高野山の寺の檀家は、地元以外に、いっぱいいることが分かった。
高野山の墓地である奥の院には、数えきれない墓があった。
※ 数ははっきりしない。 10万とも20万とも言われている。(Wikipedia)
その墓の中に、大企業や金持ちの墓もたくさんあった。
高野山のお寺の経営が成り立つ理由が、やっと分かった。
※ ※ ※ ※
奥の院はお墓の集まりで、一番奥に、弘法大師の墓がある。
左の一の橋の入り口から、弘法大師の墓まで、2㌔㍍程。
真ん中にも、二の橋の入り口があって、私はそこから入った。
入り口近くの墓は、割と新しい。 企業や団体の名前も目立つ。
東日本大震災供養塔の場所が、用意されていた。
突き当たって、右に行く。 奥の院の奥を目指している。
さっそく、道の少し上に、江(ごう)の墓があった。
高野山の墓は、その人のメインの墓ではなく、分滑して作った。
となりに、娘の千姫の墓。 右奥は、江。 千姫の墓は、知恩院にある。
芭蕉の句碑。 「 父母のしきりに恋し雉子(きじ)の声 」
金剛峯寺で詠まれた句。 45歳の時。
行基が下の歌を歌っており、それを芭蕉は知って、歌っているそう。
「 山鳥のほろほろと鳴く声聞けば 父かとぞ思ふ 母かとぞ思ふ 」(玉葉集)
法然上人。 高野山は真言宗。 ※ 正確には、高野山真言宗。
法然は、浄土宗。 宗派に関係なく、墓はある。
忠臣蔵の浅野家。
石造りの立派な墓。 霊屋(たまや)。 重要文化財。
右は、家康の二男の結城秀康の墓。 左は、母の墓。 母は正妻でなく側室。
※ 双子だったこともあり、家康に大事にされなかった。
右の道を行く。 涼しい。
御供所の建物。 ここで、納経・御朱印をいただく人は、いただく。
となりにあるお堂。
この後は神聖な場所なので、手を洗う。
御廟(ごびょう)橋。 この先は、写真は撮れない。
正面の建物は、弘法大師のお墓がある、弘法大師御廟。 無料で参拝できる。
※ 御廟の中は厳粛な雰囲気で、おしゃべりしている人はいなかった。 少しはいたかな。
戻って、一の橋に向かう。
信長の墓。 高野山を焼き討ちしようとしたためか、大きな墓ではなかった。
全部歩くと4㌔ほどになる。
秀吉の墓。 秀吉も焼き討ちしようとしたが、ある僧の取り成しでやめる。 金剛峯寺の前身の寺を建てる。
墓は道沿いだけでなく、山の中まで。
1375年に作られた石碑。 ある尼層のもの。
石碑に耳を当てると、極楽の声に似た音がするという。
どんな声か知りたかったので、やってみた。 何も聞えなかった。
道は続く。
汗かき地蔵。 右隣に、姿見の井戸。
これが、その井戸。 覗いて自分の姿が映らなければ、3年以内に死ぬという。
覗かない訳にはいかなくなった。 恐る恐る覗いてみた。 井戸の底に、私はいた。
徳川家が高野山にも墓所(霊台)を作ったため、他の大名は、それに習った。 有力な家臣のも。
これは、光秀。
三成。
薩摩島津家。
正面向こうは、伊達正宗。
信玄と勝頼。
勝頼の最後は、天目山。
※ 関連ブログ 武田勝頼の最後は、天目山の麓の田野。 今はそこに、景徳院。~甲州市~ 他 (2011/11/2)
左の石は、町石と云われるもの。
町石は、道しるべとして、109㍍置きに建てられた。
一の橋に近づくと、墓が新しくなってくる。 こんな像も。
司馬遼太郎の文学碑。
司馬遼太郎には、高野山が、他とは全く別の地に見えた。
※ 高野山は標高900㍍。 周りは山。
まるで高野山は、ハスの花の中。 だから空海は、ここを開いた。
一の橋を出てきた。
この後、高野・龍神スカイラインを通って南下した。
見晴らし台はどこも個人の所有になっていて、見られなかった。
※ 見るだけでお金がかかるので、見なかった。
やっと、公共の駐車場があった。 絶景は通り過ぎた後。
高野山に3日いました。
京都とも奈良とも違う、別の世界にいる感じでした。
【今日の歌】
イノダって云うコーヒー店は、京都では誰でもが知ってるお店。
支店が、京都駅の地下にもある。
高田渡は、有名にするのに、一役買った。
【道の駅】 龍神 山の中です。 カジカガエルの声が聞えます。 近くに、龍神温泉。
【明日の予定】 この近くや龍神温泉を歩きます。
その後、テレビが入る所に移動します。 サッカーを見るため。
今日は、久しぶりにテレビが入らない。 それほど、山の中。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
【ランキング】 国内旅行は6位、 旅行全体で14位です。
気に入った所がありましたら、クリックをよろしく。
※ クリックするバナーは、下のです。
※ 1回のクリックで、10ポイント。 1週間生きます。
高野山の墓地である奥の院には、数えきれない墓があった。
※ 数ははっきりしない。 10万とも20万とも言われている。(Wikipedia)
その墓の中に、大企業や金持ちの墓もたくさんあった。
高野山のお寺の経営が成り立つ理由が、やっと分かった。
※ ※ ※ ※
奥の院はお墓の集まりで、一番奥に、弘法大師の墓がある。
左の一の橋の入り口から、弘法大師の墓まで、2㌔㍍程。
真ん中にも、二の橋の入り口があって、私はそこから入った。

入り口近くの墓は、割と新しい。 企業や団体の名前も目立つ。

東日本大震災供養塔の場所が、用意されていた。

突き当たって、右に行く。 奥の院の奥を目指している。

さっそく、道の少し上に、江(ごう)の墓があった。
高野山の墓は、その人のメインの墓ではなく、分滑して作った。

となりに、娘の千姫の墓。 右奥は、江。 千姫の墓は、知恩院にある。

芭蕉の句碑。 「 父母のしきりに恋し雉子(きじ)の声 」
金剛峯寺で詠まれた句。 45歳の時。
行基が下の歌を歌っており、それを芭蕉は知って、歌っているそう。
「 山鳥のほろほろと鳴く声聞けば 父かとぞ思ふ 母かとぞ思ふ 」(玉葉集)

法然上人。 高野山は真言宗。 ※ 正確には、高野山真言宗。
法然は、浄土宗。 宗派に関係なく、墓はある。

忠臣蔵の浅野家。

石造りの立派な墓。 霊屋(たまや)。 重要文化財。
右は、家康の二男の結城秀康の墓。 左は、母の墓。 母は正妻でなく側室。
※ 双子だったこともあり、家康に大事にされなかった。

右の道を行く。 涼しい。

御供所の建物。 ここで、納経・御朱印をいただく人は、いただく。

となりにあるお堂。


この後は神聖な場所なので、手を洗う。

御廟(ごびょう)橋。 この先は、写真は撮れない。
正面の建物は、弘法大師のお墓がある、弘法大師御廟。 無料で参拝できる。

※ 御廟の中は厳粛な雰囲気で、おしゃべりしている人はいなかった。 少しはいたかな。
戻って、一の橋に向かう。
信長の墓。 高野山を焼き討ちしようとしたためか、大きな墓ではなかった。

全部歩くと4㌔ほどになる。

秀吉の墓。 秀吉も焼き討ちしようとしたが、ある僧の取り成しでやめる。 金剛峯寺の前身の寺を建てる。

墓は道沿いだけでなく、山の中まで。

1375年に作られた石碑。 ある尼層のもの。
石碑に耳を当てると、極楽の声に似た音がするという。
どんな声か知りたかったので、やってみた。 何も聞えなかった。

道は続く。

汗かき地蔵。 右隣に、姿見の井戸。

これが、その井戸。 覗いて自分の姿が映らなければ、3年以内に死ぬという。
覗かない訳にはいかなくなった。 恐る恐る覗いてみた。 井戸の底に、私はいた。

徳川家が高野山にも墓所(霊台)を作ったため、他の大名は、それに習った。 有力な家臣のも。
これは、光秀。

三成。

薩摩島津家。

正面向こうは、伊達正宗。

信玄と勝頼。
勝頼の最後は、天目山。
※ 関連ブログ 武田勝頼の最後は、天目山の麓の田野。 今はそこに、景徳院。~甲州市~ 他 (2011/11/2)

左の石は、町石と云われるもの。

町石は、道しるべとして、109㍍置きに建てられた。

一の橋に近づくと、墓が新しくなってくる。 こんな像も。

司馬遼太郎の文学碑。

司馬遼太郎には、高野山が、他とは全く別の地に見えた。
※ 高野山は標高900㍍。 周りは山。
まるで高野山は、ハスの花の中。 だから空海は、ここを開いた。

一の橋を出てきた。

この後、高野・龍神スカイラインを通って南下した。
見晴らし台はどこも個人の所有になっていて、見られなかった。
※ 見るだけでお金がかかるので、見なかった。
やっと、公共の駐車場があった。 絶景は通り過ぎた後。

高野山に3日いました。
京都とも奈良とも違う、別の世界にいる感じでした。
【今日の歌】
イノダって云うコーヒー店は、京都では誰でもが知ってるお店。
支店が、京都駅の地下にもある。
高田渡は、有名にするのに、一役買った。
【道の駅】 龍神 山の中です。 カジカガエルの声が聞えます。 近くに、龍神温泉。
【明日の予定】 この近くや龍神温泉を歩きます。
その後、テレビが入る所に移動します。 サッカーを見るため。
今日は、久しぶりにテレビが入らない。 それほど、山の中。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

【ランキング】 国内旅行は6位、 旅行全体で14位です。
気に入った所がありましたら、クリックをよろしく。
※ クリックするバナーは、下のです。

※ 1回のクリックで、10ポイント。 1週間生きます。
コメント
コメントの投稿
トラックバック
https://akkamui.com/tb.php/648-259b8b93