斎藤茂吉は、1932年(昭和7年)に、北海道にやってきた。
中川町(当時は中川村)の志文内にいる、兄を訪ねるのが目的。
兄は、診療所の医師。
今は、診療所跡が、茂吉小公園となっていた。
山本美香さんの最後の場面が、ほぼ正確に分かりました。
※ ※ ※ ※
志文内の場所は、今は、共和と呼ばれていた。
訪れたのは、昭和7年の8月14日。 茂吉、50才。
弟の高橋四郎兵衛が、同行している。
鉄道で、佐久駅まで来た。 ※ 旭川~稚内間の宗谷本線は、大正の終わり頃開通。
佐久駅から、アベシナイ川に沿っておよそ15キロを歩いた。
4時間かかっており、茂吉はこう書いている。
「豪雨ノナカ草鞋ハキ徒歩ニテ」 ※ 昭和に入っているのに、草鞋(わらじ)なんだろうか。
私は、美深側から向かったら、途中通行止めの表示があり、佐久から入った。
※ 私が中川町にいた頃、この共和方面は、板谷と呼んでいた。
中川町の一番の山奥、のイメージを持っていた。
診療所があったところに、茂吉小公園はあった。
今は、数軒の家が残る、小さな集落の真ん中。
歌碑があった。
「さよなかと 夜は過ぎつつ 志文内の 山のうへ照らす 月のかげのさやけさ 」
※ さよなか→小夜中→最夜中(さよなか)→最も夜中で、真夜中の意味。
「さ夜中と 夜は更けぬらし 雁が音の 聞こゆる空を 月渡る見ゆ」(柿本人麻呂)の歌がある。
※ 月のかげ→月の形、月の姿
※ 清(さや)けさ→清く澄んで、はっきりしている様子
茂吉の歌の師は、伊藤左千夫。 野菊の墓を書いた人。 昔読んだ。 悲しい別れの話。
5日間いて、短歌を47首つくった。
「 あをあをと おどろくばかり 太き蕗(ふき)が 澤をうづめて 生ひしげりたる 」も詠っている。
茂吉の歌は何も知らなかったが、今回、上の2つをおぼえようと思う。
茂吉の兄の、守谷富太郎は、拓殖医として志文内に来ていた。
※ 当時、拓殖医制度というのがあって、補助金を交付して、医師の開業や定着を図る施策を行っていた。
昭和3年に、富太郎は志文内に来る。 熊が出るこんな山奥に、よく来た。
※ 魚を釣って遊ぶのが好きだったよう。
冬になったら、マイナス30℃は、あたりまえ。
志文内に奥さん方がこれだけいると云うことは、当時は、大きな集落だった。
昔の人の表情。 中央が、富太郎。
明るい表情の人は、1人もいない。 みんな真面目に。 間違っても、ピースの雰囲気ではない。
中川町では、短歌フェスティバルをやっている。 入賞したのが展示してあった。
大きな蕗(ふき)を~~の歌のフキを、昔何度か見た。
中に水があったら、虫は入れない。 美味しいフキ。
旧 中川町立共和小中学校。 平成3年に閉校。 この校舎いっぱいに、子供たちがいた時代があった。
こんな様子。 市街地からここまで、酪農を営んでいる農家が、点在していた。
茂吉は、志文内に5日間いて、その後稚内、樺太へと向かう。
※ 茂吉の子どもに、北 杜夫(きた もりお)がいる。
北 杜夫の子供に、斎藤由香という作家がいる。
※ 茂吉について調べていたら、彼は、非常に戦争に協力的な作家と知った。
彼の価値観では、平和とか、人々の幸せとかが、一番ではなかった。
深入りしなくてもいい作家、という感じになってしまった。
この後、戻る。
ここは、旧佐久小学校。 平成11年の3月に閉校。
グランド前に、古い門があった。
この学校に、小学校の3年か4年の2月頃、そろばんの試験を受けに来た。
歌内の駅まで歩いて、汽車に乗って佐久駅まで来た。 そして、ここまで歩いた。
先生と何人かの子供と一緒に。
私は、7級と8級を受けた。 7級に受かって、8級に落ちた。
※ 8級の割り算が0点だった。
答えは全て2ケタだったが、私は、305のように、間に0を入れてしまった。
この時の賞状は今もある。
賞状は、3月の雪解けの頃、先生からもらった。
帰り道、丸めて、友達とチャンバラをした。
賞状は、馬糞の転がっている雪道に落ちた。
その時の黄色い染みが、今でも汚れたように付いている。
試験が終わって、裏山のスキー場で、ジャンプを見た。
10㍍以上は、飛んでいた。 手をまわしてる人がいたように、記憶している。
遠い昔の思い出。
佐久駅に向かう途中、橋の上から、天塩川を撮った。
子供の頃、天塩川はこわかった。 決して、近づかなかった。
佐久駅。
※ 昔の佐久駅は、こう。 北海度新聞のデータベースからお借り。
佐久の駅前。
私の小学校1年の時の担任は、石原幸子(さちこ)先生。 ※ 結婚して、赤間幸子。
実家は、佐久にあった。 今、75才くらいでしょうか。 ずっと会っていない。
この後、買い物して、私の家があった国府に向かった。
シリアでの、山本美香さん最後の場面について、新たに分かったことがあるので書きます。
山本さんのパートナーの佐藤さんは、彼女は自分の右後ろにいたと言った。
変だなと、思っていた。
彼は、右に逃げるのだが、そうしたら、彼女の前を逃げることになる。
でも、彼女が撮影した映像には、写っていなかった。
下は、山本さんの撮影。
少し前に、男の人。 その右に、白い車。 その右に、男の集団。
佐藤さん映像が、後(のち)に、報道で流れた。
下は、それの一場面。
手前の男の人と白い車の間に、空間が生まれた。
上の2枚の写真から、山本さんは佐藤さんの左にいたことが分かる。 ※ 写真は、映像から切り取ったもの。
すぐ上の写真の右端に、1人の男が見える。 この男が、この後叫ぶ。
銃弾発射まで、あと、2秒ない。
下の写真。
男が叫んだ。 「日本人だ!」。 男の発音では「ヤバーニ!」
手の先は、撮影している、佐藤さんの方を向くことはない。 動画を見ても。
男は、山本さんを指差したと、想像できる。
その時の、山本さんの映像には、この瞬間。 男は、右に動いている。
直ぐ後、佐藤さんが、逃げろとか、叫ぶ。 山本さんは佐藤さんの後ろの方に動く。
この写真でも、山本さんは、右後ろではなく、左後ろにいたと分かる。
佐藤さんが、山本さんのビデオカメラの画面から、右に消える直前。
山本さんも動いているので、画像がボケる。
でも、逃げながら、カメラは前を撮影している。
佐藤さんが、山本さんのカメラから消えた瞬間、銃声が鳴る。
それが、下の画面。
相手が使用していると想像できる機関銃、AK-47の、弾丸の速さは、秒速730㍍。
音速の2倍を越える。
と云うことは、銃声が聞こえた下の画面の時には、もう、銃弾は彼女に届いていた。
最初の1発が、右ひじか、首なのかな分からないが。
※ カメラを狙ったように、想像できるが。
上の写真の直後、カメラは下を向き、撮影は停まる。
黒く写ってるのは、山本さんの防弾チョッキ。
山本さんの最後の場面は、これで、ほぼ正確と思う。
4発が、一瞬のうちに、彼女を目がけて、発射された。
その後、彼女のカメラを拾って、撮影した反政府軍の兵士がいた。
映像の中に、彼女のことを言ってる声もある。
また、撃たれた人の、絶叫の叫びもある。
※ この動画は、報道で流れているので、見た人が多いと思う。
下の文は、山本さんの言葉。
目標について、語っている。
私は旅に出て、目標に向かって動いているのではなかった。
どこまでも行くぞって云う気持ちだけで、十分だった。
だから、彼女の言ってることに、共感できるかな。
一番下の文を読むと、そうなんだな、と思う。
※ この部分は、誰が書いた文と押されればいいのか。 池田、と云う人でいいのか。
山本さんは、変わり果てた姿で、自宅に戻った。
パートナーの佐藤さんは、彼女は長い取材の旅に出かけた、と言っていた。
【停泊場所】 小学校の4年までの5年間、中川町国府にいた。
住んでいた家があった場所の、すぐ近く。
【明日の予定】 国府を歩く。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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中川町(当時は中川村)の志文内にいる、兄を訪ねるのが目的。
兄は、診療所の医師。
今は、診療所跡が、茂吉小公園となっていた。
山本美香さんの最後の場面が、ほぼ正確に分かりました。
※ ※ ※ ※
志文内の場所は、今は、共和と呼ばれていた。
訪れたのは、昭和7年の8月14日。 茂吉、50才。
弟の高橋四郎兵衛が、同行している。
鉄道で、佐久駅まで来た。 ※ 旭川~稚内間の宗谷本線は、大正の終わり頃開通。
佐久駅から、アベシナイ川に沿っておよそ15キロを歩いた。
4時間かかっており、茂吉はこう書いている。
「豪雨ノナカ草鞋ハキ徒歩ニテ」 ※ 昭和に入っているのに、草鞋(わらじ)なんだろうか。
私は、美深側から向かったら、途中通行止めの表示があり、佐久から入った。
※ 私が中川町にいた頃、この共和方面は、板谷と呼んでいた。
中川町の一番の山奥、のイメージを持っていた。
診療所があったところに、茂吉小公園はあった。
今は、数軒の家が残る、小さな集落の真ん中。

歌碑があった。
「さよなかと 夜は過ぎつつ 志文内の 山のうへ照らす 月のかげのさやけさ 」
※ さよなか→小夜中→最夜中(さよなか)→最も夜中で、真夜中の意味。
「さ夜中と 夜は更けぬらし 雁が音の 聞こゆる空を 月渡る見ゆ」(柿本人麻呂)の歌がある。
※ 月のかげ→月の形、月の姿
※ 清(さや)けさ→清く澄んで、はっきりしている様子

茂吉の歌の師は、伊藤左千夫。 野菊の墓を書いた人。 昔読んだ。 悲しい別れの話。
5日間いて、短歌を47首つくった。
「 あをあをと おどろくばかり 太き蕗(ふき)が 澤をうづめて 生ひしげりたる 」も詠っている。

茂吉の歌は何も知らなかったが、今回、上の2つをおぼえようと思う。
茂吉の兄の、守谷富太郎は、拓殖医として志文内に来ていた。
※ 当時、拓殖医制度というのがあって、補助金を交付して、医師の開業や定着を図る施策を行っていた。

昭和3年に、富太郎は志文内に来る。 熊が出るこんな山奥に、よく来た。
※ 魚を釣って遊ぶのが好きだったよう。
冬になったら、マイナス30℃は、あたりまえ。

志文内に奥さん方がこれだけいると云うことは、当時は、大きな集落だった。

昔の人の表情。 中央が、富太郎。
明るい表情の人は、1人もいない。 みんな真面目に。 間違っても、ピースの雰囲気ではない。

中川町では、短歌フェスティバルをやっている。 入賞したのが展示してあった。
大きな蕗(ふき)を~~の歌のフキを、昔何度か見た。
中に水があったら、虫は入れない。 美味しいフキ。

旧 中川町立共和小中学校。 平成3年に閉校。 この校舎いっぱいに、子供たちがいた時代があった。

こんな様子。 市街地からここまで、酪農を営んでいる農家が、点在していた。


茂吉は、志文内に5日間いて、その後稚内、樺太へと向かう。
※ 茂吉の子どもに、北 杜夫(きた もりお)がいる。
北 杜夫の子供に、斎藤由香という作家がいる。
※ 茂吉について調べていたら、彼は、非常に戦争に協力的な作家と知った。
彼の価値観では、平和とか、人々の幸せとかが、一番ではなかった。
深入りしなくてもいい作家、という感じになってしまった。
この後、戻る。
ここは、旧佐久小学校。 平成11年の3月に閉校。

グランド前に、古い門があった。
この学校に、小学校の3年か4年の2月頃、そろばんの試験を受けに来た。
歌内の駅まで歩いて、汽車に乗って佐久駅まで来た。 そして、ここまで歩いた。
先生と何人かの子供と一緒に。
私は、7級と8級を受けた。 7級に受かって、8級に落ちた。
※ 8級の割り算が0点だった。
答えは全て2ケタだったが、私は、305のように、間に0を入れてしまった。
この時の賞状は今もある。
賞状は、3月の雪解けの頃、先生からもらった。
帰り道、丸めて、友達とチャンバラをした。
賞状は、馬糞の転がっている雪道に落ちた。
その時の黄色い染みが、今でも汚れたように付いている。
試験が終わって、裏山のスキー場で、ジャンプを見た。
10㍍以上は、飛んでいた。 手をまわしてる人がいたように、記憶している。
遠い昔の思い出。

佐久駅に向かう途中、橋の上から、天塩川を撮った。
子供の頃、天塩川はこわかった。 決して、近づかなかった。

佐久駅。

※ 昔の佐久駅は、こう。 北海度新聞のデータベースからお借り。

佐久の駅前。
私の小学校1年の時の担任は、石原幸子(さちこ)先生。 ※ 結婚して、赤間幸子。
実家は、佐久にあった。 今、75才くらいでしょうか。 ずっと会っていない。

この後、買い物して、私の家があった国府に向かった。
シリアでの、山本美香さん最後の場面について、新たに分かったことがあるので書きます。
山本さんのパートナーの佐藤さんは、彼女は自分の右後ろにいたと言った。
変だなと、思っていた。
彼は、右に逃げるのだが、そうしたら、彼女の前を逃げることになる。
でも、彼女が撮影した映像には、写っていなかった。
下は、山本さんの撮影。
少し前に、男の人。 その右に、白い車。 その右に、男の集団。

佐藤さん映像が、後(のち)に、報道で流れた。
下は、それの一場面。
手前の男の人と白い車の間に、空間が生まれた。

上の2枚の写真から、山本さんは佐藤さんの左にいたことが分かる。 ※ 写真は、映像から切り取ったもの。
すぐ上の写真の右端に、1人の男が見える。 この男が、この後叫ぶ。
銃弾発射まで、あと、2秒ない。
下の写真。
男が叫んだ。 「日本人だ!」。 男の発音では「ヤバーニ!」
手の先は、撮影している、佐藤さんの方を向くことはない。 動画を見ても。

男は、山本さんを指差したと、想像できる。
その時の、山本さんの映像には、この瞬間。 男は、右に動いている。

直ぐ後、佐藤さんが、逃げろとか、叫ぶ。 山本さんは佐藤さんの後ろの方に動く。
この写真でも、山本さんは、右後ろではなく、左後ろにいたと分かる。

佐藤さんが、山本さんのビデオカメラの画面から、右に消える直前。
山本さんも動いているので、画像がボケる。
でも、逃げながら、カメラは前を撮影している。

佐藤さんが、山本さんのカメラから消えた瞬間、銃声が鳴る。
それが、下の画面。
相手が使用していると想像できる機関銃、AK-47の、弾丸の速さは、秒速730㍍。
音速の2倍を越える。
と云うことは、銃声が聞こえた下の画面の時には、もう、銃弾は彼女に届いていた。
最初の1発が、右ひじか、首なのかな分からないが。
※ カメラを狙ったように、想像できるが。

上の写真の直後、カメラは下を向き、撮影は停まる。
黒く写ってるのは、山本さんの防弾チョッキ。

山本さんの最後の場面は、これで、ほぼ正確と思う。
4発が、一瞬のうちに、彼女を目がけて、発射された。
その後、彼女のカメラを拾って、撮影した反政府軍の兵士がいた。
映像の中に、彼女のことを言ってる声もある。
また、撃たれた人の、絶叫の叫びもある。
※ この動画は、報道で流れているので、見た人が多いと思う。
下の文は、山本さんの言葉。
目標について、語っている。
私は旅に出て、目標に向かって動いているのではなかった。
どこまでも行くぞって云う気持ちだけで、十分だった。
だから、彼女の言ってることに、共感できるかな。
一番下の文を読むと、そうなんだな、と思う。
※ この部分は、誰が書いた文と押されればいいのか。 池田、と云う人でいいのか。

山本さんは、変わり果てた姿で、自宅に戻った。
パートナーの佐藤さんは、彼女は長い取材の旅に出かけた、と言っていた。
【停泊場所】 小学校の4年までの5年間、中川町国府にいた。
住んでいた家があった場所の、すぐ近く。

【明日の予定】 国府を歩く。
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(2008年4月~2010年9月までの記事)

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