西南戦争は、日本最後の内乱。 明治10年。 リーダーは、西郷隆盛。
戦いは、こうして始まった。
熊本城には、明治政府の、鎮台(ちんだい)と呼ばれる支所のようなのがあった。
薩摩軍は、鎮台を攻めた。
明治政府軍は、熊本城を助けるため、九州に入り、熊本に南下していた。
田原坂は、熊本城の北の砦(とりで)だった。
※ 熊本藩の初代藩主は、加藤清正。 彼が、守りやすいように工夫をこらした場所だった。
明治10年の3月4日から、17日間戦いは続いた。 両軍の死者、4000人。
田原坂は、西南戦争最大の激戦地になった。
※ ※ ※ ※
熊本市の北に、田原坂はある。 峠というほど。高くない。
右にもう少し行ったら、田原坂の頂上。 下って行くと、熊本城につながる。
政府軍が進んだ道を、上がって来た。
西南の役戦没者慰霊碑。 ※ 西南戦争は、西南の役とも。
谷村計介の碑、とあった。 どうして、特別にあるのか。
こんな人。
彼は、政府軍の人で、熊本城に籠城していた。
孤立しているから、城の状況を伝えるため、蜜使として脱出した。
捕えられたりするが、官軍(政府軍)にたどり着くことに成功。
後に、この地で戦死。
※ 彼は、西南戦争の前にあった、佐賀の乱などの鎮圧でも活躍している。
※ 西南戦争は、士族の最後の反乱でもあり、その前に小さな佐賀の乱や秋月の乱などがあった。
ここでは、こんな説明。 密使としての活躍は、大きなことだったのか。
後の写真にも、彼は出てくる。
田原坂は小さな峠。 下の平地から、100㍍も高くない。
向こうが、田原坂の頂上。
昔は、熊本への道は、これしかなかった。 政府軍は、どうしても通らなければならない。
この辺りが、田原坂の中心地。
大きな楠があった。 この大楠は、戦いの全てを見ていた。
田原坂の戦いが、短くまとめられている。
美少年の像とあった。 若い兵士が多かったので、作ったよう。
台座には、こう書いてあった。
「雨は降る降る じんばはぬれる・・・」は、民謡「田原坂」の歌詞。
若者は戦いに勝ったら、大きな未来があると思っていたのか。
士族の子供たちかな。
いい像、と言っていいですね。
一帯は公園になっており、見えるのはお土産屋さん。 むこうに資料館がある。
田原坂崇烈碑。
※ 崇烈(すうれつ)という言葉は、この碑でしか見られない。 崇拝の崇、烈火の烈。
つよくあがめる、はげしくうやまう、と云うような意味か。
政府軍のための碑と分かる。
※ 天皇は政府軍を支持したから、薩摩郡は賊軍になった。
古い石碑は、政府軍側の物が多い。
現在は、西南戦争は内戦だから、どっちが悪いとかの見方はしていない。(たいていは)
田原坂の道についての説明があった。
戦いの位置図。 薩摩軍は対等に戦うが、武器が政府軍より古かった。 雨の時に、使いにくかった。
3月の雨は、まだ冷たい。 服装も、薩摩軍は不利だった。
見えるのは、資料館。 茶畑。
明治時代に入っても、江戸時代に武士だった士族は残っていた。
西郷隆盛は、士族が大事にされる世を考えていた。 政府軍の考えより。
戦いはこの辺り一帯、全部。
西郷隆盛も、明治政府の中枢にいたが、朝鮮の扱い方で意見が分かれ、鹿児島に戻る。
西郷の支持者は、半数いた。 半数は、政府の仕事から離れる。
資料館の中。 自由に写真は撮れない。 この服装は、薩摩郡。
木綿は、雨が降れば濡れる。 体に、くっつきそう。
官軍。 薩摩郡の服装より、雨に強いそう。 動きやすいということも。
江戸時代までの戦いは、鎧を着た。 西南戦争は、鎧なし。 どっちかが、すぐに流血。
こんな大砲も使われた。
政府軍のトップには、大久保利通がいた。
彼は、龍馬のように日本の未来を考えていたのではなく、自分の未来しか考えていなかった。
このことは、佐賀の乱の江藤新平を調べた時、そう感じた。
同じようなことは、西郷隆盛たちも考えており、そのことへの不満もあった。
全体の写真は、撮らせてもらった。
※ ここは撮影していいとか、聞いたんだが、よく分からなくなった。
ひどい展示だとか、悪くは書けない。
政府軍の中心人物。 最初に出てきた、谷村計介がいる。 乃木少佐も。
※ 上の写真の宮崎八郎は、薩摩軍。
彼は、先日のブログで書いた、宮崎滔天(とうてん)の兄。
大きな写真。
下は、薩摩軍。 知らない人ばかり。
正面に、戦いの絵。
鉄砲の弾が飛び交う中、刀や槍でも戦ったよう。
※ ここからの写真は、パンフレット。
薩摩郡。 指揮しているのは、桐野利秋と云う人。 薩摩藩士。 西郷が倒れた後も、戦っている。
植木町に、自由民権の学校があった。 そこの人達。 薩摩軍として戦う。
当時の鉄砲。
戦いの後の、田原坂。 木が倒れたりしている。
田原坂の戦いの時、救護をした団体があった。 敵味方なく、救護。
名前は、博愛社。 この博愛社が、今の「日本赤十字社」になる。 下の説明は、大丈夫。
日赤の原点は、田原坂にあった。
家や蔵に、鉄砲の弾が当たった。
上の写真の家を復元していた。
慰霊塔。
西南戦争の犠牲者、14138名の名前。
こういう名前を見るのは、日航機事故の御巣鷹の尾根以来。 ※ それはここに。
西郷隆盛の人気が高いために、西南戦争は、官軍側からだけでなく、見られるようになった。
昔の戦いは、どっちが悪いとかは、考えても難しい。
もともと明治政府だって、今のように、みんなで決めた政府ではない。
戦いで、江戸幕府に勝った者たちがつくった。
この戦いの後、明治政府は安定していく。
士族たちは、自分で生きて行くしかなくなった。
不満を言っても、どうしようもないと悟った。
今日は、西南戦争について、少し勉強しました。 何も知らなかった。
【動画】
【今日の歌】
遥かな轍(わだち)
民謡 田原坂
江戸幕府への恩義を忘れなかった者たちは、最後まで戦った。 江戸時代最後の頃。
※ 関連ブログ 鶴ヶ城 さざえ堂 白虎隊士の墓 ~会津若松市~ 明日 吾妻山へ 他 (2010/7/20)
【その他】 ブルー・ライト・ヨコハマ、追記。
「ブルーライト・ヨコハマ、奇跡のペニシリン」を先日書いたが、あの中で、
どうして佐世保に来れたのかが、分からない、と書いた。
いしだあゆみの母親が、佐世保出身と疑ったが、分からなかった。
柳川の銀河宙太さんが教えてくれた。
母親は、大牟田市の出身だった。 これなら、佐世保は近いから、情報は手に入る。 やっと分かった。
※ なお、平成10年に、大牟田市を舞台にしたNHKのテレビドラマ「見知らぬわが町」が、つくられた。
いしだあゆみが出演した。 少し前に、母親は亡くなっていた。
大牟田の駅に着いたいしだあゆみは、「お母ちゃん帰ってきたよ」って言ったそう。
※ 関連ブログ 佐世保の夜景 ~佐世保市~ ブルー・ライト・ヨコハマ、奇跡のペニシリン 他 (2012/2/2)
【道の駅】 竜北
【明日の予定】 水俣辺りかな
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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戦いは、こうして始まった。
熊本城には、明治政府の、鎮台(ちんだい)と呼ばれる支所のようなのがあった。
薩摩軍は、鎮台を攻めた。
明治政府軍は、熊本城を助けるため、九州に入り、熊本に南下していた。
田原坂は、熊本城の北の砦(とりで)だった。
※ 熊本藩の初代藩主は、加藤清正。 彼が、守りやすいように工夫をこらした場所だった。
明治10年の3月4日から、17日間戦いは続いた。 両軍の死者、4000人。
田原坂は、西南戦争最大の激戦地になった。
※ ※ ※ ※
熊本市の北に、田原坂はある。 峠というほど。高くない。
右にもう少し行ったら、田原坂の頂上。 下って行くと、熊本城につながる。
政府軍が進んだ道を、上がって来た。
西南の役戦没者慰霊碑。 ※ 西南戦争は、西南の役とも。

谷村計介の碑、とあった。 どうして、特別にあるのか。
こんな人。
彼は、政府軍の人で、熊本城に籠城していた。
孤立しているから、城の状況を伝えるため、蜜使として脱出した。
捕えられたりするが、官軍(政府軍)にたどり着くことに成功。
後に、この地で戦死。
※ 彼は、西南戦争の前にあった、佐賀の乱などの鎮圧でも活躍している。
※ 西南戦争は、士族の最後の反乱でもあり、その前に小さな佐賀の乱や秋月の乱などがあった。

ここでは、こんな説明。 密使としての活躍は、大きなことだったのか。
後の写真にも、彼は出てくる。

田原坂は小さな峠。 下の平地から、100㍍も高くない。

向こうが、田原坂の頂上。
昔は、熊本への道は、これしかなかった。 政府軍は、どうしても通らなければならない。

この辺りが、田原坂の中心地。
大きな楠があった。 この大楠は、戦いの全てを見ていた。

田原坂の戦いが、短くまとめられている。

美少年の像とあった。 若い兵士が多かったので、作ったよう。

台座には、こう書いてあった。
「雨は降る降る じんばはぬれる・・・」は、民謡「田原坂」の歌詞。

若者は戦いに勝ったら、大きな未来があると思っていたのか。
士族の子供たちかな。
いい像、と言っていいですね。

一帯は公園になっており、見えるのはお土産屋さん。 むこうに資料館がある。

田原坂崇烈碑。
※ 崇烈(すうれつ)という言葉は、この碑でしか見られない。 崇拝の崇、烈火の烈。
つよくあがめる、はげしくうやまう、と云うような意味か。

政府軍のための碑と分かる。

※ 天皇は政府軍を支持したから、薩摩郡は賊軍になった。
古い石碑は、政府軍側の物が多い。
現在は、西南戦争は内戦だから、どっちが悪いとかの見方はしていない。(たいていは)
田原坂の道についての説明があった。

戦いの位置図。 薩摩軍は対等に戦うが、武器が政府軍より古かった。 雨の時に、使いにくかった。

3月の雨は、まだ冷たい。 服装も、薩摩軍は不利だった。
見えるのは、資料館。 茶畑。

明治時代に入っても、江戸時代に武士だった士族は残っていた。
西郷隆盛は、士族が大事にされる世を考えていた。 政府軍の考えより。
戦いはこの辺り一帯、全部。

西郷隆盛も、明治政府の中枢にいたが、朝鮮の扱い方で意見が分かれ、鹿児島に戻る。
西郷の支持者は、半数いた。 半数は、政府の仕事から離れる。
資料館の中。 自由に写真は撮れない。 この服装は、薩摩郡。
木綿は、雨が降れば濡れる。 体に、くっつきそう。

官軍。 薩摩郡の服装より、雨に強いそう。 動きやすいということも。

江戸時代までの戦いは、鎧を着た。 西南戦争は、鎧なし。 どっちかが、すぐに流血。
こんな大砲も使われた。

政府軍のトップには、大久保利通がいた。
彼は、龍馬のように日本の未来を考えていたのではなく、自分の未来しか考えていなかった。
このことは、佐賀の乱の江藤新平を調べた時、そう感じた。
同じようなことは、西郷隆盛たちも考えており、そのことへの不満もあった。
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※ ここは撮影していいとか、聞いたんだが、よく分からなくなった。
ひどい展示だとか、悪くは書けない。

政府軍の中心人物。 最初に出てきた、谷村計介がいる。 乃木少佐も。

※ 上の写真の宮崎八郎は、薩摩軍。
彼は、先日のブログで書いた、宮崎滔天(とうてん)の兄。
大きな写真。

下は、薩摩軍。 知らない人ばかり。

正面に、戦いの絵。

鉄砲の弾が飛び交う中、刀や槍でも戦ったよう。

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薩摩郡。 指揮しているのは、桐野利秋と云う人。 薩摩藩士。 西郷が倒れた後も、戦っている。

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当時の鉄砲。

戦いの後の、田原坂。 木が倒れたりしている。

田原坂の戦いの時、救護をした団体があった。 敵味方なく、救護。
名前は、博愛社。 この博愛社が、今の「日本赤十字社」になる。 下の説明は、大丈夫。
日赤の原点は、田原坂にあった。

家や蔵に、鉄砲の弾が当たった。

上の写真の家を復元していた。

慰霊塔。

西南戦争の犠牲者、14138名の名前。

こういう名前を見るのは、日航機事故の御巣鷹の尾根以来。 ※ それはここに。

西郷隆盛の人気が高いために、西南戦争は、官軍側からだけでなく、見られるようになった。
昔の戦いは、どっちが悪いとかは、考えても難しい。
もともと明治政府だって、今のように、みんなで決めた政府ではない。
戦いで、江戸幕府に勝った者たちがつくった。
この戦いの後、明治政府は安定していく。
士族たちは、自分で生きて行くしかなくなった。
不満を言っても、どうしようもないと悟った。
今日は、西南戦争について、少し勉強しました。 何も知らなかった。
【動画】
【今日の歌】
遥かな轍(わだち)
民謡 田原坂
江戸幕府への恩義を忘れなかった者たちは、最後まで戦った。 江戸時代最後の頃。
※ 関連ブログ 鶴ヶ城 さざえ堂 白虎隊士の墓 ~会津若松市~ 明日 吾妻山へ 他 (2010/7/20)
【その他】 ブルー・ライト・ヨコハマ、追記。
「ブルーライト・ヨコハマ、奇跡のペニシリン」を先日書いたが、あの中で、
どうして佐世保に来れたのかが、分からない、と書いた。
いしだあゆみの母親が、佐世保出身と疑ったが、分からなかった。
柳川の銀河宙太さんが教えてくれた。
母親は、大牟田市の出身だった。 これなら、佐世保は近いから、情報は手に入る。 やっと分かった。
※ なお、平成10年に、大牟田市を舞台にしたNHKのテレビドラマ「見知らぬわが町」が、つくられた。
いしだあゆみが出演した。 少し前に、母親は亡くなっていた。
大牟田の駅に着いたいしだあゆみは、「お母ちゃん帰ってきたよ」って言ったそう。
※ 関連ブログ 佐世保の夜景 ~佐世保市~ ブルー・ライト・ヨコハマ、奇跡のペニシリン 他 (2012/2/2)
【道の駅】 竜北
【明日の予定】 水俣辺りかな
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(2008年4月~2010年9月までの記事)

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コメント
Re: タイトルなし
霧の中から声が聞こえている雰囲気を感じました。
とつぜん、誰かが飛び出してきそうな。
いい霧でした。 幻想的。
飯盛山は、小さな山。 関連ブログに、出てきます。
とつぜん、誰かが飛び出してきそうな。
いい霧でした。 幻想的。
飯盛山は、小さな山。 関連ブログに、出てきます。
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会津若松の飯盛山は高い山でしたか。田原坂みたいな岡でしょうか。戊辰戦争、西南戦争、ともに日本人の心に染み付いた歴史です。