天守閣が無くても、石垣だけで十分美しい。
そんな城跡が、朝来市にある。 竹田城跡。
連休と云うこともあって、多くの人が登って来た。
※ ※ ※ ※
竹田城は、東西・南北の道の交点にある。 交通の要衝だった。
地図の右が北。 左が南。
駐車場が左に見えるが、混んでるので、山の下から登った。 駐車場まで、1.4㌔。
駐車場からは、赤○を歩く。 0.8㌔。 帰りは、黄色の○を下りた。
歩きだした。 小さな子供も歩いていた。
城の石垣が見えてきた。
駐車場からの道。 もうすぐ。
この山に最初に城をつくったのは、山名宗全とある。 彼の名前は、応仁の乱で聞く。
大きな城跡。 現存する山城では、日本でトップクラスの大きさ。
※ 状態の良さと大きさを問えば、きっと日本一。
北の部分に上ってきた。 北の二の丸跡か。 標示は見てない。
一番高い所が、天守跡。
たくさんの人がいる。
竹田城の石垣は、穴太積み(あのうづみ)だそう。
これは、自然石をそのまま使う野面積みの一種。 石の形により配置を考えて積んでいく。
普通の野面積みより高く積めるという。(Wikipedia)
城跡からは、四方全部が見える。
落ちたら大けがの高さが普通。 どれだけ近づくかは、人によって違う。
小さな子供が親から離れて、端っこに立ってるのも見た。
川霧が立って、城跡が空に浮くようになる時がある。 それで、天空の城。
座って、ゆっくり下の風景を眺めている人もいる。 一人でお弁当を食べてる若い女性もいた。
今のような立派な石垣は、赤松広秀と云う人が秀吉の支援によって、作り上げた。
裏に秀吉がいて、この大きさになった。
向こうは南。
天守はここにあった。 狭い。
最後の城主は、赤松広秀(斎村政広)。
1600年の関ヶ原の戦いでは、西軍に味方した。
しかし、西軍が敗れると分かったら、東軍に寝返った。
鳥取城を攻めた。 大きな手柄を立てたが、城下を焼き討ちしたことが問題になった。
責任をなすりつけられた形になった。
家康から、切腹を命じられる。 享年39歳。 竹田城は、廃城となる。
天守台の上から。
北方面です。
想像復元模型が、竹田駅にあるようです。 竹田城復元模型。(Wikipedia)
天守台の上。
向こうに、南二の丸があった。
南二の丸跡から天守台を。
道は南に真っ直ぐ。 姫路市に着く。
近道を通って、登って来た道に出た。 下っている。
戻った。 登れないで、待ってる車がある。 駐車場は、すぐ下に。
建物は、山城の郷。 お土産やレストラン。 資料室も。
竹田城は一度見ていましたが、再度行ってきました。
石垣は、整備したというより、このように残った。
見応えのある城跡でした。
【今日の歌】
明日5月1日は、八十八夜です。
歌詞の中に、もうすぐ八十八夜とあるので、今日載せます。
好きな人を忘れられず嫁ぐ、ということは、現実にありますね。
上と同じように下も、それを歌っています。
※ 学生時代のこと。 深く付き合っていた人ではないけれど、その人が結婚する数日前、手紙が届いた。
結婚しますって。 この人は、小学校の1年から4年まで同じ教室。 国府小学校。
小学校1年の入学式の日、席はあの人の隣がいいって、母親に言ってしまった。
もちろん、叶わない。
高校を卒業し、旭川に出てきて、勤めていた。
結婚式は、旭川の4条にあったホテルで、夕方から。 夏の終わりだったかな。
その時間、私は斜(はす)向かいのビルの3階の雀荘で、マージャンをしていた。
座った席から、窓の向こうに、ホテルの灯りが見えた。
その日、高い手が何度か出来そうになった。
1筒(イーピン)待ちの国士無双もテンパったが、上がれなかった。
2索(そう)の穴待ちを続けて上がった。
その日以来、その待ちが好きになった。
彼女からの音沙汰は、その後、もちろんないが、何だかんだで、忘れられない夜になった。
【道の駅】 丹波マーケス
【明日の予定】 京都市内でしょうか。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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そんな城跡が、朝来市にある。 竹田城跡。
連休と云うこともあって、多くの人が登って来た。
※ ※ ※ ※
竹田城は、東西・南北の道の交点にある。 交通の要衝だった。
地図の右が北。 左が南。
駐車場が左に見えるが、混んでるので、山の下から登った。 駐車場まで、1.4㌔。
駐車場からは、赤○を歩く。 0.8㌔。 帰りは、黄色の○を下りた。

歩きだした。 小さな子供も歩いていた。
城の石垣が見えてきた。

駐車場からの道。 もうすぐ。

この山に最初に城をつくったのは、山名宗全とある。 彼の名前は、応仁の乱で聞く。

大きな城跡。 現存する山城では、日本でトップクラスの大きさ。
※ 状態の良さと大きさを問えば、きっと日本一。

北の部分に上ってきた。 北の二の丸跡か。 標示は見てない。

一番高い所が、天守跡。

たくさんの人がいる。

竹田城の石垣は、穴太積み(あのうづみ)だそう。
これは、自然石をそのまま使う野面積みの一種。 石の形により配置を考えて積んでいく。
普通の野面積みより高く積めるという。(Wikipedia)

城跡からは、四方全部が見える。

落ちたら大けがの高さが普通。 どれだけ近づくかは、人によって違う。
小さな子供が親から離れて、端っこに立ってるのも見た。

川霧が立って、城跡が空に浮くようになる時がある。 それで、天空の城。
座って、ゆっくり下の風景を眺めている人もいる。 一人でお弁当を食べてる若い女性もいた。

今のような立派な石垣は、赤松広秀と云う人が秀吉の支援によって、作り上げた。
裏に秀吉がいて、この大きさになった。
向こうは南。

天守はここにあった。 狭い。

最後の城主は、赤松広秀(斎村政広)。
1600年の関ヶ原の戦いでは、西軍に味方した。
しかし、西軍が敗れると分かったら、東軍に寝返った。
鳥取城を攻めた。 大きな手柄を立てたが、城下を焼き討ちしたことが問題になった。
責任をなすりつけられた形になった。
家康から、切腹を命じられる。 享年39歳。 竹田城は、廃城となる。
天守台の上から。

北方面です。

想像復元模型が、竹田駅にあるようです。 竹田城復元模型。(Wikipedia)

天守台の上。

向こうに、南二の丸があった。

南二の丸跡から天守台を。

道は南に真っ直ぐ。 姫路市に着く。

近道を通って、登って来た道に出た。 下っている。

戻った。 登れないで、待ってる車がある。 駐車場は、すぐ下に。
建物は、山城の郷。 お土産やレストラン。 資料室も。

竹田城は一度見ていましたが、再度行ってきました。
石垣は、整備したというより、このように残った。
見応えのある城跡でした。
【今日の歌】
明日5月1日は、八十八夜です。
歌詞の中に、もうすぐ八十八夜とあるので、今日載せます。
好きな人を忘れられず嫁ぐ、ということは、現実にありますね。
上と同じように下も、それを歌っています。
※ 学生時代のこと。 深く付き合っていた人ではないけれど、その人が結婚する数日前、手紙が届いた。
結婚しますって。 この人は、小学校の1年から4年まで同じ教室。 国府小学校。
小学校1年の入学式の日、席はあの人の隣がいいって、母親に言ってしまった。
もちろん、叶わない。
高校を卒業し、旭川に出てきて、勤めていた。
結婚式は、旭川の4条にあったホテルで、夕方から。 夏の終わりだったかな。
その時間、私は斜(はす)向かいのビルの3階の雀荘で、マージャンをしていた。
座った席から、窓の向こうに、ホテルの灯りが見えた。
その日、高い手が何度か出来そうになった。
1筒(イーピン)待ちの国士無双もテンパったが、上がれなかった。
2索(そう)の穴待ちを続けて上がった。
その日以来、その待ちが好きになった。
彼女からの音沙汰は、その後、もちろんないが、何だかんだで、忘れられない夜になった。
【道の駅】 丹波マーケス
【明日の予定】 京都市内でしょうか。
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(2008年4月~2010年9月までの記事)

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