幕末に、各藩の藩邸があったのは、3条・4条の鴨川に近い所だった。
それで、龍馬たちも、その近辺にいることになる。
今日は、高瀬川が流れる木屋町通を歩いた。
京都の路地裏の繁華街と云う感じだった。
※ ※ ※ ※
二条駅で降りて、歩きだした。
下が北。 現在地の少し下が、三条通り。 今の三条通りも、同じ場所。 昔の方が広かった。
三条商店街を歩いている。 涼しい。
1本ずれて、ここは四条通。 ずっと行くと八坂神社。 河原町や、祇園も。
四条大橋。 橋の向こうは、祇園。
少し前に、てんかんの人が起こした大きな交通事故は、橋を渡って2本目の道を、右から左に走った。
橋の手前に、小路がある。 先斗町(ぽんとちょう)通。
木屋町通に入ったら直ぐに、喫茶ソワレがあった。 レトロな喫茶店として、知られている。
木屋町通は、下の地図に。 地図の四条通からホテルオークラまで歩く。
高瀬川が流れている。 運河だった。
歩き始めて直ぐの左への道を少し行くと、古高俊太郎の碑があった。 家があった場所。
新撰組が古高を捕まえて自供させる。 池田屋事件が起きる。 拷問で白状させたのは、土方歳三。
川があるので、少し涼しい。
左の建物は高倉小学校。 明治時代、ここに京都電燈株式会社があった。
その中庭で、日本で初めて、映画が撮影された。 明治30年のこと。
右に、土佐藩邸があった。
左の小路に入ると、土佐稲荷大明神。 今も地元の人に、守られている。
坂元龍馬。 龍馬が住んでいた場所は、近い。
山崎橋。 自転車の向こうに、石碑。 彦根藩邸跡の碑。 桜田門外の変の井伊直弼が、彦根藩。
大黒橋から左への道。 龍馬通。
少し行った右に、酢屋(すや)。 ここに龍馬が滞在した。
酢屋。
瑞泉寺(ずいせんじ)。
豊臣秀次と妻子たちの墓。
秀次は、秀吉の養子となり、後継ぎの予定だった。
淀殿が秀頼を生んだ。 そうしたら、秀吉は秀次が邪魔になった。
何だかんだ云いがかりをつけ、一家皆殺し。
秀次は高野山の金剛峯寺で切腹。
妻や子供たち、侍女は、三条河原で殺された。 その地に、瑞泉寺が建てられた。
※ 切腹した金剛峯寺には先日行った。
地蔵殿。
殺された人の肖像画があった。
この事件によって、秀吉への人心は離れていく。
関ヶ原で負ける、大きな要因になる。
やり過ぎと思った大名は、家康に着いた。
三条河原の様子。 見に来た人々が固唾をのむ中、処刑されていった。 1595年の夏。
先斗町通に動いた。 左の大きな建物は、先斗町歌舞練場。 色んな公演が行われる。 昭和初期の建物。
三条大橋。 東海道五十三次の終点。
橋のたもとに、弥次さん喜多さんの像があった。
橋の欄干の擬宝珠に刃傷があった。 池田屋騒動の時の傷と、言われている。
三条通りを少し西に行くと、池田屋が見えた。 昔あった建物ではない。
池田屋事件の説明があった。
飼料として載せます。
新撰組は、池田屋騒動で、新撰組の名前をいかに高めるかを考えた。
先述の古高俊太郎の白状の内容も、新撰組が考えた物に、きっと間違いない。
結果、新撰組は、京都が火の海になるのを防いだと、英雄になった。
更に、木屋町通を北に。
ここに、武市瑞山(たけちずいざん)と吉村虎太郎の住んでいた家があった。
※ 吉村虎太郎は、四国の山の中の津野町出身。
梅雨の季節に入って、アジサイは元気。
この地で、佐久間象山・大村益次郎が襲われたとあった。 二人とも死亡。
一之船入跡。 高瀬川を高瀬舟で物を運んだ。 この場所は、その起点。
料理旅館、幾松(いくまつ)。 元々は、長州藩の控え屋敷だった。
桂小五郎は長州藩の人間で、妻は芸妓幾松。 それで、幾松。 彼女の遺品が、多くあるという。
京都ホテルオークラ。
桂小五郎の像があった。
彼は、池田屋騒動の時、予定より早く行きすぎた。 入らないで、別の所にいた。
もし入っていたら、きっと助からなかった。
この後、二条駅に戻った。
三条商店街の少し南に、六角獄舎跡があった。
池田屋騒動で捕まった者たちは、ここに入って、禁門の変の時に、殺された。
幕末から維新にかけての歴史は、複雑。
少しずつしか分からない。
【今日の歌】
京都市役所前で、踊ってる人達がいた。 昔の曲で。
【道の駅】 ガレリアかめおか
【明日の予定】 1条通りを歩いてみようかと。 小町に関する物もあるよう。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
【ランキング】 国内旅行は5位、 旅行全体で12位です。
クリックするバナーは、左の下にあります。 よろしく。
それで、龍馬たちも、その近辺にいることになる。
今日は、高瀬川が流れる木屋町通を歩いた。
京都の路地裏の繁華街と云う感じだった。
※ ※ ※ ※
二条駅で降りて、歩きだした。
下が北。 現在地の少し下が、三条通り。 今の三条通りも、同じ場所。 昔の方が広かった。

三条商店街を歩いている。 涼しい。

1本ずれて、ここは四条通。 ずっと行くと八坂神社。 河原町や、祇園も。

四条大橋。 橋の向こうは、祇園。
少し前に、てんかんの人が起こした大きな交通事故は、橋を渡って2本目の道を、右から左に走った。

橋の手前に、小路がある。 先斗町(ぽんとちょう)通。

木屋町通に入ったら直ぐに、喫茶ソワレがあった。 レトロな喫茶店として、知られている。

木屋町通は、下の地図に。 地図の四条通からホテルオークラまで歩く。
高瀬川が流れている。 運河だった。

歩き始めて直ぐの左への道を少し行くと、古高俊太郎の碑があった。 家があった場所。
新撰組が古高を捕まえて自供させる。 池田屋事件が起きる。 拷問で白状させたのは、土方歳三。

川があるので、少し涼しい。

左の建物は高倉小学校。 明治時代、ここに京都電燈株式会社があった。
その中庭で、日本で初めて、映画が撮影された。 明治30年のこと。

右に、土佐藩邸があった。

左の小路に入ると、土佐稲荷大明神。 今も地元の人に、守られている。

坂元龍馬。 龍馬が住んでいた場所は、近い。

山崎橋。 自転車の向こうに、石碑。 彦根藩邸跡の碑。 桜田門外の変の井伊直弼が、彦根藩。

大黒橋から左への道。 龍馬通。
少し行った右に、酢屋(すや)。 ここに龍馬が滞在した。

酢屋。

瑞泉寺(ずいせんじ)。

豊臣秀次と妻子たちの墓。
秀次は、秀吉の養子となり、後継ぎの予定だった。
淀殿が秀頼を生んだ。 そうしたら、秀吉は秀次が邪魔になった。
何だかんだ云いがかりをつけ、一家皆殺し。
秀次は高野山の金剛峯寺で切腹。
妻や子供たち、侍女は、三条河原で殺された。 その地に、瑞泉寺が建てられた。

※ 切腹した金剛峯寺には先日行った。
地蔵殿。


殺された人の肖像画があった。

この事件によって、秀吉への人心は離れていく。
関ヶ原で負ける、大きな要因になる。
やり過ぎと思った大名は、家康に着いた。
三条河原の様子。 見に来た人々が固唾をのむ中、処刑されていった。 1595年の夏。

先斗町通に動いた。 左の大きな建物は、先斗町歌舞練場。 色んな公演が行われる。 昭和初期の建物。

三条大橋。 東海道五十三次の終点。

橋のたもとに、弥次さん喜多さんの像があった。

橋の欄干の擬宝珠に刃傷があった。 池田屋騒動の時の傷と、言われている。


三条通りを少し西に行くと、池田屋が見えた。 昔あった建物ではない。

池田屋事件の説明があった。

飼料として載せます。
新撰組は、池田屋騒動で、新撰組の名前をいかに高めるかを考えた。
先述の古高俊太郎の白状の内容も、新撰組が考えた物に、きっと間違いない。
結果、新撰組は、京都が火の海になるのを防いだと、英雄になった。

更に、木屋町通を北に。

ここに、武市瑞山(たけちずいざん)と吉村虎太郎の住んでいた家があった。

※ 吉村虎太郎は、四国の山の中の津野町出身。
梅雨の季節に入って、アジサイは元気。

この地で、佐久間象山・大村益次郎が襲われたとあった。 二人とも死亡。

一之船入跡。 高瀬川を高瀬舟で物を運んだ。 この場所は、その起点。

料理旅館、幾松(いくまつ)。 元々は、長州藩の控え屋敷だった。
桂小五郎は長州藩の人間で、妻は芸妓幾松。 それで、幾松。 彼女の遺品が、多くあるという。

京都ホテルオークラ。

桂小五郎の像があった。
彼は、池田屋騒動の時、予定より早く行きすぎた。 入らないで、別の所にいた。
もし入っていたら、きっと助からなかった。

この後、二条駅に戻った。
三条商店街の少し南に、六角獄舎跡があった。
池田屋騒動で捕まった者たちは、ここに入って、禁門の変の時に、殺された。

幕末から維新にかけての歴史は、複雑。
少しずつしか分からない。
【今日の歌】
京都市役所前で、踊ってる人達がいた。 昔の曲で。
【道の駅】 ガレリアかめおか
【明日の予定】 1条通りを歩いてみようかと。 小町に関する物もあるよう。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

【ランキング】 国内旅行は5位、 旅行全体で12位です。
クリックするバナーは、左の下にあります。 よろしく。
コメント
コメントの投稿
トラックバック
https://akkamui.com/tb.php/654-a7332844