よかったですよ。
ニーナさんが歌う「百万本のバラ」。
上手でした。
ニーナさんの声は、聴いてて、とっても心地いいものでした。
「大好きなあなた」と云う曲も、歌ってくれました。
初めて聴く曲。 ( ネット上には無い曲です。)
これも、いいですよ。
※ ※ ※ ※
ニーナさんは、最果ての町、稚内にいます。
お店は、副港市場の前。
いくつかお店があって、まとめて、波止場横町。
※ ここから少し、私的な部分。
Tさんと、7時に待ち合わせしていた。
ところが、6時頃、時間があるから家に遊びにおいでって、車で迎えに来てくれた。
ビールを飲んで、お寿司を御馳走になってしまった。 ウニもたくさん。
奥さまと3人で、稚内のことを、おしゃべり。
Tさんは、Aさんと云う人を誘った。
私は、大学以来会っていない。
7時半にお店の前に。 奥さまが送ってくれた。
Aさんがやってきた。 不思議なもんで、昔の面影は、ちゃんと残っていた。
少し早口で、大きな声の話し方は、同じだった。
ロシア料理、ペチカ。 店長は、ニーナさん。
お店は混んでいた。
外で15分程、空くのを待った。
店の中には、ニーナさんと思われる人が動いていた。 すぐに、分かった。
今日の稚内は、夜になっても、むし暑い。
外で、風に当たっていたら、丁度いい。
この暑さは、稚内の人達に、これで暑い日はもう十分ですね、と言ってるようだ。
ロシア料理。 食べたことないものばかり。
下のは、ロシアの餃子。 焼いたのを注文。
酒は、最初はビール。
※ 飲んだのは、バルチカビール。 ビール会社「バルチカ」のビール。
本社は、サンクトペテルブルク。
(バルチカ、と云う言葉は、バルト海のバルトと、関係ありそう)
ハバロフスクでも、作られている。 (アムール川沿いにある町)
度数を選べるのが、特徴。 注文したのは、4%程の度数の低いやつ。
飲みやすく、くせが無い。 美味しい。
その後は、のどが焼けるようなウォッカを、水を飲みながら、飲んだ。
8時半過ぎ、ニーナさんは、歌の準備をした。
この時間になったら、いつも歌うよう。
最初、短い曲を歌った。 この時に、写真を撮って、動画の準備をした。
※ ニーナさんに、了解をいただいて。 YouTubuに載せることも。
歌詞は見ない。 当たり前か。 彼女は、若い時から歌っている。
ギターの音が、はっきりしている、という印象を持った。
※ 追記 ニーナさんの使用しているギターは、フラメンコギター。(31日に、ニーナさんに聞いた)
これは、ナイロン弦のアコースティックギターの一種。
明るくて、立ち上がりが鋭く、歯切れの良い音色を特徴とする。(Wikipedia)
余計な話・・・私のミニアコースティックギターも、ナイロン弦。 私が勝手に、張り替えた。
やわらかい音が、好きなので。
※ お客さんの中には地元の人もいて、ニーナさんの歌声を聴きなれてる人がいます。
その人は、歌を聴きながら、お話しを続けています。
でも、歌が始まったら、そんなに気になりません。
ニーナさんと、百万本のバラについて、少し話していた。
そんなことがあって、歌ってくれた。
次に歌ったのが、「大好きなあなた」。 遊び心いっぱいの歌です。
素晴らしい歌だけど、日本には伝わっていない。
※ 題名だけ、「おけら」という音楽のサイトに載っていた。 他は、ない。
キュートな、歌い方ですよ。
いろんな料理を注文した。 酒も色々。
歌の後、仕事の合間に、ニーナさんは、私の質問に答えてくれた。
ここからは、ニーナさんを紹介。
ニーナさんのお父さんは、日本人。 (満州鉄道の調査部にいた)
お母さんは、ロシア人。 (ニーナさんは、ハーフロシアンと、自分を言っている)
ニーナさんは、ハルビンで生まれた。
※ ニーナさんの家系は、母の父の代から、ハルビンに暮らす。
母の父は、満鉄の技師として、ロシアからやってきた。
ニーナさんは、祖父がやってきたのは、1890年代と言った。
このことについて、調べてみた。
この時はまだ、ロシア帝国時代。
ロシア帝国は、1898年に、満州横断鉄道の建設を始めた。
高い教育を受けた技師として来ているから、この1898年に来たと考えていい。
1917年にロシア革命。
※ この時期に、外国に出た人は、白系ロシア人と呼ばれる。
※ スタルヒンの家族は、革命の後に逃げたので、白系ロシア人。
ニーナさんは、白系ロシア人ではない。(ニーナさんも、そう考えている)
ハルビンは、下の地図。
※ スタルヒン家族も、何年か、ハルビンにいた。 一緒にいた時代がある。
※ 稚内と、緯度が、そんなに変わらない。
※ 日ハム、旭川スタルヒン球場で、大勝。 1イニング、11点。 市民の応援が届いた。~旭川市~ 他 (2012/8/21)
ニーナさんのお母様。 美しい人です。
名前は、ガールムシェワ・エフゲニヤ・ニコラエブナ。
※ ニーナさんの話では、ニコラエブナ、というのは、よくあるそう。
そう言えば、アナスタシア・ニコラエブナ、という人がいた。 最後のロシア皇帝の、第4皇女。
※ ここからの写真は、アルバムの写真を撮影させていただいた。
アーラ・プガチョワ。 この人が、旧ソ連で、最初に「百万本のバラ」を歌う。
ここで、ニーナさんが、どうして、百万本のバラを歌うことになったのか。
ニーナさんは、若い頃、水星社という所に所属していた。
水星社は、ロシアのヒット曲を探していた。
その時に、百万本のバラを見つけた。
日本で売り出すことのできる権利(著作権)を買い取った。
歌ったのは、ニーナさん。
※ 買い取ってからの1年間、歌ったのはニーナさんだけ。
会社は、他の人には、歌わせなかった。
※ ニーナさんは、1978年から、NHKのロシア語講座の今月の歌で、色んな歌を歌い始めていた。
レコードデビューは、1982年。
1983年に、百万本のバラを、ロシア語と日本語で発売。
この時の歌は、YouTubuには、ない。 ※ 誰か載せたらいいのに。
1984年に、岩谷時子さんの訳詞で、小田陽子さんが歌う。
サビのロシア語の部分の発音が難しいということで、ニーナさんが、小田さんの発音に関わったと云う。
この小田陽子さんは、百万本のバラの原曲の、「マーラが与えた人生」も歌っている。
歌が生まれた、ラトビアに行っている。
加藤登紀子のお父さんは、ニーナさんの歌が、大好きだった。
ニーナさんのレコードを、たくさん売ってくれた。
※ 実は、親同士は、おトキさんのデビュー前から親しい関係。
そんなことで、ニーナさん、おトキさんを含めた、家族ぐるみで親しくなっていく。
※ 現在も、親しくお付き合い。
※ 加藤さんの家族も、ハルビンにいた。 おトキさんは、ハルビンで生まれている。
1987年に、加藤登紀子さんが、百万本のバラを歌って、より、全国的に広めることになる。
1987年の7月に、プガチョワさん夫妻が、初めて、日本に来る。
おトキさんが、日比谷の野外音楽堂で歌うことになり、そのゲスト出演のために来た。
プガチョワさんは、おトキさんを通して、ニーナさんを知った。
当時、ニーナさんは、銀座に店があった。
下の写真は、ニーナさんのお店で撮影。
左は、ニーナさん。
右は、アーラ・プガチョワ。 旧ソ連で、百万本のバラを最初に歌った人。
旧ソ連で最初、日本で最初、その2人が並んでいる。
男の人は、プガチョワさんの当時の旦那様。 ニーナさんは、いつも、ちょっと控え目な表情。 それがいい。
※ 上の写真の、後ろの絵は、忘れえぬ女(ひと)。(私の絵を撮影) 忘れえぬ女 (イワン・クラムスコイ) 他 (2009/07/07)
ニーナさんは、独学でロシア語を学んだ。
お母さんは、もちろん話せたが、ニーナさんに教えるのが、大変だったよう。
ハーフロシアンの友人の紹介で、近くに住んでいるグルジア人女性と知り合いになる。
それがきっかけで、1年半、グルジアに行って暮らすことになる。(2005年~)
※ グルジアは、「百万本のバラ」の唄で、バラを贈った画家、ピロスマニの国でもある。
※ 場所は、シリアの北にトルコ、トルコの北にある。
※
ピロスマニはマルガリータに、バラを贈るんだが、その舞台は、ソチ。 1894年のこと。
※ この時のピロスマニの年齢は、32歳と分かっている。
でも、マルガリータの年齢が、どうしても分からない。
1969年に、彼女は、ピロスマニの描いた上の右の絵を、パリで見ている。(と言われる)
出会った年から、75年経っている。 15歳から、20歳の間か。
分かる人がいたら、教えてほしい。
ソチは、2014年の冬季オリンピックが、開催される町。
ソチは、ソ連時代、保養地として整備されていった。
※ グルジアでは、バラ革命と云う、無血の革命があった。
このバラは、アンネのバラ。
( つぼみは深紅、花が開き始めると、黄色から淡いピンクへ変化。)
2006年の秋に、1年半ぶりに、日本に戻った。
ニーナさんから見た東京は、人が混み入っていた。
北海道を旅した。 道東に住むつもりでいた。
息子さんが稚内にいたので、遊びに行ったみた。
そうしたら、稚内を気に入ってしまった。
それで、2006年の秋から、稚内に拠点を移す。
あっという間に、地域に溶け込んで、観光の面でも、大きな役割を果たしている。
吉永小百合の映画のロケが、稚内であった。
ニーナさんの生き方、輝きは、吉永小百合のそれと重なった。
映画、音楽と、住む世界は違っても。
ニーナさんにお会いして、今日、そんなことを感じた。
間もなく、お店が閉まる、午後11時。
歌を聴いて、ニーナさんとお話しできた。
美味しいものをいっぱい食べて、そして飲んだ。
男3人で、懐かしい話も、した。
月のいい、晩だった。
※ 今日のブログは、ニーナさんの携帯のメールに、送ることになっていた。
でも、量が多いので、印刷して、30日の晩に、ニーナさんに渡す。
31日の晩に、直す所を、教えてもらう。
※ 追記 ニーナさんにお会いし、変更する部分を教えていただいた。
31日の深夜現在、一応、修正は、完了しています。
※ 追記 下の動画は、誰が歌っているか、分からない。 偶然、見つけた。
もしかしたら、ニーナさんかもしれない。 声質と歌い方が、似てる感じがする。
ある人が、コメントで、
テレビの「ロシア語会話」のなかの今月の歌で流れていたものではないでしょうか、と言っている。
ニーナさんに確認しなければならない。
この部分、ニーナさんに渡していない。
もしそうだったら、ニーナさんが、最初に歌った、百万本のバラになる。
貴重な音源。 (念のため、保存した)
※ 追記 ニーナさへの確認は出来ていないが、私は、歌っているのは、ニーナさんに間違いないと思っている。(9月1日朝)
上を聴いた時、冴木杏奈と云う人に発声が似ていると思った。 それが、第一印象。
そして、ニーナさんのCDを1日の朝に、聴いた。
ペチカでは気づかなかったが、CDから流れてきた声は、冴木杏奈の声の出し方に、とても似ていた。
冴木杏奈が、ニーナさんに似ていた訳だけど。 ※ 冴木杏奈 は、旭川出身。
ニーナさんに、間違いないと思っています。
※ 追記 確認できました。(9月2日朝)
ニーナさんから、電話をいただきました。
間違いなく、ニーナさんでした。
ロシア語の発音を正確に、歌おうとしたそうです。
ニーナさんは、YouTubeに、この動画があることは、知りませんでした。
いろんな話をしました。 40分程。
ニーナさんの生い立ちを含めて。
メモした物は、整理しておきます。
ブログには書きませんが、1つのドラマにまとめることが出来る内容です。
細かな点の修正も終わり、これで一段落です。
たくさんの情報を、ニーナさんから頂きました。
感謝します。
※ このブログは、インターネットで、「稚内市 ニーナ」で検索すると、9月2日現在、一番上に出てきます。
多くの人に、読んでいただいたおかげです。
いつまでも、読まれることを願います。
私は、今年の3月7日に、九州の最南端に近い、かのやばら園に行きました。
その日に、百万本のバラを調べました。
ニーナさんを知りました。 そして、こう書きました。
彼女は現在、最北の稚内で、ロシア料理店を経営している。
稚内に行ったら、寄ってみましょうか。
今年の夏は、稚内そして礼文島でもいい。 花の浮島礼文島ですから。
この時の願いが、叶いました。
またいつか、ニーナさんのお店「ペチカ」に、お邪魔します。
そして、ペチカで、心を温めてもらいます。
【動画】 この動画は、9月1日に撮影したものです。
ペチカの、すぐ側を通ります。
ニーナさんが歌う、「18才」が流れます。
訳詞を作ったのは、ニーナさん本人です。
※ 「ロシア民謡と弾き語りの夕べ ’07」の中の1曲。
黒い瞳など、聴いて、いいな~ってのが、詰まっている。 (い、を、に に、したいところ)
お話しも、なかなか、面白い。
CDは、ペチカで買うことが出来ます。
※ このCDを聴いた時、上の動画は、ニーナさんに間違いない、と思いました。
【その他】 ニーナさんは、稚内観光マイスターの資格を持っています。
また、「ふるさと稚内」という曲の作詞・作曲をし、歌っています。
ふるさと稚内(YouTybe)
【関連ブログ】 一日雨でした。 かのやばら園を少しだけ。~鹿屋市~ 百万本のバラ 「ラトビアで、ソ連で、日本で最初に歌った人達」 (2012/3/7)
高さ68㍍の吊橋から見る、神川大滝 小滝は裏見の滝 ~錦江町~ マーラが与えた人生(百万本のバラの原曲) (2012/3/8)
南大隅町を散策 ~島泊の磨崖仏は山奥だった~ 「マーラが与えた人生」と「百万本のバラ」、まとめ (2012/3/9)
【停泊場所】 稚内副港市場の駐車場
【明日の予定】 市内の散策
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)
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ニーナさんが歌う「百万本のバラ」。
上手でした。
ニーナさんの声は、聴いてて、とっても心地いいものでした。
「大好きなあなた」と云う曲も、歌ってくれました。
初めて聴く曲。 ( ネット上には無い曲です。)
これも、いいですよ。
※ ※ ※ ※
ニーナさんは、最果ての町、稚内にいます。
お店は、副港市場の前。
いくつかお店があって、まとめて、波止場横町。
※ ここから少し、私的な部分。
Tさんと、7時に待ち合わせしていた。
ところが、6時頃、時間があるから家に遊びにおいでって、車で迎えに来てくれた。
ビールを飲んで、お寿司を御馳走になってしまった。 ウニもたくさん。
奥さまと3人で、稚内のことを、おしゃべり。
Tさんは、Aさんと云う人を誘った。
私は、大学以来会っていない。
7時半にお店の前に。 奥さまが送ってくれた。
Aさんがやってきた。 不思議なもんで、昔の面影は、ちゃんと残っていた。
少し早口で、大きな声の話し方は、同じだった。
ロシア料理、ペチカ。 店長は、ニーナさん。

お店は混んでいた。
外で15分程、空くのを待った。
店の中には、ニーナさんと思われる人が動いていた。 すぐに、分かった。
今日の稚内は、夜になっても、むし暑い。
外で、風に当たっていたら、丁度いい。
この暑さは、稚内の人達に、これで暑い日はもう十分ですね、と言ってるようだ。
ロシア料理。 食べたことないものばかり。
下のは、ロシアの餃子。 焼いたのを注文。

酒は、最初はビール。
※ 飲んだのは、バルチカビール。 ビール会社「バルチカ」のビール。
本社は、サンクトペテルブルク。
(バルチカ、と云う言葉は、バルト海のバルトと、関係ありそう)
ハバロフスクでも、作られている。 (アムール川沿いにある町)
度数を選べるのが、特徴。 注文したのは、4%程の度数の低いやつ。
飲みやすく、くせが無い。 美味しい。
その後は、のどが焼けるようなウォッカを、水を飲みながら、飲んだ。
8時半過ぎ、ニーナさんは、歌の準備をした。
この時間になったら、いつも歌うよう。

最初、短い曲を歌った。 この時に、写真を撮って、動画の準備をした。
※ ニーナさんに、了解をいただいて。 YouTubuに載せることも。

歌詞は見ない。 当たり前か。 彼女は、若い時から歌っている。
ギターの音が、はっきりしている、という印象を持った。
※ 追記 ニーナさんの使用しているギターは、フラメンコギター。(31日に、ニーナさんに聞いた)
これは、ナイロン弦のアコースティックギターの一種。
明るくて、立ち上がりが鋭く、歯切れの良い音色を特徴とする。(Wikipedia)
余計な話・・・私のミニアコースティックギターも、ナイロン弦。 私が勝手に、張り替えた。
やわらかい音が、好きなので。

※ お客さんの中には地元の人もいて、ニーナさんの歌声を聴きなれてる人がいます。
その人は、歌を聴きながら、お話しを続けています。
でも、歌が始まったら、そんなに気になりません。
ニーナさんと、百万本のバラについて、少し話していた。
そんなことがあって、歌ってくれた。
次に歌ったのが、「大好きなあなた」。 遊び心いっぱいの歌です。
素晴らしい歌だけど、日本には伝わっていない。
※ 題名だけ、「おけら」という音楽のサイトに載っていた。 他は、ない。
キュートな、歌い方ですよ。
いろんな料理を注文した。 酒も色々。

歌の後、仕事の合間に、ニーナさんは、私の質問に答えてくれた。
ここからは、ニーナさんを紹介。
ニーナさんのお父さんは、日本人。 (満州鉄道の調査部にいた)
お母さんは、ロシア人。 (ニーナさんは、ハーフロシアンと、自分を言っている)
ニーナさんは、ハルビンで生まれた。
※ ニーナさんの家系は、母の父の代から、ハルビンに暮らす。
母の父は、満鉄の技師として、ロシアからやってきた。
ニーナさんは、祖父がやってきたのは、1890年代と言った。
このことについて、調べてみた。
この時はまだ、ロシア帝国時代。
ロシア帝国は、1898年に、満州横断鉄道の建設を始めた。
高い教育を受けた技師として来ているから、この1898年に来たと考えていい。
1917年にロシア革命。
※ この時期に、外国に出た人は、白系ロシア人と呼ばれる。
※ スタルヒンの家族は、革命の後に逃げたので、白系ロシア人。
ニーナさんは、白系ロシア人ではない。(ニーナさんも、そう考えている)
ハルビンは、下の地図。
※ スタルヒン家族も、何年か、ハルビンにいた。 一緒にいた時代がある。
※ 稚内と、緯度が、そんなに変わらない。
※ 日ハム、旭川スタルヒン球場で、大勝。 1イニング、11点。 市民の応援が届いた。~旭川市~ 他 (2012/8/21)
ニーナさんのお母様。 美しい人です。
名前は、ガールムシェワ・エフゲニヤ・ニコラエブナ。
※ ニーナさんの話では、ニコラエブナ、というのは、よくあるそう。
そう言えば、アナスタシア・ニコラエブナ、という人がいた。 最後のロシア皇帝の、第4皇女。
※ ここからの写真は、アルバムの写真を撮影させていただいた。

アーラ・プガチョワ。 この人が、旧ソ連で、最初に「百万本のバラ」を歌う。
ここで、ニーナさんが、どうして、百万本のバラを歌うことになったのか。
ニーナさんは、若い頃、水星社という所に所属していた。
水星社は、ロシアのヒット曲を探していた。
その時に、百万本のバラを見つけた。
日本で売り出すことのできる権利(著作権)を買い取った。
歌ったのは、ニーナさん。
※ 買い取ってからの1年間、歌ったのはニーナさんだけ。
会社は、他の人には、歌わせなかった。
※ ニーナさんは、1978年から、NHKのロシア語講座の今月の歌で、色んな歌を歌い始めていた。
レコードデビューは、1982年。
1983年に、百万本のバラを、ロシア語と日本語で発売。
この時の歌は、YouTubuには、ない。 ※ 誰か載せたらいいのに。
1984年に、岩谷時子さんの訳詞で、小田陽子さんが歌う。
サビのロシア語の部分の発音が難しいということで、ニーナさんが、小田さんの発音に関わったと云う。
この小田陽子さんは、百万本のバラの原曲の、「マーラが与えた人生」も歌っている。
歌が生まれた、ラトビアに行っている。
加藤登紀子のお父さんは、ニーナさんの歌が、大好きだった。
ニーナさんのレコードを、たくさん売ってくれた。
※ 実は、親同士は、おトキさんのデビュー前から親しい関係。
そんなことで、ニーナさん、おトキさんを含めた、家族ぐるみで親しくなっていく。
※ 現在も、親しくお付き合い。
※ 加藤さんの家族も、ハルビンにいた。 おトキさんは、ハルビンで生まれている。
1987年に、加藤登紀子さんが、百万本のバラを歌って、より、全国的に広めることになる。

1987年の7月に、プガチョワさん夫妻が、初めて、日本に来る。
おトキさんが、日比谷の野外音楽堂で歌うことになり、そのゲスト出演のために来た。
プガチョワさんは、おトキさんを通して、ニーナさんを知った。
当時、ニーナさんは、銀座に店があった。
下の写真は、ニーナさんのお店で撮影。
左は、ニーナさん。
右は、アーラ・プガチョワ。 旧ソ連で、百万本のバラを最初に歌った人。
旧ソ連で最初、日本で最初、その2人が並んでいる。

男の人は、プガチョワさんの当時の旦那様。 ニーナさんは、いつも、ちょっと控え目な表情。 それがいい。

※ 上の写真の、後ろの絵は、忘れえぬ女(ひと)。(私の絵を撮影) 忘れえぬ女 (イワン・クラムスコイ) 他 (2009/07/07)
ニーナさんは、独学でロシア語を学んだ。
お母さんは、もちろん話せたが、ニーナさんに教えるのが、大変だったよう。
ハーフロシアンの友人の紹介で、近くに住んでいるグルジア人女性と知り合いになる。
それがきっかけで、1年半、グルジアに行って暮らすことになる。(2005年~)
※ グルジアは、「百万本のバラ」の唄で、バラを贈った画家、ピロスマニの国でもある。
※ 場所は、シリアの北にトルコ、トルコの北にある。
※


ピロスマニはマルガリータに、バラを贈るんだが、その舞台は、ソチ。 1894年のこと。
※ この時のピロスマニの年齢は、32歳と分かっている。
でも、マルガリータの年齢が、どうしても分からない。
1969年に、彼女は、ピロスマニの描いた上の右の絵を、パリで見ている。(と言われる)
出会った年から、75年経っている。 15歳から、20歳の間か。
分かる人がいたら、教えてほしい。
ソチは、2014年の冬季オリンピックが、開催される町。
ソチは、ソ連時代、保養地として整備されていった。

※ グルジアでは、バラ革命と云う、無血の革命があった。
このバラは、アンネのバラ。
( つぼみは深紅、花が開き始めると、黄色から淡いピンクへ変化。)
2006年の秋に、1年半ぶりに、日本に戻った。
ニーナさんから見た東京は、人が混み入っていた。
北海道を旅した。 道東に住むつもりでいた。
息子さんが稚内にいたので、遊びに行ったみた。
そうしたら、稚内を気に入ってしまった。
それで、2006年の秋から、稚内に拠点を移す。
あっという間に、地域に溶け込んで、観光の面でも、大きな役割を果たしている。
吉永小百合の映画のロケが、稚内であった。
ニーナさんの生き方、輝きは、吉永小百合のそれと重なった。
映画、音楽と、住む世界は違っても。
ニーナさんにお会いして、今日、そんなことを感じた。
間もなく、お店が閉まる、午後11時。

歌を聴いて、ニーナさんとお話しできた。
美味しいものをいっぱい食べて、そして飲んだ。
男3人で、懐かしい話も、した。
月のいい、晩だった。

※ 今日のブログは、ニーナさんの携帯のメールに、送ることになっていた。
でも、量が多いので、印刷して、30日の晩に、ニーナさんに渡す。
31日の晩に、直す所を、教えてもらう。
※ 追記 ニーナさんにお会いし、変更する部分を教えていただいた。
31日の深夜現在、一応、修正は、完了しています。
※ 追記 下の動画は、誰が歌っているか、分からない。 偶然、見つけた。
もしかしたら、ニーナさんかもしれない。 声質と歌い方が、似てる感じがする。
ある人が、コメントで、
テレビの「ロシア語会話」のなかの今月の歌で流れていたものではないでしょうか、と言っている。
ニーナさんに確認しなければならない。
この部分、ニーナさんに渡していない。
もしそうだったら、ニーナさんが、最初に歌った、百万本のバラになる。
貴重な音源。 (念のため、保存した)
※ 追記 ニーナさへの確認は出来ていないが、私は、歌っているのは、ニーナさんに間違いないと思っている。(9月1日朝)
上を聴いた時、冴木杏奈と云う人に発声が似ていると思った。 それが、第一印象。
そして、ニーナさんのCDを1日の朝に、聴いた。
ペチカでは気づかなかったが、CDから流れてきた声は、冴木杏奈の声の出し方に、とても似ていた。
冴木杏奈が、ニーナさんに似ていた訳だけど。 ※ 冴木杏奈 は、旭川出身。
ニーナさんに、間違いないと思っています。
※ 追記 確認できました。(9月2日朝)
ニーナさんから、電話をいただきました。
間違いなく、ニーナさんでした。
ロシア語の発音を正確に、歌おうとしたそうです。
ニーナさんは、YouTubeに、この動画があることは、知りませんでした。
いろんな話をしました。 40分程。
ニーナさんの生い立ちを含めて。
メモした物は、整理しておきます。
ブログには書きませんが、1つのドラマにまとめることが出来る内容です。
細かな点の修正も終わり、これで一段落です。
たくさんの情報を、ニーナさんから頂きました。
感謝します。
※ このブログは、インターネットで、「稚内市 ニーナ」で検索すると、9月2日現在、一番上に出てきます。
多くの人に、読んでいただいたおかげです。
いつまでも、読まれることを願います。
私は、今年の3月7日に、九州の最南端に近い、かのやばら園に行きました。
その日に、百万本のバラを調べました。
ニーナさんを知りました。 そして、こう書きました。
彼女は現在、最北の稚内で、ロシア料理店を経営している。
稚内に行ったら、寄ってみましょうか。
今年の夏は、稚内そして礼文島でもいい。 花の浮島礼文島ですから。
この時の願いが、叶いました。
またいつか、ニーナさんのお店「ペチカ」に、お邪魔します。
そして、ペチカで、心を温めてもらいます。
【動画】 この動画は、9月1日に撮影したものです。
ペチカの、すぐ側を通ります。
ニーナさんが歌う、「18才」が流れます。
訳詞を作ったのは、ニーナさん本人です。
※ 「ロシア民謡と弾き語りの夕べ ’07」の中の1曲。
黒い瞳など、聴いて、いいな~ってのが、詰まっている。 (い、を、に に、したいところ)
お話しも、なかなか、面白い。
CDは、ペチカで買うことが出来ます。
※ このCDを聴いた時、上の動画は、ニーナさんに間違いない、と思いました。

【その他】 ニーナさんは、稚内観光マイスターの資格を持っています。
また、「ふるさと稚内」という曲の作詞・作曲をし、歌っています。
ふるさと稚内(YouTybe)
【関連ブログ】 一日雨でした。 かのやばら園を少しだけ。~鹿屋市~ 百万本のバラ 「ラトビアで、ソ連で、日本で最初に歌った人達」 (2012/3/7)
高さ68㍍の吊橋から見る、神川大滝 小滝は裏見の滝 ~錦江町~ マーラが与えた人生(百万本のバラの原曲) (2012/3/8)
南大隅町を散策 ~島泊の磨崖仏は山奥だった~ 「マーラが与えた人生」と「百万本のバラ」、まとめ (2012/3/9)
【停泊場所】 稚内副港市場の駐車場
【明日の予定】 市内の散策
※ 「キャンピングカーで放浪の旅」は、下をクリックすると出ますよ。
(2008年4月~2010年9月までの記事)

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