山本勘助の生誕の地として、一番可能性が高いので、行ってみた。
富士宮市山本は、生誕地として、大正時代に名乗りを上げ、石碑を建てていた。
☆ ☆ ☆ ☆
近くを、富士川が流れている。 日本3急流の一つ。
富士根駅近くの駐車場に、車を置いた。 緑の道を時計と反対回り。
こんな勘助が出迎えてくれた。
道が不安になった頃、こんな案内が表れる。 細い道が多い。
山本八幡宮。 小さな神社。 この辺りは、山本と言われる地域。
この神社は、勘助の本家の吉野家がつくった。
吉野家は、山本では、名のある家柄。
南に向かっている。 よその家の庭をのぞいたり。
勘助は、吉野家に生まれ、幼名は「源助」とある。 豊川市の牛窪に養子に行って、勘助と。
山本の出身だから、山本勘助。 それでいいのかな。
吉野家。 門は、長屋門で、江戸時代のもの。 母屋は、火事で焼けた。
「山本勘助誕生地」の碑。 大正時代に作られた。
根拠にした文書は、江戸時代末期の、「駿河志料」と説明にある。
※ 現在は、『甲斐国志』にもこのことは載っていることが分かっている。
生誕の地は、他でも名乗っているが、大河ドラマ「風林火山」を作ったNHKは、この地を生誕地としている。
山本勘助は、学者は伝説の人物と言っていた。
だから、大河ドラマでは扱えなかった。
昭和44年、釧路で新しい文書が見つかり、存在が現実味を帯びてきた。
NHKは実在したことを確信し、勘助が主人公の「風林火山」を作成した。
これは、2007年のこと。
そして、次の年、新しい資料が群馬県で見つかり、勘助の存在は、確かな物になっていく。
※ 学者の中で、伝説の人物と言ってた者は、資料が見つかっても、簡単に自分の学説は変えない。
だから、現在も、勘助の存在は完璧とはなっていない。
NHKは、勘助は存在しないと批判されても、それに答えることが出来ると自信を持っていた。
資料が見つかったことにより、いずれは、勘助は歴史上の人物となる。
影響力の強い学者によって、歴史の真実が、ねじ曲げられることがあると聞く。
数日前に書いた、大善寺に泊った武田勝頼のことを書いた理慶尼記は、ある学者が認めない。
そのため、文書の存在が大きくなっていないという。(大善寺の住職さんの話し)
※ Wikipediaでは、認めているが。
石碑の裏には、勘助の生涯が。 右は、誰かが作った歌。
右は、吉野家に残っている家系図を、分かりやすく書きなおしたもの。
新聞記事。 資料として、載せておきます。
※ そのままでは読めないので、パソコンの字の拡大が必要。
なつかしい。 このドラマで、勘助と由布姫が大好きになった。
次に向かった。 右手に墓地が見えてきた。
勘助の母親の墓が、右奥にあった。 ※ 勘助の墓は、別のところ。 あっちこっちに。
時々、こんな地図。 いまはここに。
向こうから細い道を入って来た。
家の庭の木は、お茶の木。 お茶の産地に来ると、庭の木もお茶。 ここは、静岡県。
お茶畑の向こうは、新東名高速。 工事中。
勘助坂。 この坂の下に、勘助が子供のころ住んだ家があった。
祖父が、本家から離れて、こっちにきた。
宗持院という寺があった。 祖父が建てた。 勘助の家は、この近くにあった。
右側に川が流れている。 橋は無い。 どこに行くにも、勘助坂を上らなければならなかった。
次へ。
柿の木とお茶畑。
向こうは富士市。 その向こうは、海。
代信寺。 ここが山本家の菩提寺。
上の寺には、勘助の父母の像が安置されている。 (富士宮市のHPより)
この道を戻った。 県道176。 歩道が無いから、危険。
この山本の地で、勘助は生まれた。
そして、静岡県豊川市の牛窪を中心に、若い時期過ごした。
ずっと後に、信玄に見いだされて行く。 軍師として。
もし、勘助が長生きしていたら、由布姫の息子の勝頼の運命はきっと変わった。
勘助がいることにより、勝頼の信頼は高まった。
そうだったら、よかった。
【関連ブログ】 山本勘助の魔利支天像 他 (2009/11/15)
山本勘助の墓 ~山梨県北杜市高根町~ 峠越え 他 (2009/10/25)
小坂観音院 高島城 手仕事屋きち兵衛 他 (2009/06/19)
【道の駅】 富士
【明日の予定】 静岡市の清水です。 Kさんに会います。
富士山の五合目を検討中。 明日の天気はいい。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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富士宮市山本は、生誕地として、大正時代に名乗りを上げ、石碑を建てていた。
☆ ☆ ☆ ☆
近くを、富士川が流れている。 日本3急流の一つ。
富士根駅近くの駐車場に、車を置いた。 緑の道を時計と反対回り。

こんな勘助が出迎えてくれた。

道が不安になった頃、こんな案内が表れる。 細い道が多い。


山本八幡宮。 小さな神社。 この辺りは、山本と言われる地域。
この神社は、勘助の本家の吉野家がつくった。
吉野家は、山本では、名のある家柄。

南に向かっている。 よその家の庭をのぞいたり。

勘助は、吉野家に生まれ、幼名は「源助」とある。 豊川市の牛窪に養子に行って、勘助と。
山本の出身だから、山本勘助。 それでいいのかな。


吉野家。 門は、長屋門で、江戸時代のもの。 母屋は、火事で焼けた。

「山本勘助誕生地」の碑。 大正時代に作られた。
根拠にした文書は、江戸時代末期の、「駿河志料」と説明にある。
※ 現在は、『甲斐国志』にもこのことは載っていることが分かっている。
生誕の地は、他でも名乗っているが、大河ドラマ「風林火山」を作ったNHKは、この地を生誕地としている。


山本勘助は、学者は伝説の人物と言っていた。
だから、大河ドラマでは扱えなかった。
昭和44年、釧路で新しい文書が見つかり、存在が現実味を帯びてきた。
NHKは実在したことを確信し、勘助が主人公の「風林火山」を作成した。
これは、2007年のこと。
そして、次の年、新しい資料が群馬県で見つかり、勘助の存在は、確かな物になっていく。
※ 学者の中で、伝説の人物と言ってた者は、資料が見つかっても、簡単に自分の学説は変えない。
だから、現在も、勘助の存在は完璧とはなっていない。
NHKは、勘助は存在しないと批判されても、それに答えることが出来ると自信を持っていた。
資料が見つかったことにより、いずれは、勘助は歴史上の人物となる。
影響力の強い学者によって、歴史の真実が、ねじ曲げられることがあると聞く。
数日前に書いた、大善寺に泊った武田勝頼のことを書いた理慶尼記は、ある学者が認めない。
そのため、文書の存在が大きくなっていないという。(大善寺の住職さんの話し)
※ Wikipediaでは、認めているが。
石碑の裏には、勘助の生涯が。 右は、誰かが作った歌。


右は、吉野家に残っている家系図を、分かりやすく書きなおしたもの。


新聞記事。 資料として、載せておきます。
※ そのままでは読めないので、パソコンの字の拡大が必要。


なつかしい。 このドラマで、勘助と由布姫が大好きになった。

次に向かった。 右手に墓地が見えてきた。

勘助の母親の墓が、右奥にあった。 ※ 勘助の墓は、別のところ。 あっちこっちに。


時々、こんな地図。 いまはここに。


向こうから細い道を入って来た。
家の庭の木は、お茶の木。 お茶の産地に来ると、庭の木もお茶。 ここは、静岡県。

お茶畑の向こうは、新東名高速。 工事中。

勘助坂。 この坂の下に、勘助が子供のころ住んだ家があった。
祖父が、本家から離れて、こっちにきた。

宗持院という寺があった。 祖父が建てた。 勘助の家は、この近くにあった。
右側に川が流れている。 橋は無い。 どこに行くにも、勘助坂を上らなければならなかった。

次へ。

柿の木とお茶畑。

向こうは富士市。 その向こうは、海。

代信寺。 ここが山本家の菩提寺。

上の寺には、勘助の父母の像が安置されている。 (富士宮市のHPより)

この道を戻った。 県道176。 歩道が無いから、危険。


この山本の地で、勘助は生まれた。
そして、静岡県豊川市の牛窪を中心に、若い時期過ごした。
ずっと後に、信玄に見いだされて行く。 軍師として。
もし、勘助が長生きしていたら、由布姫の息子の勝頼の運命はきっと変わった。
勘助がいることにより、勝頼の信頼は高まった。
そうだったら、よかった。
【関連ブログ】 山本勘助の魔利支天像 他 (2009/11/15)
山本勘助の墓 ~山梨県北杜市高根町~ 峠越え 他 (2009/10/25)
小坂観音院 高島城 手仕事屋きち兵衛 他 (2009/06/19)
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富士山の五合目を検討中。 明日の天気はいい。
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(2008年4月~2010年9月までの記事)

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