大覚寺へ行ったら、見覚えのある風景だった。
2年程前に、来ていた。
それで、となりにある大沢の池を見た。
池の北に、百人一首でも歌われている、名古曽(なこそ)の滝跡があった。
※ ※ ※ ※
今日歩く所は、北嵯峨野になります。
池は、上の方に2つ。 時計回りに動く。
大覚寺は、あと少し。
大覚寺。 右に行ったら、大沢池と名古曽滝がある。
華供養塔。 生け花とかで使う花を供養している。
この風景を見て思い出した。 以前来た時は、嵯峨菊がいっぱい飾ってあった。
大沢池を見ることに。 赤○の辺りに、名古曽の滝。
ここは、嵯峨天皇の離宮があったところとある。 東の方に行ったら、普段生活している御所がある。
大覚寺は、その広い敷地の中に、後の世に建てた。
大沢池は、大覚寺の境内にある。
嵯峨天皇は、平安初期の天皇。 昨日のブログで書いた、光源氏のモデルである源 融(みなもと の とおる)は、嵯峨天皇の子供。
心経宝塔。 新しい建物。 弘法大師の像が安置されている。
石仏。 鎌倉時代の物。
大沢池は、広い庭の中にある池で、川をせき止めてつくった。
池の周りには遊歩道がある。
鳥と亀がいた。 熟睡している。 コラコラって声をかけても動かない。
小さな島は、古文書にも載ってる島。 菊島。
島の向こうの方は、堤防のように土が盛ってある。 その向こうは低くなって、畑が広がっている。
池の北東部にいる。 離宮の建物の跡が、発掘されている。
※ この時、後ろの細い道から、女の人が歩いてきた。
どこから来たんだろうと、その道を行ってみたけど、道は直ぐ切れていた。
そこには、野良ネコがいっぱいいた。
猫が化けてきたのかなと思った。
名古曽の滝。
「瀧の音は 絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」
作者は、藤原公任(ふじわらのきんとう。966~1041)。
解釈は (百人一首講座のHPより)
滝は枯れて、その音はもう聞こえないけれど、
その名声だけは今だに、人々の間で語り継がれているのだよ。
別の所に、臼井喜之介と云う人の、詩碑があった。
こんな詩。
花を惜しむこころは いったい何なのだらう
いくつ齢をかさねたら 心はしづまり
ひとり酒汲む静寂に 住むことができるのか
今日も嵯峨御所から 花信が舞ひこんできた ※ 花信・・花が咲いたという知らせ。
※ テレビもパソコンもない時代。 自然との関わりが、今よりずっと多かったのかな。
堤防のような道を歩いている。
大覚寺の建物。
本堂(五大堂)の観月台。 大沢池は、観月の名所。
平田春一と云う人の、歌碑。
「紅を 少しのぞかせ ふっくらと 椿のつぼみ 只の一輪」
そう言えば、椿のつぼみの先っぽは、確かに少し赤い。 赤い花びらが少し見える。
細い道を、広沢池に向かう。 見えないが、左に有栖川(ありすがわ)が流れている。
千代の古道(ふるみち)とある。 この道を通って、嵯峨天皇は、御所から離宮にやってきた。
児(ちご)神社から、広沢池を見る。
昔は、遍照寺(へんじょうじ)という大きな寺があった。 一帯は、広く境内だった。
遍照寺の建立に尽力した僧がいた。 寛朝(かんちょう)僧正。
その僧正に仕えていた侍童(じどう)がいた。
僧正が死んだ時、悲嘆にくれて、池に身を投げた。
その児(ちご)を憐れんで、神社を建てた。 それが、下の児神社。
児が腰掛けていた石だという。
地図があった。
コイが養殖されている。
※ コイを獲る時は、池の水を抜く。 写真は、JanJanBlogさんからお借り。
池の南200㍍の所に、遍照寺が、かつての名残を伝えるように、小さくある。
嵐山と嵯峨野は、京都の中でも、昔から文化の香りのする地だった。
※ 百人一首が編纂されたりして。
【今日の曲】
演奏は、イーヴォ・ポゴレリチ(Ivo Pogorelić) ユーゴスラビアの人。
彼は、サラエヴォ・チャリティ財団を設立。 サラエヴォの内戦で傷ついた人たちを救うために。
※ 詳しくはここに。
【道の駅】 ガレリアかめおか
【明日の予定】 京都市内のどこか(時間があれば、たくさん歩きたい。 京都から、歩いてくるとか。)
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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2年程前に、来ていた。
それで、となりにある大沢の池を見た。
池の北に、百人一首でも歌われている、名古曽(なこそ)の滝跡があった。
※ ※ ※ ※
今日歩く所は、北嵯峨野になります。
池は、上の方に2つ。 時計回りに動く。

大覚寺は、あと少し。

大覚寺。 右に行ったら、大沢池と名古曽滝がある。

華供養塔。 生け花とかで使う花を供養している。

この風景を見て思い出した。 以前来た時は、嵯峨菊がいっぱい飾ってあった。

大沢池を見ることに。 赤○の辺りに、名古曽の滝。

ここは、嵯峨天皇の離宮があったところとある。 東の方に行ったら、普段生活している御所がある。
大覚寺は、その広い敷地の中に、後の世に建てた。

大沢池は、大覚寺の境内にある。

嵯峨天皇は、平安初期の天皇。 昨日のブログで書いた、光源氏のモデルである源 融(みなもと の とおる)は、嵯峨天皇の子供。

心経宝塔。 新しい建物。 弘法大師の像が安置されている。

石仏。 鎌倉時代の物。

大沢池は、広い庭の中にある池で、川をせき止めてつくった。

池の周りには遊歩道がある。

鳥と亀がいた。 熟睡している。 コラコラって声をかけても動かない。

小さな島は、古文書にも載ってる島。 菊島。
島の向こうの方は、堤防のように土が盛ってある。 その向こうは低くなって、畑が広がっている。

池の北東部にいる。 離宮の建物の跡が、発掘されている。
※ この時、後ろの細い道から、女の人が歩いてきた。
どこから来たんだろうと、その道を行ってみたけど、道は直ぐ切れていた。
そこには、野良ネコがいっぱいいた。
猫が化けてきたのかなと思った。

名古曽の滝。
「瀧の音は 絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」
作者は、藤原公任(ふじわらのきんとう。966~1041)。
解釈は (百人一首講座のHPより)
滝は枯れて、その音はもう聞こえないけれど、
その名声だけは今だに、人々の間で語り継がれているのだよ。

別の所に、臼井喜之介と云う人の、詩碑があった。
こんな詩。
花を惜しむこころは いったい何なのだらう
いくつ齢をかさねたら 心はしづまり
ひとり酒汲む静寂に 住むことができるのか
今日も嵯峨御所から 花信が舞ひこんできた ※ 花信・・花が咲いたという知らせ。

※ テレビもパソコンもない時代。 自然との関わりが、今よりずっと多かったのかな。
堤防のような道を歩いている。

大覚寺の建物。

本堂(五大堂)の観月台。 大沢池は、観月の名所。

平田春一と云う人の、歌碑。
「紅を 少しのぞかせ ふっくらと 椿のつぼみ 只の一輪」
そう言えば、椿のつぼみの先っぽは、確かに少し赤い。 赤い花びらが少し見える。

細い道を、広沢池に向かう。 見えないが、左に有栖川(ありすがわ)が流れている。

千代の古道(ふるみち)とある。 この道を通って、嵯峨天皇は、御所から離宮にやってきた。

児(ちご)神社から、広沢池を見る。

昔は、遍照寺(へんじょうじ)という大きな寺があった。 一帯は、広く境内だった。

遍照寺の建立に尽力した僧がいた。 寛朝(かんちょう)僧正。
その僧正に仕えていた侍童(じどう)がいた。
僧正が死んだ時、悲嘆にくれて、池に身を投げた。
その児(ちご)を憐れんで、神社を建てた。 それが、下の児神社。

児が腰掛けていた石だという。

地図があった。

コイが養殖されている。

※ コイを獲る時は、池の水を抜く。 写真は、JanJanBlogさんからお借り。


池の南200㍍の所に、遍照寺が、かつての名残を伝えるように、小さくある。

嵐山と嵯峨野は、京都の中でも、昔から文化の香りのする地だった。
※ 百人一首が編纂されたりして。
【今日の曲】
演奏は、イーヴォ・ポゴレリチ(Ivo Pogorelić) ユーゴスラビアの人。
彼は、サラエヴォ・チャリティ財団を設立。 サラエヴォの内戦で傷ついた人たちを救うために。
※ 詳しくはここに。
【道の駅】 ガレリアかめおか
【明日の予定】 京都市内のどこか(時間があれば、たくさん歩きたい。 京都から、歩いてくるとか。)
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

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