一日雨で、歩けなかった。
※ 歩くのは、明日に。 学校跡まで、往復。 天気は、大丈夫のよう。
昔のことを思い出しながら、少しだけ、車で走った。
少しだけ歯車がずれていたら、山本美香さんは死なずに済んだのに、と思った。
今更、遅いけど。
※ ※ ※ ※
昨日から、ここに車を停めている。
国道から、600㍍程入った。 国道は、私のずっと後ろに。
家は、左奥にあった。
左の方。 ○の辺りにあった。 ブロック造りの平屋の小さな家。
昭和31年の秋から、昭和36年の3月まで、4年半程住む。
国道の方は、このように。 昔は、歩くだけの道だった。
馬車とかは、別の道を通っていた。
上の写真の右側。 ○の辺りは、昔は、湿原だった。 エゾカンゾウが咲いていた。
家のあった方から撮影。 左端に車。 中央の○の方角に、小学校。
右の○は、国道への出口。
国道の近くに、郵便受けがあった。 新聞と郵便を取りに行くのは、私の仕事。
最初の半年ほど、地図の印の所に住んだ。
向こうから来た。 家は、右の方に。
右の方は、こうなんだけど、正確な場所は分からない。 ここから、100㍍か200㍍入ったところ。
この場所の、後ろの方が、上の写真の場所。
道の突き当たりを左に行くと、学校の方に行く。
右に行くと、山道を通って、歌内の駅に行く。 今は、途中から使っていない道。
右に少し行ったら、昔は、少しだけ水田があった。
※ 現在の日本最北の水田は、日本海側の遠別町にあるそう。
この場所は、遠別より更に北になる。
もしかしたら、当時は、日本最北だったかもしれない。
天気が悪いので、バッテリーに充電されていない。
少し走るかとなって、中川のセイコーマートまで、少しの買い物に。 ゴミも捨てて。
帰りに、歌内の駅に寄った。
昔は立派な駅。
※ ネットで写真を探したが、見つからない。
図書館がやっていたら行こうと思ったが、休みだった。
図書館に行けば、きっと見つけられる。
国府小学校の写真も、きっとある。 図書館は、明日月曜も休み。
この駅で汽車を待つ時、汽車が恐ろしかったので、いつも、ホームの一番後ろにいた。
留辺蘂町まで往復したことがある。
何時間外の景色を眺めても、飽きることはなかった。
放浪の旅にあこがれる、スタートかもしれない。
駅前の様子。 昔は賑やかだった。 歌内には、小学校も中学校もあった。 今は、どっちもない。
この店で、凧を買ったことがある。
この場所は、天塩川の国府側。 橋を渡ったら、歌内。
昭和15年5月6日、天塩川の渡船が、ひっくり返った。
乗っていた児童17人と父兄2人全員が流されて亡くなった。
下は、その遭難碑。
橋が出来たのは、昭和35年。 4年生の時だった。
戻ってきた。 遠くから家があった場所を見ると、こう。
朝は見えなかったペンケ山が見えた。 いつも眺めた山。
思い出をいくつか。 (思い出すままに)
○ 家で飼っていたのは、馬、牛、ヒツジ、ヤギ、ニワトリ(100羽)、猫。
卵は、おふくろが中川の市街まで売りに行った。
○ 家の軒下に、いつも、松葉ボタンを植えていた。 ツメキリソウと呼んでいた。
○ 家の近くに小川があって、トゲウオをすくって遊んだ。 ザリガニもいた。
○ 最初の家の近くには、熊が出ると言われていた。
姉が2年生だったので、親は、登下校のとき心配していた。
○ 電気が無いので、ランプ。 ランプのホヤを磨いた。
○ ラジオは聴けた。 針金のような有線で、どこかとつながっていた。
○ 冬は、スキーで通っていた。 道でなく、最短距離で真っ直ぐ。
○ 鴨(かも)の卵を見つけて、焼いて食べたことがある。
○ ある家で、汁粉を御馳走になった。 牛乳が入っていた。
今でも、牛乳の入った汁粉が大好き。 たま~に、作る。
○ トマトやカンロを育てた。 毎日必ず見に行った。 大きくなったかなって。
○ トノサマバッタを山ほど捕まえた。 それ以来、バッタは好きでなくなった。
○ ラーメンを最初に食べたのは、1年生の時。 中川の、にこにこ食堂。
かん水のにおいがした。 ちりちり麺。 忘れられない味。
同じ味が作れたら、今の時代でも、売れると思う。
似た味のラーメンは、食べたことない。
○ 国府にいた時、荒馬という相撲取りを応援していた。 中川町の出身。(佐久かな)
荒馬の他に、木ノ村と名乗った時もあった。 十両には上がれなかった。
荒馬は、のちのラッシャー木村。 プロレスラー。
○ ある時、よその家でご飯を御馳走になった。
それは、冷たい味噌汁をかけたご飯。 具はジャガイモだけ。
それを思い出して、今でも、同じご飯を食べることがある。
○ 留辺蘂のおばさんが、動物の図鑑を送ってくれた。
本は、それしかなかった。 ボロボロになるまで読んだ。
そこそこ勉強が分かるようになったのは、この本のお陰。 感謝している。
○ 風呂は、木で出来ていた。 桶(おけ)の感じの。
あれから、同じ風呂に入ったことない。 見たことはあるけど。
この辺でお終い。 明日は、学校の思い出。
こうだったら、山本美香さんは死なずに済んだかもしれない、と思うことが2つ。
下の写真。 彼女はビデオカメラを指差している。
転んで、カメラをぶつけたと、佐藤さんに言っている。
彼女は、壊れたかもしれないと、心配している。
佐藤さんは、大丈夫、俺のあるから、と言った。
でも、カメラは壊れてはいなかった。
この後撮影に使う。
使っていたために、日本のジャーナリストと見破られ、銃撃されてしまう。
もし、この時壊れていれば、どうなったか分からない。
彼女は、ビデオカメラでの撮影はしていなかった。
撃たれなかったかも知れない。
彼女が銃撃された日、ジャーナリスト2人が政府側に捕まってしまう。
山本さんが銃撃された日から、ジャーナリストへの弾圧が激しくなった。
山本さんと佐藤さんの、シリアに入る予定が、もう1日遅かったら、上の情報が耳に入った。
そうしたら、危険と感じて、20日にシリアに入るのは止めたかもしれない。
いくら用心しても避けきれない危険はある。
運命の歯車がどう回るかは、運次第の感じがする。
【停泊場所】 昨晩に同じ
【明日の予定】 学校跡まで歩いた後、北に向かう。 途中から、海に出ようかと。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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※ 歩くのは、明日に。 学校跡まで、往復。 天気は、大丈夫のよう。
昔のことを思い出しながら、少しだけ、車で走った。
少しだけ歯車がずれていたら、山本美香さんは死なずに済んだのに、と思った。
今更、遅いけど。
※ ※ ※ ※
昨日から、ここに車を停めている。
国道から、600㍍程入った。 国道は、私のずっと後ろに。
家は、左奥にあった。

左の方。 ○の辺りにあった。 ブロック造りの平屋の小さな家。
昭和31年の秋から、昭和36年の3月まで、4年半程住む。

国道の方は、このように。 昔は、歩くだけの道だった。
馬車とかは、別の道を通っていた。

上の写真の右側。 ○の辺りは、昔は、湿原だった。 エゾカンゾウが咲いていた。

家のあった方から撮影。 左端に車。 中央の○の方角に、小学校。
右の○は、国道への出口。
国道の近くに、郵便受けがあった。 新聞と郵便を取りに行くのは、私の仕事。

最初の半年ほど、地図の印の所に住んだ。

向こうから来た。 家は、右の方に。

右の方は、こうなんだけど、正確な場所は分からない。 ここから、100㍍か200㍍入ったところ。

この場所の、後ろの方が、上の写真の場所。
道の突き当たりを左に行くと、学校の方に行く。
右に行くと、山道を通って、歌内の駅に行く。 今は、途中から使っていない道。
右に少し行ったら、昔は、少しだけ水田があった。
※ 現在の日本最北の水田は、日本海側の遠別町にあるそう。
この場所は、遠別より更に北になる。
もしかしたら、当時は、日本最北だったかもしれない。

天気が悪いので、バッテリーに充電されていない。
少し走るかとなって、中川のセイコーマートまで、少しの買い物に。 ゴミも捨てて。
帰りに、歌内の駅に寄った。
昔は立派な駅。
※ ネットで写真を探したが、見つからない。
図書館がやっていたら行こうと思ったが、休みだった。
図書館に行けば、きっと見つけられる。
国府小学校の写真も、きっとある。 図書館は、明日月曜も休み。
この駅で汽車を待つ時、汽車が恐ろしかったので、いつも、ホームの一番後ろにいた。
留辺蘂町まで往復したことがある。
何時間外の景色を眺めても、飽きることはなかった。
放浪の旅にあこがれる、スタートかもしれない。

駅前の様子。 昔は賑やかだった。 歌内には、小学校も中学校もあった。 今は、どっちもない。
この店で、凧を買ったことがある。

この場所は、天塩川の国府側。 橋を渡ったら、歌内。
昭和15年5月6日、天塩川の渡船が、ひっくり返った。
乗っていた児童17人と父兄2人全員が流されて亡くなった。
下は、その遭難碑。
橋が出来たのは、昭和35年。 4年生の時だった。

戻ってきた。 遠くから家があった場所を見ると、こう。

朝は見えなかったペンケ山が見えた。 いつも眺めた山。

思い出をいくつか。 (思い出すままに)
○ 家で飼っていたのは、馬、牛、ヒツジ、ヤギ、ニワトリ(100羽)、猫。
卵は、おふくろが中川の市街まで売りに行った。
○ 家の軒下に、いつも、松葉ボタンを植えていた。 ツメキリソウと呼んでいた。
○ 家の近くに小川があって、トゲウオをすくって遊んだ。 ザリガニもいた。
○ 最初の家の近くには、熊が出ると言われていた。
姉が2年生だったので、親は、登下校のとき心配していた。
○ 電気が無いので、ランプ。 ランプのホヤを磨いた。
○ ラジオは聴けた。 針金のような有線で、どこかとつながっていた。
○ 冬は、スキーで通っていた。 道でなく、最短距離で真っ直ぐ。
○ 鴨(かも)の卵を見つけて、焼いて食べたことがある。
○ ある家で、汁粉を御馳走になった。 牛乳が入っていた。
今でも、牛乳の入った汁粉が大好き。 たま~に、作る。
○ トマトやカンロを育てた。 毎日必ず見に行った。 大きくなったかなって。
○ トノサマバッタを山ほど捕まえた。 それ以来、バッタは好きでなくなった。
○ ラーメンを最初に食べたのは、1年生の時。 中川の、にこにこ食堂。
かん水のにおいがした。 ちりちり麺。 忘れられない味。
同じ味が作れたら、今の時代でも、売れると思う。
似た味のラーメンは、食べたことない。
○ 国府にいた時、荒馬という相撲取りを応援していた。 中川町の出身。(佐久かな)
荒馬の他に、木ノ村と名乗った時もあった。 十両には上がれなかった。
荒馬は、のちのラッシャー木村。 プロレスラー。
○ ある時、よその家でご飯を御馳走になった。
それは、冷たい味噌汁をかけたご飯。 具はジャガイモだけ。
それを思い出して、今でも、同じご飯を食べることがある。
○ 留辺蘂のおばさんが、動物の図鑑を送ってくれた。
本は、それしかなかった。 ボロボロになるまで読んだ。
そこそこ勉強が分かるようになったのは、この本のお陰。 感謝している。
○ 風呂は、木で出来ていた。 桶(おけ)の感じの。
あれから、同じ風呂に入ったことない。 見たことはあるけど。
この辺でお終い。 明日は、学校の思い出。
こうだったら、山本美香さんは死なずに済んだかもしれない、と思うことが2つ。
下の写真。 彼女はビデオカメラを指差している。
転んで、カメラをぶつけたと、佐藤さんに言っている。
彼女は、壊れたかもしれないと、心配している。
佐藤さんは、大丈夫、俺のあるから、と言った。
でも、カメラは壊れてはいなかった。
この後撮影に使う。
使っていたために、日本のジャーナリストと見破られ、銃撃されてしまう。
もし、この時壊れていれば、どうなったか分からない。
彼女は、ビデオカメラでの撮影はしていなかった。
撃たれなかったかも知れない。

彼女が銃撃された日、ジャーナリスト2人が政府側に捕まってしまう。
山本さんが銃撃された日から、ジャーナリストへの弾圧が激しくなった。
山本さんと佐藤さんの、シリアに入る予定が、もう1日遅かったら、上の情報が耳に入った。
そうしたら、危険と感じて、20日にシリアに入るのは止めたかもしれない。

いくら用心しても避けきれない危険はある。
運命の歯車がどう回るかは、運次第の感じがする。
【停泊場所】 昨晩に同じ
【明日の予定】 学校跡まで歩いた後、北に向かう。 途中から、海に出ようかと。
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

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