今日は、久しぶりに美しい仏像を見た。
大善寺文殊菩薩。 江戸時代のもの。 ※ 詳しくは、文殊菩薩立像(もんじゅぼさつりゅうぞう)
寄進したのは、ある武将の子供。
その武将は、昨日の天目山のブログに登場している。
※ ところが、寺の住職さんが面白いことを言った。
本当は、その子供と云うのは、△△なんですよ、と。
寺に伝わっている伝説があった。
私はその話を聞いて、文殊菩薩の表情は、○○に似ていると思った。
美しさが増して見えた。
※ 問題です。 ○○は、一体誰でしょう。
※ ※ ※ ※
武田勝頼の最期が詳しく分かっているのは、ある文書があるから。
昨日も触れましたが『理慶尼記』(武田滅亡記とも)というもの。
それが大善寺にあるので、行ってみることに。
石段を上り、山門をくぐったら、本堂。 薬師堂とも。
これが、国宝だという。 関東で一番古い建物。 鎌倉時代。
中に入って、驚いた。 重要文化財の仏像が、20程並んでいた。
他のもあるから、圧倒される雰囲気だった。 例えば、下の十二神将など。 (大善寺のHPから。 この後の写真も)
京都・奈良から離れて、こんなにあるのは、不思議。
下の説明に、勝頼たちのことが書いてある。
本堂に住職さんがいたので、理慶尼記について聞いて見た。
そうしたら、今あるところに頼んで、現代語に訳してる最中だという。
ある程度直したのが、県立図書館にあるそうだ。
この時分かったのだが、景徳院の境内に掲示してあった文書が、そのコピーだった。
写真に、撮ってあった。 (やっと読める状態)
勝頼のことを聞いて見た。 こうだった。
1582年の3月3日に、大善寺にやって来た。
本堂の本尊の前で、今後を祈願し、辞世の句を書いた。 この寺に置いて行った。
その晩は、勝頼と夫人と息子の信勝、そして理慶尼の4人で、この本堂で寝床を共にした。
温かくもてなした。
※ 理慶尼の兄は、武田の家臣だった。 しかし、謀反の疑いで信玄に殺された。
理慶尼はある所に嫁いでいたが、兄のことで迷惑がかかるのを心配し、離縁し大善寺にやって来た。
勝頼は、兄の仇(かたき)の子供だった。
仇の子なのに、なぜそれだけのことをしたのか。
それは、ある時期、理慶尼は、勝頼の乳母をしたことがあったからだった。
住職さんと、昨日の景徳院の話などをしていたら、こんなことを言ってきた。
昨日書いた、最後に織田軍と、崖の細い道で戦った、土屋昌恒(つちや まさつね)に息子がいた。
※ 昌恒の幼名は、惣蔵。
息子は忠直。 母に連れられて駿河国清見寺に逃亡していた。
その後、徳川家康に認められ家臣となる。 さらに、徳川秀忠に仕え、秀忠の「忠」の字を与えられて、忠直と名乗る。
この忠直は、大善寺に、山門と文殊菩薩、さらに毘沙門天を寄進する。
ここで、住職さんは、驚くことを言ってきた。
実は、この忠直は、勝頼の息子の信勝だと。
大善寺はそう思っており、そう伝わっていると。
※ 逃亡の際は、同じ年格好の者を同行させるのは、珍しくないという。 万一のために。
※ ここからは、私の想像。 もしこの話が本当なら、こういうことか。
家康は、忠直が信勝だと知っていた。
だから、わざわざ呼んで家臣にした。 秀忠にも、勝頼の息子だと伝えた。
秀忠は、それを知っていたから、「忠」の字を与えた。
上総久留里藩主とさせ、2万石を与えた。
信勝は、大善寺に対する恩を忘れることは、決してなかった。
家康は、負けた武田の家臣には、懐柔策とは思えないほど、気を遣っている。
勝頼のために景徳院を建てたのもそうだし、勝頼を裏切った小山田信茂一族を全て処刑したのも、そう。
歴史は、一般的・常識的なのが後世に残るが、事実は分からない。
もしかしたら、有りうるかもしれない。
これが、寄進した文殊菩薩。 とにかく、美しい。
勝頼の表情に感じた。
これも寄進した。 本当のことは決して話せない、という表情。 山門は、最初の写真。
小さなお堂があった。 ぼけ封じとあったので、お参りした。 今日のお参りは、ここだけ。
有名な庭だが、普通かなと。
近くにある、古いトンネル跡に行った。 大日影(おおひかげ)トンネル遊歩道。
こっちは、上のトンネルと反対側にあった。
勝沼トンネルワインカーブ。
中は、ワインの貯蔵庫だった。
大日影トンネル遊歩道を歩くことに。 全長 1367㍍。 20分ほどかかる。
このトンネルが、長い間、地域の経済を支えたとある。 ※ 甲府と東京を結んだ線路。
こんな感じ。 何が楽しいのかを考えながら歩いた。
どうして人が多いのかと思ったら、今日は祝日だった。
左に、新しいトンネル。
遠くに見えるのは、勝沼ぶどうの丘。
この地域は、どこに行ってもブドウの畑ばかり。 ダイコンやキャベツの畑はない。
ブドウのお店があった。 1パック300円のを買った。
今、採ってくれている。 大きな房が2つあった。 トンネルより、こっちが楽しい。
あの実は何ですかと聞いたら、1つくれた。 ザクロと言った。
※ 後で切ってみたが、どこをどう食べればいいか、分からない。 切った時、血のような汁が出た。
戻った。 鉄道によって、ブドウ作りが盛んになったとある。
戻って来た。
ぶどうの丘に行って、写真を2枚。
今日は、大善寺で聞いた話が、面白いと思った。
※ 平日、客の少ない時だったら、もっと話が聞けた。
※ 色々調べていたら、勝頼も逃げ延びたという話があった。 詳しくは分からない。
天目山で最期の勝頼については、一段落です。
【資料】 理慶尼の書いた武田滅亡記は、大善寺にあるが、現代語にしたのはなかった。
現在、新たに作成中だった。
別のものが、県立の図書館にあると言った。
下のは、それのコピー。 景徳院の境内にあったもの。
読みにくいが、資料として、ここに載せておきます。 私も、全部読んでいない。
【今日の歌】 昨日のコメントの御手洗が登場します。 もう一度行ってもいい場所です。
曲名は、安芸灘の風。 いい歌です。 クリックすると、聴けます。
※ 江戸時代の港町、御手洗を歩く。 ~呉市 大崎下島~ 他 (2010/12/17)
とびしま海道の終点 岡村島を、旅人さんと歩く。 安芸灘の風 ~愛媛県今治市~ 他 (2010/12/18)
※ 鶴姫のいた大三島は、この歌の舞台の、となりです。
鶴姫伝説 ~瀬戸内のジャンヌ・ダルク~ 他 (2009/12/20)
【道の駅】 甲斐大和
【明日の予定】 富士山の方に向かうが、典型的な観光地ばかり。
青木ヶ原を、ただ歩いてみるか。
太宰が、「富士には月見草が似合う」、と言った御坂峠に、もう一度行くというのもあるが。
大月市に猿橋があった。 それかな。 3奇矯の一つ。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
【ランキング】 国内旅行は6位、 旅行全体で13位です。 放浪の旅は36位。
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大善寺文殊菩薩。 江戸時代のもの。 ※ 詳しくは、文殊菩薩立像(もんじゅぼさつりゅうぞう)
寄進したのは、ある武将の子供。
その武将は、昨日の天目山のブログに登場している。
※ ところが、寺の住職さんが面白いことを言った。
本当は、その子供と云うのは、△△なんですよ、と。
寺に伝わっている伝説があった。
私はその話を聞いて、文殊菩薩の表情は、○○に似ていると思った。
美しさが増して見えた。
※ 問題です。 ○○は、一体誰でしょう。
※ ※ ※ ※
武田勝頼の最期が詳しく分かっているのは、ある文書があるから。
昨日も触れましたが『理慶尼記』(武田滅亡記とも)というもの。
それが大善寺にあるので、行ってみることに。

石段を上り、山門をくぐったら、本堂。 薬師堂とも。
これが、国宝だという。 関東で一番古い建物。 鎌倉時代。

中に入って、驚いた。 重要文化財の仏像が、20程並んでいた。
他のもあるから、圧倒される雰囲気だった。 例えば、下の十二神将など。 (大善寺のHPから。 この後の写真も)

京都・奈良から離れて、こんなにあるのは、不思議。
下の説明に、勝頼たちのことが書いてある。

本堂に住職さんがいたので、理慶尼記について聞いて見た。
そうしたら、今あるところに頼んで、現代語に訳してる最中だという。
ある程度直したのが、県立図書館にあるそうだ。
この時分かったのだが、景徳院の境内に掲示してあった文書が、そのコピーだった。
写真に、撮ってあった。 (やっと読める状態)
勝頼のことを聞いて見た。 こうだった。
1582年の3月3日に、大善寺にやって来た。
本堂の本尊の前で、今後を祈願し、辞世の句を書いた。 この寺に置いて行った。
その晩は、勝頼と夫人と息子の信勝、そして理慶尼の4人で、この本堂で寝床を共にした。
温かくもてなした。
※ 理慶尼の兄は、武田の家臣だった。 しかし、謀反の疑いで信玄に殺された。
理慶尼はある所に嫁いでいたが、兄のことで迷惑がかかるのを心配し、離縁し大善寺にやって来た。
勝頼は、兄の仇(かたき)の子供だった。
仇の子なのに、なぜそれだけのことをしたのか。
それは、ある時期、理慶尼は、勝頼の乳母をしたことがあったからだった。
住職さんと、昨日の景徳院の話などをしていたら、こんなことを言ってきた。
昨日書いた、最後に織田軍と、崖の細い道で戦った、土屋昌恒(つちや まさつね)に息子がいた。
※ 昌恒の幼名は、惣蔵。
息子は忠直。 母に連れられて駿河国清見寺に逃亡していた。
その後、徳川家康に認められ家臣となる。 さらに、徳川秀忠に仕え、秀忠の「忠」の字を与えられて、忠直と名乗る。
この忠直は、大善寺に、山門と文殊菩薩、さらに毘沙門天を寄進する。
ここで、住職さんは、驚くことを言ってきた。
実は、この忠直は、勝頼の息子の信勝だと。
大善寺はそう思っており、そう伝わっていると。
※ 逃亡の際は、同じ年格好の者を同行させるのは、珍しくないという。 万一のために。
※ ここからは、私の想像。 もしこの話が本当なら、こういうことか。
家康は、忠直が信勝だと知っていた。
だから、わざわざ呼んで家臣にした。 秀忠にも、勝頼の息子だと伝えた。
秀忠は、それを知っていたから、「忠」の字を与えた。
上総久留里藩主とさせ、2万石を与えた。
信勝は、大善寺に対する恩を忘れることは、決してなかった。
家康は、負けた武田の家臣には、懐柔策とは思えないほど、気を遣っている。
勝頼のために景徳院を建てたのもそうだし、勝頼を裏切った小山田信茂一族を全て処刑したのも、そう。
歴史は、一般的・常識的なのが後世に残るが、事実は分からない。
もしかしたら、有りうるかもしれない。
これが、寄進した文殊菩薩。 とにかく、美しい。

勝頼の表情に感じた。

これも寄進した。 本当のことは決して話せない、という表情。 山門は、最初の写真。

小さなお堂があった。 ぼけ封じとあったので、お参りした。 今日のお参りは、ここだけ。

有名な庭だが、普通かなと。

近くにある、古いトンネル跡に行った。 大日影(おおひかげ)トンネル遊歩道。

こっちは、上のトンネルと反対側にあった。
勝沼トンネルワインカーブ。

中は、ワインの貯蔵庫だった。

大日影トンネル遊歩道を歩くことに。 全長 1367㍍。 20分ほどかかる。

このトンネルが、長い間、地域の経済を支えたとある。 ※ 甲府と東京を結んだ線路。

こんな感じ。 何が楽しいのかを考えながら歩いた。

どうして人が多いのかと思ったら、今日は祝日だった。

左に、新しいトンネル。

遠くに見えるのは、勝沼ぶどうの丘。
この地域は、どこに行ってもブドウの畑ばかり。 ダイコンやキャベツの畑はない。

ブドウのお店があった。 1パック300円のを買った。
今、採ってくれている。 大きな房が2つあった。 トンネルより、こっちが楽しい。

あの実は何ですかと聞いたら、1つくれた。 ザクロと言った。
※ 後で切ってみたが、どこをどう食べればいいか、分からない。 切った時、血のような汁が出た。


戻った。 鉄道によって、ブドウ作りが盛んになったとある。

戻って来た。

ぶどうの丘に行って、写真を2枚。


今日は、大善寺で聞いた話が、面白いと思った。
※ 平日、客の少ない時だったら、もっと話が聞けた。
※ 色々調べていたら、勝頼も逃げ延びたという話があった。 詳しくは分からない。
天目山で最期の勝頼については、一段落です。
【資料】 理慶尼の書いた武田滅亡記は、大善寺にあるが、現代語にしたのはなかった。
現在、新たに作成中だった。
別のものが、県立の図書館にあると言った。
下のは、それのコピー。 景徳院の境内にあったもの。
読みにくいが、資料として、ここに載せておきます。 私も、全部読んでいない。










【今日の歌】 昨日のコメントの御手洗が登場します。 もう一度行ってもいい場所です。
曲名は、安芸灘の風。 いい歌です。 クリックすると、聴けます。

※ 江戸時代の港町、御手洗を歩く。 ~呉市 大崎下島~ 他 (2010/12/17)
とびしま海道の終点 岡村島を、旅人さんと歩く。 安芸灘の風 ~愛媛県今治市~ 他 (2010/12/18)
※ 鶴姫のいた大三島は、この歌の舞台の、となりです。
鶴姫伝説 ~瀬戸内のジャンヌ・ダルク~ 他 (2009/12/20)
【道の駅】 甲斐大和
【明日の予定】 富士山の方に向かうが、典型的な観光地ばかり。
青木ヶ原を、ただ歩いてみるか。
太宰が、「富士には月見草が似合う」、と言った御坂峠に、もう一度行くというのもあるが。
大月市に猿橋があった。 それかな。 3奇矯の一つ。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

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