009年2月の、佐呂間町栃木。 今年の夏近くを通ったので、動画を撮れば良かった。 忘れなければ、来年。
歴史民俗資料館の外にあった、田中正造の像。 谷中村があった方を見ている。
この川が、渡良瀬川。 この下流に谷中湖がある。
調べるだけの十分な時間はなかったけど、谷中村跡を見られたことがよかったかな。
パンフレットや、案内板などの文章の表現は、下のように。
「渡良瀬川遊水地は、旧谷中村民の移住問題等、人々の大きな犠牲のもとにつくられました」
時代が変わった今、行政を含めた地域の人々全体の意識は、苦労した人々の側に立っているように感じた。
それを知って、少し安心したでしょうか。
【道の駅】 みかも
【明日の予定】 足利市 足利学校とか
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
【ランキング】 国内旅行は7位、 旅行全体で17位です。 放浪の旅が、32位でした。
記事は役立ったでしょうか。
気に入った所などがありましたら、クリックをよろしく。
※ クリックするバナーは、下のです。
※ 1回のクリックで、10ポイント。 1週間生きます。
※ この場所は、足尾鉱毒事件による鉱毒を沈殿させることを目的に、渡良瀬川下流に作られた。
遊水池である谷中湖が中心。
谷中村があった跡が、一部残っていた。
※ ※ ※ ※
道の駅にある建物の、屋上から撮影。

赤○が道の駅。 黄色の○が、谷中村の跡。 ピンクの橋まで、自転車で行く。

右に、渡良瀬川が流れている。
谷中村跡の北に、展望台がある。 そこから撮影。 谷中湖が見えている。
写真の左方面に、役場跡とかがある。

広く公園になっていた。 憩いの場、と云う感じ。 小学生や中学生も来ていた。

自転車で散策していたら、釣りをしている人がいた。 遊水地(谷中湖)には、釣りで来る人も多い。

コイの子供。 持って帰って、近くの池に放すと云う。 ここの来れない時は、そこで釣る。

遊水地は3つに仕切られていて、この道は、仕切っている道。 向こうに行く。

上の地図の、北橋。

この後、谷中村の痕跡探し。 ここに、役場があった。 でも、標示はあっても、何もない。

消えかけた地図があった。 黄色の○が、役場跡。
この後、神社とかの場所が分かる。

「谷中村遺跡を守る会」が、昔の歴史を残そうとしていた。

この後、村の痕跡を探したが、見つけられない。
環境整備をしている人たちが、昼休みで集まっていたので、聞いた。
親切に教えてくれた。
砂利の細い道を、しばらく行ったら、それらしい場所に出た。
左に、神社跡。

高くなっていて、上はこう。 標示はあるが、あったのは、石が1個。
昔は、右の写真の神社があった。 谷中村雷電神社。
田中正造は、何度もここに来ている。 村の人達と、ここで話し合った。


ここが墓地。 右には延命院というお寺があった。 今は、何もないが。

その寺にあった鐘。 この後行く、藤岡町歴史民俗資料館で、撮影。

遺跡を守るために、陳情が必要だったことが分かる。

墓石。 江戸時代のも多い。

十九夜供養とある。 初めて見る。 Wikipediaには、こうあった。
※ 月待行事とは、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、
「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、
悪霊を追い払うという宗教行事である。
十九夜供養塔は、関東地方に少し見られるだけのよう。 少ない。

何を怒っているのか。


この地蔵さんは、村が無くなったことを知っているのか。
天和元年は、1681年のこと。 古いですね。

この後、藤岡町歴史民俗資料館に向かった。
田中正造に関する資料は、ネット上にいくらでもある。
知りたかったのは、谷中村の人たちの動き。
特に、北海道に移住した人たちのこと。 佐呂間町栃木に。
資料館で、下の写真のが目に入った。 石塚倉子と云う人。

※ 調べてみたら、代表作に、下のようなのが。
もしかしたら、この人に、光が当たる時が来るかもしれませんよ。

※ 詳しくは、ここに。
田中正造。

右の写真は、大洪水の視察とある。
谷中村は、洪水はもともとあった。
でも、足尾銅山が出来て山の木が無くなったため、洪水の規模が大きくなった。
※ 銅山では、精錬のため、大量の燃料がいる。

議会での質問書。 正造は、衆議院議員になっている。

田中正造の衣類など。

読みは、左下に。 意味を調べたが、分からない。

洪水の時の、谷中村。 その時代の、人の表情のある写真は、貴重ですね。 屋根の上にも一人。


強硬破壊に用いた木槌とある。 よく残してあったもんです。

資料館では、谷中村の人たちの動きについての資料を見せてくれた。
それを、写真に撮らせてもらった。 旧谷中村関連資料調査報告書。
※ これについては、以前読んだことがあった。
3年程前、藤岡町のホームページに載っていたような気がした。
資料館の人の話では、栃木市と合併したため、今は載っていないと言った。(HPを整理中か)
上の報告書以外もあったように思う。
その時、HPをもとに書いたのが、以前のブログに書いた、下の内容。(他もあるが)

上の内容以上のことは、分からなかった。
※ 明治44年4月出発とあるが、この時はまだ、旭川から北見まで石北線は通っていない。
開通は、この年の秋。
陸別を通ったと云うことは、帯広まわりで行っている。
当時開通しているのは、旭川まで行って、富良野線に乗れば、列車で帯広まで行けた。
そこから先、どうやって行ったのだろう。
かなりの部分は、きっと歩いた。
留辺蘂まで行ったら、ひと山越えて、栃木と名前をつけた、その地になる。
※ 栃木団体と云う名前で、開拓に入っていた。
※ 私のおじいちゃんは、秋田団体の一員として、同じ時代に、留辺蘂の少し南に入っている。
栃木は、留辺蘂の少し北。
※ 北海道に開拓に入った人達は、どこも、同じような苦労をした。
※ 2009年2月の、佐呂間町栃木。 今年の夏近くを通ったので、動画を撮れば良かった。 忘れなければ、来年。

歴史民俗資料館の外にあった、田中正造の像。 谷中村があった方を見ている。

この川が、渡良瀬川。 この下流に谷中湖がある。
調べるだけの十分な時間はなかったけど、谷中村跡を見られたことがよかったかな。
パンフレットや、案内板などの文章の表現は、下のように。
「渡良瀬川遊水地は、旧谷中村民の移住問題等、人々の大きな犠牲のもとにつくられました」
時代が変わった今、行政を含めた地域の人々全体の意識は、苦労した人々の側に立っているように感じた。
それを知って、少し安心したでしょうか。
【道の駅】 みかも
【明日の予定】 足利市 足利学校とか
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

【ランキング】 国内旅行は7位、 旅行全体で17位です。 放浪の旅が、32位でした。
記事は役立ったでしょうか。
気に入った所などがありましたら、クリックをよろしく。
※ クリックするバナーは、下のです。

※ 1回のクリックで、10ポイント。 1週間生きます。
コメント
コメントの投稿
トラックバック
https://akkamui.com/tb.php/412-da876a9e